イオマンテはどこから始まったのか ~飼育型熊送りの北方起源説~

イオマンテはどこから始まったのか~飼育型熊送りの北方起源説~

熊送りの儀式イオマンテ

アイヌ文化の最大の儀式

アイヌ文化におけるもっとも有名な儀式である祭り、それがイオマンテ(イヨマンテ)だ。

i-omanteイオマンテ は〈それを送る〉を意味し、一般には「熊送り」として知られるが、送る対象は必ずしも熊に限らない。カムイが毛皮と肉という土産を携えて人間の世界へ遊びに来てくれたことへの感謝を捧げ、再びカムイの国へとお還りいただく。近世アイヌ社会において、これほど重要視され、かつ盛大に執り行われた儀式は他にないと言ってよいだろう。

『蝦夷島奇観』で描かれた18世紀のイオマンテの様子(加工)

イオマンテは10月下旬の晩秋に行われ、アイヌにとっては新年の祭りのようなものであった。地域のいくつものコタンから同胞たちが集まって、数日間かけて盛大にやる。まさに年に一度の最大の行事だったのである。

漫画のゴールデンカムイでもすこし紹介されたため、聞いたことがある人も多いだろう。阿寒湖コタンでは「イオマンテの火まつり」という公演が毎日行われているが、現代においては実際に熊を飼育したり送ったりすることはしていない。最後に行われた伝統的な熊送りは旭川の1957年で、その後、二風谷で1977年に、旭川で1985年に熊のイオマンテを、そして美幌で1986年に狐のイオマンテをそれぞれ ”復刻版” として行ったがそれ以後は行われていない。

たしかに現代の価値観では、飼育してきた熊を絞め殺すなど、やや残酷な儀式のように映るかもしれない。とはいえ”白老牛肉まつり”などで、牛一頭を丸焼きにしてみんなで食べるのと本質的には変わらない。「大地の恵みに感謝をしながらみんなで美味しくいただきましょう」という根底にある精神はきっと理解できるだろう。

イオマンテの原点

ところで現在よく知られている仔熊を育ててから送る形式すなわち「飼育型イオマンテ」は、歴史的に見れば意外なほど新しい。考古学的・民俗学的な見地からは、せいぜい17世紀頃、近世までしか遡れないのである。

それ以前はどうだったのだろう。 本来、狩った動物の魂を神の国へ送るという行為自体は、人類にとって普遍的なものである。現代日本人が食事の前に「いただきます」と手を合わせ、命への感謝を捧げるのと根底にある精神は同じだ。

ではそこからどのように飼育型イオマンテに変化していったのだろうか。

熊崇拝の歴史を見ていくと、そこには大きく分けて3つの形が存在することが見えてくる。

  1. 熊の土偶を用いるもの
  2. 狩った熊をその場で送るもの
  3. 飼育型イオマンテ

まずはこれらを順を追って見ていこう。

熊崇拝の3つの形

1. 熊意匠

アイヌといえば「木彫りの熊」を連想する者が多いが、あれは近代以降、徳川義親がスイスの民芸品を参考に持ち込み、農閑期の副業や観光資源として定着させたものであり、熊信仰に用いるものではない。 むしろ伝統的な北海道アイヌ文化においては、信仰の対象を具体的な偶像にすることを極端に忌避する傾向がある。彼らが祈りを捧げるときに用いるのは”削り掛け”の木幣イナウだけであり、リアルな神の像ではない。一族の祖印イトクパや樹皮衣に刺繍する模様モレウも抽象的な形をしている。

ところが時間をかなり遡ると、太古の昔は違っていたことがわかる。 続縄文時代の東北地方から道南地方にかけて、「熊意匠」と呼ばれる熊を模した土偶が多数出土しているのだ。また道東でもいくつかの熊の造形が見られる。

熊意匠出土遺跡分布図(続縄文時代)

だが不可解なことに擦文文化期には北海道内において熊意匠が全く出土しなくなる。この「偶像の消失」は果たして何を意味するのだろう。縄文時代からは信仰の面でなんらかの断絶があったようも感じられる。

2. 狩り熊送り

次に「狩り熊送り」である。これは狩った熊を、その場、あるいは集落へ持ち帰ってすぐに解体し、神の国へ送る儀式だ。釧路アイヌはこれをカムイオプニレ(神帰し)と呼んでいる。

この形式の送りの儀式は、アイヌ文化のみならず狩猟文化を持つ社会においては極めて普遍的かつ広範に行われている。例えば、日本のマタギの間で行われる「ケボカイ(毛祭り)」も、この系譜に連なるものと言えるだろう。

北海道における考古学的な証拠も、この形式の古さを示唆している。 羅臼町のオロッコ岩洞窟からは、12世紀頃(擦文文化期)の熊送りの痕跡が発見されているが、ここは集落からかなり離れた場所だ。恵庭山中にある漁川上流の岩屋群で見つかった送り場も同様である。これらは集落からは遠く離れており、生活圏の中で仔熊を育てる飼育型ではなく、狩猟の現場で神を送っていた証である。

これらの熊送りの痕跡を見ると、単に遺骸を葬っただけでなく、頭蓋骨に一様に穴が開けられており、オスかメスかで左と右のどちらに開けるかまで一致しているので、明らかに儀式としてこれを執り行ったことがわかる。

3. 飼育型イオマンテ

そして最後に、現在ではよく知られている「飼育型イオマンテ」である。 これは冬眠中の穴から捕獲した仔熊を、集落内の檻(ヘペレセツ)で2、3年もの間、人間の子と同様の愛情を注いで育て上げた上で行うものだ。

10月末にヘペレセツの回りで踊りあかし、矢を射かけたり、最後に丸太で絞殺することでその熊を送る。その後、熊は解体されその肉を皆で食べる。

飼育型イオマンテは、北海道全域のみならず、樺太、そしてウィルタやウルチといった北方民族にも見られる文化だ。しかし擦文文化期や中世アイヌ期にはまだその形跡が見られない。なぜ、この「子熊を育てる」という形式が広まったのだろうか。

飼育型イオマンテはいつから?

記録に見る「飼育」の初出

北海道で飼育型イオマンテが始まったのはいつ頃だろうか?『イオマンテの考古学』を著した宇田川氏は「イオマンテの確立は18世紀後半」としているが、それより前にも記録がある。確実な姿を現すのは17世紀のことだ。

確認されている中で最も古い記録は、1643年のオランダの探検家フリースによるものだ。彼は樺太の多来加タライカ湾において、柵の中で熊が飼育されている光景を目撃し、記録に残している。

『蝦夷島奇観』で描かれた18世紀のイオマンテの様子(加工)

また1660年代に北海道内においても、シャクシャインとオニビシのとの間で、イオマンテに使うであろう仔熊の取引に関する記述が見られる。これらのことから、遅くとも17世紀には「飼育型」は定着していたと考えて間違いない。

「飼育」と威信の関係

そもそもなぜ彼らは狩った熊をすぐに送らず、あえて仔熊から飼育するようになったのか。 その理由は、イオマンテの性格が、単なる神への「感謝」から、力ある首長の「威信」を知らしめる儀式へと変質したことにあると考えられる。

この点について、樺太西海岸のアイヌは正直な証言を残している。 イオマンテの季節となれば、「聖なる首長コタンアイサラカムイ」と呼ばれる力ある首長が、周辺地域から遠くのコタンに至るまで人々を総出で集め、数日間にわたる盛大な儀式を執り行う。そこで振る舞われる大量の熊肉と酒宴。これはまさしく、首長の持つ富と権力の誇示である。 またイオマンテのために仔熊を育てる仕事は、伝統的に首長の妻の役目であったという事実も、この儀式が首長の権威を裏付ける目的であったことを暗示している。

アッケシカムイとも呼ばれた豪勇ツキノエ

アイヌ社会の中で貧富の差が拡大し、いわゆる「諸豪勇時代」が訪れ、山丹貿易などを通じて富の蓄積が可能になった時代。飼育型イオマンテは、そのような社会背景の中で、一種のステータス・シンボル、あるいは流行として北海道全土に広まっていったのではないだろうか。

年に1度集まって熊送りをするグループを「シネイトクパ集団」といい、その首長の権力が及ぶ範囲を表すものでもあった。そのように社会システムに深く根ざしていったのである。

「飼育」の概念はどこから来たか

では、その発祥の地はどこか。 熊送りの最古の痕跡が知床半島の羅臼にあることから、道東地方に起源を求める説もしばしば見られる。だが、あれはあくまで前述した「狩り熊送り」の痕跡に過ぎない。

個人的に、飼育型イオマンテの起源は北方にあるのではないかと考えている。 その根拠の一つが分布だ。飼育して送るという儀礼は、世界的に見ても北海道、樺太、そしてアムール川地域に限られている。とりわけ大陸のアムール地域まで伝播している点は興味深い。 一部の学者は「擦文文化人が北上するにつれて、彼らの儀礼を北方民族に伝えたのだ」と唱える。だが、これは逆ではないか。

飼育型熊送りの風習がある民族

なぜなら「動物を飼育する」という習慣そのものが、擦文文化人プロトアイヌには存在しなかったからだ。 一方で、オホーツク文化人や、大陸の挹婁ゆうろうといった北方人達が、古代から豚を家畜として飼育していたことは遺跡の発掘や文献記録からも明らかであり、礼文島にも豚の飼育や痕跡が残されている。 「動物を飼育し、管理し、安定的に供給する」という発想は、従来の縄文人たちにはなかったものだ。

だからといって、アイヌという民族が近代に北から南下してきたと考えるのは早計である。アイヌは遺伝子的には昔からいる縄文人と、5世紀に南下してきたオホーツク文化人と、北上してきた大和民族の3種のハイブリッドであり、北方のシベリア系民族の血は1割未満しか持っていない。よってこれは人間の移動ではなく文化の伝播である。

北海道アイヌのmtDNA比率(n=94)/ Noboru Adachi

樺太アイヌと北海道アイヌの違い

飼育型のイオマンテが17世紀以前に北方から持ち込まれたと仮定すると、先に樺太アイヌに伝わり、それが北海道アイヌに伝播したということになる。ここで樺太と北海道の文化の違いを見ておこう。

北海道アイヌに無い、樺太アイヌの文化
  • イノカ:熊意匠
  • トンコリ:弦楽器
  • ストー:スキー
  • ヌソ:犬橇
  • ウフイ:ミイラ

これらはいずれも、樺太アイヌにあって、北海道アイヌにはなかった文化である。なんとなくアイヌ文化といえば北海道がメインストリームで、樺太は亜流のようなイメージがあるかもしれないが、こうして見ると樺太アイヌ文化は多彩で北方文化をよく取り入れており、北海道アイヌはストイックさすら感じる。

文化熊意匠狩り送り飼育送り
続縄文
擦文
東北マタギ
北海道アイヌ
樺太アイヌ
ニヴフ
ウリチ・ナナイ
熊信仰に関する儀式の有無

イオマンテに関しても、樺太アイヌはイノカという熊意匠を使うことがあるが、北海道アイヌは前述のように熊意匠を使わないというのは興味深いところである。

そして送る熊にトドメを刺す方法は、樺太では弓矢でひと思いに射るが、北海道では花矢を射掛けたりした後に丸太によって圧殺する。これについて樺太西海岸のアイヌが、それは可哀想だと言っていたのが興味深いところである。

いずれにせよ、北海道アイヌのイオマンテの進め方はかなりアレンジがなされたものであり、樺太アイヌのイオマンテはニヴフやアムール地方の北方民とかなり共通しているところがある。ここからしてもやはりオリジナルは北方にあったのだろう。

飼育型イオマンテを伝えたグループ

まとめると、狩った熊を”送る”という概念は、12世紀の擦文文化人プロトアイヌの頃から既にあり、その原点は縄文人プレアイヌにまで遡ることができるが、今日知られているような、飼育型のイオマンテは、遅くとも17世紀頃にアムール地方から持ち込まれた風習であり、山丹貿易によって富を得た豪勇ニシパ達の盛大なイオマンテの儀式を見て、北海道アイヌが真似したものではないかと思われる。

そして樺太では北海道アイヌが作らない熊意匠やニポポなどの人形を使うことと、余市でシャチをかたどったカムイギリという木製品が伝わっていたというのは意外な共通点である。余市と樺太の繋がりを改めて感じるものかもしれない。

シャチをかたどったカムイギリ/余市水産博物館

樺太アイヌや北海道の北部衆モシリパクルについてはほとんど知られていないことが多いが、彼らが近世アイヌ文化の主柱とも言える飼育型イオマンテの作法を伝搬したのだとしたら、アイヌ文化の拡がり方の方向性にも一考を案じる必要があるだろう。実のところ、東部から西部へと伝播した様子を探るためにこのイオマンテについて調べていたのだが、見えてきた結果は意外なものとなった。

小樽と熊

せっかくなのでこのブログのベースである小樽と、イオマンテの熊との関係も最後に触れておこう。

なお、記録に残っている小樽内コタンで最後に行われたイオマンテは明治5年11月15日であるらしい。物珍しさに多くの見物人がいたという。

色内と稲穂

小樽駅前から小樽運河にかけては、小樽観光の中心地であり常に観光客が行き来しているところである。この駅前はかつては「色内村」と呼ばれる小樽の隣村であった。そして小樽駅前はのちに「稲穂町」として分割される。

この色内イロナイはアイヌ語では「イルンナイ」と呼ばれ、 iru-un-nayイルンナイ〈熊の道がある沢〉の意味である。そう、このあたりはかつて熊が多かったのだろうか?

そして小樽駅のすぐ近くには「龍宮神社」がある。ここはかつてアイヌが木幣イナウを捧げた祭壇ヌササンがあったところで、蝦夷共和国初代総裁の榎本武揚がここに神社を建立したときにもまだ祭壇は残っていたという。もしかしたらここがイオマンテの祭壇だったのかもしれない。

竜宮神社と榎本武揚

イナウにちなんで駅前エリアは今も「稲穂町」と呼ばれている。身近な所にイオマンテの気配が残っているものである。

クマウス首長と熊

小樽内一帯を仕切っていた首長はクマウス(現・桜町)に住んでいたという。天川恵三郎の祖先である。こんな言い伝えがある。

小樽内にアサリと云ふ部落あり、ある時その部落のメノコ、熊に殺さる。部落のアイヌ大いにこれを怒り総出て、熊狩りを為し遂にこれを射止む。而してメノコの敵を斯くの如く為すべしとて熊の上顎と下顎を別々に割きてこれを土中に埋むべしとの議決す。これを耳にしたる酋長天川の祖先、それは山のオヤジ(熊)に対して甚だしき非礼なり、仮令人に危害を加へたりと雖も、熊に対しては熊祭まで行ふ慣例さへあり、況んや死したるものは既に罪償えたるもの、その霊を弔ふべきなりとて、直ちにその場に行き我家に伝はる宝物を汝等に与へんに、その熊を譲れよと一同を訓し、伝家の宝刀五十本を分与し、その熊の屍を貰ひ受け我家に持参、その首を刎ね、高く竿に刺して掲げカムイに手向け而して曰く、汝既に死して後までも非礼の取扱を受け、オヤジの恥をさらさんとせるを我今伝家の宝物を以って、それを止めさせ斯くカムイに捧ぐを得たり。汝霊あらばよくそれを享け、今後我が子孫に至るまで危害を与ふる勿れと。

『小樽郡の史実』小林廣

朝里の女性が熊に殺されてしまったため、村のアイヌたちは激怒してその熊を復讐のために討った。それだけでは怒りが収まらず、八つ裂きにしてばらばらに埋めようとしたところ、熊碓の首長がそれを諌め「それはあまりにも熊に非礼である。我々は熊送りをして彼らを祀る習慣もあるじゃないか。その熊の遺骸を弔うので譲ってくれ。そうすれば宝刀50本を分け与えよう」と提案した。以来、首長の子孫は熊の危害が及ばなかったのだという。

当時のアイヌの熊に対する考え方がよくわかるエピソードである。

松浦武四郎が見た仔熊飼育

弘化三年に松浦武四郎が小樽内のコタンを訪れた時、こんな記録を残している。

その日には運上屋の辺りを散歩せしに、夷人小屋にはを多く飼ひて、これに胡女ども乳を呑せ居たり。それ5,6匹あまりも見たれども、その乳を呑するはただ一匹なりき。いかにも可愛らしきものにて、果物を持行きてこれにくれるに、甚だよろこびて手を出し、我が膝の上に来りて居ること、実に愛すべきものなりき。

『再航蝦夷日誌』松浦武四郎

小樽内コタン(現・南小樽駅前)で、5~6匹の仔熊を飼っているアイヌ女性がいて、武四郎は果物をあげると、仔熊たちは大変喜んで、手を出して膝の上に乗ってきたのだという。それで武四郎は「実に愛すべきものなりき」と笑みを浮かべている。

彼女たちが愛情深く熊たちを育てていたことがよくわかるエピソードである。

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