東西蝦夷山川地理取調図の間違いリスト

特集

幕末の蝦夷地を6度にわたって探検し、現地のアイヌから地名を聞き取り、『西蝦夷日誌』をはじめとした数々の紀行文を書き、『東西蝦夷山川地理取調図』を完成させた松浦武四郎。北海道の歴史研究において、彼の残した功績の大きさは、改めて論じるのも憚られるほどに素晴らしいものである。

とはいえ彼も一人の人間であり、そこから得られる情報というのも全てが正確というわけではなかった。彼は探検家であるとともに研究家でもあり、以前に残された史料なども注意深く調べたようである。しかしそれがかえって仇となり、情報が混在して間違いを生じてしまった箇所も一部もある。こうした誤った情報に基づいて考察してしまうのは勿体ないことである。

そこで松浦武四郎の残した小樽に関する地図や日記や紀行文について、明確に誤りと思われる部分や、誤りの可能性がある部分について、ひとつひとつ取り上げてみることにした。誤りの可能性について、三つの段階に分けて評価している。

  • [■Must]明らかに誤りだと思われる。それを裏付ける確かな証拠がある。
  • [■Should]誤りの可能性がある。それを論ずる根拠があるが、確実とはいえない
  • [■May]もしかしたら誤りかもしれない。しかしそれを裏付ける証拠はない
  • 軽微なカナ表記のブレや清濁の有無。これは今回は扱わない

東西蝦夷山川地理取調図

『東西蝦夷山川地理取調図』小樽付近を切り抜き

『東西蝦夷山川地理取調図』、通称『松浦図』。この地図は松浦武四郎の集大成とも言える。6度の探検の途中で残した日誌をもとに、海岸地名と支流名がびっしりと書き込まれている。ただし彼は測量したわけではなく、川を遡行したのも石狩川や尻別川などごく一部に限られるため、川筋の形や長さは正確ではない。海岸の輪郭線については今井図か間宮図を参考にしたと思われ、かなり精度が高い。

『東西蝦夷山川地理取調図』の小樽付近を見やすく再作成したもの

朝里の海岸地名

朝里付近を拡大(上が南)

アサリ」と「マサリ」が反対になってしまっている。カタカナのはとても形が似ているので、アサリとマサリは単純な書き間違いだろう。

マイカラウシ」も竹四郎日記では「アイカラウシ」となっている。おそらく元とした『今井図』では「ヲエカラウシ」となっているからこれが元の発音に近そうだが、これは表音のブレの範囲だろう。

そして順番もおかしい。「アイカラウシ」は「マサリ」よりもさらに西側にある地名だ。そして「アサリ」と「アツウシナイ」は同じ朝里川のことである。なお「マサリ」は「モアサリ」と書かれることもある。松浦武四郎自身が書いた『弘化蝦夷日誌』『廻浦日記』『西蝦夷日誌』ではいずれもこの順番なので、地図の順番が誤りであることはほぼ確実であろう。『伊能図』『今井図』『罕有日記』『観国録』他、多くの日誌類でもアサリとマサリの順番は現在の地名と同様である。

小樽中心部の海岸地名

小樽中心部を拡大(上が南)

ホレトマリ」と読めなくもないが、これは「ホントマリ」である。これは間違いというよりは単に線がくっついただけだろう。

カチトマリ」としているのは『松浦図』だけで、『弘化蝦夷日誌』『廻浦日記』『西蝦夷日誌』『辰手控』など、他の松浦武四郎の著作では全て「アツトマリ」である。他の16の文献でもほぼすべて「アツトマリ」だが、『今井図』は「アチトマリ」、『未曾有後記』は「アツマトマリ」としている。「アツトマリ」が正解と見て良さそうだ。このミスのせいで、カツナイとアツトマリが同語源とされてしまうことが多い。

イリモナイ」としているのは『松浦図』だけで、松浦武四郎の『廻浦日記』『西蝦夷日誌』『辰手控』では「イロナイ」である。『弘化蝦夷日誌』では「エルモナイ」としている。武四郎は『今井図』を引用しているので、その「エリモナイ」に引っ張られたようだ。他の文献でも「イロナイ」が多数派だが、「エロナイ」「イルンナイ」の表記もいくつか見える。

ヲムマヤシ」としているのは『松浦図』だけで、松浦武四郎の他の書では「ウンマヤ」「ヲムマヤ」「ヲムマヤン」。他の文献では「ヲムマヤン」「ヲンマヤ」「ンマヤ」「ムマヤ」「ウンマヤ」「ヌマヤ」「マヤン」などブレが大きい。しかし最後を「シ」としているものは他に一つもない。「ムマヤ」もしくは「ヲムマヤン」が原語に近そうだ。なお現在はうまやと呼ばれている。

高島の海岸地名

高島を拡大(上が北)

ちょうど紙の端っこだったため書きにくかったのか、かなり窮屈そうにかかれている。そのため位置がおかしい所がある。

シクシシ(祝津)」は東向きの入江にあるが、『松浦図』ではかなり西にあり、北向きの入江になっている。

トウコタン」は『松浦図』にしか出てこない地名だ。『西蝦夷日誌』を見ると文脈で忍路にある「ツコタン」のことをこのあたりで触れており、それを誤ってここに挿入してしまったのかもしれない。高島にツコタンという集落があることについて日誌では一切触れておらず、実際には存在していなかった可能性が高い。

カハルシ」「ホロカハルシ」が『松浦図』では続けて書かれている。しかし「カハルシ」は『松浦図』にしか出てこない地名だ。「ホロカハルシ」は日誌に出てくるが、『廻浦日記』では茅柴岬と高島の間にあるのに対し、『西蝦夷日誌』は豊井と茅柴岬の間、『松浦図』では祝津と豊井の間にある。実にバラバラだ。尤も〈カパルシkaparus〉とは海中の隠れ岩を指す名称で、祝津からポントマリにかけては長い岩礁が続いているため、このあたり一帯のことを指していたのかもしれない。『高島旧図』では茅柴岬と高島の間に「ホロカハルシ」が出てくるため、一応これをホロカハルシの位置としたい。

タンネシラリ」と「ビヨ」は、『高島旧図』ではそれぞれムマヤの北と南の岬を指している。これは『松浦図』の順番と異なる。松浦武四郎は〈タンネシラリtanne-sirar〉を海中の長磯のことだとしているが、高島旧図を見る限りはどうにもポントマリ岬の先にあった大岩を指しているように思う。〈ビヨpui-o-i〉は手宮洞窟ではなく、ムマヤの南・地蔵岬の烏帽子岩のことではないだろか。そうすると『松浦図』の順番とは少しずれる。

塩谷・忍路の海岸地名

忍路郡を拡大(上が南)

シウヤ」と「ホンモエ」が逆になっている。〈ポンモイpon-moy〉は塩谷漁港より北の小さな入江で、アイカフのすぐ近くにある。おそらく『今井図』で「シュヤイシ」が「ホンモエ」より北に書かれているのを見たのだろう。『廻浦日記』では正しい順番になっているが、『西蝦夷日誌』では逆になっている。『蝦夷行程記』で「シヲヤホンムイ」になっていることも関係しているかもしれない。

チイユエナイ」は『松浦図』にしかでてこない表現で、正しくは「チャラセナイ」である。なお松浦武四郎の他の日誌では「チャアラシナイ」となっている。他の文献ではチャラセナイとしているものが多い。いずれにせよ〈チャラセナイcharase-nay〉は「滑り落ちる沢(≒滝)」を表す一般的な地名だ。

ヌマモナイ」は「モモナイ」である。尤も桃内の語源を〈ヌムオマナイnum-oma-nay「(胡桃の)実のある沢」〉だとすると間違いとは言い切れない。これは例のごとく『今井図』からの引用らしい。しかし支流の方は「ホンモモナイ」「ホロモモナイ」になっていることからできれば統一したいところだ。『弘化蝦夷日誌』『廻浦日記』では「モヽナイ」、『辰手控』では「モウマナイ」になっている。『西蝦夷日誌』では「スマモナイ」とされているがこれは誤記だろう。他の文献では「モモナイ」としているものがかなり多く、もしかすると〈モマナイmoma-nay「李桃の沢」〉かもしれない。

ホントコタン」「ソコタン」は「ポンツコタン」「ツコタン」である。トコタンもしくはチコタンでも間違いではないが、この2つの地名はセットなので表記を統一したい。いずれにせよソコタンは明らかに誤記である。点を一つ忘れたのかもしれない。なお『弘化蝦夷日誌』『廻浦日記』ではツコタン、『西蝦夷日誌』ではトコタンになっている。例によって『今井図』がトコタンなので、これにあわせたのだろう。

支流名

支流名に関して一つ一つ精査していくと1ページには到底収まりきらない量になるので、ここでは代表的なものだけ取り上げ、各支流の比定に関しては改めて別の機会に行いたいと思う。特に重要な疑問点だけ挙げていく。

シノマン~」地名は実在性が怪しい。小樽市内だけでも「シノマンテミヤ」「シノマンシュ(マ)サンナイ」「シノマンアサリ」「シノマンヲタシュツナイ」があるが、いずれも日誌や手控、『川筋取調図』にも出てきておらず、地図を描く際に独断で書き足した可能性がある。〈シノマンsi-oman〉とは直訳すると「最も行く」で「本流の水源地」を意味すると思われるが、川の水源地を表す言葉は〈エトク/イトコetok「先端」〉の方が一般的だ。それぞれの本流が本当にシノマンで呼ばれていたかどうかには疑問が残る。

アサリ」と「マサリ」の川筋がおかしい。「シャクシサリ」「キンクシサリ」だけが柾里川の支流で、あとはすべて朝里川の支流である。これは『間宮図』を見るとわかる。『辰手控』にメモする際、朝里川と柾里川をごちゃ混ぜにしてしまったようだ。

朝里川支流とされる「サッホ」は恐らく存在しない。これも『間宮図』を写した際のミスで、サッホロ川(豊平川支流小樽内川)の方から流れてくるということをメモしたものを、誤って支流名として書いてしまったらしい。

朝里川支流の「サマシケマサリ」と「シャマツケアサリ」は同じ支流である。『廻浦日記』『辰手控』『川筋取調図』『西蝦夷日誌』ではいずれも右支流として書いているので、「サマシケマサリ」と書いてある支流の方が正しいはずだ。もう一つの「シャマツケアサリ」は『間宮図』を写した際、同じ支流だと気付かなかったらしい。恐らく朝里川右支流・盤の沢か、あるいは朝里川温泉のゴルフ場から流れ落ちる小川のことだろう。

レブンノツカ」の真下に書かれている川筋は「ヤンゲノツカ」(銭函川)である。これは『廻浦日記』や『西蝦夷日誌』などを見ると明らかである。礼文塚川はこの地図には書かれていない。それにしてもこの川は長すぎる。これは『間宮図』でもそうなので致し方ない。

チイユエナイ」の下に書かれている川筋は「フクラウタ」(塩谷川)である。なお「フクラウタ」と「ブンガルコタン」は同じ地名で、塩谷文庫歌ぶんがたのことだ。浜中川は「ヲコチナイ」だがこれはこの地図には描かれていない。『間宮図』ではこの2つの川は「ホロショーヤ」「ポンショーヤ」とセットになっている。

塩谷川支流の「イユエナイ」は「イコヒケ」である。『按西扈従』『西蝦夷日誌』『川筋取調図』ではそうなっている。現在では伍助沢に相当する。

シュマサン(手宮仲川)支流の「ムイウシナイ」は「ムイウシマキ」である。『川筋取調図』では「ムイウシコチ」と解読されているが、よく見ると「ムイウシマキ」である。『廻浦日記』では「ムイウンセキ」となっているが、並行記述の『按西扈従』では「ムイウシマキ」である。『辰手控』には「ムヨイヲシマキ」、『廻浦日記』のスケッチでは「ムヨイ後」とあり、〈モイオスマクmoy-osmak「入江の後ろ」〉の意味であろう。このムヨイとは『高島旧図』によると山中海岸のホンモイのことで、手宮からそこまで山越道が伸びていた。おそらくムイウシマキは支流名ではなく、この山越道のことを指していたと思われる。

勝納川の「チェトイナイ」は右支流(左岸)である。『廻浦日記』『辰手控』『西蝦夷日誌』『川筋取調図』いずれも右支流だと言っており、左支流としているのは『松浦図』だけである。『永田地名解』はこの間違いに触れ、代わりに「シレトウンナイ」という支流名を挙げている。おそらくこちらが左支流の潮見台川だろう。チェトイナイは右支流の奥沢川と思われる。

勝納川の「ラウネナイ」は本流の位置に書いてあるように見えるが、位置がずれているだけで、これは左支流である。「ホンラウネナイ」の根本の支流に相当する。紙の端の方だったので書きにくかったのかもしれない。『川筋取調図』ではきちんと書かれている。

色内川の「ハイシナイ」は右支流のように描かれているが、おそらく色内川本流である。『廻浦日記』に書かれた距離を計算すると、砂留トンネル付近になる。川はここで大きく右に蛇行している。

手宮川支流の「シャリクシテミヤ」は恐らく「サクシテミヤ」である。『辰手控』や『廻浦日記』では「サツクシテミヤ」とある。〈サクシsa-kus「浜の方を通る」〉の意味だろう。ただし『西蝦夷日誌』では「サツテクテミヤ」と言っており、『按西扈従』では「夏越テミヤ」だという。もしそうなら〈sat-tek「(夏に)乾く」〉の意味になるだろうか。だが隣が〈キムクシkim-kus「山の方を通る」〉なので、サクシのほうが対応としてはあっている気がする。

張碓川支流の「ホンハルシ」はもしかすると隣の張碓仲川のことかもしれない。張碓仲川も『廻浦日記』などでは「ホンハルウシ」と呼ばれている。『間宮図』では張碓川が「ホロハルシ」、張碓仲川が「ホンハルシ」だ。しかし『廻浦日記』で「ハルウス」の支流として「ホンハルウシヘツ」も出てくるので、張碓仲川と張碓川支流の二本ともをホンハルウシと呼んだ可能性は否定できない。なお『川筋取調図』ではなぜかそこが「ホロハルウシ」になっている。いずれにせよ海岸地名はハルウスなので、ハルシかハルウスか、できれば表記を統一したいところだ。

書き直した地図

これらの修正点を踏まえ、改めて当時の地名と川筋を書き直してみた。

書き直した小樽の蝦夷図

支流の比定についてはまだまだ再考の余地はあると思われるが、現時点でわかっている限りの情報を地図にまとめてみた。日誌や他の文献にある地名もできるだけ載せている。きっとこれが、松浦武四郎の作りたかったものではないかと思う。

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