#備忘録02 小樽稲荷・桜の赤ハゲ・星野の廃寺・三社神社の剣

備忘録

小樽稲荷のはじまり

励ましの坂

手宮公園の脇にある「励ましの坂」は斜度22%というかなりの傾斜を持っている。地獄坂で斜度10%なので、いかに急かがわかる。昔は高島に行くときにこの坂を励ましながら上ったので、いつしか励ましの坂と呼ばれるようになったという。古くは間宮林蔵や松浦武四郎もこの坂を下っている。今年の潮祭りの花火大会は、この坂の上から見た。

小樽稲荷神社

この励ましの坂を登りきったところに「小樽稲荷神社」がある。「小樽」の名を冠する神社がここにあるのはちょっと不思議に感じた。というのも、ここは明治32年より前は「高島郡手宮村」だったからである。当時は「高島郡色内村」もあり、手宮村はいわば小樽の “隣の隣町” だったわけである。それでこの小樽稲荷神社の移動の歴史について調べてみることにした。

元禄3年(1690)創祀された。亨和3年(1803)神殿を改築。安政3年(1856)神殿を改築。明治8年村社に列格した。明治31年社殿他5棟を改築した。明治38年社殿周辺に民家が増え神域神威を汚すとのことで石山町に移転した。明治42年大火災にて類焼し現在地に移転改築す。

小樽稲荷神社/北海道神社庁

創祀が元禄3年とはかなり古い。ちなみに「高島稲荷神社」「張碓稲荷神社」も同様に元禄3年で、後志では最古の稲荷と言われている。これを信じるなら、小樽に和人がやってきたのはこの年ということになるだろうか。

その後何度も移転と改築を繰り返している。ただそれぞれの正確な所在地がよくわからない。神社の位置ぐらいどの地図にも載っているだろうと思ったのだが、意外にも全然載っていないのである。地理院の地図の一番古い版でも、既に手宮公園の横の現在地になっていた。

一番最初は「ひょうが崎」にあったという。と言ってもこの地名は今は耳にすることがない。松浦武四郎は廻浦日記で「ヒヨヽチ」という地名を挙げていて、「大岩の穴有るが故に号るなるべし」と言っている。puy-or-ot-iプヨロチ〈穴の所につくもの〉。これは「烏帽子岩」と呼ばれた現存しない立岩で、手宮洞窟のある岬の先にあった。今はホーマック手宮店がある辺りである。別名「地蔵崎」と呼ばれることもあった。

手宮波止場前吹抜庫ヲ小樽ノ方ヨリ横ニ見タル景/明治13頃

その頃の写真を見てみると、まだむき出し状態の手宮洞窟のほか、ひょうが崎の先端付近になんとなく祠のようなものが見えるような気がしないでもない。ただこれが神社だったかどうかの確証はない。

西蝦夷地タカシマ御場所絵図

幕末の鳥瞰図を見ると、手宮川のほとりとひょうが崎の上に「イナリ」が二つあるのが見える。一つは厩稲荷神社かもしれない。ざっくりした地図なのでよくわからない。

その後、手宮駅構内(現・小樽総合博物館)に移され、錦町の繁華街に、さらに石山町の浄恩寺の斜向かいに移築したものの、火事によって焼失し今の末広町の励ましの坂の上に据えられたようだ。いわば元の位置に戻ってきたかたちになるかもしれない。

「小樽稲荷」となったのは大正元年のことで、その前は「手宮稲荷」とも呼ばれていたらしい。

最後にひとつだけ謎が残った。それはこの地図である。

小樽市街圖/明治20年

この地図では石山の南側、色内川のほとりに「稲荷社」が描かれている。他に稲荷の記号はなく、手宮稲荷は描かれていない。手宮稲荷がここにあったという記録はない。また「色内稲荷」というのがあったという話も聞いたことがない。知られていない稲荷なのか、別の例えば龍宮神社の前身などだったりするのか、あるいは地図の記載ミスなのか、この稲荷についてなにか情報があれば教えていただければ幸いである。

桜の赤ハゲ

桜3丁目の旧字名を「赤ハゲ」という。2022年まで小樽海上技術学校のあったあたりである。

朝里川公園の赤壁

その由来は朝里川公園の野球グラウンドの裏手にある赤い崖で「赤壁」とも呼ばれる。ここは12万年前の土壌の化石であるらしい。

桜三丁目の字赤ハゲ

旧海上技術学校前の通りを、朝里村時代は「村道赤ハゲ線」と言ったが、今は「市道海員学校通線」になっている。この道路をまっすぐ行くと望洋台の「都市計画道路・望洋線」になり、毛無峠の麓まで行く。そのためGoogleMapで札幌方面から赤井川方向へルート案内させると、この赤ハゲ線を指定してくることが多い。なお国道5号から赤ハゲ線に上がるところは大きく蛇行しているが、車道になる前は下の海岸からまっすぐ丘に上がっていた。

またこの近くの朝里川にかかる橋の下に、太平山奥の院というものがある。川端にある岩で、昔ここに精米所があったが、川の氾濫で流されてしまい、その時にこの岩に従業員がしがみついて助かったらしい。それで御神体として祀られているそうだ。

太平山奥の院

星野の廃寺

星野町のとある場所に廃寺がある。私有地なので詳しい場所までは記さないが、地元の人なら「ああ、あの場所か」とわかる所だと思う。

藪の中に埋もれるようにして、十数体の石像や、いくつかの石碑が敷地内に点在している。

色々な資料を探してみたが、この廃寺に関する情報は見つからなかった。

ゼンリンの住宅地図小樽市81年

ゼンリンの81年度版に「身延山久遠寺」とあり、それが現在わかっている情報の全てである。身延山久遠寺とは山梨に本山がある日蓮宗のお寺で、その末寺の一つとして建立されたなのだろう。また現存している地蔵を安置した祠は地図で言うところの「コヤ」で、本堂は既に取り壊されているようだ。

天下ノ逆賊ノ霊堂山ニ
來リテ成佛シ皇▢▢護▢

由来らしきものが石碑に刻まれていたので読み取ってみた。

なおこの廃寺のそばを流れる川を「ゴンシロ川」という。響き的にアイヌ語地名風ではないのだが、どうにも由来がわからない川名である。

ゴンシロ川

三社神社の剣

張碓に「三社神社」がある。国道沿いにある「張碓稲荷神社」とは別で、八幡・春日・天照の三神を祀っているから三社であるらしい。ただ今は和宇尻神社も合祀しているのでそこに稲荷も加わり”四社神社”と言ってもいいかもしれない。

ここに石の剣の碑と、鉄の剣がある。

剣の石碑/奥には鉄の剣が
波切不動尊の剣

石にくくりつけられた剣はなかなかに”伝説の剣”感がある。

剣の由来は不明で、これに関する情報は見つけられなかった。だがおそらくは波切不動尊の持つ剣を模したものではなかと思われる。

波切不動尊

波切不動尊はもともとはこの三社神社の境内ではなく、文久元年に張碓神威古潭の岬に安置されたものだった。神威古潭は難所であったため、”波を切る”すなわち漁業と航海の安全を祈ったものだったのだろう。それが鉄道複線化に伴い、三社神社に移設されたようである。

張碓神威古潭。不動尊像はこの右手にあった。

不動尊像を作ったのは定山渓温泉の初代湯守・美泉定山で、定山は定山渓に行く前は10年ほど張碓の滝の下に住んでいた。不動尊像には定山の銘が刻まれているといい、旧朝里・張碓に地区に残る定山遺跡の一つとなっている。

美泉定山像/定山源泉公園/札幌市定山渓

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