小樽のチャシコツ9選~アイヌの砦~

特集

チャシコツとは?

アイヌとチャシコツ

アイヌというのは実に不思議な民で、文字を持たないだけでなく、遺跡の類もほとんど残していない。北海道にも遺跡が多数存在するが、ストーンサークルや壁画(古代文字)、土偶といった印象的な遺跡はいずれも彼らより前の時代のもので、アイヌ達はそういったものはほとんど作ることがなかった。自然を愛し、その有様を変えてはならないという特異な民族性がある。(参考:疑うべきフゴッペの遺跡

そんな中、唯一彼らがこのモシリの大地に残した遺跡が「チャシコツ」である。

チャシとは「」と訳されることがある。〈チャシコツchasi-kot〉とは「砦の跡」の意味になる。ただし一般的にイメージする日本の城跡のようなものとはずいぶん違う。これはたいてい小高い丘の形をしていて、人工構造物はほとんど残されていない。周りに掘られた溝があるくらいで、そうと言われなければ識別することが難しいものである。

見張り場として、談合(チャランケ)の場として、祭りの儀式の場として、あるいは戦いの拠点として作られたとも言われているが、その全貌は未だはっきりしない。

小樽のチャシコツの現状

小樽のチャシコツ所在地

小樽市内には、現在3つのチャシコツが小樽市総合博物館によって認知されている。桜チャシ張碓チャシ塩谷ポンモイチャシの3つだ。(参考:小樽百景~遺跡「チャシ」

しかしいずれも一般には全く認知されていない。目立つものではないし、看板も既になくなっているので、そうと言われなければ誰も気づかないような場所である。地域によってはチャシコツが観光に活用されているケースもあるが、小樽の場合はそういったことがない。せっかく歴史の街を前面に押し出しているのだから勿体ない気もする。

そしてチャシコツではないかと言われている遺跡はあと6つほどあり、小樽市内だけで合計9つのチャシコツがあることがわかってきた。それぞれを紹介していこう。

チャシコツの場所

1. 張碓チャシ

小樽方面から国道5号の張碓峠を越えるとすぐに、張碓大曲と呼ばれる大カーブが待っている。その海側にあるのが張碓チャシ跡で、張碓川左岸に位置している。

張碓チャシの位置
張碓向山

かつては「張碓遺跡」と呼ばれており、案内板が掲げられていたこともあった。しかし今はその支柱が残されているのみで、一見するとわからない場所になっている。

丘の上にいくつかのピットがあり、それを石で蓋するような形になっているが、遺跡の調査報告レポートを照らし合わせて見ない限りは、ただの石ころが転がっているようにしか見えない。

張碓遺跡 4~6号ピット

この丘の真下に張碓第五隧道、通称「義経隧道」がある。明治12年に穿たれた、現存する日本最古の鉄道トンネルとも言われる。義経隧道と名付けられた由来は明治18年の冬にSL「義経号」と「弁慶号」が吹雪のために動けなくなったところに「静号」が助けに来たというエピソードから来ており、さらに「この近くに義経の城のあとがあったという伝説もあった」と張碓の郷土史が伝えている。この城跡とは張碓チャシのことだろうか。

義経隧道碑(張碓駅跡)

特に観光地になっているわけではないので、道は整備されていないが、よく見ると踏み分け道がついており、ところどころにピンクテープがついている。奥の三角点:張碓(89.6m)は通称「張碓向山」と呼ばれ、恵比寿島をダイナミックに眺めることができるちょっとした秘境スポットになっている。トレッキングが好きなら行ってみるのも面白いだろう。

2. 桜チャシ

桜チャシは朝里ICを出たすぐ山側、小樽環状線を少し上がった先にあり、望洋台東公園の敷地の中にある小高い丘がそれである。

桜チャシの位置
望洋台東公園の桜チャシ跡

望洋台の大規模な宅地計画がなされたときに綿密な遺跡調査がなされ、ここは公園として保存されることになったようだ。そのため公園の中でありながら、チャシの丘には遊具などの人工物はなく、可能な限り保存されている。昔はチャシの案内板もあったようだが、今は見当たらない。余談だがこの丘の斜面に2本の滑り台がある。子供の頃はとても大きくて長い滑り台だと思っていたが、今見るととても小さく感じた。時の流れは早いものである。

桜町(熊碓)にはこのあたり一帯を治めるオタルナイアイヌの酋長が居たと言われている。ピリカメノコを熊に殺された朝里アイヌ達がいきり立ち熊を八つ裂きにしようとしたところを、クマウスの酋長が諌めたという伝説が伝わっている。もしかしたらこのチャシが熊碓アイヌの重要拠点の一つだったのかもしれない。

また寛政10年の『蝦夷島巡航記』には「ヲタルナイの中クマイシと云処を過。此処源義経の城址と言伝たり」とある。

小樽市に認知された三つのチャシコツの中では一番アクセスしやすいので、通る機会があれば一度見てみるのはどうだろうか。

3. 塩谷ポンモイチャシ

ポンモイチャシは塩谷港の北側、立岩岬のところにある。

ポンモイチャシの位置
立岩岬

窓岩岬の上から立岩岬を見ると、はっきりと飛び出た岬の形がよく見え、ここがチャシであったことを伺わせる。しかしアクセスする道はなく、夏は藪に覆われるため到達は難しい。

ポンモイとは立岩岬の西岸の小さな入江のことで、ここにかつて小さな集落があったようだ。運が良ければ冬に海蝕洞の氷瀑を見ることができる。

ポンモイの海蝕洞

塩谷の由来は一説では「鍋岩」と言われ、「サパネクル(酋長)が岩に鍋を掛けたりという」という伝説が伝わっている。ここにも酋長が居たようだ。

向かいの窓岩には義経伝説が残されている。「夷人ども義経様此処より向処に居る夷賊え弓を射給ひしが、此岩を貫て向方なる夷人を射殺し給ひしと言伝ふ也」(『弘化蝦夷日誌』)とあり、窓岩のあの岩は源義経が貫いたものだというのだ。なかなか力強い伝説である。なお下赤岩山のほうにもまた別の義経伝説が伝わっており、西蝦夷における義経伝説の豊富さがよくわかる。

義経が弓で貫いたといわれる窓岩

なかなかアクセスが難しいところだが、フルーツ街道の途中でこのポンモイ岬を遠くから見ることができるスポットがある。なお伊藤整の歌碑の丘も展望台になっているが、そちらは枝に覆われあまり眺望は良くない。

4. フゴッペチャシ

フゴッペチャシは小樽と余市の市境、畚部岬の畚部トンネルの上にある。

フゴッペチャシの位置
フゴッペ岬

畚部(フゴッペ)岬はまるで恐竜の胴体が海に突き出しているかのような特徴的な形をしており、古来よりここを越えるのが大変だった。今でこそトンネルで通ればすぐだが、かつては崖のような坂を越えて行き来しなければならなかった。

小樽(忍路)と余市の境界はたびたび変化しており、かつてはポントコンポ(フゴッペ洞窟の丸山)が境界だったり、畚部川だったり、畚部岬だったりしたことがあるようである。安政年間には基本的には畚部川の以東が忍路領だが、畚部岬以西の海岸から十間ほどの区間は余市領、などという複雑な境界線が引かれていた。たびたび境界争いがあったため、ここに番人が置かれたようだ。今はきっちり岬が境界になっている。

畚部岬には意地悪な兄妹に関する伝説がある。リコマアイヌ、ラウンケ、コクッテシマツという三人の兄妹がチャシに住んでいて、岬の近くを通る人に石を落として悪さをしていた。ニシンが大量に押し寄せたある年、落ちている鱗を追いかけていくとチャシの入り口が見つかった。それで忍路と余市のアイヌがチャシを攻めて討伐するという伝説である。

畚部岬の坂の上から見た蘭島

なお畚部チャシに登る坂道は現在も残っている。余市側は特に急傾斜でほとんど転げ落ちてしまいそうな斜面になっている。蘭島側は神社の奥院まで道が付いているが、閉鎖されていることが多い。横にある綱を使って登ることはできるが、おすすめできるルートとはいえない。

チャシコツの可能性がある場所

5. 水天宮山

小樽港の中心に位置する水天宮のある丘は、昔から小樽と高島の境界であり、重要な場所の位置していた。

水天宮の丘

山頂は元々チャシコツの形をしていたと言われ、ストーンサークル状に石が並べてあったという。石鏃や大型土器、土石器なども発掘されており、古来より重要な場所であったようだ。

水天宮のある「相生町」は、元々ここにアイヌが住んでいたことに由来する。しかし明治初頭の政策により住初町に移転させられ、その後さらに厩町に移転を強いられたようだ。相生と言いつつ、共生はできなかったようである。

6. 船上山

船上山というとあまり馴染みがないが、住吉神社の裏山のことである。

住吉神社

神社の裏山にはチャシコツがあったという記録がある(『小樽市史』)。が、詳しいことはわからない。

住吉神社は元々はここにあったのではなく、オルゴール堂の裏手の旧開陽亭のあたりに当初は建立された。あのあたりが住吉町と呼ばれるのは、かつて住吉神社の前身である墨江神社がそこにあったことに由来する。

裏山は「船上山鎮守の森再生プロジェクト」によって散策路が設けられ、山頂まで行くことができる。案内板には特にチャシの事については触れられていないようだ。樹が茂っているので山頂からの眺望はあまりない。

7. 旭ヶ丘

旭ヶ丘とは旭展望台のある通称・三角山のことである。

旭展望台

旧旭ヶ丘中学校(現・西陵中学校)の裏手にチャシコツと竪穴住居址群があったという。土器や石器なども出土したようだ。

旭ヶ丘は多数の散策路が整備されあちこちを歩けるようになっている。どこがチャシコツだったのか正確な記録はわからないが、ちょうど旭展望台のところが小高い丘になっており、見張り場としてもここが相応しかったのではないだろうか。

8. 日和山

日和山とは祝津の高島岬のことであり、紅白の美しい日和山灯台が立っている。

高島岬と日和山灯台

ここにチャシがあったという考古学的裏付けは得られていないが、日和山灯台西方海岸に遺物包含層があるという(『高島町史』)。

しかし日和山を示すアイヌ語地名が「チャシネシュマ」というのが何よりもの証拠で、〈チャシネシュマchasi-ne-suma〉とは「チャシである岩場」の意味である。おそらくここにチャシがあったのではないだろうか。灯台のあるところは見晴らしがよくきく上に、海岸が断崖絶壁になっており防衛にも優れていたと思われる。

日和山の絶壁の下には穴澗と金鱗洞窟というのがあり、まるで秘密基地のような面白い地形になっている。

9. 日銀旧小樽支店

色内にある日本銀行旧小樽支店の建物は、それ自体がまるで砦のような形をしている。

日本銀行旧小樽支店

ここにかつて海洋性のチャシがあったらしい。発見者は尾形順一郎なる人物で、その見取り図が図書館に収蔵されているらしいが現物を見たことがない。

今はすっかり土地も均されて平らになっており、チャシがあったという痕跡は全くない。しかし要塞のような建物内は見学することができるので、せっかくなので寄っていくのもいいだろう。

番外編

10. 稲穂の丘

はっきりチャシとして明言されたことはないが、小樽駅の西側、稲穂町の龍宮神社はかつてアイヌがイナウを捧げていたという話が伝わっており、チャシのような性格を持っていた可能性がある。

龍宮神社

稲穂町のイナウとはこのアイヌの木幣に由来しているが、もしかしたら塩谷までの峠道の安全を願って掲げられたものなのかもしれない。

コロポックルのチャシ

忍路から畚部にかけて三つのストーンサークルがある。三笠山環状列石地鎮山環状列石西崎山環状列石だ。これらはフゴッペ洞窟などと同様に、アイヌのものではない。それよりも前の時代の遺跡である。

忍路環状列石

忍路アイヌはこれらを「コロポックルのチャシ」と呼んでいたそうだ。コロポックルとは「フキの葉の下に住む人」を意味すると言われ、アイヌが前時代の民のことをそう呼んでいたのかもしれない。余市アイヌはフゴッペの民を「鍋を持たずナマモノばかり食べていた」ということで「フーイベ」と呼んだり、忍路アイヌは「蛇がたくさんいるところ」として「フウコンベツ」と呼んだそうだ(『疑うべきフゴッペの遺跡』違星北斗)。三笠山環状列石の奥の川をツコタン川というが、〈ツコタンtu-kotan〉とは「廃村」の意味で、もしかしたらコロポックルのかつての村のことを行っていたのかもしれない。また忍路アイヌの古老に伝わる話で、ツングース系北方民族のオロッコ族との抗争もあったらしい。

いずれにせよアイヌとそれより前の先住民族との小競り合いがこのあたりであったらしく、その痕跡を三つのストーンサークルから読み取ることができる。いずれの環状列石にも散策路があるので、ゆっくり観察することができる。

札幌のチャシコツ

ついでに札幌にある2つのチャシコツについても紹介したい。

発寒ベッカウス

発寒のベッカウスとは、西野と山の手の間にあり、三角山の山裾の先端にあたる場所である。ここに発寒チャシがあったという。

発寒チャシの位置
発寒のベッカウス

ベッカウスとはアイヌ語の〈オペッカウシo-pet-ka-us-i「川岸が丘につく処」〉という意味で、地形図を見ると琴似発寒川が平野に突き出した三角山の山体に沿うようにして流れていたのがわかる。ここに発寒チャシがあったようである。

ハッサムは昔からこのあたりのアイヌの中心地となっており、和人によって支配される前は、酋長ヨロタインの勢力圏は小樽内川まで及んでいた。西蝦夷の大酋長ハウカセに連なる石狩アイヌの一大勢力で、この発寒チャシは重要拠点だったことがわかる。

なおハッサムの集落としての位置はもう少し下流にあり、現在の発寒中央駅附近、農試公園のあたりになる。ベッカウスのチャシは見張りのために利用したのだろうか。

天神山

豊平区平岸にある天神山。ここに天神山チャシがあったようだ。

天神山チャシの位置
天神山緑地

天神山緑地は一面に広がる平地のなかでひときわぽつんと目立つように丘が残されており、いかにもチャシがあったらしい地形になっている。位置は相馬神社の社殿裏、西側の展望広場のあたりのようだ。

なお天神山の西に藻岩山が高く聳えている。藻岩山のアイヌ語地名は〈エンカルシベinkar-us-pe〉といい、「いつも見張りをする処」の意味である。天神山チャシも規模は小さいが、藻岩山と同様に見張りの場として活用されていたのかもしれない。

オタルナイアイヌの歴史

チャシ(砦)というものが少なからず戦いを連想されるものであるからには、実際に戦争に使われたかどうかは気になるところである。和人に支配される以前のオタルナイアイヌの歴史はほとんど知られていない。小樽のアイヌは和人と争い、血みどろの戦いを繰り広げることはあったのだろうか。そのあたりを簡単に触れておきたい。

小樽アイヌのルーツ

小樽アイヌは石狩アイヌの勢力圏の端にあたる。石狩アイヌの大酋長ハウカセは樺戸郡の浦臼町あたりを本拠地としていたとされる。17世紀、オタルナイ川周辺は発寒アイヌのヨロタインの領分であった。しかし当時のアイヌ社会は中央集権的な縦の繋がりが強いものではなく、ゆるやかな横の繋がりによる連合体であったようである。そして余市アイヌとはまた別のグループだったようだ。

小樽アイヌは虻田アイヌとの結びつきが時々記録に挙げられるので、洞爺湖西方の有珠・虻田地方から移住してきた可能性がある。そのルーツを辿ると東北地方に当たり、奥州藤原氏の衰退と共に東北から蝦夷に渡り、虻田地方を経由した後、余市岳を越え、この小樽の地に居を構えたのではないだろうか。奥州藤原氏との繋がりは、源義経伝説が色濃く残されていることからもそれが窺える。

小樽アイヌと和人支配

東蝦夷地の大酋長シャクシャインが蜂起した時、西蝦夷地の大酋長ハウカセは慎重な立場を取った。武装をし松前藩の襲来に備えつつも、積極的に戦うのを避け、松前藩の要求も跳ね除けてみせた。砦の意味でのチャシをいくつも築いたのはこの頃かもしれない。しかし結局は大きな戦火を交えることなく和睦し、その後松前藩の場所請負制度によってゆるやかに支配を強化されていき、やがて完全に自治権を失ってしまう。

オタルナイアイヌも一揆を恐れた松前藩により鉄の鋤先を奪われたという記録がある。鉄鋤がなければ畑を耕すことができず、自給自足することができない。やがて住みよい山地の川沿いから海岸に移動させられ、場所請負人による鰊漁の労働力として、あるいは新道開削の人夫として使役されていくことになる。オタルナイの地名が元々は銭函にあったのが、南樽地区に移動したのもそういった背景がある。

オタルナイアイヌの最後の惣乙名(酋長)シトナイは、明治13年に住初町から厩町へ移住させられ、その後歴史から姿を消した。

明治三年の戸籍調書。惣乙名「シトナヰ」の文字が見える

小樽アイヌが積極的に和人と戦火を交えた歴史は残っておらず、チャシが実際に戦いの砦として活用された例はあまり無かったのかもしれない。ただしそれ以前の先住民族との抗争は、幾許かはあっただろう。とくに忍路から蘭島にかけてはその気配が残されている。

小樽の各所にチャシが点在していることは、彼らの生活圏が実に広い範囲に拡がっていたのがわかる。その痕跡はほとんど残されていないが、こうしてわずかに残されたチャシコツの位置を確かめながら、その生活の様子を想像してみるのも面白いものだ。

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