消えた山
「星野丸山」と聞いても、あまりピンとくる人は多くないかもしれない。少なくとも数年前までは誰も知らない山だった。登山家どころか地元の人ですら聞いたことがない。それもそのはず、山が消えてしまったのだ。決して比喩表現ではなく、物理的に消えてしまった。一体どういうことだろうか。
しかし最近GoogleMapにピンが追加されたので、徐々にこの名前も浸透していくかもしれない。
この星野丸山の歴史と登り方・風景などを見ていこう。
星野丸山の位置と名前
星野丸山は小樽と札幌の境界、「ほしみ駅」の南口を出た正面に見え、札樽自動車道の裏の山手にある。およそ270mの低山である。
正式には「丸山」だが、そのままでは他の山と区別がつかなく紛らわしいので、星野丸山と呼ぶことにした。なおGoogleMapに誰かがピンが追加した時は最初「星野富士」となっていたが、歴史的名称にあわせて「星野丸山」に修正しておいた。
星野丸山の歴史
文献に見える丸山
「丸山」の名前は江戸時代から既に見られる。知る限りの初出は、幕末の安政年間、仙台藩士・玉虫左太夫の蝦夷地巡検日誌『入北記』である。安政4(1857)年9月13日の日誌にこのようにある。
銭箱 漁家連軒鯡漁アリ。但天狗山 丸山何レモ椴楓多シ。
『入北記』―玉虫左太夫
銭函天狗山と並べて丸山が出てくる。安政4年5月に最初にこのあたりを通った時は名前が出てこなかった。しかしその年の秋に星置に農業試験のため和人が在住し、そのときに名前が出てくることから、名前をつけたのはもしかすると葛山幸三郎ら在住達かもしれない。
地勢山嶺村内ニ蟠亘シテ丸山、天狗山ノ二峰ヲ起シ北方ニ暫低シ…
『北海道植民状況報文 後志国』銭函村 ―河野常吉
明治時代の『植民状況報文』にも、丸山と天狗山が銭函村の山として紹介されている。明治時代までは、丸山はよく知られていたようだ。
地図に見える丸山
上の地図は明治15年以前に開拓使札幌本庁によって作られた手書きの地図(の模写)で、他の地図とも比較すると、おそらく役人が現地に赴いて現地住民に地名の聞き取りをしたものではないかと思われる。ここでも字天狗山と共に「字円山」が出てきており、その周りには水田らしきものも書き込まれている。「円」の字が少し違うが、音を聞いて書き違いをしたのだろうか。こちらの字だと神宮のある円山村のほうを想像してしまい、やや紛らわしい。
こちらは明治20年頃の道庁発行の20万分の1地図、通称『実測切図』だが、ここに確かに「丸山」が書かれている。次の明治29年ころの帝国陸地測量部の地図には丸山はもう出てこない。
丸山の標高が357mとなっているところに注目してほしい。当時はまだ測量精度が低かったのか、他の山の標高もだいぶズレてはいるとはいえ、現在の270mとはあまりにも差が大きすぎる。これが丸山が消えたことを物語る、一つの証拠である。
他には明治中期に描かれたと思われる『北海道測量舎五万分一地形図 後志国』にも「丸山」の地名が出てくるが、これは『実測切図』とかなりの類似点が見られるため、実測切図を元にしつつも加筆した地図のようだ。
またそれをさらに模写して加筆した明治35年の『三十五年ニ級施行・朝里村』の地図には、なんと「戸山」と書かれている。これは上の『北海道測量舎』の地図と比べてみるとわかるが、丸山を誤って誤読したもののようだ。
このあたりの山林は北海道造林合資會社が国有地の払い下げを受けており、その区画を示した明治42m年の地図にも「丸山」が見える。なお丸山と天狗山は「岩石」を示す灰色で塗られており、これが丸山が消えた原因でもある。
いずれも明治時代の地図であり、朝里村成立の際の公式文書ですら山名を誤っているほどである。大正以降の地図にはおそらく見られず、地元住民ですら知らない山名になってしまった。
消えた丸山
この丸山は、名前だけでなく、物理的に消えてしまった。その原因は、昭和31年と昭和53の地形図を比べてみるとわかる。
昭和31年では326.4mあった丸山が、昭和53年には大きく削り取られている。そう、ここは採石場となり、山をまるごと崩してしまったのだ。
山はまるでドーナツのようにくり抜かれてしまい、ある意味で文字通り”丸山”となってしまった。326mの山頂だった地点は、今は165mほど。まるで噴火で吹き飛んだかのように、山がまるごと消えてしまったのである。
昔はこのあたりでいつも発破の音が響いていて、ずしんとした衝撃が来るたびに家々の窓ガラスを揺らしていたものだった。今も砕石作業は行われているが、ダイナマイトはあまり使われていないようだ。北海道新幹線のトンネル残土をここに流し込むという協議がなされていたが、結局どうなったのかはわからない。
丸山と呼ばれる山は、たいてい麓から見て綺麗な山体を見せてくれるものだが、悲しきかな、もうその山は残っていないのである。
丸山の登り方
丸山北峰(つつじ山)
砕石によって削られた以降も、依然としてこの山は地元住民にとっては親しみのある山となっている。というのも、麓の住宅地から見える山は丸山北峰(約185m)で、削られた本峰のほうは北峰の影にちらりと見える程度だった。この北峰が麓から見るとなかなか迫力があり、麓の団地名にちなんで「つつじ山」とも呼ばれる。GoogleMapのピンが置いてあるのも、この北峰である。
この丸山北峰の登り方を紹介しよう。
丸山北峰にアクセスするには、ほしみ駅が近くていい。とりあえず「きらいち公園」を目指して行こう。車で来た場合も、このきらいち公園前に停めるのがいい。公園の東側道路は皆結構フリーに停めているポイントである。
公園山側の廃道のような道を通って高速をくぐる。ここに発破の警告看板がある。もう15年以上発破はやっていないとはいえ、そこから先は自己責任の場所である。高速下をくぐったらすぐに左に曲がり、突き当たるまで歩いて行く。突き当たっところに送電線の案内板があり、そこから大きく鋭角に曲がって送電線巡視路を登っていく。丘の上に登ったあたりから、適当なところで斜面に取り付く。あとはひたすら上るだけだ。
登山道はないので降雪期がおすすめであるが、硬い土肌が露出している部分が多く、そこまで激藪でもないので、春や晩秋にも登れるかもしれない。山頂付近の斜度はかなりのものなので、すこし巻いてやや南側から上るといいかもしれない。いずれにせよ道はないので、地形図と現地の地形を見ながら適度に判断していこう。
順調にいけば公園から30分~40分ほどで上ることができる、気軽な低山である。ただし繰り返すが、登山道というものはない。山頂標識もいまのところは無い。
丸山北峰からの風景
丸山本峰は登れるのか?
星野丸山に登るなら北峰が適しているが、やはり本峰のほうが気になる人もいるかもしれない。本峰(約270m)といっても、かつての山頂ではなく、削られて残された山体のうち、一番標高の高いところである。残念ながら本峰は今現在稼働中の採石場の敷地となっており、登ることはできない。
しかしどうしてもというのなら、採石場の道を使わずに南側から取り付くという手段はある。手稲金山の乙女橋を渡り、旧白金町の廃墟群を抜けて星置川を渡り、奥手稲山へと繋がる林道へ出る。本峰の南側一帯は植林地帯となっており、開けた斜面の上に小さな林が見える。とりあえずそこを目指して登り、あとはうまく登頂ポイントを見つけるしかない。
採石場を通って奥手稲山や銭函天狗山に行く林道が地図にはあるが、この採石場の敷地内は通ってはいけない。過去に何度かトラブルになっており、危うく警察沙汰になることもあったようだ。なので採石場の敷地道路は決して通らず、奥手稲山にアクセスするときも必ず乙女橋の方から迂回していこう。
本峰の山頂は急崖になっているため、山頂に登ることはできない。その近くの平らな台地が最終到達地点になるだろうか。しかし繰り返すが、稼働中の採石場のため、決してオススメはしない。何かあっても自己責任で……。
丸山の思い出
思い出の山
個人的には、この山に対する思い入れはとても深い。子供の頃から、いつか登ってみたいと思っていた山だった。この山に登る、文字通りの夢を見ることもあった。しかし誰も名前を知らない山だった。
道立博物館の図書室で山田秀三先生のメモを見ていた時、ふと飛び込んできたのが「丸山」の名前だった。だが文字が不鮮明で「丸」の部分が読み取れず、なんとかしてその文字を読み取りたいと思い、色々な地図を探し始めた。
自分が地名の調査をするようになったのは、この事がきっかけでもある。
そのうちに山々を実際に歩いて登山の経験を少し積み、子供の頃からの夢だったこの山に、見事に登ることができた時はまさに感無量だった。
自分が小学5年生の頃、この丸山を模して作ったペン立てのオブジェがある。真ん中が北峰、右側が西のコブ、左側が本峰である。当時は北峰の影に隠れつつもちょっとだけ本峰が見えていたのだ。これが本当は真ん中より高いと知ったのは、だいぶ後になってからだった。世界に一つだけの、星野丸山のオブジェである。
コメント