昔の海岸線と色内大通
今年で小樽運河100周年ということで、運河とそのまわりに関するネタを少しとりあげてみたい。
運河の作り方は大きく2つに分けることができる。もともと陸地だったところを掘り進んで水路を作るケースと、そうでないケースがある。小樽運河の場合はどちらになるだろう。昔の海岸線を見てみるとそれがすぐにわかる。

かつて海だったところと、その海岸線を水色で塗ってみた。これを見れば分かる通り、小樽運河はもともとは海の部分だったことがわかる。まわりをどんどん埋め立てていって、意図的に残された部分が運河になっているということである。
ちょうど 色内大通 がかつての海岸線ぎりぎりに迫る道路で、このあたりのメインストリートになっていた。今見ると ”大通”という割にはあまり広くもないし店も少ないように思えるが、かつてはここが非常に重要な道だったのである。

当時の名残として、北運河の「Gaja」という焼肉屋さんの前の道路が ”くの字” にカーブしている。これはかつて シュマサン崎 という小さな岬があったところで、それを避けるようにして少しだけ迂回している。今はすっかり埋め立てられて岬という感じがしないが、セブンイレブン稲穂5丁目店の裏手に崖を削った跡が見られるので、その名残を見ることができる。

また 堺町通り はかつてぎりぎり海だったところである。堺町商店街の背後に切り立つ崖があるが、そこが昔の海岸線だった。風の弱い時は崖下の波打ち際を波に足を洗われながら通行することもあったようだが、幕末の安政年間に恵比須屋半兵衛が土砂で埋め立てて崖下を安全に通行できるようにした。これが小樽港開発の始まりである。


色内大通や堺町通りを通ることがあれば、「ここが昔の海岸線だったんだ」と思い起こしつつ歩いてみれば楽しいかもしれない。
色内町と色内村
小樽運河のある色内町に注目してみよう。

実は小樽運河は、ちょうどこの 色内町 にすっぽりと包まれたかたちになっている。南運河から北運河まで、橋から橋まで色内町だ。ただし埠頭の方は色内埠頭を除けば港町の区画になっている。小樽運河はまたの名を「色内運河」と呼んでもいいかもしれない。
ところが、もともとの色内の範囲と重ねてみると、少し興味深いところが見えてくる。

かつて色内村は高島郡に含まれていて、小樽ではなく小樽の隣村だった。反対隣の手宮村との境界は、例の「シュマサン崎」のところだった。今の色内町の区画を比べてみると、旧手宮村のほうに深く入り込んでいるのである。これはどうしてこうなったのだろう。

これはどうやら、かつて存在した南浜町と北浜町を色内町に編入したことが関係しているようだ。南浜町・北浜町はいずれも埋め立てによって作られた新しい街道で、かつての色内村・手宮村の境界とは関係なく作られた。南浜町はいまの小樽臨港線、北浜町は手宮仲通りに相当し、そのまま南運河・北運河ともなっている。

この2つの街をまとめて色内町に編入したことにより、現在の色内町は手宮の方に大きく食い込むかたちとなった。その後に色内埠頭もできたので、色内の範囲は大きく北に広がったことになる。
南運河と北運河は今もそれぞれ雰囲気の違うところになっているが、この2つはもともと分かれた町だったようである。賑やかな南運河もいいが、北運河の少し静かな雰囲気もいいものだ。

小樽港の6つの川
小樽といえば運河だが、運河を除けば、町中を川が流れている印象はあまりないかもしれない。というのも、ほとんどが暗渠になっていて、道路の下を流れているので見えないのである。現在も6つの川が小樽港エリアにある。

全く暗渠になっていないのは 勝納川 ただ一つで、あとは全てコンクリートで覆われている。ただ 於古発川 だけは運河近くが暗渠になっておらず、目にした機会もあるかもしれない。この於古発川は、かつてヲタルナイ領とタカシマ領の境界となっていた重要な川である。

運河には3つの川が注ぎ込んでおり、運河の一番北端に流れ落ちているのは豊川。これは行政資料などによると正式には手宮仲川というが、隣の手宮川と紛らわしいので豊川のほうがわかりやすい。ちなみに豊川町が制定される以前からこれが豊川と呼ばれていたことが確認できた。

色内川もそのほとんどがすっかり暗渠になっており、河口近くの色内橋のほかは、長橋のほうでほんの少し現れるくらいである。

運河散策のついでに、これらの川の暗渠の出口を探してみるのも面白いだろう。
幻の中谷川
じつはこれら6つの川に加えて、古い文献を見るともう一つ川があったようである。中央橋のあたりに流れ落ちていた 中谷川 である。

アイヌ語ではポンナイすなわち「小さな川」と呼ばれ、明治時代まで存在していたようだがその後地図から消えている。下流のあたりに谷地沼が2つあって、このあたりは湿地帯になっていたようだ。”中谷”というとなんとなく人名のような響きがするが、谷地の中央という意味かもしれない。

かつての中谷川は西陵中学校の裏手を水源とし、小樽駅の敷地を通って中央橋のところに流れ落ちていた。しかし現在は暗渠すらないようで、中央橋の落ち口のところを見ても水の出口は確認できなかった。

上流の方は富岡川と名前を変え、船見坂のほうへ大きくルートを変え、線路脇の側溝に流れ落ちている。川といってもほとんどただの側溝で、平時は水すらほとんど流れていない。

中谷川は消えた幻の川と言えるだろう。しかし松浦武四郎を始めとした、何人かの江戸時代の日誌では、この川についてきちんと触れていた。
小樽港の川のアイヌ語
最後に、小樽港エリアの7つの川と、そのアイヌ語名を見てみよう。なおその解釈には諸説ある。
和名 | アイヌ語名 | 解釈 |
---|---|---|
勝納川 | カッチナイ | kanciw-nay〈氾濫の川〉 |
入船川 | クッタルシ | kuttar-us-i 〈イタドリ群生地〉 |
於古発川 | ヲコハチ | okom-pa-chis〈イルカ頭の立岩〉 |
中谷川 | ポンナイ | pon-nay〈小さな川〉 |
色内川 | イロナイ | i-ru-un-nay〈熊路の沢〉 |
豊川 | シュマサン | suma-san〈岩が突き出た〉 |
手宮川 | テミヤ | temmun-ya〈甘藻の岸〉 |
運河を見るついでに、かつて存在した川の流路を考えながら歩いてみるのも楽しいものである。
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