勝納の由来~カツナイ地名考~

地名の由来

小樽五大難解地名

小樽の町名になっているような代表的なアイヌ語地名は、たいていどれも何らかの議論があって、意味をこれだと断定できるものが少ない。その中でも特に難解とされているのが、蘭島らんしま勝納かつない朝里あさり有幌ありほろ於古発おこばちの5つだろう。これを個人的に小樽五大難解地名と呼んでいる。ほかにも塩谷しおや色内いろない小樽内おたるない畚部ふごっぺ星置ほしおきあたりも色々と議論があるが、それらに比べればある程度、的が絞れているような気がする。

勝納川

勝納川は小樽で二番目に大きい川で、小樽市中心部の南樽地区を流れ落ちる。「旧小樽」などとも言われたこの地区は、明治の早くから発展し、北海道経済の礎となってきた。また上流には奥沢水源地や雨乞滝、穴滝といった名所が見られ、かつてはこれを越えて赤井川や倶知安のほうに抜けていく小樽峠もあった。そしてなんといっても小樽港があるところであり、まさに交通と経済の中心地であったのである。

勝納川河口と勝納大橋

五大難解地名の一つ、「勝納かつない」はなかなかの手強い相手だ。未だに最終的な結論は出せていないが、とりあえずここまで考えた過程を書き残しておきたいと思う。

勝納の既存の地名解

まずは定説から見ていこう。道庁設置の河川標識が一番目立つので、これがとりあえずの定説と言っていい。

勝納川の河川標識

川の名前の由来

河川名の由来は、アイヌ語のアッチナイ「豊かな沢」による説、カッチナイ「水源沢」による説などがある。

『二流河川勝納川水系 勝納川』河川標識

河川標識の時点で既に2つに割れている。前者の豊沢説は永田方正氏、後者の水源沢説は更科源蔵氏の説である。「…説などがある」と結んでいるように、これだけでは終わらない。例えば明治20年の白野夏雲氏は「ヘカチケシナイ(子供の子孫の川)」などとしているが、これはあまり相手にされていない。

その後も現代になってから色々な説が唱えられているが、とりあえず「豊かな沢」説が定説とされることが多いようである。小樽市の公式ホームページで「カッチナイ(水源の沢)」だと紹介したら、小樽市史談会に「豊沢のほうが有力だ」とわざわざ訂正されたくらいだ。

とりあえずこの豊沢説から見ていこう。

豊沢説の起源

厚泊から勝納へ

カツナイがどうしてアッチナイで豊沢になったのか、順番に追って見ていこう。最初にこれを唱えたのは永田方正氏である。

Atchi nai アッチナイ 豊沢

「アツトマリ」ヲ和人訛リテ「カチトマリ」ト云ヒシヨリ遂ニ「カチナイ」ト名ヅケ今勝納カチナイ町ト称ス転々相誤ル者ト云フベシ

『蝦夷語地名解』永田方正

説明を見てもいまいちわからないが、要するに「厚泊アツトマリ→カチトマリ→勝納カツナイ」に転じていったというのだ。この厚泊あつとまりとは、現在の小樽築港地区の旧名である。

鯡が群来る泊

山田秀三氏がこの点についてもう少し詳しく解説している。

ヘロキアッ(heroki-at 鯡が・一杯いる)という言葉がよく使われる。その前の部分を略した形で、アッ・トマリ「(鯡が)一杯いる・泊地」という入江があり、そのそばに流れ込む川なので、アッ・ナイ(アットマリの・川)と呼ばれたとでも解すべきか。

『北海道の地名』山田秀三

厚泊あつとまりは〈heroki-at-tomariヘロキアットマリ「鯡が豊富な泊」〉の頭のherokiを省略したものだ。その傍の川だから〈at-nayアッナイ「(鯡が)豊富な(泊の)川」〉になったというのだ。 

アッナイからカツナイへ

アッナイがカツナイになった理由については金田一京助氏が説明している。

母音で始まる場合、その頭へk音の添ふ変化も可なりにある。後志国小樽郡のアットマリ(「鯡の群る泊」)がカチトマリとなり、アチナイ(「鯡の群る川」)がカチナイとなり、勝納カツナイとなり、(中略)

このア行音がカ行音になって、頭ヘkがつく場合のよくあるのは、アイヌの発音の語頭のアイウエオは、咽頭破裂音を伴って出るから、それに馴れない邦人にはカキクケコの様に聞き成されるからである。

『北奥地名考』金田一京助

とのことで、語頭のアイウエオはカキクケコと聞こえやすい。ゆえにアチナイがカチナイになったというのだ。

あるいは『データベースアイヌ語地名』の榊原正文氏は〈heroki-atヘロキアッ〉の〈ki-atキアッ〉だけが残って「カッ」になったのではないかとしている。

豊沢説の正体

ここまでの流れをまとめると、

  1. 小樽築港地区を〈heroki-at-tomariヘロキアットマリ「鯡が群来る泊」〉と呼んだ
  2. 頭の「ヘロキ」が省略されてアットマリになった
  3. それがカットマリと聞こえた
  4. カットマリの近くの川なのでカッナイとした
  5. カッナイが勝納カツナイになった

という具合である。なかなか力技な感じはするが、これが勝納の豊沢説の正体である。

豊沢説が誤りと言える4つの理由

残念ながらこれだけ論理を駆使しても、カツナイが「ニシンの豊かな沢」という意味に結びつけるのはなかなか苦しいものがある。その理由を4つほど挙げてみよう。

1. 「アッ」に豊かなという意味はない

豊沢説は〈at-nayアッナイ〉を「豊かな沢」と解しており、まるで〈atアッ〉に「豊かな」という、名詞を修飾する形容詞(連体修飾語)的な意味合いがあるかのように用いている。だが厳密に言うとこの語にそのような意味はない。

at アッ 【自動】①(虫や魚などが)たくさんいる/出る。 ukuran etutanne at wa ku=mokor ka koyaykus ウクラン エトゥタンネ アッ ワ クモコロ カ コヤイクシ ゆうべ蚊が多くて私は眠れなかった。(W) ②(煙や湯気が)立つ、 (光が)光る、 (においが)する。 supuya at スプヤ アッ 煙が出る。 nipeki at ニペキ アッ 光る。 húra at フラ アッ においがする。

『田村辞典』

虫や魚、あるいは湯気・光・匂いなどがわあっと拡がっている様子を表す動詞である。形容詞的ではない。

cep-atチェパッ〉で鮭が大量に遡上する様子を歌った古謡ユーカラがあるが、魚の場合ならそのような使い方になるだろう。山田先生が〈heroki-atヘロキアッ「ニシンが群来くきる」〉と解したのはそのためだと思われる。ただこの〈atアッ〉は1項動詞(自動詞)なので、〈heroki-at-tomariヘロキアットマリ「ニシンが群来る泊」〉のように名詞を2個持つのは文法的に難しい。〈heroki-atヘロキアッ〉で一つの単語のように見做されているならともかく、だとしたらなおさらヘロキを省略するのはおかしいのである。

無論、実際に「ヘロキアットマリ」「ヘロキアッナイ」と記していた当時の史料は一つも出てこない。

2. カッチナイが原音に近い

江戸時代の文献に出てくる勝納の地名を時系列で見てみよう。

文献年代表記
元禄郷帳1700/元禄13かつち内
空念納経記1704/宝永1かつち内
松前蝦夷図1718/享保3かつち内
蝦夷国全図1772/安永1?カツチナイ
松前蝦夷地之図1788/天明8カツチナヒ
西蝦夷地行程1805/文化2カツナイ
西地海陸里程1805/文化2カツナヒ
遠山村垣日記1806/文化3カツナイ
東海参譚1806/文化3タチヲヰ
蝦夷国古写図1808/文化5かつち内
陸通東西海岸1809/文化6カッチウチ川
村山図1816/文化13カツナイ
間宮図1817/文化14カチンナイ
伊能図1821/文政4カチンナイ川
今井里数書1831/天保2カツナヱ
今井図1841/天保12カチナイ
再航蝦夷日誌1847/弘化3カチナイ
海岸里数書1855/安政2以前カチナイ
廻浦日記1856/安政3カツチナイ
辰手控1856/安政3カツチナイ
蝦夷行程記1856/安政3カツナイ
観国録1857/安政4カツナイ
罕有日記1857/安政4カツナイ
御場所絵図面1858/安政5カツナイ
東西蝦夷山川図1859/安政6カツナイ
西蝦夷日誌1863/文久3カツチナイ
文献に出てくる勝納の仮名表記

まず1700年代は全て「かつち内」ないし「カツチナイ」で、1800年代になって初めて「カツナイ」が出てくる。その後はカッチナイ・カチナイ・カツナイが混在しつつも、安政年間になるとカツナイで安定していっている。ここからすると「カツチナイ」が最も原音に近く、「カツチナイ」→「カツナイ」の転訛が起きたと言えるだろう。となると由来を考えるならあくまでもカツチナイをベースに考えなくてはならない。

豊沢説の〈at-nayアッナイ〉ではどう頑張ってもカッナイくらいにしか持って行けず、アッチナイにもカッチナイにもなり得ない。「チ」の音を出す何者かあったはずである。

3. 勝納川とニシンの関連性が薄い

豊沢説は勝納川を〈heroki-at-nayヘロキアッナイ「ニシンの群来る川」〉だとしているが、そもそもニシンは川を遡上する魚ではない。

そしてアイヌはニシンをそこまで重視していなかった。〈kamuy-cepカムイチェプ「神の魚」〉たるシャケこそが至高の魚であって、アイヌ文化におけるニシンの重要性は実は低い。少し歴史を振り返ってみよう。

江戸時代において、小樽を始めとした西蝦夷では17世紀まではもっぱら鮭が交易のメインであった。17世紀後半にシャクシャインの乱に呼応して祝津のアイヌが和人と争ったのも、鮭と米との交換レートを不当に減らされたからだった。それまで鮭5束で米30kgだったものから、米10kgに大幅減されたのだから怒ったのである。17世紀までは和人にとってもアイヌにとっても、あくまでも鮭が漁のメインだったということだ。

ニシンそば。祝津マリーナ食堂にて

ニシンがにわかに注目されるようになったのは食用ではない。少しは食べただろうが、ほとんどは潰して鰊粕にし肥料にするのが目的で、北前船で大阪や北陸に運んでは大量の富をもたらした。つまり和人にとって重要な魚だったのである。これが18世紀になると顕著になり、運上屋が沿岸各地に漁場を設けてニシンを獲りに獲りまくる。特に小樽では18世紀中旬以降、鮭よりニシンが圧倒的な収穫量を占めるようになる。

祝津の鰊御殿

勝納かつちないが初めて文献に現れるのは17世紀末。まだニシン漁は重視されていない頃に、既にその地名が出てきている。

そして勝納川は鮭が採れる川である。

カチナイ こヽも右に同じ。行道の中程に幅八、九間計の川あり。水浅くしてひざに過ぎず。されともの魚多く住む由。里人のいへは暫く見物する中一群れの鮭あまた登り来る。江戸なとに無き魚ゆえ皆々珍敷めずらしき暫く足を停めぬ。

『西蝦夷地高島日記』斎藤治左衛門

文化5(1808)年の『西蝦夷地高島日記』には鮭の群れが遡上している様子を、蝦夷地防衛にやって来た役人たちが皆が珍しそうに見学していたことが記録されている。

鮭の遡上(2022/9/24 於古発川にて)

現在も勝納川は秋になると鮭が遡上する様子が見られる。もし魚について言うなら〈heroki-atヘロキアッ「鯡の群来」〉より〈cep-atチェパッ「鮭の遡上」〉のほうに注目しただろう。

4. 厚泊と勝納は結びつかない

そこで豊沢説のステップの一つに、厚泊あつとまりの近くの川だから勝納かつない川になった、という部分がある。この二つの関連性を示す根拠となっているのが、『東西蝦夷山川地理取調図』(以下、山川図)だ。

『東西蝦夷山川地理取調図』に見えるカチトマリとカツナイ

松浦武四郎の描いたこの山川図では「カチトマリ」「カツナイ」と並んでいる。なるほど、こう並べてみるとたしかに二つの地名に関連性があるようにも見えなくもない。しかし厚泊について記録した江戸時代の史料23件のうち、実に20件が「アツトマリ」である。「アチトマリ」が1件、「アツマトマリ」が1件、「カチトマリ」としているのは『山川図』ただ一つで、松浦武四郎自身も他の箇所では全て「アツトマリ」である。どうにも「カチトマリ」は誤記らしい。

また前項で一覧表にした通り、勝納に関して「アツナイ」「アチナイ」と表記している例はただの一つも無い。語源が同じはずの地名をアイヌが何度も発音すれば、誰かが同じ音を聞き取ったはずだ。しかし『山川図』を除けば全て明らかに「アツトマリ」と「カツナイ」を区別しており、この二つを同語源とする根拠は薄いと言わざるを得ない。

現在の厚泊(ウイングベイ小樽グランドパーク)

更に、厚泊アツトマリの位置にも注目できる。例えば『蝦夷行程記』ではカツナイの六丁(約650m)ほど東をアツトマリとしている。『今井図』でもほぼ同じ位置を示しており、これは概ねウイングベイ中央のホテル・グランドパーク小樽の山側あたりだ。国道沿いだと小樽市消防本部があって、そこから少し山側にカーブするところである。若竹交差点の手前から勝納川の高砂橋まで行くところを想像してみてほしい。ちょうど潮見台の丘一つを越えたところにある感じで、地形的にはどうにも結びつきにくい。

若竹交差点と地下歩道
勝納川にかかる高砂橋から

さらに言うと、水産高校の上から築港駅の西側を抜けてウイングベイのあたりに一本の細い川が流れ落ちている。「若竹川」である。こちらのほうがはるかに近く、もしアットマリの川だというのなら、この若竹川がそう呼ばれるのではないか。

豊沢説は無理がある

  • atアッ〉に「豊かな」という意味はない
  • アッナイからカッチナイに転訛するのは難しい
  • 勝納川はニシンというより鮭の川である
  • 厚泊あつとまり勝納かつないを同語源とする根拠が薄い

これらからすると、豊沢説はもはや無理があると言ってもいいのではないだろうか。もしそうでないと言うなら、これら四つに対する説得力のある論が欲しいものである。

最近出てきた説

もう一つのカッチナイ水源説を論じる前に、比較的最近出てきたいくつかの説を取り上げてみたい。

「楡の沢」説

atアッ〉は「オヒョウ楡」を表す名詞でもある。これは地名に特に頻出の名詞で、全道各地の地名に使われている。アイヌはオヒョウ楡の皮を剥いで繊維を取り出し、それを〈attusアットゥシ「厚司」〉という着物に仕立て上げた。アイヌ文化展などに行くと必ずT字にして飾ってある、あの衣である。

厚司(アットゥシ)

松浦武四郎も『弘化蝦夷日誌』でヲタルナイ運上屋の名産品として「アツシ、樺等多く出るよし」と述べているから、このあたりのアイヌも楡皮の繊維で厚司を作っていたのだろう。

「オヒョウ楡」の〈atアッ〉なら、所属形にして〈ati-nayアチナイ「楡の沢」〉とすることができる。例の咽頭破裂音を使うとカッチナイにはだいぶ音が近くなる。

しかし楡の沢なら〈at-us-nayアツシナイ「楡の群在する沢」〉という川がすぐ隣(朝里川)にある。もしそうならどうして勝納もこの形にならなかったのか疑問が残るところである。

「仮小屋の沢」説

『アイヌ史のすすめ』で〈kas-nayカシナイ〉ないし〈kas-un-nayカシュンナイ〉という試案が提示されている。どちらも「仮小屋の沢」の意味である。

東北地方に「樫内かしない」「粕内かすない」「カツチ沢」あるいは広尾の「花春かしゅん」という例を挙げているが、研究過程の試案という感じで、強く押し出している印象ではなかった。

「対岸の大きな川」説

樺太雑記』では有幌と勝納を統一的に解釈して、

勝納と有幌は、その場所が、歴史的にアイヌだけでなく、和人も多数居住していた関係上
いわば、「日本語的な省略」がなされた結果、
勝納川のアイヌ語名 <ʔař/ʔaɾː- poro-nay (一方の、又は、対岸の大きな川)の
下略形の ʔař/ʔaɾː- poro-(nay)が、「有幌」
上略形の ʔař/ʔaɾː- (poro)-nayが、「勝納」 と解釈すべきかもしれません。

小樽の難地名 有幌 勝納 於古発 アイヌ語後志方言におけるアクセント核の後退と運上屋移転に伴う移動地名『樺太雑記』

としている。有幌の解釈については自分も大いに悩んでいるところではあるが、少なくとも松浦武四郎は勝納川ではなく入船川について「アリホロナイ」と言っていたと思う。

「発火棒」説

『アイヌ語地名研究18号』掲載の『カッチ(katchi)「発火棒」のつくアイヌ語地名』では〈katciカッチ「火打棒」〉に注目し、全道各地のカッチ地名を紹介していた。

「崖の上の峰」説

『小樽の地名 郷土読本6』では〈ka-tu-nayカツナイ「崖の上・峰・川」〉とし、峰々から流れてくる川と解釈していた。

水源沢説

『河川標識』にもあったもう一つの対抗馬、「カッチナイ(水源沢)」説について迫ってみよう。

前述した通り1700年代の文献はどれも「かつち内」だったことからすると、少なくとも音の面ではぴったりはまっている感じがする。さらに勝納川といえば、水すだれの美しい奥沢水源地のある川。長らくに渡って小樽市民の喉を潤してきた一大水源地である。あるいは雨乞の滝などというものもある。まさに「水源沢」ではないか。

奥沢水源地の水すだれ

しかし一筋縄ではいかない事情があるのである。

カッチはアイヌ語か?

水源沢説は『駅名起源』の編集にも関わった更科源蔵先生の説である。

勝納(かつない)

アイヌ語カッチは水源を表す言葉であるが。

『アイヌ語地名解』更科源蔵

いたくシンプルな説明だ。しかし素直にそうだと頷けない大きな理由がある。

カッチ」という言葉は、どのアイヌ語辞典を開いても出てくることはないのだ。そもそもアイヌ語であるかすら疑わしいのである。

カッチは東北マタギ言葉

カッチの語源を探ってみよう。

川の上流をカツチといふことは陸奥の野邊地などにある(野邊地方言集)が、川内・甲地などと文字に書いて他の地方にも尠くない。甲子温泉の甲子も亦これに因んだ名と察せられる。決してアイヌ語などと解すべき理由はないのである。越後三面郷で謂ふカツチが山の頂上をさしてゐるのも、つまり地形に於てはほぼ同じと思はれる。

『分類山村語彙』柳田倉田

カッチとは東北マタギ言葉のようである。マタギといえばゴールデンカムイの谷垣源次郎を思い浮かべる人もいるだろう。関東から東北の山間部で伝統的な狩猟を行っていた集団で、蝦夷地にも入って狩りをしていた。このマタギ言葉とアイヌ語にはいくつかの共通語彙があるようである。

谷垣源次郎(ゴールデンカムイより)

マタギ言葉のカッチは「沢の奥地」を表す。沢をずっと遡っていくと、いつかそれ以上進めないどん詰まり地点に達する。それがカッチである。

これを「水源」と訳してしまうとどうにも勘違いしてしまいやすい。川の源ではあるが、そこに「水を取る」というニュアンスは含まれていない。残念ながら奥沢水源地も雨乞の滝も関係ないようだ。

カッチはアイヌも使っていた

カッチは厳密にはアイヌ語ではないが、実際にアイヌもいくらか使っていたようである。

ユーカラの語り部「川上まつ子」さんは何度か使っていた。「ペナコリの沢のカッチに」とか「大きな沢のカッチに家建てて」とか「そのキツネは確かに沢なりずっとのぼりきって、沢のカッチあたりさでも下りたから見られなかったんでないか」などと言っていた。

ここのポイントは、カッチを全て日本語の中で使っているということである。その言葉は知っているけれど、アイヌ語の中に織り交ぜて使うことは無かった。

文献に見える勝納川の支流名

カツナイの支流名を見てみると、〈si-kachi-nayシイカツナイ「本流の勝納川」〉〈mo-kachi-nayモウカツナイ「支流の勝納川」〉〈rawne-kachi-nayラウネカツナイ「谷深い勝納川」〉〈kachi-nay-etokカツナイイトコ「勝納の水上」〉といった名前が出てくる。アイヌ語の中に自然に組み込まれているので、この「カツ」は純粋なアイヌ語で構成されている言葉のような気がする。

沢の奥地を表すアイヌ語

宝永元年に独自に蝦夷地に渡った廻国僧正光空念はアイヌ語をいくつか記録した。その中に「山ノ奥かつち またへとく」とあり、カッチが「山の奥」だとしている。もう一つの「へとく」は〈etokエトク「先端」〉というアイヌ語である。ただ他の箇所でもアイヌ語ではない東北言葉を織り交ぜており、完全にアイヌ語とは言い切れない。

穴滝洞窟。これ以上進めないのでここがカッチ(沢の奥地)になる

空念も言っているように、沢の奥地を表す一般的なアイヌ語は〈etokエトク〉で、「イトコ」とも読まれる地名ではかなり頻出の語彙である。まさに「カツナイイトコ」なる地名も『川筋取調図』にはある。「奥地の沢の最奥」という二重な意味合いになりそうだ。

なぜ沢の奥地なのか

そう考えると、川の名前の由来が「沢の奥地」というのもちょっと奇妙な気がする。アイヌは普通は川口の地形などの特徴から川名をつけることが多い。

この点はもしかすると〈ru-pes-petルベシベ「峠道(道に沿う川)」〉と関係があるかもしれない。昔から勝納川上流部は峠道があり、二股沢の間から毛無峠に抜けるルート、白井沢の間から赤岩を通り松倉岩へ登るルート、穴滝の近くから小樽峠に至るルートの三種類の峠道ルベシベがあった。そこから定山渓や倶知安、あるいは虻田まで越えていく一大交通網を築いていたのだ。そのため必然的にカッチに当たる機会も多くあり、どこかでそれが川名になったのかもしれない。

勝納赤岩より小樽峠を望む(旧軍事道路跡)

あるいは本流を辿っていくと必然的に突き当たるのは穴滝洞窟なので、「この沢のカッチは見る価値があるぞ。」と噂が広まったのかもしれない。

穴滝

松浦武四郎は勝納川の別名として「ノブカ川」を挙げており、もしかすると原名はそちらで、カツナイの方が後からつけられた別名という可能性もある。〈nup-kaノプカ「野原の上」〉あるいは〈nup-pa-ta-un-nayノプパタアンナイ「野原の上の川」〉は勝納川河口に位置する信香のぶかの由来にもなっている。

勝納川の流れる奥沢町

「かっち」がアイヌ語かどうかにはやや疑問が残るところだが、音がぴったりとあっていること、そして東北マタギ言葉はアイヌにも取り入れられていることを考えると、「カッチナイ=水源沢」説を明確に否定できるだけの根拠は今のところ無いと思われる。

何よりも勝納川中流部の町の名前は「奥沢」だ。カッチナイの意味が「奥の沢」だとすれば、果たしてこれは偶然だろうか。ここを「奥沢村」と名付けた役人は、もしかしたらカッチのことが念頭にあったのかもしれない。

奥沢町

上流に奥沢水源地や雨乞の滝もあるし、町の名前は奥沢である。そう考えると「勝納川の由来は水源沢である。」と言うのはとても説得力があるし、覚えやすい。これでいいのではないだろうか。

もう一つの試案

これで話を締めてしまっても勿論構わないのだが、どうしても自分の説を出してみたくなるのが地名研究のサガである。カッチは水源説も悪くはないのだが、やはりアイヌ語ベースで考えたい。もう少しお付き合い頂ければ幸いである。

上の流れの川

勝納の由来は〈kan-chiw-nayカンチゥナイ「上の流れの川」〉ではないかという試案を以前から考えていた。〈kan-chiwカンチゥ〉とは直訳すると「上方の流れ」だが、「雹」「氷」「吹雪」あるいは「鉄砲水」などを表す言葉である。要は頭の上を流れていく水流のことだが、少し変わったところでは「隕石」なども表すらしい。

雨乞滝の氷爆

アイヌ語ラジオ講座では〈kanciw-eroskiカンチゥエロシキ「逆巻く流れ」〉とか〈kanciw-esan-petカンチゥエサンペッツ「流れ下る川」〉といった用法を使っていた。勝納川は幾度も氾濫しており、明治12年や昭和37年などは特に被害が大きかったそうだ。治水工事などしなかったアイヌ時代となれば鉄砲水に悩まされることも多かっただろう。

穴滝

あるいはどうしても頭をちらつくのが勝納川最上部の穴滝の風景である。洞窟の上から滝が流れ落ちる様や冬に見事な氷爆を見せる様は、まさに天上の水カンチゥと言って相応しい風景のようにも見える。

勝納がカンチゥである根拠

『陸通リ東西海岸図式』に見えるカッチウチ川

文化6(1808)年の津軽家文書『陸通リ東西海岸図式』の図には、勝納川について「カッチウチ川」と書いてあるように見える。カッチの後ろに「ウ」の音があった可能性を示す証拠である。1700年代の文献ではいずれも「かつち」としていた。先入観からこれを「かっちない」と読んでいたが、もしかすると「かっちうち」だったのではないだろうか?

『松前・蝦夷地納経記』に見える「かつち内」

となると〈kanchiw-us-nayカンチウシナイ「鉄砲水のよく起きる川」〉もしくは〈kanchiw-ot-nayカンチヲチナイ「天上の水の染み出す川」〉などがぴったりとあてはまる。中標津に観示守カンジウシ川という類例もある。カンチゥは前ではなく後ろにアクセントがある言葉で、「カンュー」という感じに発音される。そのため直前の音が促音と取られて「カッチュー」と聞こえることはあっただろうか。松浦武四郎はカンジウシ川について『辰手控』で「カチウシ」と「カチウシ」の混同をしていたことがある。

ただし他の地名の「内」はナイと読んでいた可能性が高いので、かっち内だけがカッチウチと本当に読んだのかは断定ができないところである。津軽家文書を描いた人の方が誤ってカッチウチと読んでしまった可能性も否定できない。

しかしはっきり当時の文献に出てくる証拠が見えるので、〈kanchiwカンチゥ〉を使った地名解は一定の理があるのではないだろうか。カンチウシナイがカッチナイと呼び馴らされ、やがてカツナイになったのかもしれない。

偶然にも「上の流れの沢」と「水源沢」は意味が似ている。カッチナイにしろカンチウシナイにしろ、どちらも「水上の沢」と訳すことができるので、勝納川の由来としてはとりあえずこれでいいのではないだろうか。

まとめ

勝納川(カツナイ)の由来は「水上みなかみの沢」である。表記は〈kachi-nayカッチナイ〉もしくは〈kanchiw-us-nayカンチウシナイ〉。

「水上」とは「水の流れの上の方。上流。川上」のことで、「水源地」、あるいは「沢の奥地」という意味合いもある。「奥沢町」の由来はここから取られているのかもしれない。このように呼ばれた理由は、上流から流れてくる水で氾濫したことに関係がありそうだ。

参考文献

  • 『蝦夷語地名解』永田方正
  • 『北海道の地名』山田秀三
  • 『データベースアイヌ語辞典 後志1』榊原正文
  • 『小樽の地名・川名を考える』奥野實
  • 『小樽の地名 郷土読本6』堀耕
  • 『アイヌ史のすすめ』平山裕人
  • 『アイヌ語地名解』更科源蔵
  • 『蝦夷地名地名録』白野夏雲
  • 『北奥地名考』金田一京助
  • 『小樽市史 第一巻』小樽市
  • 『小樽市博物館紀要 第9号 小樽市におけるクッタルウシ・カツナイ・オコバチ地名考』福岡イト子
  • 『アイヌ語地名研究 第18号 カッチ「発火棒」のつくアイヌ語地名』伊藤せいち
  • 『オタルナイ・レコード アイヌ語地名文法の部屋』浜田隆史
  • 『小樽の難地名 有幌 勝納 於古発 アイヌ語後志方言におけるアクセント核の後退と運上屋移転に伴う移動地名』樺太雑記
  • 『廻国僧正光空念師宝永元年(一七〇四)松前・蝦夷地納経』國東利行
  • 『アイヌ語ラジオ講座 平成29年度7-9月vol2』山丸賢雄
  • 『地名アイヌ語小辞典』知里真志保
  • 『アイヌ語沙流方言辞典』田村すず子
  • 『萱野茂のアイヌ語辞典』萱野茂著
  • 『分類山村語彙』柳田倉田
  • 『再航蝦夷日誌』『西蝦夷日誌』『武四郎廻浦日記』松浦武四郎
  • 『西蝦夷地高島日記』斎藤治左衛門
  • 『遠山村垣西蝦夷日記』遠山景晋
  • 『罕有日記』森一馬
  • 『観国録』石川和助
  • 『東海参譚』志鎌万輔
  • 『未曾有後記』遠山景晋
  • 『北溟紀行』鳥井存九郎
  • 『西蝦夷地日記』田川草伝次郎

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