アイヌ発祥に関する7つの質問

特集

アイヌは日本の先住民族か

基本的には Yes である。しかしそう単純な話ではない。

まず大前提として、13-19世紀にかけて北海道・南樺太・千島列島にはアイヌが住んでいた。日本語とは異なるアイヌ語を話し、独自の信仰や風習を伝えており、族長連合ともいえる形態で自治していたので、アイヌ文明がそこにあったと言えるだろう。

国連の定義では、15世紀末当時の植民地時代より前に住んでいた民族を先住民族と呼ぶので、アイヌはこれにあてはまる。よってアイヌは先住民族と呼べるだろう。

だがアイヌは “日本全土” に昔から住んでいた民である、というのはだいぶ誤解の生じる考えだ。「アイヌ文化」が成立したのは13世紀頃と言われている。アイヌ文化は青森より下に拡がったことはなく、日本の文化に与えた影響は少ない。アイヌが昔から日本全土に住んでいたわけではない。ではアイヌは “北海道” に昔から住んでいる民である、という考えはどうだろうか?

北海道を含め、日本列島に最初に住んでいたのは縄文人である。この縄文文化とアイヌ文化は全く異なっている。当たり前の話だが、1000年も経つと生活様式も文化もすっかり変わってしまう。平安時代の日本人と現代日本人がまったく違う生活をしているのと同じだ。よって2つの文化に連続性があるかどうかは、遺伝子を見て比べるのは一つの方法である。平安時代の日本人と現代日本人が同じ民族と言えるのは、遺伝子的な連続性の裏付けがあるからだろう。

民族と古代遺伝子の系譜

それぞれの民の遺伝子解析が行われた結果、

  • アイヌの縄文人遺伝子は7割
  • 日本人の縄文人遺伝子は1割
  • 琉球人の縄文人遺伝子は3割

ということがわかってきた。よって、”最初に日本に住んだ縄文人の遺伝子を最も強く受け継ぐのがアイヌ” と言うことができるだろう。縄文人の生き残りの一派がアイヌなのである。

アイヌは鎌倉時代にやってきた外国人か

これは No である。最近あるYoutuberに影響されてこの説を唱える人が増えてきた。

ただし100%嘘のでっちあげ話というわけではない。根拠となる話に事実はある。たしかに13世紀のモンゴル帝国の時代、クイ(クリルの語源)と呼ばれる樺太アイヌと元は戦っている。これを北の元寇という。

北の元寇

はじめ骨嵬クイたちは北樺太やアムール川流域のツングース系諸国に攻め込んだが、彼らを服従させていたモンゴル帝国の元が彼らの訴えに応じて逆にクイ達に反撃を開始した。伝承によると樺太のみならず、小樽の忍路にまで一部は攻め込んできたという。最終的には樺太南端に元軍の砦が築かれ、樺太からクイ達は追い出されてしまい、その一部は北海道に渡ってきた。これをアイヌの始祖だと考える人がいる。

樺太からやって来た彼らは「唐子からこ」(アイヌ語ではレブンクル)と呼ばれ、北海道西海岸に住み着いた。余市アイヌの伝承には沖からやって来た彼らを受け入れたエピソードがあり、その後、余市の沢町や古平・積丹方面に住まわせたという。余市に残る墓標には樺太系アイヌの印が残っている。彼らはその後も山丹交易の担い手として樺太や大陸との貿易に関わったようだが、これを “アイヌ民族全体” の始祖と考えるのはいささか早計な論だと言えるだろう。

レブンクルは余市まで来ている/17世紀アイヌ地図/Wikimedia Commons

後に詳しく述べるが、13世紀よりもずっと前からアイヌの先祖となる民は住んでいた。東北地方にアイヌ語で解釈できる地名がたくさんある。もし13世紀に初めてアイヌがやってきたとしたら、唐子たちはここからさらに東北地方にまで進出しなくてはならない。しかも8世紀にはすでに東北のアイヌ語地名が出てくるのである。時系列がおかしくなってしまう。

アイヌはコロポックルを追い出したか

意外に思うかもしれないが、これは Yes である。

コロポックルとはなんだろうか。よく民話などでは「ふきの葉を持った小人の妖精」として描かれる。コロポックルはアイヌ語で「蕗の下にいる人」の意味である。そのイメージから小人にしたのだろう。

コロロ

しかし足寄の螺湾蕗らわんぶきは2m-3mの高さにもなり、成人男性の背丈よりも遥かに高い。小人の妖精ではなく、普通の人間だったと考えることができる。樺太にも背丈の高い蕗があり、樺太アイヌも蕗とコロポックルとを関連付けて伝えていた。

樺太における野生の蕗/(京都大学附属図書館)

道内のほぼ全域にコロポックル伝承はある。だいたい共通しているのは「アイヌ達よりから住んでいて、やって来たアイヌが困窮しているときに魚などを差し入れてくれたが、乱暴なことをしたら逃げてどこかへ行ってしまった」というストーリーだ。道内各地に竪穴住居の跡があり、アイヌ達はこれがコロポックルの住居跡だと言っていた。

十勝アイヌの移住とコロポックル伝承

コロポックル伝承が一番多い十勝地方のアイヌによると、昔は十勝にアイヌは住んでいなかったという。十勝アイヌの古老の話をまとめると、地図のように日高・釧路・北見・旭川方面から移り住んでいることがわかる。そして芽室や豊頃などにコロポックルの住居跡とされる場所がある。おそらく十勝にアイヌのグループが進出したのは他地域よりも遅かったので、多くの伝承が残っていたのではないだろうか。

伝承にでてくるコロポックルの特徴をまとめると、

  • 背が(アイヌより)低い
  • 竪穴住居に住む(アイヌは掘建柱のチセ)
  • 鍋を持たない(アイヌは鉄鍋を持つ)
  • 土器を作る(アイヌは土器をほとんど作らない)
  • 入れ墨をする(アイヌは彼らから教わった)

という点である。そしてこの特徴がぴったりと当てはまるのは擦文文化人だ。7-13世紀頃に北海道に住んでいた擦文文化人は、アイヌが住む前から北海道におり、アイヌは彼らを自分たちとは違う異質の民だと考えていたことがわかる。ではアイヌは一体、どこから来たのだろうか?

なおコロポックルは北千島のアイヌだと考える人もいるが、北千島までアイヌ文化が浸透しきらずに、コロポックルの文化がわずかに残っていたのが北千島、という考え方をするほうが妥当だと思われる。北海道からコロポックルがほとんどいなくなった18世紀には、千島を「小人島」と呼ぶこともあった。

エミシはアイヌか

これは No である。だが全く無関係というわけではない。

ヤマト王権の支配がまだ本州全土に行き渡る前、関東や東北地方には蝦夷えみしとよばれる民が住んでいた。蝦夷とは単に支配下にないまつろわぬ民のことを指すこともあるが、ここでは阿弖流為アテルイを代表とした東北地方の和人と異なる文化を持つ人々の話をする。

6世紀頃の東北日本の勢力図

8世紀末に坂上田村麻呂が征夷大将軍となり蝦夷征伐をした話は日本史でも有名な出来事である。蝦夷は青森県まで追い詰められ、その後も北東北に細々と残っていたようだが、12世紀末の奥州藤原氏の滅亡により東北からは姿を消してしまう。

アイヌ文化が成立したのは13世紀頃なので、エミシとアイヌは時代が被っていないのだ。ではエミシがそのままスライドして北海道に移り住んだのだろうか?そう考えるのは一理あるが、そうすると辻褄が合わない部分がある。エミシが持っていた稲作・製鉄・乗馬という3つの技術を、アイヌは持っていないのである。とくにエミシは馬の扱いが得意とされていた戦闘民族であったから、その馬を捨てたとは考えにくい。だが北海道で馬が出てくるのはだいぶ後の時代の話だ。よって、単純にエミシが北海道に移住してアイヌになったというわけではなさそうだ。

北海道で13世紀にアイヌ文化ができる前は、北海道に住む民のことを蝦夷えぞ、ないし渡島蝦夷わたりしまえぞと呼んだ。北海道の蝦夷えぞは、東北の蝦夷えみしと交易をしつつも、異なる文化を持っていたようである。しかし共通点もたくさんある。

  • 弓の名手として知られる
  • 夏と冬で住居を変える
  • 毛皮を着る
  • 入れ墨をする
  • ヒゲを長く伸ばす

これらは北海道の蝦夷およびアイヌにも見られる特徴であり、風習には共通点があったことが窺える。蝦夷の末裔と言われる津軽安藤氏に伝わる弓はアイヌの弓に似た短弓で、日本の長弓とは異なるものだった。

エミシはアイヌ語を話したか

おそらく Yes であろう。アイヌ語系の言語を話したと思われる。

東北地方にはアイヌ語で解釈できる地名がたくさんある。北に行けば行くほどその密度は濃くなり、南端は北関東あたり。これはエミシの支配域とかぶる。逆に西日本ではほとんど見られない。有名な三内丸山遺跡のサンナイ(下る川の意)もそうだし、大きな地名だと利根川(沼のような川の意)や能登(岬の意)などもある。

東北地方のナイ・ベツの分布

いつ頃からアイヌ語が話されていたのだろうか。8世紀末の795年、北朝鮮の渤海国史がやってきた時の記録に出羽国の「志理波しりは村」という地名が出てくる。sir-paシㇼパ〈山の頭〉といえば海岸の突き出た高い山につけられるアイヌ語地名で、余市にも尻場しりば山がある。出羽国志理波村の現在の位置はわからないが、おそらく男鹿半島あたりだろうか。いずれにせよ遅くとも8世紀にはアイヌ語地名が東北地方にあったということである。

東北地方にアイヌ文化が及んだことはないので、古来東北地方に住んでいた民はアイヌ語系の言語を話していた強力な証拠となっている。すなわちエミシはアイヌ語系言語を話していたのだろう。蝦夷語と呼ぶこともある。

ヤマト王権には 訳語おさ という役職があり、蝦夷が話す夷語いごの通訳をした。もし同じ日本語を話していたとしたら、わざわざ通訳が必要になるようなことはなかっただろう。古代エミシは日本語と異なる言語を話していたのである。

しかし平安時代以降、東北地方から急速に蝦夷語を話す人が消えていく。代わりに日本語の上代東国方言(東言葉あずまことば)に置き換わっていく。それは 俘囚ふしゅう としてエミシの残党が全国各地に散らされたことが関係あるのかもしれない。俘囚は遠く九州まで送られており、最も多い送り先が肥後、ついで近江、播磨などとなっている。エミシ達は日本列島各地に散らされて、かわりに日本語を話す人々が東北に開拓にやって来た。そのため地名以外にはアイヌ語の形跡がほとんどない。ただ東北弁には”ぢ・じ・づ・ず”の区別がない「ズーズー弁」という特徴があり、アイヌ語のイ音とウ音がしばしば混同される傾向と似ているところはある(ハルウシがハリウスになる)。出雲地方にもこの傾向があり、出雲に行った俘囚が関係しているのかもしれない。

アイヌに文字はないが、記録言語として結縄トッパシロシがある。7世紀の隋書に倭人の風習として「文字無し、唯だ木を刻み縄を結ぶのみ」とあり、これも共通点となっている。

おそらくエミシは蝦夷語の東北方言と言えるものを話しており、それはアイヌ語に限りなく近い文法や語彙を持っていたのだろう。

渡党は和人かアイヌか

これはどちらでもあるのではないだろうか。

渡党わたりとうとは14世紀の『諏訪大明神絵詞』に出てくる蝦夷の3集団の1つである。

日の本唐子の2類は、その地外国に連り、形体は夜叉のごとくで変化無窮であり、禽獣魚肉を常食として農耕を知らず、言語も通じがたい。一方、渡党は和人に似ているが髭が濃く多毛である。言語は俚野だが大半は通ずる。 

諏訪大明神絵詞
蝦夷の三集団のおおまかな勢力範囲
  • 渡党わたりとう:道南~道央
  • 唐子からこ:道北~樺太にかけて
  • 日ノ本ひのもと:道東~千島にかけて

それぞれの居住地はおおむねこのような感じだと言われているが、詳細は想像するしかない。ポイントは日ノ本、唐子は言語が通じがたいのに対し、渡党は言語が通じるということである。ということは渡党は和人である。と考えるのが自然な流れだろう。

渡党の勢力範囲は道南のみならず、胆振・後志・石狩地方にまで及ぶ。しかし近世以降に渡島半島を除く道央地域に和人の集落があったという記録はない。彼ら渡党はどこへいってしまったのだろうか?

渡党には大きく分類して3つのグループがあったように思う。

  • 津軽安東氏とともに渡島半島西海岸に渡ったグループ(青苗文化)
  • 奥州藤原氏滅亡により胆振地方に渡ったグループ(沙流アイヌ)
  • 鎌倉時代初期に流刑として蝦夷地に送られたグループ

特筆すべきなのが沙流アイヌ(サルンクル)で、彼らは「我々の先祖は青森県南部地方から来た」と伝えている。しかしアイヌ語の沙流方言はあるものの、彼らは日本語を話す民ではない。奥州のエミシが渡ってきたと考えるのが妥当だろう。

アイヌの英雄神のおおまかな伝承勢力圏

沙流アイヌの勢力圏である道央地方は文化神オキクルミ伝承が伝わっている地域である。静内以東はサマイクル系だが、静内以西はオキクルミ系であり、2者はライバル関係にある。そしてオキクルミはサマイクルよりも後に来たと言われている。オキクルミはしばしば源義経とも同一視される。義経伝説は道央地方に数多く伝わっている。義経本人が来たとは思わないが、彼らが奥州藤原氏に関わるエミシたちであれば、いつか来るかもしれないヨシツネ様というヒーローを伝承として残したとしても不思議ではない。

奥州藤原氏は滅亡直前に、蝦夷地に逃げるルートを探っており、実際にその計画もあったようだ。だがその前に討たれてしまった。奥州藤原氏の骨は和人系であったという。彼らの配下にあったエミシの残党が、北海道に渡って主人の到着を待ち続けていたのかもしれない。

もちろん和人の渡党もいただろう。だが彼らは函館・松前周辺以外には集落を残していない。おそらく少数の和人の渡党がアイヌ集落に招かれ技術指導をしたのかもしれない。

本州でも古墳時代、渡来人と呼ばれる朝鮮から来た人々が技術指導をした。北海道でも明治時代初頭に御雇外国人が多数来訪して技術指導を行った。しかしそれによって民族が入れ替わったわけではなく、言語もそのままだった。同様に少数の和人が道央地方に進出したが、その地の住民の大半は依然としてアイヌ語を話す人々だったのではないだろうか。シャクシャインの時代の余市の酋長は八郎右衛門ハチロウエモンという名前だったし、石狩の大将ハウカセは娘を和人男性と結婚させている。和人とアイヌの間である程度平和的共存が当時は見られたのだろう。

伝承では文化神オキクルミはやがて天の国(本州)へと帰ってしまう。渡党達は技術指導をした後、本州に帰っていってしまったのかもしれない。いつの間にか行き先が樺太になり、オキクルミが義経になり、モンゴルでチンギス・ハーンになったなどという面白可笑しい話に変化していくが、このあたりは唐子達が関係していそうだ。

アイヌ文化はオホーツクと奥州のどちらに近いか

答えは奥州(東北地方)である。ただしオホーツク系の影響もいくらかある。

アイヌ文化が成立したのは13世紀ころで、それまでの擦文文化からアイヌ文化に移行している。彼らは”新世代”であり、”旧世代”であった擦文人すなわちコロポックル達を駆逐していった。ではこのアイヌ文化はどこで成立したのだろうか?

なるほど ”アイヌはオホーツク系の民で、樺太から渡ってやってきた” んじゃないか、そう考えるのも無理はないが、文化を比較してみるとどちらの影響が大きいかがわかる。

アイヌ文化の特徴的な要素をピックアップし、奥州(東北地方)、擦文(北海道)、北方(オホーツク)のどこにルーツがあるかを振り分けてみる。

  • 【擦文】鮭を主食とし、産卵場に集落を作る
  • 【擦文】稗、粟を栽培する
  • 【擦文】髭を伸ばし、入れ墨をする
  • 【奥州】チセに住み、竪穴住居を捨てる
  • 【奥州】鉄鍋を使用し、土器を使わない
  • 【北方】熊信仰をする
  • 【北方】御幣イナウを使う

【擦文】としたものは、擦文文化から変わらない風習である。ポイントはアイヌ文化で新たに加わった風習だ。

竪穴住居を捨てて掘建柱のチセに住むように変化したのは、擦文文化からアイヌ文化への最大の転換点である。まず道南の松前周辺から竪穴住居が消えていき、11世紀頃には石狩低地帯から竪穴住居がどんどん消えていく。変わりに竪穴を使わない住居に変わる。その変遷過程は青苗文化とも呼ばれる。アイヌのチセは中世日本の一般的な茅葺き民家の形によく似ており、明らかに日本文化の影響を受けている。

桜の咲く古民家の風景を求めて/しばやんの日々 より引用

新潟の山奥にある秋山郷の旧山田家住宅は、貴重な中世日本の民家のかたちを残したものだが、アイヌのチセのつくりと驚くほど似ている。

アイヌのチセ(サッポロピリカコタン)
かまどではなく囲炉裏

竪穴住居にあった”かまど”がなくなり、かわりに部屋の中央に囲炉裏がある。これも日本文化を取り入れた結果だろう。

一方でオホーツク文化は依然として竪穴住居で、彼らの住居は五角形もしくは六角形の特殊な形をしていた。これはアイヌのチセには受け継がれていない。

また鉄鍋が普及し始めるとアイヌは土器を捨てた。ただし鉄鍋が十分に供給されていなかった時代は、内耳土器という鉄鍋に変わる土器を作って代用している。擦文文化時代に、樺太経由の大陸産鉄製品の供給は途絶えていたので、鉄製品は本州由来だった。これも奥州の影響を受けた変化である。

一方でオホーツク系から受けた影響もある。それは熊信仰やイナウの使用で、奥州から受けた影響はハード面なのに対し、北方から受けた影響は信仰面であるというのは興味深い。オホーツク文化から得たものは、そのような宗教的なものに限られていたのかもしれない。

生活スタイルという主要な部分は奥州から受けた影響が大きく、彼らに技術指導した渡党がアイヌ文化を生み出していったのだろう。そこにオホーツク系の風習がわずかに加わった。アイヌ民族の遺伝子比率が 縄文人7割:オホーツク文化人3割 というのもこの影響バランスを見事に表している。

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