濁川(コツウンナイ)~星置の平原を流れる川~

アイヌ語地名

星置の平原を流れる川

濁川の流域

濁川

手稲の星置駅のすぐそばを「濁川にごりがわ」という小川が流れている。それほど目立つ川ではないが、下手稲通や337号沿いに大きな河川標識の看板があるので、なんとなく目にしたことがある人も多いのではないだろうか。実際、町中を流れる川を見てみると水は云うほど濁ってはいない。

濁川

下流の方になると、たしかに少し濁っている感じがするだろうか。

濁川があるなら清川もあるのだろうか?それがあるのである。

濁川の流域

濁川とその支流の流域を地図に落とし込んでみた。清川は濁川のすぐ北にある。

このあたり、いくつもの排水路が引かれているのでややわかりにくいが、当初の濁川の流路はそれほど変わっていないような感じもする。元々は「東濁川」のほうが濁川の本流で、駅の近くを流れる現在の濁川は人工的に掘られた水路になっている。

現在は新川水系になっているが、元々は小樽内川水系で星置川と同じ水系だった。現在の清川がかつての星置川と繋がっていた流れである。濁川の上流には「稲穂川」「金山川」「濁川本流」があり、隣の「稲積川」も元々は濁川支流だった。

星置エリアと手稲エリアの区分

こう見ると、濁川の流域はまさに星置エリアそのものと言える。「星置」と「手稲」というのは昔から少し違う文化を持つ街だったが、星置と手稲をはっきり線引するとしたら、土功排水の樽川通を境にして、濁川水系が星置、中の川水系が手稲とも言えるだろう。

濁川の由来

濁川河川標識

しかしなぜ 濁川にごりかわ というのだろうか。大きな河川標識には残念ながら由来は書かれていない。

インターネットで調べると「旧手稲鉱山の排水や土地改良、灌漑用排水と途中で混合するために、水が濁っていたことに由来しているようです。」と出てきた。なるほどたしかに濁川の上流には金山川があって、手稲鉱山の選鉱場跡が今も残っている。

現在の星置運動公園や運転免許試験場のところは少し土地が盛り上がっているが、そこにかつて手稲鉱山の鉱滓を沈殿させるためのダムがあり、ひどく汚れていたようだ。一時期は生活汚水を流し込んだこともあるようで、周囲の環境は最悪だったらしい。

今はその面影もないが、旧ダム用地だけ住宅が一軒も建てられていないのは、そのあたりの理由があるのだろう。

しかし、濁川の由来が手稲鉱山の排水ではないことを明らかにする文書が見つかった。

是より中川中島切開候新道、極細道難道なれども通路差し支えなし。中頃より先、密林と申也。手前 ニコリ川 といふ小川有り。千歳新道に出る

『公務日誌』

安政6年に札幌越新道(千歳新道)の見分に来た箱館奉行の日誌である。

昨日書いた シイキナウシノタ の記事でも少し触れたが、銭函~星置~発寒~豊平~島松~千歳~勇払を結ぶ札幌越新道は蝦夷地開発の第一事業であり、箱館奉行も特に力を入れていた。それで何度か調査に来るが、これは最初の開通より2年後。正式な札幌越新道が引かれたあとの検分になる。星置~銭函間に関しては、ルートが改定され、概ね高速道路のルート、現在の銭函ICあたりを通る道になった。

その新しい道を見るために、小樽内川(新川河口)から、濁川を遡るようなかたちで奉行の一行は星置集落に出てきたのである。

丁巳日誌

入植した幕府の役人、中川・中島らが開いた道というのが、丁巳日誌の地図の中に描かれている。

明治10年頃の図
中川中島新道の推定ルート

そのルートははっきりしたところはわからないが、星置駅の裏が崖地になっていることを考えると、それを迂回して稲穂駅あたりで丘の上に出たような気がする。それ以外の部分は概ね曲長通に近いルートだったのではないだろうか。

さて少し脱線したが、ここで重要なのは「ニコリ川」という名前が安政6(1859)年の時点で既に出てきているということである。手稲鉱山の試掘が始まったのは明治26(1893)年なので、それより30年以上前から濁川と呼ばれていたということだ。

まだ和人が入植したばかりで、星置橋のほとりに「大根・蕎麦・隠元いんげん・さヽげ」などを細々と植え始めた頃の話である。その頃からすでに「濁川」であったので、手稲鉱山の排水や土地改良の灌漑とは無関係と言わざるを得ない。

濁川という名前をつけたのはおそらく入植者の中川らで、隣の清川と対比するかたちで呼んだのだろう。そう結論づけて良いような気がする。

コツウンナイ

濁川のアイヌ語地名は「コツウンナイ」のようである。

地図表記
イシカリ場所絵図コツウンナイ
丁巳日誌コツウンナイ
東西蝦夷山川図コツウンナイ
新川開墾図(明治4)コチウンナイ
実測切図(明治20)コツウンナイ
文献に見えるコツウンナイ

出典は多いとは云い難いが、表音はコツウンナイで安定している。ところが主要な地名解ではやや疑問な解を挙げている。

Kotnei un nai コッネイ ウン ナイ

凹處ヨリ生スル川

『蝦夷語地名解』永田方正

kot-ne-i-un-nay コッネイウンナイ

凹地・のような・もの・ある・川

新川水系・清川

なお、この地名にある”コッネイ”については、この石狩海岸では、融雪期から2~3ヶ月の間、砂丘列の間の凹地が「帯水域(temporary pool)」となることが知られており、この地名はこの「帯水域」を水源としていた流れを表しているのかもしれない。

『データベースアイヌ語地名・後志』榊原正文

なぜかどちらも「コッネイウンナイ」と解している。これは琴似に関しても kot-un-iコトゥニ ではなく kot-ne-iコッネイ にしてしまっているのと同様の誤りで、それを無理やり当てはめようとしてしまったのだろう。正しくは

  • kot-un-nayコツンナイ窪地にある川

が正解だと思われる。

榊原先生の「帯水域」の話はとても興味深い。しかしコツウンナイを濁川ではなく清川と見ているようなので、そのままでは当てはまらないような気がする。

手稲村地方地図

明治時代の地図を見ると、本流との合流手前で大きな水たまりになっており、その少し上でもいくつもの中洲ができている。ちょうど手稲山口の下水処理場があるあたりである。ここが kotコッ〈窪地〉になっていたのだろう。kot-un-nayコツンナイ 〈窪地にある川〉という表現がぴったり当てはまる。

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