留萌(ルルモッペ)の由来 ~海岬の川~

地名の由来

留萌の概要

留萌の位置と交通

留萌の位置

留萌るもいは北海道北部の西海岸・通称「オロロンライン」の中ほどに位置しており、石狩と稚内の間にある街のなかでは最大の街となっている。

留萌の町並/千望台より

JR留萌本線が2023年に廃止されたばかりだが、2020年に高速道路・深川留萌自動車道が全面開通しており、2024年現在は通行も無料で、交通の便への影響は最小限に抑えられたかたちだ。

深川留萌自動車道

掘込式の大きな留萌港があり、歴史的に見ても港としての役割が大きい。

留萌港と赤灯台

ルルモッペと山丹貿易

留萌の歴史を少し振り返ってみよう。江戸時代中期、このあたりに「ルルモッペ場所」が置かれている。その領域は現在の留萌市と小平町におおむね等しい。

西蝦夷地ルヽモツヘ略絵図/蝦夷全地(1858年)

ここルルモッペのアイヌはソウヤ勢力の圏内だった。浜頓別にチョウケンという宗谷地方を束ねる大酋長がいて、ルルモッペの酋長コタンピルはその孫にあたる。チョウケンは樺太やアムール川流域との貿易、いわゆる山丹貿易を行っていた人物で、山丹服を着、非常に多くの宝物を持っていた。ルルモッペのコタンピルも山丹服を着用していたという。

西蝦夷奥ルルモッペ酋長コタンピル肖像
ルルモッペ酋長コタンピルの山丹服/留萌市海のふるさと館
星兜と胴丸鎧

また、平安時代末期の兜や甲冑なども見つかっている。これもおそらく酋長一族の宝物イコㇿで、アイヌは和人の兜などを権力の象徴として保有していた。北方のものと南方のものを両方持っていたということは、チョウケン一族はそれだけの貿易力があったということだろう。

一方、隣のマシケはイシカリ勢力に含まれていたようなので、留萌と増毛の境界は、ソウヤ勢力とイシカリ勢力の境界ともなっていたのかもしれない。シャクシャインの戦いの際、宗谷勢力は蜂起には参加せず、石狩や余市・岩内などの西蝦夷勢力に対して、松前との和睦を勧めている。漁業だけが命綱であった西蝦夷のアイヌたちと違い、宗谷勢力は山丹貿易という強みがあったので、今後も松前藩とうまくやっていくという道を選んだようだ。

ルルモッペとマシケの境界、アフンシラリの岩礁。奥に見えるのは増毛山地

既存の地名解

ルルモッペ大橋

波の静かな所

留萌ルモイの原名は「ルルモッペ」で、留萌と書いてルルモッペと読ませることもあったという。その地名解には定説がある。

市名の由来

アイヌ語のルルモッペが語源。
ルルは(汐)モは(静)ヲッは(ある)ペは(水)のこと。
汐が奥深く入る川」という意味で、留萌市を流れる留萌川から名づけられている。

留萌市の概要/留萌市公式ホームページ
留萌川河川標識
川の名の由来

昔はルルモッペと呼び、語源はアイヌ語であると言われています。その意味については諸説ありますが、古い記録には「潮の静かに入るところ」という意味が書かれています。

留萌川河川標識
  • rur-mo-ot-peルㇽモオッペ潮が静かに入る所

というのが定説のようだ。「古い記録には」とあるように、この説がはじめに唱えられたのは1824年の上原熊次郎による『蝦夷地名考并里程記』で、以来、概ねこの説が取られている。

ルヽモツペ

夷語ルヽモヲツペの略語なり。則、潮の静に入る所と訳す。扨、ルヽとは潮の事。モは静と申事。ヲツは入る。ペは所と申事にて、満汐之節、此川へ潮の入る故。此名あるといふ。

『蝦夷地名考并里程記』/上原熊次郎

道内各地にモンベツ(紋別・門別)という地名があちこちにある。mo-petモペッ〈静かな川〉の意味で、波が強い時に海水が逆流していくような川をいう。市街地の奥の方に潮静という地区があるが、大潮の時はそのあたりまで潮が入っていくのだという。

留萌川と、廃線になった留萌線・第九留萌川橋梁

ただ rur-mo-ot-peルㇽモオッペ〈潮が静かに入る所〉という形は、類例を見ない形である。文法的に誤っているわけではないが、この mope ではなく rurルㇽ に掛かっているので、〈波が静か・~な所につく川〉くらいの訳になるのではないだろうか。そうなると意味は逆転してしまう。

ルルパモイ

さて色々調べていると、ルルパモイという別の説が出てきた。『北海道駅名の起源』にはこのようにある。

この地は古く「ルル・パ」(海・のかみて)といったらしい節がある。留萌はおそらく「ルルパ」の「モイ」(湾)だったのではなかろうか。普通に留萌の語源とされている「ルルモッペ」はこの湾に注ぐ川の名で、語源は「ルルモイ・ペッ」あるいは「ルルプンペッ」(ルルパの川)の転訛と思われる。

留萌の語源について「ルル・モ・ペッ」(潮静川)から転じたという説があるが肯けない。

『北海道駅名の起源』
  • rur-pa-moyルㇽパモイ〈海のかみての湾〉
  • rur-moy-petルㇽモイペッ〈海の湾の川〉
  • rur-pa-un-petルㇽパウンペッ〈海のかみてにある川〉

このルルパモイ説を唱えたのは、おそらく駅名の起源の執筆者のひとりである知里真志保氏ではないかと思う。しかし3つも説を挙げている割には、どうにも歯切れが悪い。ともかく rur-mo-ot-peルㇽモオッペ〈潮が静かに入る所〉 説に疑問を抱いていることは確かなようである。

しかし旧記類に「ルルパ」「ルルモイペッ」といった表記は現れておらず、この説に妥当性があるとは言い難い。もう少し考えてみよう。

検証と新説

旧記類に出てくる表記

つるをつへ/元禄国絵図(1700年)

留萌の地名は元禄期に初めて出てくるが、元禄郷帳に「つるをつへ」、享保十二年所附に「つつもつへ」、附図に「ヌルモンヘ」とあるほかは、以降はほとんどの記述が「ルルモツペ」「ルルモツヘ」で共通している。

ルヽモツヘ/伊能大図(1821年)

しかしもう一つ異表記を発見した。それは天保年間の今井測量原図に「ルンヌモンベツ」とある。今井八九郎は初めて北海道一周を船で詳細に測量した人物で、その地名の位置は非常に正確で細かい。同図には「ルヽモツヘ運上屋」という記述もあり、ルンヌモンベツという表記がただの誤字ではないことがわかる。こちらルルモッペの原名だというのだろう。

ルンヌモンベツ/今井測量原図(1841年)

この今井図は松浦武四郎も『廻浦日記』のなかで引用している。この「ルンヌモンベツ」という表記を見過ごすことができない。

ルンヌモンベツ

もし従来の説である rur-mo-ot-peルㇽモオッペ〈潮が静かに入る所〉であれば、ルンヌモンベツと転訛することはないはずだ。 pe を pet と見て rur-mo-ot-petルルモッペッ〈潮が静かに入る川〉としても意味はさほど変わらない。それにしてもこの「ルンヌ」が気になる所である。

松浦武四郎は「ルン」を ru-unルウン〈道がある〉と解釈して ru-un-mo-petルウンモペッ〈道がある小川〉と解釈したようだが、これでは逆に「ルンヌモンベツ」にはなっても「ルルモッペ」にはならない。

圧倒的に多数派である「ルルモツペ」と、今井図の「ルンヌモンベツ」の双方を満たしうる原形を見つけることができないだろうか?実はルルモツペ説を検証している時に温めていた一つの案が、偶然にもぴったりと当てはまったのである。

  • rur-rum-ot-petルルモッペッ海岬につく川

これがルルモッペの原形ではないだろうか。

アイヌ語の音韻転訛のルールの一つに「r は r の前に来れば n になる」(『アイヌ語入門』p171)という法則がある。この[r+r → nr]のルールのを適用すると、 rur-rumルㇽ・ルㇺ・ot-petオッ・ペッrunrumoppetルンルモッペッ になる。「ルンルモッペッ」と「ルンヌモンベツ」これは十分転訛として許容できる範囲だ。r の音韻転訛は必ずしも起きるわけではないので、そのまま「ルルモッペッ」とも発音できる。

この rur-rum-ot-petルルモッツペッ〈海岬につく川〉説なら「ルルモッペ」「ルンヌモンベツ」の双方のかたちに変化することができるのだ。

黄金岬

さてこの rur-rumルルㇺ すなわち〈海岬〉とはなんのことだろう。もちろん「黄金岬」のことである。

留萌港の黄金岬/GoogleMap
波濤の門/黄金岬

rur, -i るㇽ ;海水

rum るㇺ ①頭。ay・rum[矢・頭]やじり。 ②みさき。chi・nukan・rum[見える・崎]

『地名アイヌ語小辞典』知里真志保

辞書にはこのようにあり、rumルㇺ は〈岬〉を表すことがあるようだ。北海道でもっとも有名な rumルㇺ といえば、何と言っても「襟裳エリモ岬:en-rumエンルㇺ〈尖った岬〉」だろう。黄金岬は襟裳岬ほど尖ってはいないが、岬の上にある日和山は、かつて烽火台が置かれたところである。

日和山烽火台跡

『駅名の起源』が 「この地は古く ルル・パ(海・のかみて)といったらしい節がある。」と述べていたことを思い出して欲しい。rur-paルㇽパ〈海のかみて〉 の parumルㇺ と同様に〈頭/岬〉をあらわす語で、rur-rumルルムrur-paルㇽパ はほとんど同じ意味である。知里真志保氏が残した留萌という地名のもつ精神は、しっかりと引き継がれている。

留萌川の旧流路

しかし留萌川が「黄金岬につく川」の意味だとすると、少しおかしいようにも感じる。現在の留萌川は、黄金岬からはだいぶ離れたところに流れ落ちており、「岬につく」という感じはしない。

現在の留萌川と黄金岬

rur-rum-ot-petルルモッペッ〈海岬につく川〉の otオッ〈つく〉とは、「くっついている」の意味合いのほか、水の場合は「溜まっている/染み出る」といったニュアンスを持つ。岬に染み出すように流れ落ちる川…しかしいまの留萌川にそんな印象はない。

このルーツを知るには、昔の留萌川の流路を確かめなくてはならない。

2024年現在の留萌川/地理院地図
治水工事前の留萌川/地理院地図に加筆

昔の留萌川の流路を書き込んでみた。今とは全く違うところを流れていたことがわかるだろう。留萌港の掘り込み式になっているところは、かつては留萌川が流れていたところだったのだ。

天塩国留萌郡新旧市街全図/1891年

河口付近が大きく黄金岬に近接しており、日和山の丘にぶつかって曲がり、そこで海に落ちている。まさに otオッ の示す、「くっついている/溜まる/染み出す」といった言葉がぴったりくるような地形である。

北海道歴検図 天塩州 留萌/目賀多帯刀/明治4年
留萌川のかつての河口付近。今も船着き場になっている

留萌はモイか?

さて「ルルモッペ」の由来はわかったが、それがどうして「ルモイ」になったのだろう。

道内各地にオタモイ、島武意しまむいなどモイ地名はたくさんある。留萌は実は rur-moyルㇽモイ〈潮の入江〉 あるいは rur-rum-moyルルモイ〈海岬の入江〉あたりではないだろうか?そう考える人がいても不思議ではない。

しかし江戸時代の記録にルルモイという記述はどこにも見当たらない。明治2年に松浦武四郎が町名の案を出した時に「留萌ルルモエ」「留持ルルモツ」という2つの案を挙げ、そこから「留萌ルルモエ」となり「留萌ルモイ」と読まれるようになったらしい。

そこからすると moyモイ〈入江〉 が関係あった可能性は低く、あくまでもルルモッペの短縮からルモイに転訛していたたようだ。北海道にモイ地名は数あれど、一番有名なルモイがモイ地名ではないというのはなかなか興味深い所である。

留萌港。モイの形はしているが……、モイ地名ではない。

留萌の由来

留萌ルモイの由来は「ルルモッペ」からきており、rur-rum-ot-petルルモッペッ海岬につく川〉で、「海に突き出た黄金岬の近くへ流れ落ちる留萌川」のことを表した地名である。

これを留萌の地名解としたい。

黄金岬の黄金色の岩

コメント