明日風に残る蒲の湿原
小樽と札幌の境界あたりに「シイキナウシノタ」という地名がある。
非常にマイナーな地名で、今日の地図はおろか、昔の日誌や記録類にも全然出てこない。いわゆる “地名本”の類でも全く触れられておらず、ネットで検索しても札幌地理サークル会誌の地名リストと、当サイトがヒットするだけである。
というのも、この地名が出てくる文献は松浦武四郎の 丁巳日誌(丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌)ただひとつで、それも本文には出てこず、付図にひっそりとその名前が挙げられているばかりに過ぎないからである。
とはいえ火のない所に煙は立たぬという。武四郎がありもしない地名をでっち上げたわけでもあるまい。このあたりは湿地帯で和人がほとんど通らなかったところなので、記録にも残らなかったのだろう。
シイキナウシノタの位置と、その意味を解き明かしていこう。
シイキナウシノタはやや長い地名だが、単語で分けて考えるとそれほど難しい地名ではない。先に「シイキナウシ」の部分を見てみる。「キナウシ」はあちこちに見える地名である。kina は〈草〉、us は〈たくさんある/群生する〉の意味なので、「草がたくさんある」の意味である。そして si は〈本当の/本当に〉を意味する修飾語なので「シイキナウシ」なら「本当に草がたくさんある」くらいの意味かと思った。
しかし辞書を紐解いてみると、sikina で〈蒲〉という意味があることがわかった。蒲の茎は”ござ”を編むのに使うそうである。武四郎の野帳にこんな記述があった。
ハッシャフ辺にて用ゆるキナは シウキナ と云て蒲様之ものなり
『巳手控』松浦武四郎
ということでやはりここのシイキナは「蒲」で間違い無さそうだ。シイキナウシで「蒲のたくさんある」の意味になるだろう。
ではシイキナウシノタの「ノタ」の部分はどういう意味になるだろうか。音から候補として考えられるのは以下の3つである。
- ota 〈砂浜〉
- nutap 〈川の湾曲の内側〉
- nitat 〈湿地〉
蒲は水の非常に多い湿地帯で育つ水生植物である。そう考えると ota〈砂浜〉 は候補から外れそうだ。
nutap というのは川が湾曲している部分の内側を指す。
新篠津村の道の駅のところに「たっぷの湯」という温泉があるが、あの「たっぷ」がまさに nutap から来ていて、かつての石狩川が大きくそこで湾曲していて、その内側部分が poro-nutap であったようだ。対岸には幌達布も見える。
丁巳日誌の例の図を見ると、シイキナウシノタのすぐ下に「ノタフ」とあるのが見える。ちょうど川の湾曲部の内側に位置していて、こちらはまさしく nutap だろう。
語尾の t, k, h は音が出ないので和人がよく聞き落とすが、語尾の p は結構しっかり音が出るので聞き落としにくい傾向にある。そう考えると、シイキナウシノタのほうはどうにも nutap ではなく nitat のような気がする。武四郎は手稲の「テイネニタツ」に関しても「テイネノタフ」と書いていたことがあり、nitat と nutap を混同しているふしがある。
よってシイキナウシノタは sikina-us-nitat〈蒲の群生する湿地〉の意味であろう。
蒲の湿原……ここで少しピンとくるものがあった。そう、自分はかつてどこかで見ているのだ。蒲の群生地を。あれはどこだったか……、たしかどこかの公園だったような…。ということで探しに行ってみた。
あった!街中にも関わらず、かなりの群生地。山口イオンの裏にある明日風公園の一角である。すぐそばを東濁川が流れていて、その脇の窪地が水が溜まった湿地のようになっており、そこに一面の蒲が穂をつけていた。
この明日風公園の処がシイキナウシノタだったのではないだろうか。しかし断定するのはまだ早い。たまたまここにも生えていたに過ぎず、もっと別の場所もあったのではないだろうか?位置についてきちんと検証しておこう。
その前に、丁巳日誌の例の図が描かれた状況をまず考えてみよう。
松浦武四郎が手稲のこの地を通ったのは安政4(1857)年。できたばかりの銭函~発寒間の新道を見分するためであった。このとき、箱館奉行とその一行が新道見分のために来ており、武四郎は銭函で奉行一行と合流し、それに同行するかたちとなった。余談だが後に札幌の父とも呼ばれる島義勇も奉行一団の中にいたが、島は海岸沿いに石狩まで行く別働隊に組み込まれたため、こちらには同行していない。
この道路は箱館奉行が主導した、後の札幌越新道の前身となる道路であり、西蝦夷と東蝦夷を結ぶ、蝦夷地開発の第一事業となるはずだった。道路の開削は各地の場所請負人に任せた。銭函~星置間は小樽内の恵比須屋半兵衛、星置~発寒間は石狩の阿部屋伝兵衛。
ところができあがってきた道路はそれはひどいものだった。簡単に草を刈り分けただけで、しかも泥地を通っていたため、一同は苦言を呈する事になる。結局、銭函~星置間の恵比須屋の区間に関しては、同年に新たに丘の上に道を作り直すことで解決した。このとき開かれた道路は令和現在も半分が生活道路として活用されている。しかし阿部屋の担当した区間はさらにひどく、今もその道路はどこにあったのかわからない。阿部屋は箱館奉行の不興を大いに買い、イシカリ場所は取り上げられることになる。
さて、この図に描かれているヲタスツ(銭函)からホシホキ方面へと伸びている道路は、札幌越新道の前進となった道で、現在の国道5号に近いところを通っていたものと思われる。またヲタルナイ河口からも一本の道が伸びている。こちらは入植者の中川・中島らが刈り分けた道である。これも地図に落とし込んでみよう。
断っておくと、この図は正確とは云い難く、ホリカホシホキやコツウンナイの位置など、検証しなくてはならないところがかなりある。おおまかなイメージとして見てほしい。しかしシイキナウシノタの位置に関しては、現在の明日風公園のところとぴったり一致するような気がする。
これだけでは証拠として不十分なので、別の地図も見てみよう。明治4年に、銭函のポンナイから琴似まで新川開墾の計画を立てた時の図である。この計画は結局実現しないのだが、土地の様子について詳しく描かれている。
「湿地(青)」となっている範囲は意外と狭く、「茅野(黄)」と「木原(緑)」のところが多い。コツウンナイ(濁川)の先に「湿地」がみえ、ちょうどこれは明日風のあたりである。その周りには他に湿地はない。
ということで、やはり明日風公園周辺がシイキナウシノタと見て間違いなさそうだ。少なくとも150年前からここには蒲が生えていたのだろう。地名ができたのはもっと昔かもしれない。
明日風公園を整備し、ここの遊水地を作った札幌市も、まさかここが「蒲の湿原」と呼ばれていたとは思わなかっただろう。それでもこんな街中に、このようにしっかりとした群生地が残されているのは、まさに奇跡的なことである。
今後もこの貴重な蒲の群生地を大切にし、保存してほしいものだ。
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