7枚の蝦夷図
未知の蝦夷ヶ島
江戸時代中期の18世紀、”蝦夷ヶ島” はまだ未知の島だった。アイヌたちはこの広大な大地を縦横無尽に歩き回っていたが、文字も地図も書かない彼らは、細かい沢一つ一つにつけた地名によって場所を見分け、いくつもの山を越えコタンを行き来していた。彼らがつけたそれらの地名は、今もいくらか残っている。
和人によって地図はいくつも作られたが、だれも北海道の正確な形を知らず、18世紀の地図はひどく歪んだ海岸線を描いている。海岸沿いはまだ良い方で、内陸部となると和人がほとんど立ち入ったことはなく、全く霧に包まれていた。

19世紀に入ると状況は一変する。近藤重蔵一行の測量を用いた蝦夷地探検により、北海道の輪郭が正確に映し出されるようになる。また内陸部の調査も少しずつ進んでいき、大河だけでなく細かい川や沢の名前も記録に残されるようになる。

松浦武四郎の描いた『東西蝦夷山川地理取調図』は蝦夷図の集大成とも言えるものだが、武四郎一人でこれらの地名すべてを集めたわけではない。そこには先人たちの気の遠くなるような現地調査と測量が前提にあり、それらと比べながら読み解いていくことで19世紀における蝦夷図の進歩を垣間見ることができる。
地名研究に役立つ蝦夷図
開拓以前の北海道を描いた北方図・蝦夷図はたくさんある。きちんと数えたことはないが、100枚以上はあるだろう。だが細かな地名を記していたり、内陸の支流名まで網羅している地図は両手で数えるほどしかない。
- 海岸線が測量的に正確
- 場所名だけでなく小名まで書かれている
- 大河の支流まで書かれている
これらを満たす地図となると、本当に少ない。それらのなかでも、とりわけ地名研究に役立つ6枚の幕末の地図を紹介したい。あわせて、それらをつなぐ集大成である明治の1図も加え、以下の7枚の地図を地名研究の基本となる地図とする。
6図+1図の作者と年代
No. | 地図名 | 作者 | 年代 |
---|---|---|---|
1. | 秦蝦夷島図 | 秦檍麿 | 1808頃 |
2. | 伊能大図 | 伊能忠敬 | 1821年 |
3. | 間宮河川図 | 間宮林蔵 | 1821頃 |
4. | 高橋蝦夷図 | 高橋景保 | 1826頃 |
5. | 今井測量原図 | 今井八九郎 | 1841頃 |
6. | 松浦山川図 | 松浦武四郎 | 1859年 |
7. | 道庁実測切図 | 北海道庁 | 1890年 |
1~6までを幕末の蝦夷図6図とし、それに明治の実測図1図をあわせて7図とする。北海道の地名研究において、どれも欠かすことのできない必見の地図である。
1. 秦蝦夷島図

作者と背景

秦檍麿 は 村上島之允 の別名で、江戸幕府の役人として何度も蝦夷地を調査した画家である。彼の描いた『蝦夷島奇観』はアイヌ文化を絵で描いた史料として非常に重要視されており、もっとも有名なアイヌ風俗画の一つと言えるだろう。
秦は近藤重蔵の探検隊の一員に加わっており、絵だけでなく測量技術やアイヌ語にも通じていたようだ。あの間宮林蔵の師でもある。
蝦夷島奇観はとても有名だが、彼の描いた地図の方はあまり注目されることはない。しかし蝦夷地全土の地名と支流名を詳細に記した地図としては知る限りで最も古いもので、その史料的価値は計り知れない。この地図はいろいろな名前で呼ばれているが、ここでは仮に『秦蝦夷島図』と呼ぶことにする。
地図の特徴
この地図の特徴として、まず地名が非常に細かい。海岸地名の詳細さは50年後の松浦山川図にも匹敵するほどで、この地図にしかない地名もいくつか見える。たとえばオタモイ海岸のチャラセナイとポンチャラセナイという2つの滝を双方とも挙げているのはこの地図だけである。

川筋は主要な川に限られているが、後志管内では余市川・堀株川・尻別川・朱太川の詳細な支流名を挙げている。また石狩川に関しては非常に奥深くまで記しており、旭川より上流の愛別までその名前が見える。
また運上屋と思われる位置に赤で印がついているが、北大版は銭函のヲタルナイに赤丸があり、道立版は熊碓に赤丸があり、この時代はすでに入船にあったと思われるので、その位置にはやや疑問が残る。
しかしいずれにせよ非常に興味深く、研究の価値がある史料と言えるだろう。
良い点:
- 地名の小名を記載した地図としては最も古い
- 主要な河川の支流名を記したものとしても最も古い
- この地図にしかない海岸地名もある
悪い点:
- 現存する写図には非常に誤字が多い
閲覧方法
原本は見つかっておらず、現存しているのはすべて写本と思われる。以下の3つの写本が確認できる。
- 松前蝦夷地嶋図 (北大)
- 北海道(道南地方)精図 (道立)
- 津軽藩旧蔵文化七庚午年蝦夷地図(弘前)
史料の解題を見ても誰が書いたのか定かではないように書いてあるが、2015年の伊能忠敬研究会の研究により、この地図が秦檍麿によるもので、原図は1808年に描かれたものだと特定されたようだ。
いずれも写本であると思われる根拠は、誤字が非常に多く、別の版にはない地名もいくつか見られることによる。なお津軽藩旧蔵の地図は山田秀三氏が手書きの写しを書いたものを著書に掲載しており、現物は見たことがない。
2. 伊能大図

作者と背景

伊能忠敬 といえば知らない人はいないというほど有名な人物で、『大日本沿海輿地全図』、通称『伊能図』は初めて日本全土を正確に実測した非常に貴重な地図と言えるだろう。伊能図には大図・中図・小図の3種類があるが、このうち最も詳細に書かれた大図を『伊能大図』と呼ぶ。完成は1821年。しかし伊能忠敬は約3年前の1818年には既に死去しており、実際に製図を行ったのは伊能の弟子たちのようだ。
実は北海道に関しては、伊能忠敬は太平洋側しか測量しておらず、日本海側に来たことはない。近年の研究により、伊能図の北海道全体は間宮林蔵の測量結果を用いて描かれたものだったことが明らかになったようだ。
地図の特徴
蝦夷地の測量自体は間宮林蔵が行ったが、『伊能大図』は後述の『間宮河川図』と比べていくつかの良い点がある。それは地名の位置が非常に正確なことである。江戸時代の蝦夷図のうち100m単位で位置が正確に記されているのはこの『伊能大図』と『今井測量原図』しかなく、地名の正確な位置を知るのには欠かせない史料となっている。
内陸の川の支流名こそ描かれていないものの、海岸沿いに名のない小川が無数に書き込まれており、しかもその位置が非常に正確。例えば銭函の礼文塚川 から張碓川の間に7本ほどの小さな無名川があるが、それらがすべて伊能大図にも書き込まれている。この地図の信頼性の高さがよくわかる。

良い点
- 地名の位置が極めて正確
- 名前のない川の河口の位置も正確で、これは他の6図にはない特徴
- 集落の位置が金色の四角によって示されている
- 海岸から見た山の形も描かれている
悪い点
- ほとんどの川の支流名が描かれていない
- 海岸地名の密度がやや低め
閲覧方法
国土地理院のサイトから大図のほぼ全図が閲覧できる。
- 伊能図/古地図コレクション(国土地理院)
各図が繋がっていないので場所によって切り替える必要があるが、オンラインで全て完結するのはありがたい。札幌中央図書館に行けば大きく印刷された伊能図を見ることもできる。
3. 間宮河川図

作者と背景
間宮林蔵といえば、近代日本史を習ったことがある人なら一度は耳にしたことがあるだろう。樺太を探検し、半島ではなく島であることを発見したことから、「間宮海峡」(タタール海峡)と呼ばれるようになったというエピソードは有名だ。樺太に一番近い宗谷岬の先端には彼の像が立っている。
しかし彼は探検家であると同時に、地図製作者でもあることはあまり知られていない。伊能図のところで述べたように、伊能大図の北海道部分は間宮林蔵の測量データが使用されている。それだけでなく、間宮林蔵自身も地図を作成しており、その間宮河川図は最も重要な蝦夷図のひとつになっている。
最初、間宮は師である秦檍麿に同行していたと思われるが、やがて自ら蝦夷地を縦横無尽に探検し始める。しかし彼は日誌を残さなかったため、その足取りははっきりとはわからない。松浦武四郎は間宮林蔵の30年前の足跡を何度も追いかけており、現地アイヌが和人の探検家が来たことを話すと「おそらくそれは間宮氏なるらん」と言ったりしている。間宮林蔵はアイヌ女性と結婚しており、その間に子どもを設けていて、その子孫は今も残っているという。
間宮林蔵は秦檍麿の弟子であるとともに、伊能忠敬から技術を教わったことも知られているが、意外なことに決して円満な関係であるとは言い切れなかった。とくに伊能派との訣別は後にシーボルト事件へと発展していく。
地図の特徴
間宮河川図の海岸地名は伊能図のものに近い。それもそのはず、伊能図は間宮図のデータを使用しているからである。濃昼の「ポンキピリ」が「ポキンピリ」になっていたり、伊能図の方が誤りがあることから、間宮図のほうがオリジナルに近いことがわかる。伊能図には支流名がほとんどないことから、伊能図完成後に間宮林蔵がさらに書き加えたものなのかもしれない。そのため成立年ははっきりとはわからない。
この地図はなんといっても内陸の支流名が非常に詳しい。その殆どは間宮林蔵自ら探検し、調べたものだと思われ、松浦武四郎のものよりも正確性が高い。武四郎も多くの支流をこの間宮図から写しており、そのメモが彼の手控にはたくさん書き写されている。
例えば松浦山川図では混乱が見られた朝里川・柾里川についても、間宮河川図ではきちんと描かれている。松浦図は複数の情報源をマージさせているため、かえって混乱が見られることがあるので、間宮河川図のほうが支流に関する信頼性は高い。

間宮河川図は内陸部の地名を考えるうえでは絶対に欠かせない史料になっている。
良い点
- 支流名が非常に詳細で6図の中で最も正確
- 運上屋、番屋、アイヌ集落の位置が記号で記されている
- 山道のルートも記されている
悪い点
- 大きな1枚に落とし込んでいるため座標の位置までは正確につかめない(伊能大図で補間)
- 支流の位置関係はまだまだ荒削りである
- 支流の左右が間違っているところがある
閲覧方法
残念ながらオンラインで見る方法がない。また、一般の書籍や図書館などでも見ることができない。それがこの図へのアクセスを難しくしているところである。
最も簡単な方法は、小樽総合博物館(運河館ではない)に入館料を払い、入ってすぐの壁に貼ってある地図を見ることである。

国立公文書館でこの「北海道実測図」を閲覧申請することもできるが、遠隔複写する場合20,123円の料金がかかると言われてしまい諦めざるを得なかった。
道内在住ならば北大に赴き「北海道全図(河川図)」の閲覧をさせてもらうのが良いかもしれない。
4. 高橋蝦夷図

作者と背景
高橋景保は幕府の天文方の学者で、父の高橋至時は伊能忠敬の師である。忠敬を支え、彼の死後に伊能大図を完成させた。伊能の死は3年間幕府に伏せられていたと言われ、高橋と伊能の弟子達が伊能の死を隠しながらなんとか伊能図を完成させるエピソードをコメディタッチに描いた「大河への道」という邦画はなかなか面白い。部屋いっぱいに敷き詰められた伊能大図を11代将軍家斉の前に提出し、「これが余の国か……美しいな」と将軍に言わせたシーンはクライマックスである。

しかし景保はそれから8年後に悲劇の最期を迎える。知識欲が災いし、オランダ人シーボルトに彼の持つ地図と交換する形で伊能図の写しを渡してしまった。これが幕府に見つかると、シーボルトは国外追放され、高橋景保はスパイ容疑で投獄され獄死した。死後にさらにその死体を斬首されたということで、地図を外国人に渡すことが当時いかに重罪と見なされていたかがわかる。いわゆる「シーボルト事件」である。一説によると彼を密告したのは間宮林蔵で、間宮と伊能派の確執があったことが指摘されている。
この高橋蝦夷図は間宮・伊能図を元にして描かれた1枚の蝦夷図で、これもシーボルトの手に渡ったものと思われる。しかし松浦武四郎は見たことがなかったのか、この図の地名について言及した例は見えない。
地図の特徴
高橋景保は役人であり、6図の作者の中では唯一蝦夷地に直接赴いたことがない。川のない伊能図に川を書き加えたいわば完成形であり、多くの地名は伊能・間宮図と共通点が見られる。
地名の密度は間宮図ほど多くはなく、 他の6図と比べると参照の価値はワンランク落ちるのか、地名学者の間でも話題に上がることはあまりない。しかしよく見ると伊能・間宮図には無い川名がちらほらとあり、支流名を記した地図が極めて少ない蝦夷図の中で、参照の価値は充分にある。
例えば余市川上流の赤井川は他の誰も言及していないが、高橋蝦夷図には「シチリカ川」という他の地図には見られない川筋が書かれている。江戸時代に和人が赤井川まで到達した記録は無いので、どこかから情報を仕入れたのだろう。高橋の下に蝦夷地に詳しい無名の案内人がいたのかもしれない。

他図と比較しながら見ると高橋蝦夷図の価値が浮かび上がってくる。特に支流名を知りたい時は是非チェックしておきたい。
良い点
- 支流名が描かれた貴重な地図である
- 平地と山地が塗り分けられている
悪い点
- 多くの海岸地名は伊能・間宮図の写しである
- 地名の発音に妙な癖がある
- 他の6図より地名の密度は高くない
閲覧方法
高橋蝦夷図は国立国会図書館デジタルコレクションから見ることができる。
道央と道東の2枚に分かれてはいるが、閲覧は非常に簡単で参照しやすい。
5. 今井測量原図

作者と背景
今井八九郎名は松前藩士で、松前藩から蝦夷地測量の名を受けて10年がかりで測量を行った人物である。6図の他の作者に比べると一番マイナーだが、最も詳細に江戸時代の蝦夷地の海岸を調査した人物であり、その功績は計り知れない。
松浦武四郎も今井測量図の写しを持っていたようで、たびたび言及している。彼が距離を述べた時は実測ではなく今井図を参照している事が多い。武四郎が日誌の中で「本名、〇〇」と地名を挙げる時は大抵、この今井図に書かれた地名である。
残念ながら完成した製図は箱館戦争の際に焼失してしまったらしい。しかしその下書きと言える図が何種類か残されている。特に「今井測量原図」と呼んでいる海岸測量図は極めて価値が高い。
地図の特徴
この時代に測量された正確な地図として比較対象に伊能図があるが、伊能図は海岸を歩いて測量したのに対し、今井図は海上から船で測量しており。測量点を点と線で繋いでおり、その精度は高い。歩きにくい断崖絶壁が続く西蝦夷ではとくに顕著である。

今井測量原図の最大の特徴は、地名の正確な位置がわかることである。100m単位でその地名が指す位置を知ることが出来、その地名が何を指しているのかがわかるようになっている。
海岸地名の密度は6図の中でも最も高く、位置が正確なのもあわせて、まず一番最初に参照すべき地図になっている。アイヌ語に対する理解度も高く、和人によって言い馴らされる前の地名の原語を記録していることが多い。
例えば留萌をルルモッペだけでなく、ルンヌモンベツという形を残しているのは今井図だけである。桃内のヌムオマナイや様似のエシャマニなど、地名解に重要なヒントを与えてくれる。ただイをヱと書く妙な癖があり、今井図でヱが出て来たらとりあえずイと読み替えるといい。

今井測量原図には海岸地名しかなく、内陸の支流は描かれていない。ただし1枚にまとめられた今井製図原稿にはいくらかの川筋が描かれており、東西大河図には主要な河川の支流について情報がある。
良い点
- 地名の位置が正確で細かい
- 海岸の形も正確で、崖か平地かおおまかにわかる
- 地名を独自に聞き取っており、アイヌ語地名解に役立つ
悪い点
- 清書された図が失われており、下書きしか残っていない
- 川の支流が書かれていない(大河図でいくらか補完できる)
閲覧方法
国立文化財機構の「e国宝」から閲覧できる。
- 北海道測量原図(西蝦夷地) ※今井測量原図
- 北海道測量原図(東蝦夷地) ※〃
- 北海道製図原稿 ※今井製図原稿
- 東西蝦夷地大河之図 ※今井東西大河図
また彩色された写図が北大附属図書館で閲覧できる。
- 松前蝦夷地海岸明細図(仮称)/北大 ※今井海岸図
6. 松浦山川図

作者と背景

松浦武四郎は幕末の探検家で、後に明治政府の役人となり、北海道命名の父とも呼ばれることもある。彼が書いた「東西蝦夷山川地理取調図」(松浦山川図)は蝦夷地北海道の地図の傑作として、多くの場面で取り上げられている。そこにびっしりと書き込まれた9000ものアイヌ語地名は、見れば見るほど圧巻である。
武四郎が他の地図製作者とは異なっている点は、地図が出来上がるまでの過程を詳細に記録していることだ。まずは机上調査から始まり、既存の地図や地名抄・日誌などの文献に目を通しメモをする。それから現地案内人に地名を聞き取り、自ら歩いてその場所を確かめ、詳細な日誌を付ける。それから紀行文として編纂し、川筋をそれぞれまとめ、最後に一枚につながる地図として完成させる。その過程が詳しく残されているため、彼がどういうプロセスでこの地図を書くに至ったかを確かめることができるのだ。とりわけ6回に渡る蝦夷地探検の日誌はよく研究されており、参照する価値が高い。
しかしながら複数の情報源をマージさせているため、それらの整合がうまくいかず、混乱している部分も多々あるのも事実である。しかし前述の通り彼は作業過程を詳しく残しているため、どこで誤りが混入したのかが、よく調べるとわかるようになっている。そのためこの松浦山川図や、蝦夷日誌を読み込むときは、それを盲信するのではなく、その前提となった情報をきちんと確認することが大切である。
地図の特徴
”山川地理取調図”の名を冠するだけあり、松浦山川図は川筋に関する情報が群を抜いている。地図中にびっしりと支流名が書き込まれており、海岸地名が主であった当時の他の地図を凌駕している。
小樽の川も詳しく書かれているが、残念ながらほとんどの支流名は失われてしまっており、現在確認できる小樽の支流名は勝納川の恩根内くらいである。どの支流を指しているのかわからなくなっているものも多く、多くの研究がなされている。

松浦山川図の川筋のなかには間宮河川図からそのまま持ってきた地名もある。一方で武四郎自身が現地案内人から聞き取った支流名もあり、彼の手控を見てその真偽を判断する必要があるだろう。単純に現在の地図と比べてあれがこの支流だろうと決めつけてしまうのは早計である。一部、武四郎が”水増し”したとも思われる支流名もあり、そのあたりも含めて扱いは要注意である。
それにしても、これほどまでに地名が記された地図は他にないので、研究する価値は十分にあるだろう。
閲覧方法
松浦山川図はGithub上に公開されているので、ここから見るのが一番わかりやすいだろう。
函館中央図書館のデジタル資料館でも、それぞれに分かれた元の地図を閲覧することができる。
7. 道庁実測切図

作者と背景
北海道実測切図、もしくは道庁20万図とよばれるこの地図は、他の6図とは大きく性格が異なっている。明治23年に作られた地図で、江戸時代の手書きの地図ではなく、現代の地図に匹敵する高い精度を持っている。
明治時代前半の北海道図は非常に質が悪かった。例えば 官板実測日本地図 は伊能図と松浦図を雑に融合させただけなため銭函川が手稲山を突き抜けていたりするし、明治25年の陸地測量部20万地勢図はアイヌ語地名の位置がめちゃくちゃになっている。
それに対してこの道庁の地図はアイヌ語地名を多数記載しながらも、その位置が正確である。これ以降の地図はアイヌ語地名がほとんど消えてしまうし、これ以前は正確性に欠ける地図ばかり。すなわちこの道庁20万はアイヌ語地名の位置が正しく配置された唯一の地図と言ってもいい。アイヌ語地名と日本語地名をつなぐ架け橋のような地図なのである。
北海道の地名研究にあたって、絶対に外すことができない重要な地図がこの道庁実測切図なのである。
地図の特徴
日本語地名とアイヌ語地名の両方が混在しており、現在の地図からは消えてしまった地名が多数記載されている。

当時の各村の領域がはっきり示されており、当時の行政区画を把握することができる。また道路がたくさん描かれており、旧道や旧旧道のルートを探るうえでも非常に役に立つ。
非の打ち所がない素晴らしい地図だが、あえて難点を上げるとすれば、記載されたアイヌ語地名は永田地名解を反映したものとなっており、生のアイヌ語地名とは変わってしまっているものがある。たとえば「タウシュベツ」の”ウシュ”は永田地名解の癖である。(実際の発音はタトゥシベツに近い)。

しかしこの地図がなければ多くのアイヌ語地名の位置が不明のままになっていたため、絶対に参照すべき本当に貴重な地図と言える。
良い点
- アイヌ語地名の位置が正確
- 支流名の位置を正確に知ることができる唯一の地図
- 行政区画や旧道の位置もわかりやすい
悪い点
- アイヌ語地名が地名解を反映したものであるため、逆に生のアイヌ語と離れてしまったものがある
閲覧方法
道庁実測切図は以前は図書館に行かなければ見ることができなかったが、最近Githubで閲覧できるようになり、非常に参照しやすくなった。
7図の関係
各図の参照関係は以下のようになっている。

間宮・伊能・高橋の3図には相似点があることや、松浦図は間宮・今井の地図を大いに参照していることは理解しておいて損がないポイントである。
これに加えて更に地名解の参照関係もある。武四郎は上原熊次郎解を参照しており、永田方正は上原解と松浦解を、そして道庁実測切図は永田地名解を参照している。それらを取りまとめたのが山田秀三氏である。誰がどの情報にアクセスしているかは、地名の信憑性を探るうえで重要な手がかりとなる。
これらの7枚の地図を見比べながら、北海道のアイヌ語地名を解き明かしていきたい。
コメント