備忘録 #04 忍路山道・塩谷・オタモイ

備忘録

忍路山道のルート

幕末の西蝦夷地には道路というものがなく、漁師が時々使う短い踏み分け道のほかは、降雪期にアイヌ達が山越えするルートがいくつかあるだけであった。

安政年間、北方でロシアの船がたびたび現れるようになると、北方警備と蝦夷地の開拓の必要性が急がれ、天候に左右される海路ではなく、通年通行可能な陸路を開くことが急務となる。

幕末に開かれた西蝦夷の主な山道

安政年間に西蝦夷に開かれた地域間の主な山道には、「黒松内山道(長万部~寿都)」、「余市山道(岩内~余市)」、「濃昼・送毛山道(厚田~浜益)」、「増毛山道(浜益~増毛)」などさまざまなものがある。その中でも一番大きな事業が「千歳山道」すなわち「札幌越新道(小樽・銭函~苫小牧・勇払)」であるが、それ以外にも地域内単位で細かな山道が開かれた。

現在の小樽市内では「小樽内山道(銭函~東小樽)」「高島・祝津山道(手宮~高島・祝津)」「忍路山道(手宮~余市畚部)」の3つも開かれている。安政年間はまさに大開拓時代と言うことができるだろう。

しかしそれぞれの山道が具体的にどのルートを通っていたのか、ほとんど明らかになっていない。明治期に入ると開拓使によって新たに馬で通行可能な道が開かれているため、安政年間の山道とは異なるルートを行っていることも少なくない。

安政3年に、小樽と余市を繋ぐことを目的とした、手宮~塩谷~忍路~蘭島~畚部を経る忍路山道もまた、そのルートは明らかにされていない。『忍路郡郷土誌』でも「忍路から高島を経て小樽へ何処を通って往来していたかははっきりしない」と述べている。

丸2年ほどの調査の末、そのルートを概ね突き止めたので、地図に落とし込んだものを残しておきたい。それぞれを細かく検証すると説明に時間がかかるため、とりあえず今回は第一報として、山道の推定ルートを示すのみにして、後日改めてページを割いて調査結果をまとめてみたいと思う。

忍路山道推定ルート

余市境からの道のりは三里三拾町十二間。このエリアの旧旧道として「塩谷街道」あるいは「笠岩峠」などが知られているが、それらとはまた少し異なるルートとなったのは興味深いところである。

なお安政3年に松浦武四郎は「竹四郎廻浦日記」にて忍路~高島間を歩いているが、その時はまだ山道ができていなかったためこれとはまた違うルートを歩いている。

また 稲尾ヱナヲ峠がどこであったかはどうにもはっきりしない。いくつかの候補が考えられたが、現地調査により一番歩きやすかったルートを選んでみた。

稲尾峠の山道を行く

この山道のルートを記した貴重な史料をメモとして残しておく。

梨本氏文書より
手宮村より忍路まで新旧道図

塩谷のヲロエナイ

ヲロエナイとヲネナイ/東西蝦夷山川地理取調図

『東西蝦夷山川地理取調図』、通称・松浦山川図には無数の川筋と支流名が描かれている。しかし小樽付近に注目してみると、海岸地名はある程度現存しているものの、内陸の支流名に関しては聞いたことがないものばかりである。これらの地名がどこにあったのか、そもそも実在したのかすら怪しいものもある。

これら支流名の中で唯一、現在も使われているものといえば、勝納川支流のヲネナイだけだろう。天神十字街のセブンイレブン小樽奥沢店近くにある橋には、恩根内おんねないという地名がまだ残されている。

  • onne-nayオンネナイ〈主要な沢〉
恩根内橋

残りの地名は全て消えてしまったのだろうか。ある程度予測を立てることはできても、その位置を正確に知るのは難しい。

今回はそのうち、塩谷川の支流として描かれている「ヲロエナイ」に注目してみたいと思う。

  • oro-wen-nayオロウェナイ〈その中が悪い沢〉

ヲロエナイの意味はほぼ確定しており、オロ・ウェン・ナイで「その中が・悪い・沢」と直訳される。意訳すると「歩きにくい沢」くらいのものだろうか。wenウェン〈悪い〉 は地名においてはなにか危険があったり、通行に都合が悪いような場所でよく使われる。

この地名は、その記載位置から「清水の沢<9161-15>」を指すものと考えられるが、現在この川の本流との合流点付近の流れは、その川床には大中礫がゴロゴロと堆積しており、その上ササなどの植生が密生していた。つまり、この地名の”その中が悪い”という表現については、”川の中が歩き辛い”ということを表しているものと推定される。

『データベースアイヌ語地名 後志1』榊原正文

『データベースアイヌ語地名』では、ヲロエナイを塩谷駅のすぐ脇を流れる「清水沢」ではないか推定としている。

ヲロエナイに関する手がかりは少なく、その位置を特定するのは難しいと思っていた。しかし塩谷村の土地連絡図を注意深く調べた所、ヲロエナイの正確な位置が見つかったのである!

字ウェンナイ/忍路郡塩谷村連絡副図

「字ウェンナイ」というのが塩谷駅手前の橋のあたりにある。ヲロエナイの位置はおそらくここだろう。

塩谷川の沢名とヲロエナイ

清水沢よりも少し手前、ペンキ沢との合流地点あたりだ。このペンキ沢とは、塩谷丸山登山道の途中で通る沢でもある。しかしヲロエナイの位置は川より北側なので、正確にはペンキ沢そのものではない。あえて言うなら駅前の星野沢の一端とも言えるだろうか。ちょうど小樽環状線の塩谷川橋と丸山橋の間の区画である。

塩谷川橋

松浦山川図では「~ナイ」という地名を全て川の支流として地図に書き込んでしまっている。しかしこれらの地名が全て支流の名前とは限らない。少なくとも塩谷川のヲロエナイに関しては、本流の途中にあって、特定の支流や川そのものではなく、谷地や沢地を示す言葉として nayナイ が使われたようだ。これが地名比定の際に気をつけなくてはならないポイントである。

しかしなぜここをヲロエナイと呼んだのだろう。それはアイヌ時代における山道の推定ルートを重ね合わせると見えてくる。

桃内~塩谷間のアイヌ古道ルート

最古の山道はヲロエナイの位置を巧妙に避けているのである。きっとここは本当に歩きにくかったろう。ヲロエナイを横目で見るようにしてゴロダの丘に登り、稲穂沢のほうに抜けていっている。

ヲロエナイという地名は、「そっちへ行ってはいけないよ」という警告も込めてつけられたものだったのだろう。

忍路の旦那澗・ピリカシュマモイ

忍路に評判のパン屋さんがあるが、そこから見る海岸の景色は素晴らしい。かつて国道だった海岸沿いの旧道と、その先に見える桃岩。天気がいい日は鮮やかなブルーの海を見ることができる。

ツコタン浜

この旧道があったあたりを一般には「ツコタン浜」と云うが、「ピリカシュマモイ」という美しい名前で呼ばれていたことがあった。伊能大図では「タンネカハルシモイ」ともある。

  • pirka-suma-moyピㇼカシュマモイ〈美しい石の入江〉
  • tanne-kapar-us-moyタンネカパルㇱモイ〈長い岩磯の入江〉

また和人の漁師からは 旦那澗ダナマ とも呼ばれていたらしい。

このツコタンの海でたった一か所だけ、暗礁が切れ目になったところがあり、波打ちぎわから沖に向かってまっすぐ深い水路が通っている。ここを忍路の人たちは「ダナマ」と呼んでいる。ダナマの浜の右も左も砂利まじりの砂浜なのに、ここだけは大人のこぶし大の黒っぽい丸い小石で、水にぬれると黒光りになる。アイヌの人たちはこの石をピリカシュマ(美しい石)と呼び、この小さな入り江(モイ)をピリカシュマモイと呼んでいた。

『ヲショロ場所をめぐる人々』

この旦那澗のところだけ岩礁が切れ目になっているお陰で、舟が入りやすいらしい。そしてピリカシュマとは、黒光りする美しい石のことだったようだ。

この玉石の浜は水ぎわから急な坂でも下るように深くなって、ずっと沖の方まで海底が溝になってつながっている。大時化のときは別として、小さな荒れの時は、波のうねりは途中で勢いをころすものがないから、波頭がくずれず音なしに波打ちぎわ近くまで押しよせる。

『ヲショロ場所をめぐる人々』

強風の際は波頭が崩れずに波が近くまで押し寄せるという。この浜をドローンで空撮された方がおられた。

写真提供:Steel on Hayabusa at Hokkaido様
写真提供:Steel on Hayabusa at Hokkaido様

本当だ。忍路覆道の手前あたりだけ見事に白波が立っていない。ここが岩礁の切れ目になっているのだろう。どうやらここが旦那澗のようだ。

「旦那澗」の由来は、ヲショロ運上屋の西川家の旦那が船をつけたことによるものらしい。そういえば張碓にも「岡田の澗」という場所があって、ヲタルナイ運上屋の岡田半兵衛の舟をつける所だったらしい。

旦那澗/ピリカシュマモイ

今は旧道が塞がれてしまい、この美しい浜も間近で見ることはできなくなった。

オタモイ入口

オタモイは小樽で唯一残っているカタカナの町名である。

オタモイ地区

現在は隣の幸町と並ぶ住宅地となっており、幸とオタモイの境界はぱっと見ではわからなくなっている。かつては旧忍路領がオタモイ、旧高島領が幸町なのだが、地図を見ただけで境界線を引ける人はあまりいないかもしれない。

  • ota-moyオタモイ砂浜の入江

オタモイはその響きからイメージする通り、アイヌ語由来の地名で「砂の入江」の意味。小樽のオタルナイと先頭の otaオタ〈砂浜〉 は共通している。そのためオタモイとオタルの響きが似ているのは偶然というわけでもない。

オタモイ海岸/かつては海水浴場だった

アイヌ語地名の砂の入江オタモイが指す地点は、その名の通り海岸の方にあって、ちょうどオタモイ地蔵尊があるあたりの浜になる。現在は小石浜になっているが、古い日誌などを見るとかつては砂浜だったようだ。なおGoogleMapのピンでは「オタモイ海岸」が隣の浜になってしまっている。そちらは正しくはスプンモイという別の浜なので、このピンの位置は誤りである。

オタモイといえばやはりオタモイ龍宮閣をはじめとしたオタモイ遊園地跡の話は外せない。ここではそこまで詳しくはとりあげないが、戦前にかつて存在した遊園地で、崖の上に築かれた龍宮閣は壮大な迫力があったという。残念ながら今は土台を残してあとはなにもない空間となっており、がけ崩れも進んでいる。ただその入口にあったオタモイ唐門だけが、ひっそりと当時の趣を忍ばせている。

龍宮閣/当時、そこには崖に聳える夢の竜宮城が存在した

さて、ここではひとつの知られていない地名をとりあげたい。「オタソケ沢」である。この地名を知る人はおそらくほとんど残っていないだろう。地元の人でも知っているかどうかはわからない。

バス停:おたもい入口

長橋の旧道のローソンのところからオタモイ一丁目に入る交差点に「おたもい入口」というバス停がある。そこからオタモイの住宅地の道路を奥へ進んでいくと、途中で道が二股に分かれる。左に曲がればオタモイ唐門のあるほうで、まっすぐ行けば山中海岸に降りる道に繋がっている。

オタモイ海岸と山中海岸の分岐点

この左にいく沢が「オタソケ沢」、まっすぐ行った方が「赤岩南沢」である。大正十年の土地連絡図にあった字名で、道庁の『北海道市町村行政區劃』といった資料にも載っていない小字なので相当マイナーだろう。

この”オタソケ”の意味を考えてみた。

  • ota-sokesオタソケㇱ砂浜の入口

オタソケㇱ。一番最後の s の音は ”さわ” の sa とくっつくので、発音はオタソケサワとなる。sokesソケㇱ〈入口〉とは、例えば「家の囲炉裏の方から見た入口の方向」などを指す言葉である。

なるほど、今も「おたもい入口」というバス停があるが、このオタソケ沢は昔からオタモイの入口という意味合いを持っていたらしい。

かつてオタモイの入口の象徴であった唐門はここに移設されており、夢の場所の入口として今も静かに立ち続けている。

オタモイ唐門

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