松前の桜

ときは15世紀、室町の世 ――
京の幕府は一色、赤松、京極、山名の4家を四職とし、重用してきた。だが、恐怖政治を敷く6代将軍・足利義教はこれを疎み、一色氏の当主を暗殺。これを見て、自らの所領没収や家督介入に危機感を抱いた赤松氏が、将軍を惨殺するという前代未聞の出来事が生じた。世にいう「嘉吉の乱」である。
これにより一色氏が守護として持っていた若狭国を、安芸守護の武田氏が奪い、若狭では旧一色派と武田派でたびたび争いが起きていた。7代将軍はわずか9歳で亡くなり、8代将軍・足利義政が天下を治めることとなる。1452年――応仁の乱で京都が炎に包まれる、およそ15年前のことである。
1章:若狭の一揆
若狭の太良荘に鬨の声が上がった、激しい剣戟のぶつかり合う音が響き始め、怒声と悲鳴の声が混じる。あちこちの建物で火の手があがりはじめた。
「こんな質券など無効だ!」
「武田など追い出してしまえ!」
徳政を求めた土一揆は小浜から若狭国全体へと拡がり、それを旧一色家臣の浪人達が束ねていた。武田信広とその父・蓬沢国信もまた、一揆側に加わっている。曽祖父の代から武田を名乗っていた家だが、新たに来た武田と間違われないように、一族の故郷である「蓬沢」を父は用いていた。だが信広はその父に強い反発を抱いている。

「父上!いつまでこんなくだらない争いを続けるつもりか」
「我らが家は一色殿あってこそだ。新参の武田などに奪われてなるものか」
「一色の世は終わったのです。それに小浜湊と太良荘の代官も、小笠原殿と共にとうに取り去られたではないですか」
「黙れ!お前に何がわかる」
信広の曽祖父と祖父である武田若狭守重信と長盛の代、この蓬沢武田氏は若狭守護一色氏の守護代小笠原氏、その指示のもとで在地する「小守護代」の地位にあった。代官とは言え、一色も小笠原も在京していることがほとんどで、若狭国の現地のトップはこの蓬沢武田氏であったのだ。だが小笠原氏が一色氏に疎まれたことによりその任を解かれ、蓬沢武田氏もまたその地位を退けられていた。
だがこの若狭の小浜にはかつての代官・武田氏を慕う領民はまだ多くいる。そこに土足で踏み込んできたのが、安芸からやって来た別の”武田”、大膳大夫を拝領し、「若狭武田氏」と呼ばれる武田の一族であった。
「民を苦しめて何が一揆か」
刀を腰に下げ、弓を構えて館を守る信広は、武芸に達者であったが、この戦いの意義を見いだせずにいた。いつまでも旧一色の残影に固執する父の姿に愛想を尽かせていたのだ。荘園の領民の家に火の手が回る。武田の侵攻を食い止めるための時間稼ぎだろう。だがそれが領民を苦しめているというのに。
「蓬沢殿!一揆勢は総崩れの様子です!」と伝令が走り寄る。父は渋い顔をする。
「所詮は寄せ集めの雑兵、武田の正規軍にはかなわぬか……」
在京していた若狭守護武田の動きは早かった。京都から討伐軍を差し向けると、乱を鎮圧し、それから数日後、一揆を首謀した太良荘民の和泉大夫父子は処刑されたという。
「もはやこれまでか……」
膝をつき、覚悟を決める父。だが信広はそれを冷ややかな目で見ていた。屋敷に戻り、荷物をまとめると小浜の湊へ向かう。かつて世話になった問丸左衛門三郎宅へ。祖父が代官のときに、拠点となる宿を提供してくれていた廻船問屋である。愛想のいい親方が顔を出した。
「おや、坊っちゃんですかい?どうなされた」
「小浜の湊はいつも賑やかだな。だがこの狭い若狭の国にはもううんざりだ。古い名前、古い権力、古い家柄……、そういったものに心まで縛られている。どこかにもっと自由な国はないか」
「ならば……蝦夷ヶ島という場所を聞いたことがあるか。夷人が住む未開の島だ。だがそこは毛皮、昆布、船には積みきれないほどの魚や、それに黄金が採れるという。」
「蝦夷ヶ島か……」
「ちょうど米を積んで松前へ行く船がある。どうにも物騒な話があってな。最近、箱館の東の戸井館が蝦夷に落とされたそうだ。向こうでは坊っちゃんみたいに腕が立つ武人は引っ張りだこさ。どうだ、乗ってみるか?」

信広は顔を上げ、船に乗り込んだ。わずかな手荷物の中に、武田菱が刻まれた印籠があった。それを握りしめ、若狭の湾を眺めた。出港する船が内外海半島の断崖を回り込む。晩春の桜が葉をつけ始めていた。これが見納めかもしれぬ。だが未練はない。
「そこに俺の国があるなら。」
若き侍、武田信広は、まだ見ぬ新天地・蝦夷ヶ島に向けて遠い水平線の先を見つめていた。
2章:蝦夷ヶ島

長い船旅であった。途中、佐渡ヶ島を見て、「あれが蝦夷ヶ島か」と喜んだが、それよりはるかに先にあることを知り、思わず天を仰いだくらいである。約一月の航海の末、ついに松前に船が着いた。
松前は若狭の小浜湊にくらべればはるかに小さな湊であった。だが未開の異民族の島と聞いて予想していた鬼ヶ島のようなところとは随分違っており、そこにはたしかに文明の息吹があった。山裾には色の濃い蝦夷山桜が咲いている。一月前、若狭では桜の季節がちょうど終わった頃だったが、こちらではまだ桜が花を咲かせていた。

信広は積荷を下ろすのを手伝うと、松前大館へと向かう。入港と交易の許可を求める、問丸の書状を手にして。館の主は安東定季。日ノ本将軍を名乗る安東家政の叔父にあたり、この松前の守護を務めている壮年の侍である。
「武田若狭守信広でございます。このたび蝦夷との交易の許可を頂きたく…」
「おお、若狭の武田殿か!」
頭を下げる立派な侍の姿を見て、定季の顔がほころぶ。若狭から来た武田氏、それに裃に刻まれた割菱の武田菱。誰もが若狭守護の武田氏と勘違いするだろう。だが信広はその勘違いをあえて否定することなく、ぐっと奥歯を噛み締めた。こんな辺境の地でも、名前というものは力を持つものである。
「遠路はるばる、ご苦労であった。ときに武田殿、この蝦夷ヶ島はどのくらいの大きさだと思うか」
定季は試すように、にやりと笑いながら言う。都に出回っている行基図には、この蝦夷ヶ島はまだ描かれていない。

「佐渡の島より大きいのでしょうか」
「佐渡か」定季はふっと、鼻で笑う。
「三月半だ」「と言いますと」
「この蝦夷ヶ島を船でぐるりと一廻りすると、三月半。その大きさ、畿内と山陰山陽、伊予島、淡路島全てを足してもまだこの蝦夷ヶ島のほうが広い。そしてその全てに夷人が住んでおる。我らがいる松前などつま先の端に過ぎぬのだ」
「なんと……」
一月の航海でも大変だったというのに、三月半とはどれだけこの島は大きいのだろう。
「だが儂はこの島に新たな国を作るつもりだ。」定季は立ち上がり、館の外に咲く蝦夷山桜を見上げた。
「国ですか」
「そうだ。いずれこの島は大きな国になる。都ができ、鎌倉や京に匹敵するほどの立派な国ができる。日之本の国だ。」
日之本、それは東方を指す言葉であり、古記には日高見国とも記されている。安東氏当主は「奥州十三湊日之本将軍」を名乗っていた。だがその栄光も、南部氏の進出により翳りを見せ始めている。
「どうだ信広。儂と共に新しい国を作らないか」
3章:天ノ川の交易
もう見飽きるほど海を見たと思っていた。だが交易品を載せた船から見た海の色は限りなく碧く、穏やかだった。丘の上の花沢館のまわりには、その名が示すように蝦夷山桜が咲き乱れていた。
「これが上ノ国の大澗か……美しいところだ。」
蝦夷ヶ島は松前を中心とし、西海岸を上ノ国、東海岸を下ノ国と呼ぶ。上ノ国ははるか北方の余市まで和人が所々に点在しているというが、その拠点となっているのがこの上ノ国の大澗であった。これより先は未開の蝦夷の世界である。信広はこの上ノ国を任された蠣崎季繁に花沢館で謁見する。
「武田若狭守信広にございます」
「安東定季殿の使いか。しかし武田とは、そなたの主君は安芸国の武田公か?」
「いえ……、古きより若狭の国を預かっておりました、蓬沢の武田にございまする」
「おお、やはりそうか。実は我が蠣崎の家も、かつての武田殿と縁があってな。今は奥州宇曽利の田名部を本拠としているが……」
季繁はそこで少し言葉を濁す。

「粗茶にございます」若い娘が会見の部屋に入ってくる。
「わしの自慢の娘、桜だ。美人だろう。」
桜は信広に静かに微笑みかけ、そして目を伏せた。
「3日後、夷人共がやってくる。蝦夷がどういう者なのか、この機会に見てみるがいい。」
天ノ川のほとりで商いの場が開かれた。若狭国から持ってきた、米、酒、古裂、刀、漆器などを茣蓙の上に積み上げる。しばらくするとあちこちの村から夷人が続々と集まってきた。皆一様に長い髭をして、柿色や藍色の服を着、頭に帯を巻いていた。女たちもいたが、唇の周りや腕に入れ墨をしており、異様な雰囲気がある。夷人達は口々になにか言いながら品物を見たり触れたりしている。言葉はまったくわからない。だが彼等が喜んでいる様子はなんとなくわかった。

持ってきた毛皮や鮭の束や串貝などを置いていき、代わりに米などを持っていく。交換レートは決まっており、鮭100匹に対して米1俵などであった。夷人達に人気なのは米だけではなく、刀や行器といったものも喜んで持って行く。和人からすれば大した価値はない兜の一部品のようなものでも、彼等には宝物であるらしい。「蝦夷はあれが通貨なのだ」と季繁が教えてくれる。なにか厄介事や訴訟などがあると、宝物をもって清算するらしい。
信広は初めて異文化というものを知った。この島に住むものは、言葉だけではない。自分たちの常識が全く通じない全く別の民であるのだと。
4章:蔵人の乱

康正2年、信広は再び戦地にいた。場所は下北半島。奥州蠣崎の地である。田名部湊になだれ込んでくる数え尽くせぬほどの南部の騎馬隊。どうみても負け戦であった。
「あれが南部の軍勢か……!」信広は船の上から、険しい顔で見つめる。
陸奥の地の覇者は、安東氏から南部氏へと取って代わられようとしていた。のちに「三日月が丸くなるまで南部領」と言わしめた南部氏は、その圧倒的な騎馬軍団により最北の地を飲み込んでいったのだ。信広に命じられたのは、田名部の蠣崎に拠点を持つ蠣崎蔵人信澄のもとへ行き、檜山安東家当主・安東政季を救出することだった。錦帯城に籠城していた蔵人に信広は謁見する。
「武田若狭守信広、蠣崎季繁殿の使いにございます。」
「親父か……。南部に目をつけられたから蝦夷地に逃げた、あの臆病者が今更なんだというのだ」
「ですが、季繁殿は、蔵人殿にも花沢館へ来てほしいと願っておりました」
「馬鹿なことを!俺はこの蠣崎を守って見せる。ここが俺の郷なのだ!」
信広はあまり年齢が変わらない蔵人に、同情する気持ちもあった。父親に対する反発の気持ちも。この蔵人は、自分にどこか重なるところがある。国を捨てて蝦夷地に渡ったのは逆ではあったが。そして攻めてくる南部氏もまた、武田の末裔の1つであった。
だが南部の勢いは圧倒的であった。
「大畑に船をつけて待っている。そこで落ち合おう。」

いよいよ南部の船に覆い尽くされそうな田名部に見切りをつけ、安東政季を船に乗せ、反対側の大畑の湊で蔵人と合流する約束を交わした。船の上から見たのは、炎を上げる錦帯城。だが3日、7日経っても、蔵人が大畑に現れることはなく、ついに大畑も南部の手のものが回ってくる。やむなく信広は主君・政季を乗せた船を出し、松前の地へ送り届けた。
「そうか、蔵人は最期まで戦ったのだな。」
「兄上……」
蔵人を救えなかったという無念の報告を花沢館に伝えると、蠣崎季繁と桜は静かに顔を伏せた。下北半島は八戸南部氏の新田盛政が治めることになり、ここに奥州における蠣崎の所領は失われたのである。
5章:マキリ騒動

松前大館に入った安東家当主・安東政季は、叔父の安東定季を松前守護に、弟の安東家政を下ノ国守護に、蠣崎季繁を上ノ国守護とし、蝦夷地における守りを固めた。
信広はその使いとして茂別館を構える下ノ国守護の安東家政に謁見し、その後、志苔館の小林良景が開く夷人の商場に同席していた。

「東の夷人は気性が荒い。用心めされよ。」
小林良景が連れた通詞にそう警告される。西の夷人は上ノ国で見たが、まだ穏やかな雰囲気があった。だが東の夷人と諍いを起こした戸井舘は、数年前に夷人に攻められて陥落、戸井舘の岡部氏は命からがら逃げて今は松前の近くの原口に館を立てている。今や志苔は最前線であり、いつ攻められてもおかしくはない場所であった。
だが志苔村に上がる鍛冶の煙は村の活気を物語っており、志苔館には多くの銭が蓄えられているという。この蝦夷貿易によってもたらされる富は想像以上に多く、そしてそれは全て夷人たちとの平和的関係なしには成り立たないものであった。
船は志苔を過ぎた汐泊に停泊し、そこの小屋の前に茣蓙を敷いた。”コタン”と呼ばれる夷人の村が川辺の丘の上にあり、川の上流には柵で囲まれた砦が築かれている。夷人は夏は海沿いの夏季集落に、冬は上流の越冬集落に住み、家を何度も建て替えるのだという。
「あれがコシャマインだ」

小林良景が目配せすると、明らかに雰囲気の違う夷人が村の奥から現れた。長い髭をたくわえ、いくつもの装飾を首から下げている。弓を下げ、刀を帯びている。ひと目見て酋長であることがわかる。威風堂々としており、後ろに連れた息子らしき男とともに大股で闊歩していた。
遠目で見ていると、コシャマインと小林良景が通詞を通してなにか言い争い始めた。どうやら米俵が不当に小さいと不満を述べているらしい。たしか交換レートは鮭100匹に対して米1俵であったはずだ。だがよく見ると1まわりか2まわりほど米俵が小さい感じもする。「戦のため物資が足りていないのだ」と小林良景は毅然と撥ねつけるが、そんなことはこちらの知ったことではないという素振りである。
帰り路に志苔の鍛冶村に寄ると、ふたたび和人と夷人との言い争いを目にした。

「マキリ、刃、ボロボロ。切れ味、悪い」
と夷人の少年が身振り手振りで鍛冶屋に文句をつけているようである。不遜な態度を取っていた鍛冶屋は、それを取り上げると不敵に笑った。少年は後ずさる。鍛冶屋はマキリで少年の胸を突いた。
「どうだ、切れ味抜群だろう!」
あっという間の出来事だった。少年は血を流して倒れ、騒ぎを聞きつけた父親が鬼の形相で入ってきた。怒りが連鎖を始めて争乱になり、信広は志苔舘に戻っていた小林良景に報告する。まもなく騒動は鎮圧されたという。
この一件が、その後100年も続く深い因縁になるとは、信広もまだ知る由もなかった。
6章:道南10館の陥落
秋田からの帰りの船で、違和感に気付いた。
松前に滞在していた安東政季は、分家である安東惟季に招かれて秋田へ移住することになり、信広はその護衛を引受け、秋田に無事送り届けるとついでに物資を運びつつ帰路についていた。
船が松前に近づいた時だった。丘の上の大館からかすかに煙が上がっているのが見える。咲き終えた蝦夷山桜が花を散らし、そのまわりのいくつもの家も焼け落ちている。
「帆を下げろ!」
信広は咄嗟に命令する。松前湊への接近を中止し、静かに様子を伺う。湊には見張りらしき男がいた。その服は夷人のものだった。ひゅんと音をたてて矢が飛んでくる。当たりはしなかったが、明らかに敵対の意志であった。
「なんということだ……」
松前の近くにある覃部館、祢保田館もすでに陥落していた。みなは無事なのか。安東定季、蠣崎季繁、そして桜の顔が思い浮かび、嫌な予感がしてくる。いや予感は確信に変わりつつあった。夷人に見つからぬよう、船を静かに東に北に進める。穏内館、脇本館、中野館、いずれも陥落している。
だが茂別館に来た時、安東の旗が掲げられているのを見て、救われる気持ちになった。

「武田殿か!」
厳重に防衛されていた館に入ると、政季の弟・安東家政が破顔しながら出迎えてくれた。状況は想像以上に悪く、この茂別館と花沢館を除く、道南10館が全て陥落したらしい。
襲撃は東側から起きたという。志苔で見たあのマキリ騒動、あの小さな火種が焼き尽くす大火になったのではないかと頭をよぎる。そして恐ろしい風貌をした酋長コシャマインの姿も。
夷人は夜闇に紛れて少数で忍び寄り、油断しているところを毒矢と刀で瞬く間に制圧する。馬が使えぬこの地では、館の連絡は船か山越えしかない。伝令を送る暇さえ与えられず、まともな防衛設備のないただの館は、地の利を知り尽くした彼等にはあまりにも無力であった。
ただ土塁のあった花沢館と茂別館だけは、なんとか持ちこたえられているという。
「そなたに武者奉行を任せたい。」
安東家政はすがる思いで信広に頼んだ。茂別館に少しずつ生き延びた侍たちが山を越えて集まってきた。だがいずれも満身創痍。当主・安東政季の護衛のために兵を割いていたのも仇となった。今、まともな戦力といえるのは、政季の護衛として秋田から戻ってきた信広の部隊しかいない。残存勢力を結集させて、次なる襲撃に備えることになった。
よそ者は我らの方なのかもしれぬ。眠れぬ夜を信広は過ごしながら、脳裏に故郷若狭の一揆を思い浮かべていた。在地勢力による新勢力を排除しようとする猛烈な圧力。どこへ行っても人は変わらない。だが立ち止まるわけにはいかない。この島に、新たな国を作るのだから。
7章:七重浜の戦い
数日後、再び茂別館に襲撃があった。夷人は決まって夜に襲ってくる。それをあらかじめ予測していた信広は、櫓の上から夜襲部隊に矢を射掛けて撃退した。
「かかれ!」
退却する先鋒に追い打ちをかけるように、信広は突撃した。矢不来の崎を超えると広い砂浜に出て視界が開ける。月夜に照らされて、散り散りに逃げていく一団が見えた。ここを逃せば再び襲撃してくるだろう。信広は追撃を始めた。
湾の対岸に箱館山が聳えている。目指すは宇須岸館。箱のような形であることから”箱館”と呼ばれるようになった館だ。要害の地としてふさわしい場所である。
「敵襲!」
信広が快進撃をしていた矢先、突如として矢が降り注いでくる。
「待ち伏せか!」
亀田の集落が目の鼻の先であった。集落の建物に隠れていた、数百の夷人の部隊が、突如として現れた。運悪く矢が当たった味方は倒れ、痙攣し、泡を吹いて死んでいく。附子の毒矢である。
「怯むな!」
信広はなおも突撃しようとしたが、味方は突然の反撃に総崩れになりつつあった。茂別館から5里の強行軍で疲労が蓄積しており、士気も低下している。
一人、また一人が倒れ、一人、また一人が敗走を始める。部隊は潰走状態となっていた。信広の叫びも届かない。気がつけば信広のまわりには味方が誰もいなくなっていた。
七重浜の朽ち木に信広は身を隠す。敗北は目に見えて明らかだった。だがここで逃げたところでどうなるというのだ。若狭から逃げ、下北からも逃げてきた。安東定季は「共に新しい国を作らないか」と誘ってくれた。だがその夢も、今こうして潰えようとしている。逃げる場所などもうどこにもない。信広は荒れた呼吸を静かに整えていった。
背後に夷人達の足音が聞こえる。もうここまで迫ってきたのである。朽木の陰から伺うと、威風堂々とした酋長、あのコシャマインが刀を抜き、突出して前を走っていた。その後ろには彼の息子もいる。信広は弓に矢をつがえ、月夜に照らされたコシャマインの胸にぴたりと矢の先をあわせた。震える指先が、張り詰めた弦を弾く。

「!!!」
コシャマインの後ろにいた息子が驚いたように父親に駆け寄る。コシャマインは砂浜にもんどり打って倒れた。その隙を見てすかさず第二矢を構え、その息子も射た。大将がやられたのを見て、部隊は大混乱に陥った。
「うおおおおお!!」
大きな雄叫びをあげながら、信広は単身、敵部隊に突撃した。その刀を抜き、手当たり次第に斬りつける。斬っては捨て、体当りし、馬乗りになり、もはや何を斬っているかわからなくなった。
「武田殿に続け!」
どこかから味方の声がする。敗走していた部隊の一部が戻ってきて、加勢を始めた。大将を失った夷軍はやがて潰走を始め、あとは一方的な戦いとなった。彼等を箱館まで追い詰めると、ついにその部隊の大半を討ち、残りはどこかに逃げていった。
信広の顔に張り付いた、鬼のような形相はしばらくそのまま消えなかった。
8章:上ノ国の恩賞
「よくやった!さすがは信広殿よ!」
蠣崎季繁が信広の背中を叩いて歓迎する。安東家政と共に、もう一つの残った館である上ノ国の花沢館に来ていた。この乱を生き延びた二人の城主、季繁と家政は互いに杯を酌み交わし、さらに信広の武功を讃えた。
「そなたに褒美を授けたいと思う。我が家に伝わる名刀・菊一文字だ。」
「儂からもだ。名刀・来国俊。受け取るが良い」
「ありがたき幸せにございます」
あの七重浜の戦い以来、夷人の襲撃は収まっている。犠牲は多かった。これまで築き上げてきたもののほとんどが灰燼に帰してしまった。だがこれからもう一度、建て直さなくてはならない。この蝦夷の地に新たな国を建てるためには。
「この蝦夷の地に、新たな国を作ろうと思う。」
安東家政は天ノ川のほとりに立ち、碧い海に向けてそう誓う。日ノ本の国。亡き叔父の抱いた夢であった。
「御意。」
信広はその意志を受け継ぐ決意をした。

「信広殿。そなたにもう一つ、授けたいものがある。我が娘、桜だ。そしていずれ、そなたにこの蠣崎の家を継いでもらいたい。」
後ろに控えていた桜が少し照れくさそうに笑顔を見せた。心はもう決めていた。
「謹んで、お受けいたします。」
「……そなたを見ていると、蔵人のことを思い出す。」
蠣崎季繁は遠い目で上ノ国の海の水平線を見つめた。
「今日より、蠣崎若狭守信広と名乗ります。」
信広は洲崎を見据え、そう宣言した。蓬沢の名と武田の名。その二つに区切りをつけ、この蝦夷ヶ島で新たな道を切り開くことを決意したのである。
武田の割菱がはためく。その家紋に丸を加え、蠣崎の紋とした。のちに松前藩となる、松前氏始祖の誕生である。
終章:太田山権現
応仁元年、京では細川方の東軍・若狭武田氏は山名方の西軍・一色氏の領地に侵攻、花の御所に隣接した一色義直の屋敷は武田信賢によって焼き払われた。世にいう「応仁の乱」の始まりである。だが蝦夷地では京の大乱とは異なる理が流れていた。

蝦夷山桜が咲き乱れる頃、松前大館が再建されると、安東家政は松前守護として蝦夷の地を治めた。その後隠居した季繁に代わり信広は蠣崎の家督を継ぎ上ノ国守護となる。桜との間には嫡男光広が生まれていた。
東の夷人との対立はなかなか回復せず、その後もたびたび襲撃があった。しかし西の夷人との交易は再開されたため、上ノ国は蝦夷貿易の拠点として次第に栄えていった。信広は上ノ国に洲崎館と勝山館を建て、新しい国の足がかりとする。
「この国をもっと知らなねばならぬ。」
信広は交易をしている瀬棚の夷人の招きに応じ、船を北へと進めた。その途中、帆越の岬を越えた先に、雲を裂くような断崖の山を見る。
「この荒々しさ、若狭の内外海の崖に似ているな。」
「あの山の上の洞窟に、阿倍比羅夫が祀った祭壇がありまさあ」
「そうか、案内せよ」
「しかし、相当な山道でせえ」
船頭は余計なことを言ったかと後悔したようだが、信広の冒険心はまだ衰えていなかった。
「思ったよりきついな」
「だから言うたでしょう」
信広はついに断崖の行き止まりにある修練場の鎖場にたどり着いた。
「おお、島だ……!」ぱっと視界が開ける。断崖の上からは碧い海が満面に広がっており、水平線に奥尻の島が美しく見える。碧色に浮かぶ宝島のように、きらきらと輝いていた。

信広はこの断崖の祭壇に太田大権現の称号を授けた。ここを通るあらゆる船の安全を願って。
「……これが俺の国。松前の国だ。」
付録
武田信広の出自
松前氏始祖・武田信広は若狭守護となった大膳大夫家の若狭武田氏の生まれとされている。しかし父や義父とされる信賢、国信との年齢があわず、若狭武田氏の史料にも信広は一切出現しないため、その史実性は疑問視されている。

そこでこの『武田信広物語』では大膳大夫の若狭武田氏ではなく、若狭の小守護代であった若狭守の武田氏の一族であるという説を検討する。

信広の曽祖父・重信は甲斐の蓬沢から若狭に移り、若狭の小守護代として一色家臣の小笠原氏のもとで小浜湊や太良荘の代官を務めていた。本家の武田氏と区別するため、蓬沢の姓が用いられることもある。
この蓬沢武田氏の末が松前氏始祖・武田信広の可能性が高いと考え、この説を取ることにした。
一方、武田信広を下北半島を治めていた豪族・蠣崎蔵人信澄と同一視する説もある。ただし蠣崎蔵人は江戸時代に書かれた軍記物『東北太平記』にしか登場せず、史実ではないという見方が強い。とはいえ下北半島のむつ市に「蠣崎」の地がある上、この時代に八戸南部氏が進出したこと、渡島した安東氏家臣に蠣崎季繁がいることなどを鑑みるに、蠣崎氏自体が下北を根拠地としたことは間違いないだろう。
蠣崎蔵人が蠣崎季繁の子であるというのは『武田信広物語』における独自解釈だが、”同一人物だったかもしれない”という設定を、養子縁組によって拾うことにした。
寛永家系図伝 松前系図
『寛永家系図伝』は徳川家光の命により、松前藩史を幕府に提出したものである。脚色はいくらかあるだろうが、『新羅之記録』などに比べれば信広を英雄視する傾向は少なく、かなり史実に近い記録だと思われる。ただし若狭守護・武田大膳大夫の出であるという点だけは疑問が残る。
先祖は「蠣崎」という姓を用いていたが、志摩守公広の代になって改めて「松前」と称するようになった。また、「武田」の一族であるという由来は以下の通りである。
昔、蝦夷の千島に住む者たちを渡党と呼んでいた。当時、松前から東へ20日、西へ20日の範囲には和人が住む家があったが、夷人が一斉に蜂起し、志法の城主・太郎左衛門、箱館の城主・加賀守、松前の城主・相原周防守、その他方々の城郭を攻め取る。しかし、下国の城主・茂別治部大輔と、上国の城主・蠣崎修理大夫の二人だけは、なおも城を堅固に守って持ちこたえていた。
その頃、若狭国の武田大膳大夫国信の嫡男・太郎信広が、父との不和により若狭を去り、商人の船に乗って松前に来て住んでいた。この時、夷人が再び蜂起し、下国・上国の両城を攻め取ろうとした。その際、信広はその選抜にあたって武者奉行となり、夷人の首領二人を討ち取り、賊徒数名を斬り倒した。これにより、凶徒たちはことごとく敗走した。
その後、茂別治部大輔が下国から上国へ来て会合し、酒宴の席で、蠣崎修理大夫は「来国俊」の刀を信広に与え、茂別治部大輔は「菊一文字」の刀を信広に授けて、その武功を称えた。修理大夫には娘がいたが男子がいなかったため、その娘を信広に嫁がせて家督を継がせた。
このようなわけで松前家は武田の一族と称するようになったのである。
一代 信広
『寛永家系図伝 松前系図』現代語訳
蠣崎若狭守、後に剃髪して清岩と号した。若狭国に生まれる。
蠣崎修理大夫の娘を娶ってその家を継いだことにより、蠣崎の姓を用いた。
上国の館の中に、氏神として正八幡大菩薩の社を建立した。
享年78歳。
『松前氏始祖・武田信広物語』は、この『寛永家系図伝』に描かれた順序を最優先として作成したものである。
松前家記
『松前家記』は明治11年、脚色の多い『新羅之記録』をもとに、さらに物語性を加えたもので、武田信広がより強く英雄視されている。
松前氏は元来武田氏であり、源義光(新羅三郎義光)の血筋より出る。義光の曾孫を信義といい、武田を氏とした。信義から十代目の孫を信繁といい、嘉慶元年(1387年)に若狭を領有した。信繁には三人の子がおり、信栄、信賢、国信といった。兄弟は相次いで守護となった。 信賢の子を信広といい、これを松前氏第一世の祖とする。信賢より先代の事歴については、他の諸史に詳しいため、ここではこれを略す。
第一世 信広
信広の幼名は彦太郎、信賢の長男である。母の氏姓は記録を欠く。永享3年(1431年)2月、若狭の後瀬山城に生まれた。成長して若狭守と称した。生まれつき豪快な資質を持ち、体格は魁偉、筋力は並外れて強く、強弓を引くことができた。配下として属する者も多かった。
当初、信賢には子がなかったため、弟の国信をもって跡継ぎとしていた。ところがその後、信賢に信広が生まれ、国信にもまた信親が生まれた。そこで信賢は、信広を国信の養子とさせた。 信広はその武勇を誇ってしばしば乱暴な振る舞いがあったため、深く信賢や国信に疎まれた。宝徳3年(1451年)、国信は遂に国を実子の信親に伝え、かつ変乱を起こすことを懸念し、信広に迫って自害させようとした。実にこの年の3月28日のことである。
重臣の佐々木繁綱三郎兵衛尉と工藤祐長九郎左衛門尉は同僚と謀り、その期日を延ばした。その夜、繁綱と祐長、および従士三人(姓名は失伝したが、一説に今井某、勉場袋という。後の考察のために記す)は、ひそかに信広を誘って関東へ出奔し、足利氏に投じた。
享徳元年(1452年)、信広はまた陸奥の田名部に来て蠣崎氏に依った。因って蠣崎を氏とした。 同3年(1454年)8月28日、信広は伊駒政季(安東太と称す。津軽十三湊の豪族・潮潟重季の子)、相原政胤周防守、河野政通加賀守らと共に、大畑より船で松前に至った。蠣崎の土豪である酒井喜内、酒井七丹、石黒喜多右衛門、布施新六、磨呂市兵衛、細界品右衛門、某氏徳兵衛らがこれに従った。
これより先、武田信繁の一族である蠣崎季繁(修理大夫と称す。季繁もまた、しばらく蠣崎に寓居していたという)が、罪あって松前に逃れ、伊駒政季の娘婿となって花沢城を守っていた。ゆえに政季は季繁に勧め、信広を以て将とし、季繁の力を補佐させた。 10月、厚谷重政右近将監が信広を慕って若狭より来たため、比石の城主とした。
康正2年(1456年)春、東部の夷児が鍛冶村に来て、工人にマキリを作らせた。その利鈍を争い、工人は怒って小刀をもって夷児を刺殺した。これに由って蝦夷が蜂起し、大いに略奪と殺戮をなし、東は鵡川より西は余市に至るまで、ことごとくその害を被り、残った民は皆、上ノ国・松前に集まった。
そもそも信広が蠣崎に拠ったのは、寂莫たる一小邑主に過ぎなかった。その花沢城を守ったのも、また寄寓の一客将に過ぎなかったのである。 しかして、狡猾な夷狄を懲らしめ、渡島を統轄し、その業を創めその国を建てたのは、実に長禄元年(1457年)、丁丑の歳に在る。故にこの年を掲げて、旧藩歴年の始まりとなすという。
後花園天皇 長禄元年(1457年)、丁丑。信広は花沢城に在った。
5月15日、東部の酋長コシャマイン父子が大挙して侵略し、その勢いはますます荒れ狂った。この時、渡島半島南部の諸豪族である、志濃里の城主・小林良景太郎左衛門尉、宇須岸の城主・河野政通加賀守、中野の城主・佐藤季則三郎左衛門尉、脇本の城主・南条季継治部少輔、穏内の城主・蒋土季直甲斐守、覃部の城主・今泉季友刑部少輔、大館の城主・下国季直山城守、保田の城主・相原政胤、近藤季常四郎左衛門尉、原口の城主・岡部季澄六郎左衛門尉、厚谷重政らは、防戦したが力尽き、ことごとく城を捨てて敗走した。ただ茂別家政式部大輔のみが下国の茂別館を守り、信広は花沢の城を守って、その勢威はいまだ屈していなかった。
ここに於いて諸豪族は会議を開き、信広を推挙して主帥とした。信広は直ちに残兵をとりまとめて東へ発した。6月20日、七重浜にて大いに戦った。こちらは多勢に無勢であり、味方の軍はあわや敗れんとしていた。信広は枯木の中に身を隠し、コシャマイン父子が追跡してくるのを待った。信広は巨大な矢を一発放ち、父子の胸板を射ち抜いた。直ちに木の中から跳び出し、大刀を振るって敵の酋長数人を斬り伏せた。味方の兵は奮い立って攻撃し、大いにこれに勝利した。敵の残党は潰走し、諸部族は震え上がった。 茂別家政は花沢に来て季繁と面会し、各々が宝刀を信広に贈ってその戦勝を祝った。季繁はまた伊駒政季の娘を養女とし、信広に娶らせた。 7月1日、諸豪族は信広に国を建てるよう勧め、これより諸豪族は皆、信広に臣従することとなった。8月、新城(天の川の北に築き、勝山と名付けた)へ信広は移り住んだ。 同2年(1458年)戊寅、正月2日、満月が出た。 4月、佐々木繁綱と工藤祐長を東部に派遣し、コシャマインの残党を討伐させた。 同3年(1459年)己卯、宇須岸の随岸寺を松前に移した(後の専念寺)。
寛正3年(1462年)壬午、6月12日、義父の季繁が没した。八幡野(上ノ国の地名)に葬った。7月、僧の秀円が毘沙門天の像を上ノ国の海中で拾得したため、堂を建ててこれを祭った。
後土土御門天皇 応仁元年(1467年)丁亥、8月、大風と洪水があった。 同2年(1468年)戊子、3月から6月に至るまで、しばしば大風が吹いた。 文明元年(1469年)己丑、夏に疫病が大流行し、かつ度々大風が吹き、秋には大飢饉となり、民やアイヌが多く死亡した。 同3年(1471年)己丑、6月、僧の随芳が法源寺を奥尻島に建てた。 同5年(1473年)癸巳、葵八幡社を城中に建て、館神社と号した。 同17年(1485年)乙巳、蛤蜊島のアイヌの酋長が来て、銅雀台の瓦硯を献上した。 同18年(1486年)丙午、春、大館が火災に遭った。 延徳2年(1490年)庚戌、夏、法源寺を松前に移し、松前山と号した。 明応3年(1494年)甲寅、5月20日、信広は花沢城にて没した。享年64。城の西の山上に葬り、その山を夷王山と名付けた。 寛文9年(1669年)、館神社に合祀された。
著者は言う。 渡島の地方においては、大昔のことはしばらく措いて論じないが、足利氏の中世より安東氏に属していたといえども、いたずらにその名があるだけで実質的な支配はなかった。蠢く虫のようなアイヌたちが、ややもすればすぐに暴動を起こしたが、漠然とこれを度外視し、いまだかつて懲らしめる軍事行動を起こしたという話を聞かない。 康正・長禄の時代に至ってその乱は極まったが、信広は流浪の身の余力を以て将帥に選ばれ、その巨魁を倒し、その醜類を一掃した。すなわち創業の計略を遺し、ついにあの異民族の地を我が国の版図に帰させ、永く皇国の北の憂いを断ち切ったのである。そもそもその功績は、阿倍比羅夫、坂上田村麻呂の両将軍に次ぐものであると言っても過言ではない。
『松前家記』現代語訳
『松前氏始祖・武田信広物語』では『松前家記』の興味深いエピソードを取り入れつつも、出奔の経緯や守護の任命など、史実性に反すると思われるものについては採用しなかった。また寛永家系図伝と年代が全く異なるため、こちらの年月日も参考にしていない。
コシャマインの戦いと松前氏の台頭
2代目光広とそれ以降の記録、そしてコシャマインについては前の記事を御覧いただきたい。



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