探検家・松浦武四郎
松浦武四郎は江戸時代後期の探検家である。
武四郎は自分の足で北海道の隅々まで探検した。彼の使命は、それまで暗黒に包まれ、未知の島であった蝦夷地に光を当てることであった。地名を調べ、川筋の細かな支流まで尋ね、それを全て記録していった。そしてそれらの情報を数々の紀行文を通して幕末の人々に紹介し、蝦夷地がどんなところであるかを伝えた。その記録は現在においても繰り返し繰り返し読まれている。松浦武四郎の日誌なしに、開拓前の蝦夷地の地理と歴史を語ることはできない。
松浦武四郎は六度蝦夷地に渡り、探検している。日誌類を読むとき、それが何度目の探検による記録か、というのは非常に重要な情報になってくる。とりわけ一番良く読まれている『蝦夷日誌』は、六度の探検をすべて混ぜこぜにマージして書き上げた地理案内書のため、かえって正確性を欠いてしまっているのは事実である。その地名をいつ、どこで、誰から聞き取ったのか。それを確かめなければ、正確な地理を読み取ることはできない。
幸いにも、武四郎は多くの下書きを残しているため、それらを照らし合わせることで、どの時点でその地名を聞き取ったのか、丁寧に調査すればその情報源をたどることができる。
武四郎の六度の探検
松浦武四郎は六度の渡道をしているが、それぞれの調査旅行の概略は以下のものである。
n航 | 年代 | 主な探検地 | 日誌 |
---|---|---|---|
初航 | 1845/弘化2 | 東蝦夷 | 初航日誌 |
再航 | 1846/弘化3 | 西蝦夷・南樺太 | 再航日誌 |
三航 | 1849/嘉永2 | 南千島 | 三航日誌 |
四航 | 1856/安政3 | 西蝦夷・南樺太・東蝦夷 | 廻浦日記 |
五航 | 1857/安政4 | 西蝦夷諸川・石狩川水系 | 丁巳日誌 |
六航 | 1858/安政5 | 東蝦夷諸川・札幌越新道 | 戊午日誌 |
探検の目的で六つの探検をまとめてみよう。
n航 | 探検の目的 |
---|---|
初航・再航・三航 | 初めての探検(海岸部) |
四航 | 役人の従者として各場所を調査 |
五航・六航 | 新道や河川の調査(内陸部) |
ということで、初航~三航では海岸部、五・六航では内陸部の情報が多くなっている。このなかで最も読みやすいのが四航の『廻浦日記』で、迷ったらまず最初にこれを紐解くのがいい。蝦夷地全土の請負場所が順番に記録されており、その正確性はたいへん評価が高い。
小樽の訪問
これらの探検のうち、小樽周辺だけに絞ってみよう。
n航 | 年代 | 主な通過地点 | 日誌 |
---|---|---|---|
再航 | 1846/弘化3 | 小樽の海岸 | 再航日誌 |
四航 | 1856/安政3 | 小樽の忍路山道と海岸 | 廻浦日記 |
五航 | 1857/安政4 | 銭函~発寒新道 | 丁巳日誌 |
六航 | 1858/安政5 | 銭函~札幌越新道 | 戊午日誌 |
まず、初航・三航は東蝦夷・千島なので、西蝦夷にある小樽内はまったく通っていない。そして五・六航に関しては、小樽はほとんど記録がない。というわけで、小樽に関しては『再航日誌』と『廻浦日記』をまず読むのがおすすめである。ただし銭函については五航六航でも訪問している。
再航日誌
弘化3(1846)年の旅日記。正式名称は『再航蝦夷日誌』。”再航” とあるが、西蝦夷については初めての探検である。
当時はまだ蝦夷地は和人が自由に渡航できる場所ではなく、松前藩によって厳しく制限されていた。それで松浦武四郎は樺太に新たに赴任する医師・西川春庵の下僕となり、その渡航に随行することにより、ようやっと西蝦夷入りが叶ったのである。
あくまでも目的地は樺太のため、このときは舟で通過した区間がとても多い。小樽近郊に関しては、余市~忍路間と、高島~小樽内(南樽)間を陸行しただけで、あとは舟での通過になる。
この頃はまだ川の支流にまでは関心が無かったようで、内陸部の地名についてはとくに記録に残していない。しかし海岸部の地名に関しては非常に詳細である。
余市~忍路
松前を出発し、西海岸を舟で北上。積丹半島をぐるりと周り、一行は下ヨイチ運上屋に着いた。
余市から忍路に向かう際、主人である西川一行は舟で行ったのに対し、武四郎だけはアイヌ一人だけを連れてあえてこの区間を歩いている。やはり探検したいという気持ちが強かったのだろう。
武四郎は畚部から忍路・塩谷にかけて多くの李桃が咲き乱れる様子を見ており、まるで桃源郷に入ったかのようだと絶賛した。
忍路では運上屋で蜆汁をご馳走になっている。この蜆貝は蘭島で採れたものだという。
忍路~高島
忍路から高島までは舟で進んだ。
桃内の沖に鯨の群れが泳いでいるのを見ており、沖で漁をしていたアイヌ達がそれを避けるため「ヲヱベス!ヲヱベス!(o-e-pis/浜の方へ)」と叫んだ。この時はまだ武四郎はアイヌ語をあまり理解できていなかったので、音をそのまま残している。
オタモイ海岸を舟で通過する時、武四郎はいわゆる”高島おばけ”を見た。対岸の石狩方面に蜃気楼が浮かび上がっていたようだ。しばし舟を停めて蜃気楼を観察し、スケッチも残した。この高島おばけが見えた翌日は雨になるそうである。
高島~小樽内
高島に舟で着いたが波が高く、暗礁も多いため、岸よりも200mも沖に停泊したようだ。風が強かったため、高島~小樽内間は船頭と荷物だけ舟で行かせて、一行はキンクシテミヤ(現・手宮公園)を山越えする。しかし小樽港に入ると波風がすっかりなくなっており、ここが北風の陰になる良港であることを実感した。
小樽内の運上屋(現・堺町郵便局)で一泊する。翌朝、大雨のため一行は足止めを食らう。「高島おばけ」を見た翌日は雨になるという予言が当たったので、武四郎は驚いて笑った。
その日は運上屋で情報収集したり、周囲を散策したりして一日を過ごした。ヲタルナイアイヌの古潭(現・住吉公園)に寄ると、アイヌ女性が小屋で子熊を5~6匹飼って世話していた。武四郎が子熊達に果物を与えると、1匹が手を出して喜んで膝の上までのぼってきた。「実に愛すべきものなりき」と笑顔をもらしている。
小樽内~銭函
翌日、再び船に乗って出発する。
この朝里・張碓区間の海岸地名について、順番に少々混乱が見られる。アツトマリ(現・若竹)を二重に書いていたり、アツウシナイ(朝里川)とアサリ川を別の川としていたり、張碓の位置関係がおかしい。案内人との意思疎通がうまくいかなかったのか、あるいは船の上から見てよくわからなかったのか、いずれにせよこの区間の解読は要注意である。
神威古潭(現・張碓トンネル)の前を舟行する時、アイヌは木幣を海に投じてカモイの大岩に海上安全を祈った。ここの記述に「大岩石の穴の中を通る処有」とあるのが気になるところである。穴を開けたトンネルのようなものがあったのだろうか?10年後、実際に武四郎がこの海岸を歩いたときは、この岩穴については記録していない。かわりに桟道がかけられたようだ。
銭函~石狩
この時点では武四郎はゼニバコという地名は挙げておらず、「ヲタスツ」としている。
銭函からアイヌ3人が上陸し、岸から綱で武四郎達の乗る舟を引っ張らせている。逆風だったのかもしれない。当時はそれが普通だったとはいえ、人が何人も乗っている舟を石狩まで20kmも引っ張っていったのだから、相当な労力だったろう。曳引するアイヌ達が途中、ヲタルナイ川(新川河口)を泳いで渡った様子も武四郎は観察している。
石狩湾新港あたりまで舟を曳いて来た時、武四郎は”ヲタルナイ山”が雲に隠れて見えなくなったと言っている。このヲタルナイ山は手稲山のことだろうか?
弁才イタイウシ(番屋の湯のある”あそびーち”のあたり)で “重役の衆” は皆上陸し、イシカリ運上屋へ到着した。ここに木巻と呼ばれる烽火台があったという。武四郎はそのまま舟に残り、ぐるりと回って裏側の石狩川の船着き場で上陸した。
石狩~
その後西海岸を舟で北上し、宗谷から樺太に渡り、樺太を東廻りで探検。久春内(南樺太中央付近の一番細くなっているところ)で山越えしてUターンしている。その後宗谷に戻り、オホーツク海岸を東に進み、遂に知床半島にたどり着く。前年、東廻りで知床まで来ているので、これで武四郎は北海道をぐるりと一周したことになる。
武四郎は再び引き返して宗谷に戻り、石狩まで来るが、そこから小樽に行くのではなく、石狩川を舟で遡上して千歳川に入り、美々(現・新千歳空港)を山越えしてウトナイ湖を舟で下り、勇払に抜けている。このルートはいわゆる「勇払越」と呼ばれ、西蝦夷と東蝦夷を繋ぐ当時では唯一のルートであった。10年後、ここに「札幌越新道」が引かれることになるが、その前身となった舟路である。
廻浦日記
安政3(1856)年。前回の西蝦夷の旅より10年が経ち、武四郎は再び北海道を探検する機会に恵まれた。
ロシア南下の動きを警戒した幕府は、松前藩から蝦夷地を上知(没収)し再び直轄領とした。そして函館奉行の役人・向山源太夫を派遣し、各場所の様子を調べさせた。この調査を廻浦という。武四郎はこの廻浦に随行することが許され、調査隊の一行に加わることになったのだ。
武四郎のつけた日記のタイトルは『按西扈従』。「按」とは「調査」すること。「扈従」とは「偉い人に付いていく」ことを意味する。しかし残念ながら旅の途中、隊長の向山源太夫は宗谷で病死してしまう。一行はそのまま廻浦を続け、北海道をぐるりと一周した。この時の日記『按西扈従』『按北扈従』『按西按東扈従』の3冊をまとめたものが『竹四郎廻浦日記』である。なお、出版されたものとは別に、武四郎が下書きとして持っていた版があり、内容はほぼ同様だが一部違いがある。こちらは区別して『丙辰日誌』と呼ぶこともある。
武四郎にとっては二度目の北海道一周である。前回の旅とは違い、舟路ではなく、陸行した区間が非常に長い。海岸地名のほか、川の支流名もかなり挙げている。しかし実際に川を遡行したのは、尻別川下流と石狩川の雨竜までで、本格的な川の調査は次回以降に譲ることになる。なお『廻浦日記』より『丙辰日誌』のほうが川に関する記録が多い。
また武四郎が探検の途中で書いたフィールドノートである「野帳」には、聞き取った地名や他の資料からの転記など、様々なメモが書き留められており、そこから情報源を辿ることができる。この廻浦日記の野帳は『辰手控』としてまとめられている。
余市~忍路
武四郎は余市から歩いてフゴッペ岬に差し掛かるが、フゴッペ川の東に番屋ができている。そこで茶を頂きながら話を聞くと、余市領と忍路領の間で境界線論争があったらしい。忍路側はフゴッペ川が境界線だといい、余市側はフゴッペ岬が境界線だという。それで余市側はここに番屋を立てて番人を置いたというのだ。
林家文書に残る資料によると、海岸線は余市領としつつも内陸は川まで忍路領となっている。複雑な境界論争があったことが窺える。なお現在は再びフゴッペ岬が境界となった。
忍路~高島
忍路はアイヌ125人(36年前は292人)。昔は津古丹の方に住んでいたが、今は忍路運上屋元にみな引っ越したらしい。
10年前は忍路から船で行ったが、今回は歩いて山道を行くことにした。津古丹、桃内、チャラツナイと忍路山道を越えていき、塩谷に降りる。塩谷はシホヤ(現・塩谷文庫歌)とシウヤの2村に分かれていた。
塩谷の番屋で休憩したあと、エナヲ峠(現・オタモイ2丁目)まで稲穂山道を行く。エナヲ峠から手宮へと稲穂山道は続いているが、武四郎はそれを通らず、高島へと直接向かい、新たな山道の見立てをすることにする。赤岩山の山麓を横切りながらキンクシテミヤ(現・赤岩2丁目)などを越え、高島の上に出てそこから下る。途中で、雄冬岬のほうまで見える素晴らしい眺望の場所を見つける。
高島~小樽内
高島からキムンコタン(現・手宮公園)を越えて手宮に下る。手宮は繁盛しており、酒屋や月代店、湯屋なども出来ていた。オコバチ川を越えて小樽内領に入り、小樽内運上屋(現・入船町)に到着する。
高島はアイヌ72人(36年前は189人)。昔は手宮に20軒ほどのアイヌ小屋があったが、みな高島運上屋のほうに引っ越したらしい。今は手宮から小樽内にかけてニシン出稼ぎ漁師の二ハ小屋がずっと立ち並んでいる。
小樽内はアイヌ102人(36年前は150人)。アイヌというのは川端に住むもので、海岸に住むことはないが、ニシン漁のために皆ここに移されてきたのだという。
忍路・高島・小樽内、いずれも36年のうちにアイヌ人口は激減しており、ニシン漁の労働力ために伝統的なアイヌの生活を捨てさせて、運上屋元への強制移住をしたことを武四郎は記録している。
小樽内~銭函
10年前は船で行ったが、今回は案内人のサルエカを連れて、歩いて石狩まで行くことにする。
勝納川の橋を渡り、平磯岬の下を歩く。波が高い時は上の道もあるらしい。アツトマリ(現・若竹)、熊碓(現・船浜)、柾里、いずれも昔はアイヌ小屋があったが今はない。朝里に番屋漁師に雇われたアイヌの小屋はある。出稼ぎ漁師のニハ小屋は神威古潭までずっと立ち並んでいる。
神威古潭を、崩れた大岩をよじ登りながらなんとか越えていく。一歩足を滑らせれば粉骨砕身の難所である。ようやく足の立つところにつくと滝が見える。
張碓は市町の如く栄えている。柾里から張碓まで山越道を切り開けば神威古潭の難所を避けられるのではないかと武四郎は提案する(翌年、この小樽内山道が実際に開削される)。
張碓から海岸を通って礼文塚、歌棄を抜け、銭函で休憩。銭函からソウツケ(現・倶知安)へのアイヌの山越が昔あったらしい。また降雪期は銭函から(奥手稲山を越えて)サマツケハッサブ(現・西野平和)へ山越えできるという。
銭函~石狩
小樽内(現・新川河口)で昼食。このあたりの番屋や小屋は、壁を板を使わずに”むしろ”を使っている。何故なのか聞いてみると、このあたりの山々の木を切り尽くしてしまい、高島も材木不足で、忍路山まで切りに行くほどであるらしい。番屋1軒あたり30~40人ほどの出稼ぎ漁師が泊まっており、太櫓や久遠の運上屋などよりよっぽど人数が多い。しかし飲水が悪い。
フンベムイ(現・石狩湾新港)に小休所とアイヌ小屋が1軒ある。70代のハッチとその妻が小休所の管理を任されているが、妻は病気で苦しんでいる。武四郎は心配して食料や野菜、薬などを飲ませようとするが、今にも死にそうである。石狩には医者もいるが、果たしてアイヌを診てくれるだろうか。最大限の計らいをした後、後ろ髪引かれる思いで石狩に発つ。(翌年訪れた時、既にこの夫婦は死亡していた)
石狩運上屋に到着する。10年前より建物が立派になっている。9年前に洪水が起きてこのあたりの建物は全部流されてしまったらしい。去年ようやく普請して、新しい運上屋が出来たそうだ。
丁巳日誌
安政4(1857)年、廻浦から戻ったばかりの武四郎だったが、今度は北蝦夷(樺太)見分へ行くようにと指示が下る。しかし武四郎は冬に病に倒れ、一時は死を覚悟するほどになり、樺太行きは免除される。病の床で、友人である美泉定山の見舞いを受けている。
病気から回復した武四郎は、石狩へと向かう。石狩川の上流部を確かめるとともに、内陸の地形を把握し、新道を切り開く場所を見出すのがその目的である。これまでは主に海岸部を回ってきたが、この旅から本格的に内陸部の調査に入っていくことになる。
正式には『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』という。各巻は
- 『志利辺津日誌』……尻別川下流
- 『曽宇津日誌』……倶知安
- 『再篙石狩日誌』……石狩川
- 『天之穂日誌』……天塩川
- 『由宇発利日誌』……夕張
- 『志古津日誌』……支笏・千歳
- 『於沙流辺津日誌』……洞爺
- 『報志利辺津日誌』……尻別川下り
- 『報登宇志辺津日誌』……長万部
- 『由宇羅津布日誌』……八雲・遊楽部
という構成になっており、このうち志利辺津日誌の末尾と、再篙石狩日誌の冒頭に小樽の事が少しだけ触れられている。
余市~石狩(『志利辺津日誌』)
春の5月、岩内から倶知安へ行き、少し戻って仁木の稲穂峠を越えた武四郎は、余市から小樽内、そして石狩へと陸路で丸2日で歩く。残念ながらこの余市~石狩間の行程については詳しく記録していないので細かな地名などはわからない。
フンベムイ(現・石狩湾新港)小休所に行くと、以前とは別の60歳くらいのアイヌ夫婦と姪の3人が住んでいた。前任者が死んだので、上川の旭川から小休所の番人として連れてこられたのだという。爺は足が悪く、婆は病気で、住み慣れない海岸で助けてくれるものもおらず、食料も尽きようとしている。しかし石狩運上屋は何も支援してくれないという。武四郎は運上屋に彼らの窮状を訴え、介抱するように願いを出す。
その後武四郎は石狩川を遡上し、旭川まで到達する。
石狩~銭函~発寒(『再篙石狩日誌』)
夏の7月、石狩川上流から名寄、天塩川に抜け日本海側に出た武四郎は、留萌や増毛山道を通って石狩へと下ってくる。
フンベムイ(現・石狩湾新港)小休所のアイヌ家族のところに寄るが、運上屋は何も介抱してくれていなかった。とりあえず昼飯の焼飯を彼らに与え、箱館奉行に相談することにした。
銭函で”鎮台”こと箱館奉行一行と合流する。ここで玉虫左太夫や島義勇(後の札幌の父)とも会った。武四郎は箱館奉行の堀利煕や玉虫らと共に、新たに出来たという発寒道を通って札幌に行くことになる(ただし島義勇は別働隊のため同行していない)。
しかし銭函~星置間は、湿地帯を通るひどく歩きにくい道だった。箱館奉行は苦言を呈し、後日この区間は新たに丘の上に道路を作り直している(札幌越新道)。
星置、手稲を通り、発寒に到着する。発寒にはアイヌコタンがあり、4軒の小屋があった。大人たちはみんな死ぬか遠くに送られるか妾に取られてしまい、村には老人と幼子しか残っていない。(なお彼ら11人は札幌にあった5つのコタンのうち、唯一全滅を免れて明治維新を生きて通過したグループである。他のコタンはことごとく全滅したので、これでもマシな方であった。)
発寒川を下り、石狩番屋で島義勇達の別働隊と合流する。その後千歳川を遡って苫小牧方面に出、函館に戻っている。
戊午日誌
安政5(1858)年、去年は西蝦夷中心に調査したが、今度は東蝦夷を中心に調査することになった。武四郎の使命は、単なる地理調査から、新道ルートの見極め、そしてアイヌの窮状の調査という大きな意味を持ち始めるようになる。
この旅では小樽中心部には立ち寄っていない。銭函を2回通っている。武四郎は銭函~発寒間を計3回通過しているが、いずれも異なるルートを歩いているのは興味深いところである。
正式名称は『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』。各巻は、
『作発呂留宇知之誌』『登加智留宇知之誌』『安加武留宇智之誌』『摩之宇誌』『奴宇之辺都誌』『久須利誌』『能都之也利誌』『志辺都誌』『女奈之誌』『志礼登古誌』『安婆志利誌』『能登呂誌』『登古呂誌』『登宇武津誌』『由宇辺都誌』『志与古都誌』『佐留辺津誌』『古以登以誌』『北岬誌』『古多武別誌』『新道誌』『安都麻志』『武加和志』『茂無辺都誌』『沙流誌』『安都辺都誌』『毘保久誌』『南岬志』『辺留府称誌』『報十勝誌』『志也摩尼誌』『保呂辺津誌』『牟古辺都誌』『宇羅加利誌』『計理麻布誌』『美登之誌』『茂宇辺都誌』『志毘茶利志』
という構成になっており、巻名を見るだけでもいかに全道各地を仔細に調査したかがわかるだろう。ただし前述した通り、小樽に関しては『作発呂留宇知之誌』『新道誌』でちらっと銭函に立ち寄ったのみとなっている。
発寒~銭函(『作発呂留宇知之誌』)
雪の降り積もる2月、武四郎は洞爺湖から中山峠を越えて札幌に降りてきた。途中で松浦武四郎は記録上初めて和人として定山渓温泉に浸かる。およそ10年後、武四郎の親友である美泉定山がこの地に定山渓温泉郷を開いたのは全くの偶然である。
武四郎は発寒コタンまで下ってきてアイヌの家に泊めてもらい、このあたりの地理を尋ねる。石狩会所に直接歩いていこうと思ったが、今の季節は難しいので、一旦銭函に寄ってから、海岸沿いに石狩に行くことにする。
銭函~発寒間は去年一度通っているが、武四郎はショートカットするために、銭函に向けてまっすぐ平地を歩いていくことにする。雪のお陰で手稲の低湿地帯を難なく歩くことが出来、山道よりも1里も短く銭函に着くことができた。銭函で昼飯を食べ、そのまま歩いて石狩へと向かった。
銭函~発寒(『新道誌』)
初夏の6月、武四郎は再び銭函にやって来る。勇払や支笏のアイヌを道案内に連れ、新しく出来た札幌越新道を歩いて千歳や勇払まで越える予定である。1年前に通った道はひどいものだったが、この度新しく札幌越新道を整備し直したというので、それを調査するためである。この新しい道を武四郎はたいへん評価し、”これこそが真の新道である”として、日誌のタイトルに『新道誌』と冠した。
新しく出来た銭函の通行屋はとても美しく、この地にも開拓の息吹が根付いていることを実感する。武四郎は後に”すごろく”でもこの通行屋を描いている。銭函を出発して丘の上の新道を行く。現在の銭函ICのルートである。星置には新たに入植した4人の役人が開墾を初めており、野菜を作っていた。発寒でも開拓が始まっており、発寒の入植者たちは後に初めて道央で米づくりに成功することになる。
松浦武四郎のその後
紀行文の執筆
ここまで上げた6つの航海の日誌は、いわば私的な日記であり、幕府に提出する報告書のようなもので、一般に向けて広く書かれたものではない。
松浦武四郎は一般流通版として、読みやすく再構成した紀行文を何冊も出版する。
- 『東蝦夷日誌』一編~七編
- 『西蝦夷日誌』一編~六編
- 『石狩日誌』
- 『天塩日誌』
- 『夕張日誌』
- 『後方羊蹄日誌』
- 『十勝日誌』
- 『久摺日誌』
- 『納沙布日誌』
- 『知床日誌』
あのお菓子のパッケージで有名な「十勝日誌」もここにある。これらの紀行文は、自身の旅をまとめつつ、いくつかの挿絵や和歌、エピソードや地図などを追加している。
しかし残念ながら情報の正確性という意味では劣っており、ある程度の”フィクション”として捉える必要がある。たとえば後方羊蹄日誌では、武四郎は羊蹄山の山頂まで登ったことになっているが、実際には登っていない。これら紀行文は、実際の六航の日誌と照らし合わせながら読んでいくと新たな発見があるだろう。
西蝦夷日誌の小樽部分の誤り
小樽に関しては「西蝦夷日誌 四編」で取り上げられており、再航日誌と廻浦日記をマージしたものとなっている。いくつかの誤りがあるため、注意深く読む必要がある。
(誤) | (正) |
---|---|
シュマベケレ | シュマベレケ |
スマモナイ | ヌモマナイ |
フルネシュマ | ルフネシュマ |
ヲヽヨネナイ | ヲコチナイ |
ヲモタイ | ヲタモイ |
クツタラシ | ヲワタラシ |
サツテクテミヤ | サツクシテミヤ |
単純な誤字だけでもこれだけあり、さらに位置関係もかなりちぐはぐで乱雑としている。とくにタカシマ領の地名の順序は入り乱れており、今日に混乱を生じさせている。この誤りが東西蝦夷山川地理取調図に引き継がれ、さらなるミスが増えていくので、研究のしがいがあるというものである。
東西蝦夷山川地理取調図
武四郎はこれまでの探検の成果をまとめ、東西蝦夷山川地理取調図(通称:松浦山川図)という地図を書き上げる。北海道全体に9800ものアイヌ語地名がびっしりと書き込まれた、彼の代表作であり、傑作である。この図をベースとした地図は新政府における北海道の公式の地図としても活用され、北海道開拓の礎となった。
武四郎は全くの一からこの地図を書いたわけではなく、その輪郭や地名や距離は間宮林蔵の間宮河川図や今井八九郎の今井測量原図などをベースにしている。松浦山川図は、現在の視点からすると色々な誤りも見えてくる地図ではあるが、当時これほどまでの地図を書き上げた功績は果てしない。まさに武四郎は集大成とも言える大作である。
道国郡名の上申
江戸幕府が倒幕し新政府が立つと、武四郎は大久保利通に認められて明治政府の開拓判官に任じられる。そこで道・国・郡名の制定という重要な仕事をする。今の振興局や市町村の土台となったもので、北海道の11国86郡は松浦武四郎のアイディアがほぼそのまま採用されるかたちとなった。
あわせて「北海道の名付け親」とも言われる。ここは興味深いところだが、実は松浦武四郎は厳密に言うと「北海道」の名付けの親ではない。たしかに「国」「郡」とあわせてその上にあたる「道」も提案しているのだが、彼は意図的に「北海道」を避けたのである。彼自身、以前に「北海道人」と名乗っているのだから、これが思いつかないはずはないが、「海北道」「北加伊道」「東北道」など本命をかすめるような案を6つもちらつかせておきながら、意図的に「北海道」を避けているのである。一体何故だろうか?
本人に聞かなければ真相はわからないところではあるが、武四郎は「北海道の名付けの親」と呼ばれることを避けたのかもしれない。国郡名11国86郡全てを決めるという97%の仕事をしておいて、最後の3%だけを偉い人に残しておく。あえてかすめるような選択肢をいくつか用意しておいて、偉い人に「どの案もいまいちであるな。ではワシが北海道と名付けよう。」と言わせる。武四郎は裏方に徹したのである。後世、武四郎が「北海道の名付け親」と呼ばれるようになることを本人が知ったら、きっと大笑いするであろう。
古人も多く旅に死せるあり
武四郎は各地を旅し、現地アイヌの窮状について訴えた。彼の150冊に及ぶ調査報告書は場所請負人たちの身勝手な振る舞いを暴くもので、請負人たちは次々と罷免されていく。武四郎の訴えはついに中央政府に届いたのだ。ところが翌年になると、新政府は場所請負制を形を変えて再び復活させてしまう。これに失望した武四郎は新政府の役人の座を辞し、表舞台から引退する。
奇しくも、旅先で出会い、ときに武四郎の旅に同行した人々は、次々と政変に巻き込まれ命を落としていった。”鎮台”こと箱館奉行の堀利煕は条約交渉のゴタゴタに巻き込まれて切腹、玉虫左太夫は奥羽越列藩同盟の成立に関わって獄中で切腹、島義勇は佐賀の乱の罪で斬首刑。そういう意味では、明治維新の混乱に乗ずることなく、早いうちに引退を決めた武四郎は賢かったと言えるかもしれない。
政治の表舞台からは姿を消したが、武四郎はその後も旅を続けたようである。全国25箇所の天満宮を巡り、その健脚で全国を津々浦々と歩き続けたらしい。まさに日々旅にして旅を栖とする人生である。明治の激動を生き抜き、明治21年に自宅で息を引き取る。享年71歳。
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