西蝦夷和歌集12撰

特集

松浦武四郎と和歌

松浦武四郎

松浦武四郎といえば”北海道命名の父”とも言われ、幕末の蝦夷地をくまなく巡り、その詳細を日誌に残し、記録した地図に落とし込んだ偉大な探検家である。

その松浦武四郎が和歌をたいへん好んでいたことはそれほど知られていないかもしれない。彼がその著作の中で残した歌の数はじつに300以上で、歌人の一人として名を連ねても良いくらいである。とりわけ『蝦夷日誌』では、さながら松尾芭蕉の『おくのほそ道』のごとく、行く先々のエピソードとともに和歌を添えている。

西蝦夷に関しても多くの和歌を残しており、その一部は歌碑として飾られているが、ほとんどの歌は知られておらず、その解釈も見当たらない。

北海道西海岸に関する武四郎の12の歌をとりあげて、その解釈と紹介をしてみたい。いくつかの歌では掛詞も用いており、多くの物語などにも通じていて、武四郎が教養の高い人物だったことも知ることができる。

太田山

太田山 太きくさりの 一すぢに

 頼まざらめや の恵を

太田山大権現にて/松浦武四郎
太田山神社

太田山神社といえば、”日本一危険な参拝” などと言われることもある、トレッキングコースである。目がくらむような石階段もさることながら、一番最後に待ち受ける鎖場では、岩崖で垂直に7m上ることになる。

太田山神社の鎖場

ここで出てくる”君”とは、定山渓温泉の初代湯守・美泉定山のことで、この時は瀬棚の太田山神社で別当をやっていた。船でしか通過できなかった帆越岬に”観音山道”を開いたのも彼である(現在の帆越山トンネル区間)。

その後箱館に戻った松浦武四郎は病にかかり、安政3年の12/1にはいよいよ死を覚悟するほどになる。その武四郎を心配して、12/6と12/30の二度にわたって定山は箱館に赴き、病床の武四郎を見舞いに行っている。二人の友情が窺えるエピソードである。

美泉定山像/札幌定山渓

また当初は箱館奉行に無断で観音山道を開削したことにお咎めを受けていた定山だが、その後の安政5年、箱館奉行から道路開削の褒美として30両も受け取っている。もしかするとこれは奉行に侍従していた松浦武四郎による言付けがあったのかもしれない。この時受け取った資金が、定山渓温泉の開湯にも活用されたのだろう。

定山は太田山神社の別当を辞した後、小樽の張碓に10年近く住み、そこから定山渓温泉の開拓に務めることになる。奇しくも、和人で初めて定山渓温泉に入浴したのは松浦武四郎であったから、その二人がここで出逢っていたのは数奇な運命とも言えるだろう。札幌本府建設の際に定山は要人の道案内などもしているので、その後も何度か二人が顔を合わせる機会はあったかもしれない。

”太き鎖”のごとき友情がここで芽生えたのである。

太田山神社の常燈台

白糸の滝

白糸しらいと たきすぢに 見ゆれども

 岩にふるれば むすぼられけり

島牧村・白糸の滝にて/松浦武四郎
白糸の滝

島牧村の滝といえば現在では賀老の滝のほうが有名だが、モッタ海岸の近くにある 白糸の滝 は、その昔は蝦夷一の滝とも言われ、多くの蝦夷地の探検家に記録されている。この滝を描いたスケッチもいくつも見つかっている。

「従陸奥松前蝦夷地唐太道中覚」大黒屋幸吉

海岸の絶壁から何筋もの滝が並んで流れ落ちているのが特徴で、落差は70mとも150mとも言われる。水量は少なく、それぞれは糸のようだが、岩に当たって ”むすぼられる”様子を和歌で描いている。

残念ながら白糸の滝は旧道区間にあり、現在は間近で見ることができない。ただ旧道の封鎖はそこまでハードなものにはなっていない。

雷電岬

千萬ちよろずの 仇をなびけし やき太刀の

 ひかりは遠く 名に残りけり

雷電岬にて/松浦武四郎
雷電岬の刀掛岩

岩内の雷電岬は、弁慶の刀掛岩が印象的である。兄から追われ蝦夷地に落ち延びてきた源義経とその一行に関する伝説は、西蝦夷各地に伝わっている。この岩に義経の従者である武蔵坊弁慶が刀を掛けたという。また弁慶の薪積岩というのもここにある。

武蔵坊弁慶は千本目の刀を奪うべく源義経に襲いかかったが、返り討ちにされてしまい、以後義経を主と定め、従者として最期まで仕え続けたという。「なびく(服従させる)」と「ひかる」が掛かっている。西蝦夷のアイヌ達は義経をオキクルミ神と同一視しており、英雄としてその名をあちこちで伝えている。

武蔵坊弁慶/弁慶岬

熊野山

蝦夷の海 千島のはては 遠けれど

 くまなく守れ みくまのゝ神

雷電山道・熊野権現にて/松浦武四郎
熊野山の手前の雷電ヘゲ山/風の駐車場より

雷電山道の途中にある熊野山。ここに一軒の小屋があり、木樵の左右衛門が住んでいた。幼少より熊野権現(本山は和歌山県)を厚く信じているお陰で、一度も熊に襲われなかったという。それでぜひ祠を建てたいと願ったので、箱館奉行の協力も得て無事建立することができた。以後、雷電山道を通る旅人達によって参拝されたという。

現在、雷電山道はすっかり藪に返ってしまっており、この熊野権現社がどこにあったのかは正確にはわからないが、おそらく熊野山のちょうど裏側の標高693m点近くではないだろうか。岩内郷土資料館に、箱館奉行・堀織部正利熙によって奉納された「熊野」の扁額が保存されている。

くまなく」と、「熊野くまの」が掛かっているのは言うまでもない。

兜岬

なめり川 古きためしも 有るものを

 あたらたからを うしなふもをし

泊村の兜岬にて/松浦武四郎
兜岬

岩内の酋長セベンケの祖先は多くの宝物を持っていた。だが和人に取られてしまうということで土の中に埋めて隠してしまう。立派な金の兜も、兜岬のどこかに埋めて隠し、それを我が子に伝えることもなく死んでしまった。今はもうどこにあるのか知る由もない。

「あたら宝」の「あたら」は「新しい」と「可惜あたらし」の両方の意味で用い、それぞれ「古き習わしためし」と「失うも惜し」という部分に掛けているのだろう。

この金の兜は泊村のカントリーサインにもなっている。

泊村のカントリーサイン

古宇

しばらくの 晴間はれまも見えで ふるふの海

 里の名しるく 五月雨さみだれなり

古宇運上屋にて/松浦武四郎
この句が刻まれた歌碑/神恵内村ヘルカ石

神恵内の旧名である「古宇ふるう」と、「降雨ふるう」をかけている。古宇場所は降雨ふるう場所と漢字をあてることもあった。「里の名しるく」とは「里の名の通りで」の意。

武四郎が古宇に来たのは旧暦の4月29日。ちょうど梅雨の時期であり、雨続きでなかなか晴間に当たらなかったのだろう。それでも武四郎は沢山の古宇のスケッチを残している。

祈石大橋

キナウシ

小雨降る ふるふの濱を 夜るゆけば

 浪をこがして 狐火の見ゆ

神恵内村キナウシにて/松浦武四郎
道の駅かもえないより大森海岸を眺む

夜に神恵内の浜を舟で進んでいくと、波間の先に狐火を見たという。武四郎曰く、その光は鹿の骨から出る燐火ではないかという。

キナウシトンネルの北側は絶壁になっており、地元の古老はここを「鹿落とし」と呼んでいるそうである。崖の上から鹿を追い込んで落とす猟法があったらしい。かつて海岸には鹿の骨がいくつも転がっていたそうだ。

キナウシトンネル

キナウシトンネルといえば旧隧道と旧旧隧道がまとめて見える、廃道トンネル界隈にはそこそこ有名なところである。ただ旧道の崩落が激しく、普通の人はとても行けるようなところではない。

参考動画→北海道神恵内村 キナウシトンネル 廃道空撮 ドローン空撮 4K(1:48あたりから見える白い崖)

稲穂峠

いわきり 木をきり草を かりそけて

 みちたひらけし 山のとかけも

稲穂峠にて/松浦武四郎
この句が刻まれた歌碑/まつらの滝

岩内と余市を結ぶ稲穂峠は文化年間に一度開かれたものの、その後また藪に返っていた。安政年間に再び開削し、岩を切り開いて崖に橋などもかけたという。「岩ほ切」と「稲穂」をかけているのだろう。

稲穂峠の旧道は現在も半分ほど残っている。が、昔の稲穂峠のルートは今地図にあるものとは少し違っており、鉄道線に近い方を通っていたらしい。そのルートを研究している方がいた。

ルベシベの滝

忍路

見上ぐれば すもゝからもゝ 桃さくら

 わかぬばかりに 咲みちにけり

忍路にて/松浦武四郎
忍路湾

忍路湾に舟を入れると、周囲の丘に李桃すももの花が一面に咲いていて、それが水面に映り込み、まるで桃源郷に入ったかのようだった。唐桃からももとはあんずのこと。李桃・唐桃・桃・桜と、沸かんばかり咲いている様子がありありと伝わってくる。もしかすると「見上げる」と「実」をかけているかもしれない。

松浦武四郎はフゴッペから蘭島・忍路にかけて、無数の李桃が花を咲かせているのを見たが、残念ながら現在の忍路には李桃の樹が生えていない。あちこち探してみたが、蘭島川の餅屋の沢の上流に、一本の李桃が実をならせているのを発見した。

餅屋の沢に自生していたスモモの木

オタモイ

朝嵐あさあらし たつの宮古みやこと 見るまでに

 ふきまくあとに たつるしらなみ

オタモイにて/松浦武四郎
オタモイから見た龍宮城/西蝦夷日誌/松浦武四郎

旧暦五月初旬にオタモイ沖を舟を進むと、対岸の彼方に蜃気楼が見えた。見ていると対岸の漁小屋が珊瑚の宮殿となり、まるで龍宮城のように金色に光っていた。呆気にとられて見ていると、西風がすうっと吹いて、跡形もなく消えてしまった。

いわゆる”高島おばけ”と言われる蜃気楼現象である。その正体は、石狩湾の向こう側にある増毛連山。春から初夏にかけて、気温の高い日に上位蜃気楼として浮かんで見えることがある。高島おばけが見えると明日は雨が降るそうで、船頭の言う通り、この次の日は見事に雨になった。「増毛連山が対岸に見えると明日は雨になる。」という民間伝承が今でも小樽の浜に伝わっている。

句では「たつの都」すなわち龍宮城と、「たつる白波」をかけている。昭和11年、ここに龍宮閣が建てられた。

オタモイ龍宮閣
龍宮閣跡

銭函

蝦夷の山 おもひ深めて わけ入りし

いばらの奥も ひらけたり

銭函にて/松浦武四郎
札幌越新道跡

小樽の銭函から、札幌、千歳を通って苫小牧の勇払に至る サッポロ越新道は、西蝦夷と東蝦夷を結ぶ重要ルートとして、安政4年に開かれた。この道路は蝦夷地開発の第一事業として、箱館奉行が特に力を入れていたものである。

安政4年の春に最初に銭函から星置まで直線的に結んだルートは、湿地を通るもので、道中いばらや蔦がたくさん絡む酷い道であった。松浦武四郎と共にこの道を見分した箱館奉行一行は苦言を呈し、道路開削のやり直しをさせる。秋に改めて引かれた丘の上の道(銭函天狗山山麓、銭函IC付近を経由)は多少の高低差はあれど、快適で歩きやすい道だった。松浦武四郎もこの新道を大変褒めており、日記のタイトルに”東西新道日誌”と冠して記録を残している。

もし機会が開かれれば、この句を刻んだ石碑を「サッポロ越新道起点の地」として、銭函駅前に記念碑を建ててみたいものだ。

銭函駅

雄冬

きのふまで 雲か山かと みえつるは

 こゝあたりの 高ねなるらん

増毛山道にて/松浦武四郎
小樽天狗山からみた増毛連山/写真提供・茅原みのる様

先日にオタモイ沖から見た、雲か山かと遥か遠くにうっすら見えていた冠雪の増毛連山が、いま目の前にある。あれがここらあたりの高嶺たかねなのだろう。

雄冬岬

浜益と増毛の間にある雄冬岬は、西蝦夷の三大難所として旅人の行く手を阻んでいた。雄冬海岸の険阻な崖を避け、山を登って大きく迂回するのが増毛山道である。峠の最高地点は浜益御殿(1138m)と雄冬山(1197m)の山裾、岩尾天狗岳(973m)の山陰には笹小屋もある。眼前に見える暑寒別岳(1491m)は増毛連山の最高峰である。

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