コシャマインの伝説
アイヌの二大巨星
コシャマインという名前を聞いたことがあるだろうか。

コシャマインは、シャクシャインと並ぶアイヌの大将で、歴史の教科書や副読本にもよく出てくる人物である。「アイヌの名前はシャクシャインとコシャマインしか知らない」という人も多いのではないだろうか?
この二人の大将はよく並べて語られるが、シャクシャインの戦いが17世紀の江戸時代であるのに対し、コシャマインの戦いは15世紀の室町時代と、200年以上の開きがある。信長の野望でよく出てくる蠣崎季広の時代からはおよそ100年前にあたる。
そしてこのコシャマインの戦いは、後に松前藩主となる蠣崎氏の成り上がりを描く、北海道の具体的な事件を取り上げた初めての記録であり、北海道における和人史の始まりと言っても過言ではない。
限られた一次史料
だがこのコシャマイン、具体的に何をした人か知っているだろうか。「15世紀に和人と戦った人」としては知られているが、それ以上はほとんど知らないのではないだろうか?
そもそも「コシャマイン」という名前は、事件から200年近く経って編纂された『新羅之記録』の原文中にただ1度だけ書かれているのみである。知らないのも当然、というか、誰もわからないのである。
このコシャマインの戦い(1457年)についての一次史料は極めて少ない。この記事で史料として取り上げるのは主に以下の3つである
- 1643年『松前系図』(寛永諸家系図伝)
- 1646年『新羅之記録』
- 1878年『松前家記』
『松前家記』は明治11年のかなり後代になって書かれたものであり、コシャマインとの戦闘に関する記述が書き加えられていて脚色の色が強い。そして『新羅之記録』もまた、松前氏の正当性を誇示するために脚色された部分が散見される。特に疑いの強い松前氏始祖・武田信広の出自については、また別の記事で詳しく取り上げたい。
コシャマイン長万部説の謎
ネットで検索すると、しばしばコシャマインは「長万部の首長」であったと紹介されている。これは本当なのだろうか?この点に疑問を感じたのが、この記事を書くきっかけとなった原因である。さっそく一次史料を見てみよう。
- 夷の渠魁二人 …『松前系図』
- 狄之酋長 胡奢魔犬父子二人 … 『新羅之記録』
- 東部の酋長胡奢麻尹父子 … 『松前家記』
「長万部」とはどこにも書いていない。
17世紀の『松前系図』では単に「エゾの頭領2人」としており、『新羅之記録』ではじめて「エゾの酋長コシャマイン父子」という名前が出てくる。19世紀の『松前家記』で「東部の」と初めて位置に関する情報が出てくるが、これは文脈を見ると「松前から見た東」という意味で知内なども含まれる。
謎の長万部説が現れた理由は、
- シャクシャインの戦いにおける国縫の戦いとの混同
- 鶴田知也のフィクション小説『コシャマイン記』から
- 長万部から森までのアイヌを「ウスケシュンクル」と呼ぶため
などが考えられるが、いずれも根拠に乏しい。少なくとも一次史料からコシャマインの出身地を知る情報は皆無と言ってよく、「わからない」というのが答えになる。
汐泊コタン

あえて候補を探すとしたら、函館空港すぐ横の汐泊かもしれない。道南で室町時代から築かれていた防衛型のチャシは、後志利別川河口の瀬棚チャシと、この函館の汐泊チャシしかない。汐泊チャシからは中世の刀や鍔が出土しており、河口近くの汐泊遺跡には末期古墳が、丘の上の貝塚や擦文集落跡からは土師器や須恵器が出土している。上流の亀尾地区には越冬集落と思われるアイヌ文化期の遺跡もある。
塩泊 川有 狄おとなコトニ 但ちゃし有 家十軒
『津軽一統志』
と『津軽一統志』にはあり、17世紀には「コトニ」というアイヌ首長が汐泊から汐首岬までを領地として持っていたようだ。
ここで注目するのが名前である。コトニとは kot-un-i〈谷に住む人〉くらいの意味合いであろう。札幌の琴似と同じである。この汐泊の沢地が kot〈谷〉と認識されていたのであれば、コシャマインの意味である kot-sam-ainu〈谷の傍の人〉は同じ汐泊コタン出身を指していたとしても不思議ではない。

また汐泊というは so-tomari〈磯岩泊〉の意味で、目印となっていた黒岩のことではないかと思う。後に出てくるショヤというアイヌ首長は so-ya〈磯岩の岸〉の意味で、やはりこの汐泊コタンの人かもしれない。江戸時代、和人地と蝦夷地が区切られた時、この黒岩が境界とされた。
もちろんあくまでも推測の域は出ないのだが、コシャマインの本拠地の第一候補は志濃里の隣の汐泊ということにしておこう。
室町時代の津軽海峡事情
渡党
コシャマインの戦いに触れる前に、時代背景を少し振り返ってみる。
縄文時代から津軽海峡を越えた人の出入りは多かったが、中世に入ると、和人も徐々に北海道に進出しはじめる。本州から北海道に渡り、交易を行う民のことを「渡党」という。この渡党にはアイヌ系と和人系の両方がいたと思われる。

14世紀から15世紀にかけては、余市から鵡川にかけての道南道央地方の広い地域に少数の和人が住んでいたようだ。余市川河口の大川遺跡や、勇払郡厚真町の遺跡からは本州産の鏡や御家人の腰刀などが出土している。源義経北行伝説も、この頃の渡党のエピソードをモチーフにしたものだろう。
安東氏の栄枯盛衰
時は15世紀の室町時代。シャクシャインの戦いを筆頭とした渡島大乱が始まったのは1456年。京都で応仁の乱が勃発する、約10年前のことである。
「奥州十三湊日之本将軍」と称した安東氏(安藤氏)は、津軽の十三湊を拠点として蝦夷貿易を独占し、多くの富を得ていた。しかし急速に力をつけてきた南部氏の侵攻により、1432年、蝦夷地に逃れることになる。

南部氏の侵攻を逃れ、安東氏の庇護にあった豪族たちが、道南にいくつもの館を築いた。いわゆる「道南12館」である。安東氏は松前に大館を築き、茂別館に下ノ国守護、花沢館に上ノ国守護を置き、それぞれ西と東の守りとした。安東氏の配下で、下北半島の田名部を拠点としていた蠣崎氏は上ノ国守護に任じられる。

客人から隣人へ

東北からやって来た渡党たちを、北海道アイヌはどう見ていたのだろう?必ずしも常に敵対していたわけではない。アイヌたちにとって、和人の商人は貴重な宝物をもたらす客人であった。
アイヌは「鮭・貝・昆布・熊皮」や北方からもたらされた「ラッコ皮・鷹の羽・蝦夷錦」などと引き換えに、和人から「米・酒・煙草・綿の服」などの日用品や「刀・兜・鉄鍋・行器」などの宝物を受け取る。ギブアンドテイクの関係である。

しかし単なる”客人”であるうちはいいが、それが”隣人”となると話は別である。この令和の世でも移民問題は難しい。観光客や商売客なら歓迎できても、実際に隣に住むとなると必ずしも穏やかな関係ではいられないことがある。
とりわけアイヌは土地の権利意識が強く、沢1つ、崎1つまで厳格に狩場を定め、それを越えて狩りや漁をすることは死に値するほどの重罪と見做したから、その自分たちの土地に館を建てられるなどすれば、不満が募ることも少なくなかっただろう。
きっかけはマキリ騒動
志濃里村の鍛冶屋
渡島大乱の発端となるマキリ騒動が起きたのは、函館山から東に10km、今の函館空港の麓にあった志濃里村である。

函館近郊のアイヌの最大勢力は函館空港の東側地域にあたる汐泊を拠点としていたと思われる。川沿いの台地には汐泊コタンがあり、少し奥まった台地の先端には砦も築かれていた。
志濃里館はまさにアイヌ集落の目と鼻の先にあり、和人とアイヌが接触する最前線であったことが見えてくる。コシャマインがこの汐泊を本拠地としていたかは定かではないが、志濃里の鍛冶屋にマキリを頼んだ乙孫とはこの汐泊コタンの住人だったかもしれない。
志海苔古銭

この志濃里村からは埋められた3つの甕に入った大量の銅銭が出土しており、その数なんと374436枚!これほど大量の古銭が出土するのは全国最大級である。

さらに志濃里のすぐとなりの銭亀沢でも古銭の入った甕が出土したという伝承がある。正式な記録はないが「銭ガメ」という地名は19世紀初頭にはすでに見えるので、幕末には見つかっていたのだろう。すべて合わせれば当時の貨幣価値で5000万円以上はあったかもしれない。
出土した古銭の種類から、埋められたのは14世紀末から15世紀初頭にかけてといわれている。まさにこのコシャマインの戦いの少し前になる。
いかに蝦夷貿易というのは大きな財を成すものだったのだろう。だがその栄華に満ちた志濃里で1つの事件が起きてしまう。
オッカイ殺人事件

志濃里の鍛冶屋村に百棟程の屋数があった。康正二(1456)年春に、乙孫という者が来て、鍛冶に劘刀を打たせたところ、乙孫と鍛冶の間で出来の善し悪しを論じて、鍛冶が劘刀を取り上げて乙孫を突き殺してしまった。
『新羅之記録』
1456年、函館の志濃里の鍛冶屋で、マキリ(小刀)の出来の良し悪しを巡って喧嘩になり、鍛冶屋が逆上してアイヌのオッカイを殺してしまった。
この時代のアイヌは製鉄の技術はなかったので、鉄器はもっぱら和人との交易によって手に入れる。マキリは実用品としてはもちろん、儀礼用としての意味もあり、常に肩から下げてそのアイヌの格を示すものだった。
マキリ騒動は、アイヌの若者が殺されたということはもちろんのこと、宝物を何よりも大事にする彼等にとって、強い憤りをもって受け止められたのかもしれない。そのツグナイを彼等は復讐によって求めたのである。
渡島大乱
マキリ騒動以前の戸井館陥落

しかし全ての原因がマキリ騒動にあったわけではない。なぜなら、それよりも何年も前に、函館市の旧戸井町にあった「戸井館」がアイヌによって陥落していた可能性が高いからだ。
戸井館は岡部氏が拠点としていた館だが、公式の記録には出てこず、道南12館には含まれていない。しかし発掘や伝承によりその存在が明らかになった砦だ。『新羅之記録』では岡部氏は松前の方に移転し「原口館」を新たに築いている。つまりマキリ騒動よりだいぶ前に陥落していたのである。
戸井館は志濃里館よりもずっと東にあり、アイヌ領域に深く食い込んでいた。そのために真っ先に落とされたのであろう。ここからすると、室町時代の和人とアイヌの緊張関係がかなり高まっていたことがわかる。
100年間の渡島大乱
マキリ騒動によって引き起こされた、当初の蜂起は、どのくらいの範囲に及んだのだろうか。
1457年(長禄元年)5月14日、コシャマインらは大軍を率いて東は胆振の鵡川から西は後志の余市までの広い範囲で蜂起した。
「コシャマイン」『ウィキペディア日本語版』
Wikipediaには、この年にコシャマインが扇動して鵡川や余市までの道央地方も含んだ広大な地域で一斉に蜂起したようにも書かれている。これは本当なのだろうか?『新羅之記録』を見てみよう。
その昔は、この国は上りに二十日程、下りに二十日程かかっていた。松前から東側は鵡川まで、西側は余市まで人が住んでいた。(中略)
あまり遠くない程の昔、宇須岸が夷賊に攻め破られたことがあった。志濃里の鍛冶屋村に百棟程の屋数があった。康正二(1456)年春に、乙孫という者が来て、鍛冶に劘刀を打たせたところ、乙孫と鍛冶の間で出来の善し悪しを論じて、鍛冶が劘刀を取り上げて乙孫を突き殺してしまった。これによって夷狄はことごとく蜂起して、康正二(1456)年夏より大永五(1525)年春に至るまで、東西数十日程の中に住まいする所の村々里々を破り、和人を殺した。これは元はといえば、志濃里の鍛冶屋村に起った事なのである。
『新羅之記録』現代語訳
これを読む限り、マキリ騒動を発端としたこの蜂起は、1456年~1525年に至る約70年間も続き、蝦夷東西の村々に住む和人を殺したとある。
マキリ騒動を発端としたコシャマインの戦いの1年間で渡島半島全域が一斉に蜂起したというよりは、70年間の長期間にわたり、道南・道央地方で散発的に和人とアイヌの戦闘が起きたと考えるほうが理に適っているように読める。
渡島大乱の意義
この「コシャマインの戦い」(1456)より少し前に起きた「戸井館陥落」から始まり、講和条約である『夷狄の商舶往還の法度』(1550)が結ばれるまでのおよそ100年間の和人とアイヌの抗争を「渡島大乱」と呼ぼう。それぞれの戦いを第一次~第三次に分ける。
| 第 | 渡島大乱 | 年代 | 松前氏当主 |
|---|---|---|---|
| (戸井館陥落) | 14?? | ||
| 一次 | コシャマインの戦い | 1456-1457 | 信広(1代) |
| 二次 | ショヤコウジの戦い | 1515-1519? | 光広(2代) |
| 三次 | タナサカシの戦い | 1528-1536 | 義広(3代) |
| (夷狄の商舶往還の法度) | 1550-1551 | 季広(4代) |
コシャマインの戦いはこの始まりに過ぎないのである。しかし次のショヤコウジの戦いまで50年の期間が空いていることからしても、渡島大乱は「和人とアイヌの全面戦争」というより、「たびたび発生した散発的な道南の抗争」と見たほうがいいだろう。もちろん記録に残っていない戦闘もたくさんあったとは思うが、この地に住む和人は蝦夷貿易に生計を立てている以上は、完全な敵ではなかったはずだ。
そしてこの渡島大乱は、一介の客将に過ぎなかった信広の一族が、蝦夷の王である松前藩主に成り上がるストーリーでもある。
そのような背景もふまえて、それぞれの戦いを見ていこう。
第一次渡島大乱
道南10館の陥落
さて1456年、マキリ騒動によって結成されたアイヌの侵攻軍により、道南12館のうち10が次々と落とされていく。上ノ国の花沢館と下ノ国の茂別館の2館だけが持ちこたえたのだという。

| 城名 | 12館 | 城主 | 位置 | 防衛 |
|---|---|---|---|---|
| 志濃里館 | 小林良景太郎左衛門 | 函館志海苔 | ✕ | |
| 宇須岸館 | 河野政通加賀守 | 函館元町 | ✕ | |
| 下国城 | 茂別館 | 安東八郎式部大輔家政 | 北斗茂辺地 | ○ |
| 中野館 | 佐藤季則三郎左衛門 | 木古内町 | ✕ | |
| 脇本館 | 南條季継治部少輔 | 知内町 | ✕ | |
| 穏内館 | 菰土季直甲斐守 | 福島町 | ✕ | |
| 覃部館 | 今泉季友刑部少輔 | 松前町東山 | ✕ | |
| 松前城 | 松前大館 | 下国安東山城守定季 | 松前町福山 | ✕ |
| 祢保田館 | 近藤季常四郎左衛門 | 松前町館浜 | ✕ | |
| 原口館 | 岡部季澄六郎左衛門 | 松前町原口 | ✕ | |
| 比石館 | 厚谷右近重政 | 上ノ国石崎 | ✕ | |
| 上国城 | 花沢館 | 蠣崎修理大夫季繁 | 上ノ国 | ○ |
松前守護の本城である大館さえも落とされているのだから、アイヌ軍の攻撃のすさまじさがわかる。
この年の戦闘にコシャマインがいたかどうかはわからない。おそらくいたのではないかと思うが、敵の顔など覚えている余裕もなかっただろう。そしてそもそも始祖・武田信広はこの戦いを見ていなかった可能性がある。
途中から来た武田信広
注意深く一次史料を読むと、コシャマインの戦いと呼ばれるものはどうやら2度の戦いに分けることができるらしい。すなわち、アイヌ側の攻勢と、和人側の反撃である。
| 年代 | 戦況 |
|---|---|
| 1456年 | アイヌ軍が10の館を陥落させる |
| 1457年 | 武田信広がコシャマインを討つ |
陥落から反撃まで約1年のタイムラグがあったようだ。なぜこれが大事なのかと言うと、武田信広は1456年の10館陥落戦の時点ではまだ北海道に居なかったかもしれないのである。これは多くの人が見過ごしている事実ではないだろうか。一次史料である『松前系図』を読んでみよう。
夷蜂起して志法の城主太郎左衛門・箱館の城主加賀守・松前の城主相原周防守其外所々の城郭をせめとるといへども、下国の城主茂別治部太輔・上国の城主蠣崎修理大夫、此二人なを城堅固にまもつて是に居す。
その折節、若州武田大膳大夫国信の嫡男太郎信広、父と不和の事ありて若州を立去て、商人の舟にのり松前にきたつて居す。此時夷又蜂起して下国・上国の両城をせめとらんとす。時に信広其ゑらびにあたつて武者奉行と成て、夷の渠魁二人を討とり、賊徒数輩をきりころす。是によりて凶徒ことごとく敗走す。
『松前系図』
前半と後半で戦いが分かれており、その途中で信広が初めて出現している。そして二度目の戦いの際には「この時蝦夷”また”蜂起して」上ノ国と下ノ国の両城に攻め込んできたとある。
ここが『新羅之記録』のほうでは1回の戦いにまとめられてしまっている。そのため前後関係がよくわからなくなっているが、この「戦いが2度あったこと」と「2回目の戦いから信広が参戦した」という部分は武田信広の出自に大きく関係があるところであるが、これについてはまた別に記事で深堀りしたい。
信広とコシャマインの戦い
翌1457年6月27日の武田信広とコシャマインの戦いの描写は、『松前家記』にかなり詳しく書いてある。

信広花沢の城を守り勢尚未た屈せす、是に於て諸豪会議信広を推して主帥とす信広乃ち残兵を糾して東発す、
六月廿七日大に七重浜に戦ふ、衆寡敵せす、我軍幾んと敗れんとす、
信広佯走朽木中に匿る、胡奢麻尹父子追躡す、信広居箭一発父子を洞し、直ちに木中より跳出、大刀を揮つて稗酋数人を斬る、我兵奮撃大に之に克つ、余衆潰散、諸部震慴す、
『松前家記』1878年
主帥に任命された信広は、残存兵力をまとめ上げて上ノ国の花沢館から東へ出陣。函館湾に面した七重浜で決戦を挑むも、圧倒的な兵力差の前に和人軍は敗色濃厚となる。そこで信広は一旦敗走したと見せかけ、朽ち木の中に身を隠す。そして、まんまと追ってきたコシャマイン父子を待ち伏せ、放った一本の矢で二人を同時に射抜いたのだ。さらに木陰から飛び出し、大太刀を振るって敵の首領たちを次々と斬り伏せるという、まさに一騎当千の活躍を見せたというのである。
なかなか機転の効いた戦いっぷりで、まるで見てきたかのような緊迫感がある。これを200年前の史料と比べてみよう。
この時上之国の守護信廣朝臣を惣大将として、狄の酋長 胡奢魔犬父子二人を射殺し、侑多利数多を斬り殺した。これによって凶賊はことごとく敗北したのであった。
『新羅之記録』1646年(現代語訳)
かなりシンプルな記述で、元の一次史料には七重浜で戦ったことや、信広本人が敗走したと見せかけて朽ち木に隠れたとも、弓矢で親子を一気に撃ち抜いたとも書いていない。後代に書かれた『松前家記』はいささかドラマチックに脚色されている気配がする。
信広の勲功

そののち治部太輔下国より上国にきたつて会合し、酒宴のとき、修理大夫は来国俊の刀を信広にあたへ、治部太輔は菊一文字の刀を信広さづけて、その勇功を賞す。修理大夫に女子有て男子なき故、其女子を信広に嫁せしめて、家督とす。
『松前系図』
コシャマインの戦いの功績が称えられ、武田信広は上ノ国の花沢館で以下の褒美を受ける。
- 下ノ国守護から名刀「菊一文字」を貰う
- 上ノ国守護から名刀「来国俊」を貰う
- 蠣崎季繁の娘を嫁とする
- 蠣崎氏の家督を継ぎ上ノ国守護へ
一介の浪人から、ものすごい大出世である。武田信広はこの時から「蠣崎信広」と名乗り、蠣崎氏となった。松前氏始祖の誕生である。
脚色された記録
しかし『新羅之記録』ではさらに
- 若狭の名刀「助包」を信広は下ノ国守護に贈る
- もらった嫁は実は安東政季の娘を蠣崎季繁の養女とした嫁、だから安東氏の婿でもある
- 洲崎館に移り住む
ということが付け加えられている。それだけでなく、
- 信広は渡道前に下北で蠣崎領を知行し、蠣崎姓を名乗った
- 主君である安東政季と一緒に渡道してきた
- 蠣崎季繁は過ちがあって商船で渡ってきた(実際は信広のこと)
- コシャマインの戦い前にすでに上ノ国守護であった
- 戦いでは総大将(主帥)を任された
などとそれまでの過程も相当なアレンジがなされており、信広がいかに正当な後継者であり、蝦夷の守護としてふさわしいかが強調されている。
ここが『新羅之記録』が”都合よく脚色された”といわれる部分のひとつである。洲崎館に住んだことを除けば、これらのアレンジは捏造ではないかと個人的には考えている。
第二次渡島大乱
ショヤコウジの戦い
二代目・蠣崎光広の代に起きた第二次渡島大乱はアイヌ方の首長の名前を取って「ショヤ・コウジの戦い」とも呼ばれる。この戦いは4年渡って続き、ショヤ・コウジ兄弟が出てくるのは最後の4年目だ。

| 『松前系図』 | 『新羅之記録』 | 戦況 |
|---|---|---|
| 1512年4月16日 | 志濃里館・宇須岸館・與倉前が陥落 | |
| 1513年6月27日 | 松前大館陥落、守護相原氏滅亡 | |
| 1518年 | 1514年3月13日 | 蠣崎氏、松前大館に入城 |
| 1519年5月 | 1515年6月22日 | 松前大館にてショヤコウジを謀殺 |
1512年にまず函館の3つの館が落とされる。位置関係からすると汐泊チャシからの攻撃だった可能性がある。下ノ国守護の茂別館や、他の館については言及がないのでどうなったのかはわからない。
1513年に松前大館が陥落し、守護の相原氏が滅亡する。翌1514年、上ノ国から蠣崎光広が松前大館に移転して入城。1515年、松前に攻めてきたアイヌのショヤ・コウジ兄弟を酒宴の席で謀殺し、乱は平定される。
この事件を機に、蠣崎氏が蝦夷地のトップの地位を手に入れた、ある意味で重要な戦いである。
ショヤコウジの謀殺

永正十二年、夷の賊徒が蜂起する。六月二十二日に光広は計略を持って、居宅の客殿と台所の内側の戸を数間外し、縄でつなぎ止めておいた。そして夷賊の酋長、庶野と訇峙の兄弟と侑多利を招き入れて、一日中酒宴を催し彼らを酔興に至らしめた。彼らに珍しい宝物を出してこれを見せて、その宝物を手に取って眺めている隙をうかがっていた。
この間に数多の女どもに布を石の台に広げて砧を打たせた。別の部屋ではその音に紛れて鎧・兜など武具を身に付けた後に、家の中の戸を繋いでいた縄を切り落して、数人がにわかに客殿に乱入した。
この時、夷の酋長の相手をしていた光広は、家来から太刀を受取り、夷の酋長二人を斬り殺してしまった。この喬刀は、修理大夫が信広に授けた來國俊である。この時より、家の重要な家宝として相続することとなった。
『新羅之記録』現代語訳
アイヌの首長ショヤ・コウジ兄弟を酒宴に招き、宝物を見せて誘った。酒を呑んで油断していたところに、女性たちに砧を打つ音で誤魔化し、一気に突入して一網打尽にしてしまった。
和睦と見せかけて酒の席で謀殺する。松前氏の御家芸ともいえるこの作戦が初登場したのはショヤコウジの戦いからであり、シャクシャインの戦いのときにも用いられている。
かくして蠣崎氏は上ノ国守護のみならず松前守護の地位を手に入れるわけだが、より闇が深い、松前氏の陰謀がこの事件に隠れていると見る人も少なくない。
蠣崎氏の下剋上
奇妙なことに一次史料の『松前系図』では、ショヤコウジの戦いが4年ほどずれており、函館の3城陥落や、松前大館の陥落については触れられていない。『新羅之記録』は松前氏の正当性を示すためにかなりの脚色があるというのは前述した通りである。
この第二次渡島大乱、実は蠣崎氏の下剋上の謀略だったのではないかという説がある。この時代、松前守護はあくまでも安東氏であり、蠣崎氏はまだ蝦夷地のトップの座ではなかった。
1496年、蝦夷守護の安東定季が逝去すると、安東恒季が家督を継ぐ。しかしこの恒季がとんでもない暴君であるということで、蠣崎氏を含む配下が本家の檜山安東氏にその悪政を訴えると、安東恒季は自害させられることになる。その後は相原季胤が松前大館に入り松前守護になるが、『新羅之記録』によると、相原氏は”アイヌによって”攻められて滅ぼされてしまう。しかし陥落した松前大館にまんまと入城したのはアイヌではなく蠣崎光広(2代目)だった。
これは蠣崎光広が直接松前に攻め込んだか、あるいは裏で松前に攻めるようにアイヌにけしかけたのでは?と疑われてもしかたがない。そしてアイヌの首長であったショヤコウジ兄弟を大館に招き、酒の席で謀殺してしまう。これを”口封じ”と考えてしまうのは深読みしすぎだろうか?
『蝦夷地民話』で語られる伝承では、自害させられた安東恒季がいかに暴君で、その後の相原氏の統治もあまりにひどかったかがが伝えられている。吉岡コタンの若い娘20人を攫い人身御供として重い石を結びつけて海中に投じたとか、月夜の宴で蠣崎光広を暗殺しようとしたなどという”ストーリー”が作られている。しかしこうした伝承はかえって蠣崎氏の正当性を誇示するために流布されたものという気もしなくもない。
『蝦夷地民話』では、娘達を奪われた恨みを募らせる吉岡コタンのアイヌと協力して、蠣崎義広(3代目)が松前大館を包囲し、松前守護・相原氏を滅ぼしたことになっている。
果たして史実はどうだったのだろう。一次史料の『松前系図』では主家乗っ取りについてただ「永正十五年、上国をあらためて相原周防守の古城に移る」と書いているのみである。
第三次渡島大乱
タナサカシ・タリコナの戦い
第三次渡島大乱は、出来事が色々と書かれている割にはその被害は少ない。アイヌに何度か攻められるもどの館も陥落せず、三代目・蠣崎義広はすべてそれを凌いでいる。

| 『新羅之記録』 | 戦況 |
|---|---|
| 1525年 | 東西アイヌが蜂起するも平定 |
| 1528年5月23日 | 松前に忍び寄ったアイヌを義広が槍で討つ |
| 1529年3月26日 | 洲崎館に攻めてきたタナサカシを騙し討ち |
| 1531年5月25日 | 松前に忍び寄ったアイヌを義広が弓で射る |
| 1534年4月16日 | 天ノ川の蛇を弓矢で射る |
| 1536年6月23日 | タナサカシの婿タリコナを騙し討ち |
3つの史料を比べてみると『新羅之記録』では『松前家記』に書かれている1525年の東西アイヌの蜂起が抜けている。だが前の章で「1456年から1525年に至るまで蜂起」と書いているので、この蜂起自体は知っていたはずだ。
一次史料の『松前系図』ではタナサカシやタリコナといった名前は出てこず、1526年以前のある夜に松前大館に攻めてきたアイヌを弓で撃退したことと、1530年5月25日に洲崎館に攻めてきたアイヌを義広が弓で射て撃退したことのみを記している。『新羅之記録』とは年代も出来事も少しずれている。どちらが正しいのだろうか。
義広の武勇

『新羅之記録』の義広の記録はやけにその武勇の高さについて強調している。
- 手槍で鎧ごと貫き、その手槍を家宝とする
- 義広は常に三人張りの弓を引く
- 櫓の上から180m以上先のタナサカシの胸を矢で貫く
- 220m以上先の蛇を矢で射る(しかしその後当たらなくなる)
- 名刀来国俊でタリコナ夫婦の胴を真っ二つ
と言った感じで、かなりの腕であったようだ。
闇夜に物を射て当てるという技は当家に伝わる弓の秘術である
『新羅之記録』現代語訳
タナサカシとタリコナを騙し討ち
ただしその戦い方が正々堂々としていたかというと、残念ながらそうではない。瀬棚から攻めてきたタナサカシとの戦闘の経緯はこのような感じである。
狄が発向して上之国和喜の館を攻めようとしていた。その時義広公は館に籠り、密かに謀り事を企んで和睦して、数多の報賞を引き与えた。
酋長の多那嶮という狄は、館に上る坂の中程の平地にて報賞の品を受け取り、キッと館の方を向き上げ、勇み喜ぶところを矢倉からの矢で射られた。この間の距離は百余間もあったが、その矢は狄の胸板に見事に命中した。
酋長が射殺されたのを見て、数百の侑多利は慌てふためいて逃げ散っていった。これを見て義広軍は、館の中より打ち出でて太刀を抜き連ねて追っていった。その頃はようやく山の谷々の雪が消え、天ノ川の水が溢れていた。狄は皆天ノ川を渡り越えようとしたが、思案回らず川上の方を指して逃げていった。これを菱池の方に追い込み、ことごとく討ち殺した。
『新羅之記録』現代語訳
一旦和睦して、宝物を与えて喜ばせて去らせたのに、そこを弓矢で射て殺してしまい、仲間も全滅させる。
多離困那という狄と和睦し得意となって酒食の宴を行っているところに、來國俊の喬刀をもって酋長夫婦を一太刀のもとに討った。
多離困那は左肩より右腰まで打ち落し、妻奴は一の胴を切り放す。この喬刀は細身でそう長くはないが、無比の大物切りであることからいわれている。かの狄は多那嶮の聟である。たびたび妻奴に勧められて、数年計略を廻らしてややもすれば舅の敵として義広を殺そうとしていたため、酋長夫婦を討った。
以後は国内の東西も安全となった。
『新羅之記録』現代語訳
タナサカシの婿タリコナに関しても同様に、和睦して酒の宴のときに夫婦もろとも刀で切り捨ててしまう。松前の”秘術”はむしろ弓術よりこの騙し討ちではないだろうか。130年後のシャクシャインやハウカセも、松前の和睦に見せかけた騙し討ちに強い警戒を見せていたのも頷けるものである。
カムイトノとなった松前氏
アイヌとの和睦
こうして100年ほど続いた渡島大乱も、ついに本当の和睦が行われることになった。4代目・蠣崎季広の時代である。今度は騙し討ちをしなかった。


瀬棚アイヌのハシタインを「西夷尹」(西夷の奉行)、知内アイヌのチコモタインを「東夷尹」(東夷の奉行)とし、ハシタインを上ノ国の天ノ川に住まわせることにした。
夷狄の商舶往還の法度
そして「夷狄の商舶往還の法度」を定めた。これは蠣崎季広がアイヌとの間に結んだ初の講和条約とされている。
これからは、夷狄の交易のための商船の往還の法律を定めることとした。つまり諸国から集まる商船に年俸を出させ、そのうちを按分して両酋長に給うこととした。これを夷役といった。
この時より後は、西から来る狄の商船は必ず天ノ川の沖で帆を下げ休んで一礼してから往還し、東から来る夷の商船は必ず志利内の沖で帆を下げ休んで一礼してから往還することとした。これは偏に、季廣朝臣を尊敬する所である。
『新羅之記録』現代語訳
- 知内と上ノ国を和人地・蝦夷地の境界する
- 交易で得た関税の一部をハシタインとチコモタインに支払う
- 境界を通過するアイヌ船は帆を下げて礼をする
などを定めている。アイヌ酋長に権利を与えつつ、蠣崎氏に対する敬意を払わせる、そんな講和条約になっている。

松前のカムイトノ
季廣朝臣は、夷狄が好んで大切にしそうな宝物を数々準備しておき、これを与えたという。
その懇切さに大いに喜び、夷狄たちは口々に神のような人だと称した。そしてここに、深く恭敬の情を表し、国内は穏やかに治まることとなった。
『新羅之記録』
蠣崎季広は多くの宝物を与え、アイヌたちは口々に「神のような人」だと言ったという。以来、19世紀の近世まで、松前の殿様のことをアイヌは「カムイトノ」と呼び、畏れるようになった。
渡党によって和人が住み着き、緊張状態となった渡島地方。マキリ騒動によって火が着き、コシャマインの戦いによって大きな痛手を負った和人勢力であったが、100年の時を経てやっとアイヌと和睦を結ぶに至ったのである。
同時にこれは武田信広を始祖とする松前氏の成り上がりの物語でもある。松前氏は、ある意味でアイヌたちとの渡島大乱を大いに利用して松前の「カムイトノ」にまで上り詰めたとも言えるだろう
5代目・蠣崎慶広は豊臣秀吉から蝦夷地支配安堵の朱印状を貰い、徳川家康から蝦夷交易独占の黒印状を戴き、「松前」を名乗った。米収入のないゼロ石藩である松前藩は、アイヌとの交易によって藩財政を維持することになる。商場知行制から場所請負制へ、そしてシャクシャインの戦いとノッカマップの戦い……
松前氏とアイヌの複雑な関係は、まだ始まったばかりなのである。



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