道北旅行
機会があり、初めて道北地方まで旅行をしてきた。オロロンラインをひたすら北上し、宗谷岬を見て、豊富温泉に宿泊。帰りは音威子府や美深あたりまで降りてきて、幌加内から雨竜、浦臼に抜けるルート。
名寄と留萌より上には行ったことがなかったので、初めての道北旅行だった。とても楽しかったので、見てきた地名を由来とあわせて紹介して行きたい。
宗谷(ソウヤ)
日本最北端の地の碑がある宗谷岬。住所としての宗谷は岬の手前にあるが、そちらは後にソウヤ運上屋が置かれた場所で、もともとのソウヤは宗谷岬のところを指していた。
ソウヤとは so-ya〈磯岩の岸〉の意味で、この so とは宗谷岬から見える 弁天島 のことを指している。古地図では「ソウヤ石」と見え、古くからこの島は知られていた。この島に関するアイヌの伝承もいくつかある。この弁天島は日本の主権が及ぶ島としては最北端の場所となっている。宗谷岬に寄った時は、ぜひこの弁天島にもあわせて注目しておこう。
so-ya と 同様の地名に小樽の 塩谷 があり、寿都の 磯谷 もほぼ同じ意味の iso-ya〈磯岩の岸〉 である。いずれも集落前の海上にシンボルとなる岩があった。またもう少し大きな島だと mosir-ya〈島の岸〉、小さな立岩だったら chis-ya〈立岩の岸〉と言って、このような地名は全道各地に見られる。
なお宗谷岬そのものは「エンルムエトコ」という。 en-rum-etok〈岬の先端〉の意味で、en-rum といえば北海道南端の襟裳岬の語源ともなっている。またソウヤの集落があるところを「モウセンルモ」とも言う。maw-us-en-rum〈風のある岬〉の意味か。
訪れたのは真夏で札幌が34℃の日だったが、宗谷岬は17℃で強風が吹き、観光客たちは冷蔵庫の中にいるようだと身体を震わせていた。
白い道(ピリカタイ)
宗谷岬の丘の上に「白い道」があり観光名所になっている。ホタテの貝殻の破片を敷き詰めたもので、田園地帯に、雪が降ったかのように真っ白な道が続く幻想的な風景になっている。訪れた時は霧が深く立ち込め、空も陸も真っ白になっていた。
ここをアイヌ語でピリカタイといい、 pirka-tay〈美しい林〉の意味である。文化2年、蝦夷調査隊の東寗元稹は「ピルカタイよりカラフト島を見る」と記録しており、遠山金四郎も同様に「ひりかたいと云。此所より正北にからふと嶋見ゆ」と書き、昔の人もここから樺太を眺めていたようだ。残念ながらこの日は霧のため、樺太を見ることはできなかった。
富磯(リヤコタン)
宗谷岬手前の富磯地区に日本最北端のコンビニ「セイコーマートとみいそ店」がある。
この富磯地区はかつてはリヤコタンと言った。riya-kotan〈越冬の村〉の意味で、積丹の sak-kotan〈夏の村〉とは対義語になる。アイヌは季節によって住む場所を変え、冬は北の海の厳しい風を避けやすい場所に家を構えたようである。このリヤコタンは北風を防ぐように丘が張り出している。
幕末に樺太探検隊はこのソウヤの地で越冬することになった。しかし寒さと飢えで次々と死者を出してしまう。武士たちは少しでも寒さを凌ぐために、木の棺桶のような箱を作り、その中に布団を敷いて蓋を閉めて寝たのだという。これは「宗谷の寝棺」と呼ばれ北方記念館に復元されたものが保管されている。当時の越冬がいかに厳しいものであったかが窺える。
今はセイコーマートがあるので越冬もそれほど難しくないかもしれない。
稚内(ワッカナイ)
稚内駅がある最北端の市街地。江戸時代はソウヤが中心で、ワッカナイはさほど重要な場所ではなかった。伊能図や高橋図にも地名が書かれていない。しかし現在はこちらがこの地方の中心街になっている。
ワッカナイは元々は「ヤムワッカナイ」といい、yam-wakka-nay〈冷たい水の沢〉の意味。この地名も止若内(陸別町)など各地にある。
また近くのサロベツには 稚咲内 という地名があるが、これは wakka-sak-nayで〈水の無い沢〉の意味である。稚内とよく似ているが、反対の意味となっている。
野寒布岬(ノシャップ)
ノシャップ岬は稚内の西側の大岬。根室にあるのが納沙布岬でこちらが野寒布岬。このノサップとノシャップは、「寒いほうが野寒布岬」とは覚えられるものの、読みはいつも逆に読んでしまう。しかしアイヌ語に「サ行」と「シャ行」の区別はないので、ノサップもノシャップも同じである。
意味は not-sam〈岬の傍〉説が取られることが多い。確かに伊能図やいくつかの地図では「ノッサム」と書いてあるものがある。しかし大多数は「ノッシャフ」で今も「ノサップ」である。sam がサフに訛った可能性も否定はできないが、ここは not-sap〈岬の出崎〉説を取りたい。
sap は辞書では動詞として登録されているが、他にも「突き出た丘」という名詞的なはたらきがあるように見える。sap-or〈出崎の所〉を意味する札幌や佐幌は、いずれも藻岩山、新得山という、突き出た丘の地形がある。納沙布岬も航空自衛隊の基地設備があるあの丘が地名の由来ではないだろうか。
利尻(リシリ)
利尻島・礼文島は稚内の西にある島で、北海道で1番目、3番目に大きな島である(千島を除く)。
ri-sir〈高い島〉の名のごとく、かなりの遠くから利尻島を見ることができる。小平のあたりで沖に島が見えたのであれは天売か焼尻か、と思ったら利尻だった記憶がある。富士山のような綺麗な形の山が、ずっと遠くから存在感を放っている島である。
この利尻富士について、遠山金四郎はこんな話を残している。「加藤清正が朝鮮遠征の際、オランカイ(南満州)から眺望すると、日本の富士山がよく見えたという。しかし林子平は、それは誤りで、蝦夷国の西にある利尻富士を見たのだろうと言う。なるほど確かに利尻は富士山によく似ている。だがここから見ても朝鮮の方は見えず、その説はやや疑わしい」。確かに冷静な分析で、オランカイからは1000kmも離れている上、間にシホテアリニ山脈が微妙に遮るので、加藤清正が見たのは利尻富士ではないかもしれない。
旧記には「リイシリ」のかたちでよく出てくる。また津軽一統志では「ルイシン」と呼ばれ、ソウヤと並んでアイヌ勢力がいたことを記録している。この利尻アイヌはシャクシャインの戦いに参戦しようとしなかったため、寿都のアイヌに報復として攻められるという興味深い記録もある。
隣の礼文島は rep-un-sir〈沖にある島〉の意味で、その名の通り利尻島より沖に位置している。
抜海(バッカイ)
抜海には「バッカイ石」と呼ばれる特徴的な岩があり、これが地名の由来となっている。江戸時代からここに鳥居や注連縄、イナウなどを立てて祀っていたようだ。またこの岩陰に遺跡があり、続縄文時代やオホーツク式の土器などが見つかっている。
西へさし出て離れたる円き小山の真上に一岩有。是によりとばつかいべと云とぞ。
『未曾有後記』/遠山金四郎景晋
旧図にはバッカイベともあり、pakkay-pe〈おんぶするもの〉の意味。抜海石の特徴をよくあらわして地名である。なんとなくカエルのようにも見えた。
佐呂別(サロベツ)
サロベツ湿原はラムサール条約でも認められている日本最大の高層湿原で、広大な原野に湿地や沼が広がっている。1万年前はサロマ湖のような広大な湖だったが、何千年もかけて干上がっていき、今の湿原になったようだ。サロベツ川にはその名残の湖や沼が数え切れないほど残っている。
サロベツは sar-o-pet〈湿原にある川〉の意味で、佐呂間の sar-oma-pet〈湿原のある川〉 や沙流川の sar-or〈湿原の所〉、斜里の sari〈その湿原〉、長流川の o-sar-o-pet〈川尻に湿原のある川〉などと同様の地名である。sar は草原ないし湿原で、木の生えていない広大な原野を指す名詞である。
このあたりのサロベツ湿原の砂丘上には大量の竪穴住居跡があり、かつては巨大な集落が築かれていたようだ。アイヌのチャシ跡もある。またサロベツはかつて沙流村ともいい、旧図には「サルル」の地名も見える。
音類(オトンルイ)
限りなくまっすぐ続く浜道に、ずらりと風車が立ち並ぶ。オロロンラインのクライマックスを飾る美しい風景である。これを「オトンルイ風力発電所」という。多くのライダーやドライバーがここで車を停めて写真を撮っていた。
オトンルイは ota-un-ru〈浜にある道〉と解されることが多い。広大なサロベツ原野の浜沿いをどこまでも続く様子は、まさに地名通りの風景と言える。あるいは o-to-un-ru〈河口に沼のある道〉と訳されることもある。
ただこの意味ははっきりわかってはおらず、天塩で現地聞き取りした武四郎の手控でもヲトンルイの意味は空白になっている。各地図での表記を見ると
「ヲトンルエ」(松浦山川図)/「ヲトンルヱ」(今井測量原図)/「ヲトンレイ」(秦蝦夷島図)/「ヲトンルイ」(里数書入図)/「ヲトンレウニ」(間宮河川図)/「ヲトンリウニ」(高橋図)/「ヲトンレウヱ」(西蝦夷海岸図)/「ヲトニレエ」(沿岸二十三図)
と後半のブレが大きい。しかし「ヲトン」に関してはほぼ一致している。ここを ota-un〈砂浜にある〉 とするか o-to-un〈河口に沼のある〉 とするかで迷うところだが、近くにオタヒラという地名があり、ota-pira〈砂浜の崖〉の意味であるから、やはりここは砂浜説を取りたい。
またヘンゲルー(上流の道)、ハンゲルー(下流の道)、ユクルー(鹿の道)、シャクルー(夏の道)など、このあたり ru〈道〉のつく地名がやけに多い。後半のルエは ru の所属形とみて、 ota-un-ruwe〈砂浜にある道〉と解釈してみる。ほぼ定説を支持するかたちになった。
ヲトンルイ、昼休所の小屋懸あり。ルチシ、すべて砂路ばかりなり
『蝦夷行程記』
このあたり、昔から砂浜であったことは間違いないようだ。また秦蝦夷島図によると近くに「ヲトチセウニ」という地名もあり、これは ota-chise-un-i〈砂浜の家がある所〉の意味だろうか。
豊富(エベコロベツ)
豊富は和名であるが、アイヌ語の ipe-kor-pet〈食べ物を生み出す川〉 を和訳したもので、豊富町内を流れるエベコロベツ川に由来する。豊富町といえば今は牛乳で有名になっている。
豊富町といえばもうひとつ、豊富温泉がよく知られている。石油の匂いが強い温泉で、皮膚にいいといわれ多くの湯治客が訪れる。今回もここに宿を取り、その湯を堪能することができた。
幌延(ホロノベ)
幌延は poro-nup〈大きな原野〉の意味とされ、サロベツ湿原をもつ街の名前としてはぴったりである。今井図などの旧図を見るとオトンルイ風力発電所のあたりに「ホロヌフ」とあり、幌延駅のある市街地とはだいぶ離れている。
幌延駅のあたりはホロノタフと呼ばれ、 poro-nutap〈大きな川の湾曲〉の意味である。大曲とも呼ばれたこの湾曲は今もスポーツ公園の裏手に残っている。このホロヌフとポロノタフが混同され、ここをホロノベとした可能性も考えられる。
なおこの上流に 雄信内 (オノップナイ)があるが、o-nup-un-nay〈河口に原野のある川〉の意味で、幌延とも関係のある地名になっている。
天塩(テシオ)
天塩川は日本で4番目に長い川で、北海道でも石狩川に続いて2番目。石狩川と天塩川を隔てる塩狩峠が飛躍的緩やかなこともあり、古くから川船交通の幹線ルートとしてアイヌたちも使っていた。松浦武四郎が天塩川を遡った「天塩日誌」は有名で、あちこちにそれにまつわる案内板や記念碑がある。
天塩の由来は tes-o-pet〈梁のある川〉あるいは tes-o-i〈梁のある所〉の意味だろうか。旧図にはテセウともある。このテッシこと、梁は美深町にある。
オテレコツヘ、フトシヤウシナイ、この辺も岩がずっと突き出ているので、また船を綱で引いて川を上る。ここを過ぎてテツシ(急流)というところ、川の中に岩が一列に並んで、やなをかけたように見えるが、ここには大昔に神が岩を並べたという伝説があり、神聖なところと考えられている。テツシは梁のことである。
天塩日誌/松浦武四郎/丸山道子訳
復元されたテッシが美深の公園のほとりにある。石が並んでいて飛び越えられるようになっていて、大昔もそのように並んでおり、神がそれを並べたという伝説があるのだという。
なおこのあたりの住所を美深町大手というが、オテレコッペを短くしたもので、o-terke-ot-pe〈その端を飛び越える所〉の意味である。
美深(ピウカ)
美深の元の地名はピウカで、松浦図にもヒウカとある。それに美深と漢字を当てたものだが、当時は美深でピウカと読ませていた。今は漢字に合わせてビフカと読む。
piwkaで〈小石原〉の意味。分解すると pi-uka で〈石が互いに積み重なる〉の意味になる。あちこちにある一般的な地名で十勝川流域でとくによく見かける。このような川原は歩きやすく、夏も薮に覆われないので、一休みするのにちょうどいい地形なのだろう。
音威子府(オトイネップ)
音威子府村は北海道で1番人口の少ない市町村である。北海道で1000人を切っているのは、西興部村、神恵内村、音威子府村の3村しかないが、音威子府は579人(2024年4月)とダントツのワーストになっている。
オトイネップとはいかにもアイヌ語地名らしい、アイヌ語地名の模範生のような名前である。その文法的構造もはっきりしている。
o-toy-ne-p〈河口が泥んこである所〉の意味で、音威子府川と天塩川本流との合流地点付近がそのような泥んこ地形になっていて、歩く時に苦労したのだろう。他の地名解を見ると「濁りたる泥川」はわかるが、「漂木の堆積する川口」がどのような解釈をしたのかがわからない。
河口まで近づけなかったので詳しく観察はできていないが、音威子府川の合流地点には湿地帯が広がっているように見える。なお衛星写真で見て分かる通り、特に色が濁っているわけではない(むしろ天塩川のほうが濁っている)。
北海道の命名之地
この音威子府に「北海道命名之地」という碑が掲げられた場所がある。北海道は松浦武四郎が提唱した案の一つ・北加伊道に由来し、「カイ」とはアイヌ語の「カイノー」なのだという。
この話が大変興味深く、この真相を追いかけていたらかなり長くなってしまったので、これに関しては改めて別の記事として紹介したい。
コメント