アイヌ語の母音
アイヌ語も日本語をはじめとした多くの言語と同様に、母音は「アイウエオ」の5つである。ところが日本語と全く同じ発音というわけではない。ある時はウ音のはずがオ音に聞こえたり、イ音に聞こえたりする。古アイヌ語の母音は7つだったのではないかという研究もあり、完全に一致しているわけではない。
少し違うが、例えば英語でも win は「ウィン」、went は「ウェント」なのに対し、want は「ウォント」、wonder は「ワンダー」、wuzは「ワズ」などローマ字読みではなかなか理解できない発音になる。
アイヌ語地名においては、moruran が 室蘭 になったりする。元のアイヌ語は変わらないが、それを聞いた和人が別の音として聞き取ってしまうのだ。これを 転訛 という。転訛にはさまざまな種類のものがあるが、なんでもかんでも好きなだけ転訛するわけではなく、ある一定のルールがあり、ルールから外れた転訛を用いている地名解は疑いの目で見なくてはならない。
ここではひとまず「母音の転訛」にだけ注目して、そのルールを見ていこう。
母音の転訛
この記事で考える母音の転訛を1枚の図にしてみた。ここで述べる考えがすべてこの1枚に詰め込まれている。こう見ると非常にシンプルなルールである。
すなわち、ウはイ、オとそれぞれ転訛の関係にあり、イとエもたまに転訛する。一方でアは独立しており滅多に転訛しない。またそれ以外の母音同士もあまり転訛しない。ルールはこれだけである。
詳しく見ていこう。
主な3つの転訛パターン
【室蘭型】ウとオの転訛
ウ音とオ音の転訛はもっとも起きやすく、例を挙げるとキリがないほどである。オは表記上ではヲが使われることが多く、口をはっきり開けないウ音に近いオ音なのだろう。そのためよく取り違えられる。
室蘭 は元の発音は mo-ru-ran だが、「モルラン」が「モロラン」になり「ムロラン」になった。いずれもウとオの転訛によるものである。このタイプの転訛を 室蘭型 と呼ぼう。
ただし転訛が起きている場合は、ウとヲの両方の表記ブレが生じることが多い。例えば転訛が起きている「us-or:忍路」はウショロ、ヲショロの両方の表記ブレが見られるが、転訛していない「osor-kot:押琴」はヲショロコツしか見えない。
ota に 歌 の漢字を当てる例が多い。また nu は言いにくいらしく、多くは「ノ」に置き換わっている。aynu のことを昔は「アイノ」と呼んだものだが、これもこのパターンだ。nupuri も「ノホリ」と書かれる。
また、アイヌ語に「ツ」という発音は無く、tu は「トゥ」に近い発音なのだが、これを「ト」と書く例は非常に多い。
転訛の例
- mo-ru-ran 〈小さな下り坂〉:室蘭
- ota-sut 〈砂浜の端〉:歌棄
- ota-us-nay 〈砂の川〉:歌志内
- ota-nupuri 〈砂の山〉:歌登
- nupur-pet 〈濃い川〉:登別
- poro-nup 〈大きな野〉:幌延
- nup-sa 〈野の浜側〉:信沙
- nup-ka〈野の上〉:野塚
- si-nut 〈真の瀞〉:篠津
- hura-nu-i 〈匂う所〉:富良野
- kot-un-i 〈窪地の所〉:琴似
- tu-kotan〈古い村〉:床丹
- tu-mak-oma-i〈古い奥川〉:苫小牧
- us-or 〈湾の所〉:忍路
- mem-or 〈泉の所〉:芽室
- suma-moy 〈岩の入江〉:島武意
- poro-moy〈大きな入江〉:幌武意
- i-ru-un-nay 〈熊跡の沢〉:色内
- mu-ray 〈塞がる遅流〉:望来
【熊石型】イとウの転訛
イとウの転訛もそれなりの頻度で見かける。このタイプの転訛を 熊石型 と呼ぼう。
瀬棚の熊石と小樽の熊碓はどちらも kuma-us-i から来ている。「クマウシ」が「クマイシ」「クマウス」とそれぞれ転訛したのだ。小樽の張碓は haru-us-i から来ているが、「ハルウシ」「ハルウス」「ハリイシ」「ハリウス」といった転訛が見られる。ア音の「ハ」だけは絶対にブレず、いずれもイ音とウ音の転訛によるものである。とりわけ us-i は 「ウス」、ot-i は「オツ」などとよく書かれ、形式名詞の i は発音が弱いようだ。
また、suma は 島 という漢字を当てるケースが多い。
ちなみに東北のズーズー弁と呼ばれるものは、シ・ス・ジ・ヂ・ズ・ヅの区別がなくなるというものだ。私を「ワタス」と発音したりする。アイヌ語はそれに少し似ているが、これらに限らずイ音とウ音全般に起きる。
転訛の例
- kuma-us-i 〈魚干棒の所〉:熊石 ・ 熊碓
- haru-us-i 〈山菜の所〉:張碓
- ra-us-i〈低い所〉:羅臼
- kotan-us-i 〈村の所〉:小田西
- ciw-ruy 〈激しい流れ〉:忠類
- kene-putu 〈榛木の河口〉:剣淵
- pit-or 〈小石の所〉:太櫓
- suma-ota 〈岩の浜〉:島歌
- suop 〈箱沢〉:聚富
- sup-or 〈激湍〉:士幌
【遠軽型】イとエの転訛
イとエの転訛はそれほど頻繁には起こらない。代表的なものは inkar-us-pe が 遠軽 になるケースだろう。このタイプの転訛を 遠軽型 と呼ぼう。
子音の y は「イ」と発音するが、これは「エ」になることがある。あるいは -oma-i に 「前」の漢字を当てるケースがよく見られるだろうか。また今井八九郎はイ音の地名の多くを「ヱ」として記載しており、それを参照した松浦武四郎もイをエとしていることがある。オタモイをオタモヱとするような例がある。一方「ヰ」が地名で出てくることは稀だ。
転訛の例
- inkar-us-pe 〈見張り場〉:遠軽
- ipe-ot-i 〈鮭の所〉:江別
- taor-oma-i 〈川岸の高所〉:樽前
- mat-oma-i 〈妻の所〉:松前
- toma-oma-i〈延胡索の所〉:苫前
- moyre 〈淵〉:茂入・モエレ沼
- kamuy-nay 〈神沢〉:神恵内
- epuy〈小山〉:絵笛
- terke-us-i〈飛び越える所〉:照岸
- etu-ranke-us-i〈崎の下る所〉:板切石
- koy-tuye〈浪切〉:声問
パターンから外れた転訛
アの転訛
他の4音と比べ、アだけは独立しており、ほとんど転訛することがない。
ただし yam に 山、 moy に 前 と漢字を当てるケースが数例あり、漢字に引かれてアになることがあるだろうか。逆に元の発音がアで、他の母音になるケースは見たことがない。
転訛の例
- yam-uk-us-nay 〈栗を採る沢〉:山越内
- yam-us-i〈栗のある所〉:山碓
- tanne-moy 〈長い湾〉:種前
- pon-moy〈小さな湾〉:ポン前
その他の転訛
イ・ウ・エ・オ音が頻出3組の枠を超えて転訛することは極めて稀で、このパターンの地名解はかなり注意深く調べる必要があるだろう。再考の余地があるものもたくさんある。
下記のリストは慎重に検討した末、残ったものである。夕張はシューパロという音が残っているし、釧路は昔は一貫して久寿里だったので、これらは転訛と考えて良さそうだ。
転訛の例
- kururi 〈温泉〉:釧路(イ → オ)
- yu-paro〈温泉の口〉:夕張(オ → イ)
- kunne-i 〈黒い所〉:国縫 (エ → ウ)
再考の余地がある転訛
頻出の3パターンから外れており、再考の余地がある定説の地名解をいくつか取り上げてみよう。
怪しい転訛
- ichani 〈産卵場〉: 朝里 (イ → ア)
- sikerpe〈キハダの実〉:鹿部(エ → ア)
- esor 〈沿う〉:足寄 (エ → ア)
- hur-ka〈丘の上〉:春香(ウ → ア)
- hure-pira 〈赤い崖〉:古平(エ → ウ)
- pi-ruy〈転がる砥石〉:広尾(イ → オ)
- ni-moy〈木の湾〉:根室(イ → オ)
- i-kus-un-sir〈向こうの島〉:奥尻(イ → オ)
このような母音転訛を用いた地名解は慎重に考え直す必要がありそうだ。
コメント