ニセコ
ニセコ町と倶知安町ニセコ
ニセコの人気が止まらない。ニセコの中心である”ひらふ坂”における地価は、10年間に14倍も跳ね上がったそうで、地価上昇率日本一であったようだ。
少し紛らわしいところだが、一番人気であるニセコヒラフスキー場のある”ひらふ坂”は「ニセコ町」ではなく、「倶知安町ニセコひらふ」に位置する。ニセコアンヌプリ山には5つものスキー場があり、2つは倶知安町に、3つはニセコ町にある。
そのため一般に「ニセコ」というと、ニセコ町に倶知安町比羅夫と岩尾別地区を含めた、尻別川・倶登山川西岸地区を指して言うことが多いのではないだろうか。
真狩村の狩太
ニセコ町はカタカナのみで構成された日本で唯一の市町村名となっている。2003年に山梨県に「南アルプス市」が新たに成立したが、カタカナを主体とした市町村名は今もこの2つだけになっている。
「ニセコ町」に改称したのは1968年。それ以前は「狩太村」という名前であった。元々は「真狩村」の一部で、真狩川のputu〈河口〉すなわち真狩太から来ている。あまり響きが良くないということで、リゾート地としてのイメージ向上も兼ねてニセコに改名したようである。
ただ倶知安町からは”ニセコ”という地名を独占されることに懸念があったようで、反対運動などもあったが、倶知安町のほうは「ニセコひらふ」とすることで双方ともニセコの地名を持つ形になっている。
なお明治26年当初はニセコ・真狩・京極・喜茂別も含めこの辺りの羊蹄山麓すべてが倶知安村に含まれていた。
ニセコアンヌプリ山
ニセコ町はスキー場のある山すなわち「ニセコアンヌプリ」から来ている。
- nisey-ko-an-nupri〈渓谷がそこにある山〉
この「渓谷」とは川の両岸が切り立った箱のような崖地形を指している。昆布温泉のあたりに「ニセコアンベツ川」というのがあり、その川沿いではまさに箱崖が見られる。
ただ「ニセコアンヌプリ」は江戸時代の史料には出てこない名前で、幕末の探検家・松浦武四郎はこれを「岩内岳」と呼んでいる。明治時代、イワオヌプリに硫黄鉱山が開かれた時に「ニセコアン登」と呼ばれるようになった。
ところが明治の地名辞典に少し気になる記述がある。
一に岩内岳と呼ばれ、三峰並立す。其中鋒は標高1020m、西方智勢登は1150m、東南西強登は1000mに達せず。中鋒の北辺に大池あり。又、智勢登の中腹にも大沢あり。そして其の硫黄採取は、専、西強登に行はる。
岩内岳の別峰ニセコアン登は、岳の南に突起し、今、南尻別村の管内たり。硫黄鉱あり、岩内より登攀して常に之を採る。
『増強第日本地名辞典』明治42
西強登が「1000mに達せず」と書いてあるのは興味深いところだ。ニセコアンヌプリは1000mをゆうに越える1308mで、ニセコ連峰で一番高い山である。辞典に書かれた標高からすると「中鋒」はイワオヌプリ、智勢登はそのままチセヌプリで良さそうだ。1000mに達していないということで『倶知安町百年史』では南のモイワ山(838m)がニセコノボリだったのではないかと比定している。
ただ明治時代の地図を見ると、ニセコアンヌプリになぜか標高が振られておらず、モイワ山の790m(実際は838m)のほうに標高がある。ここからすると地名辞典の著者は、この地図を見て790mがニセコアンヌプリの標高だと勘違いした可能性が高く、ニセコアンヌプリはやはり明治時代からニセコアンヌプリだったと見ていいのではないだろうか。
比羅夫のニセイケ
松浦武四郎はニセコアンヌプリもニセコアンベツ川も書いてはおらず、かわりにそれらを「岩内岳」「ハンケイワオベツ〈下の岩尾別川〉」と呼んでいる。
しかし武四郎はそれとは別に「ホロニセイケ」「ホンニセイケ」という地名を上げている。
- poro-nisey-ke〈大きな渓谷の所〉
- pon-nisey-ke〈小さな渓谷の所〉
2つのニセイケは岩尾別川と真狩村の中間あたりにあり、どうにも比羅夫駅のあたりらしい。というわけで、ニセコの由来である渓谷は比羅夫駅のすぐ北にある大曲のあたりにもあったようだ。
もう一つのニセイケ
江戸時代において、倶知安・ニセコ地区は人の住まない秘境であり、アイヌですら秋になると鮭を採りにやって来るだけだった。そのため記録は極めて少なく、このあたりの地名を記録は松浦武四郎と間宮林蔵の2人しかいない。
では間宮林蔵はニセコについてなんと書いたのだろう。間宮河川図によると「ニセーケシヲマプ」「ニセーパロマップ」という2つの地名を挙げている。
- nisey-kes-oma-p〈渓谷の端がある所〉
- nisey-par-oma-p〈渓谷の口がある所〉
2つの地名はペアになっており、それぞれ渓谷の始まりと終わりという意味だろう。ところがこの位置は比羅夫駅のあたりではない。京極町のペーペナイ川とブイダウス川の間にあり、京極町の吹き出し公園の北の崖が迫っているあたりを指しているようだ。
このような地形は舟で通過するのが難しく、虻田アイヌも京極町までしか上ってこないことが多かった。倶知安は2つのニセイに囲まれたアクセスしにくい場所であり、まさに秘境となっていたのだろう。
比羅夫
ニセコヒラフスキー場の麓、ひらふ坂は地価上昇率日本一となったところであり、非常に賑わっている。
ところが最寄り駅である比羅夫駅は距離はそこまで離れていないのに、歩いて1時間弱かかってしまう。しかも道は狭く、冬季は車ですれ違うのも難しくて、スキー客にとってはなかなか大変な道のりになっている。函館本線のこの区間は残念ながら廃止の協議が進められているが、それもやむを得ないのかもしれない。
「ヒラフ」というとなんとなくアイヌ語地名っぽい響きがするが、実は純然たる和名で、飛鳥時代の将・阿倍比羅夫に由来するのだという。日本書紀に阿倍比羅夫が後方羊蹄に政庁を築いたというが、はたしてこの秘境の地まで来ることができたのだろうか。ただニセコ地区には縄文時代の遺跡が非常にたくさんあるので、全くゼロとは言い切れないところである。
ところが松浦武四郎の地図を見ていて興味深い記述を見つけた。「此辺フイラ多し、名知れがたし」と書いてあるのだ。このブイラというのは舟で通過するのが難しい激流のことで、倶知安から目名にかけてなんと80箇所ものブイラがあったことを武四郎は記録している。
フイラとヒラフ、なんとなく似ているような気がしないだろうか。さらに『報志利辺津日誌』によるとこのあたりで「ヒラ(崖)」という地名も挙げている。偶然だとは思うが、昔からヒラもしくはフイラと呼ばれていたとすると、ここを比羅夫としたのはかなり粋のある名付け親かもしれない。
倶知安
クッチャン
倶知安は北海道の特徴的な地名としてよく出る名前だが、知名度が高いので道民ならだいたい読める地名となっている。「~ちゃん」と名がつく市町村名は全国に倶知安ただ一つなので記憶にも残りやすい。しかしクッチャンとはいかにもアイヌ語的な地名だが、その地名解は意外と定まっていない。
道内にある似たような地名としては屈斜路湖や倶多楽湖、草内などがあるが、結論から言うと、クッチャンと、クッシャロ、クッタラ、クチャナイはいずれも全く意味が異なるようだ。
- kutcharo〈(湖の)喉〉→ 屈斜路湖
- kuttar〈虎杖〉→ 倶多楽湖
- kucha-nay〈仮小屋の川〉→ 草内
まずは既存の地名解を見てみよう。
倶知安の既存の地名解
倶知安は「クッチャン」にあてた漢字。クッチャンはアイヌ語の「クッシャニ」から名付けられた。
町名の由来/倶知安町 ― 街の概要
クッシャニは尻別川支流、倶登山(くとさん)川の旧名。
クッシャニは「クッ・シャン・イ」で「くだの(ようなところ)を・流れ出る・ところ」の意。
このクッ・シャン・イがクッシャニとなり、さらにクドサニと変わって倶登山川となる。
一方、同じクッシャニがクッチャン(倶知安)となって地名となる。明治26年公示。
漢字をあてたのは当時の北海道庁参事官白仁武。
倶知安町の公式ホームページによると、「クッ・シャン・イ」で「くだのようなところを流れ出るところ」の意味としている。またもともとは倶登山川につけられた名前であったようだ。
他にも様々な地名解があるが、Wikipediaの倶知安町のページで表になっていたので、抜粋してみた。
- kutu-sani〈粘土の濁川〉(永田方正)
- kut-san〈川が円筒のような地形を流れる〉(知里真志保)
- kut-san-i〈くだのような所を流れ出る所〉(山田秀三)
- kut-sam-un-pet〈岩崖の傍らにある川〉(更科源蔵)
- kucha-un-nay〈猟人のいる小屋のある沢〉(バチェラー)
果たしてどれが正解なのだろうか?
漁具の籠簀
江戸時代に倶知安の地に足を踏み入れてその詳細を残した人物といえば松浦武四郎くらいしかいない。彼の残した倶知安の由来に関するメモを見てみよう。
クツシヤニ 如此もの也 懸しと云事也
『巳手控』松浦武四郎
クツシヤニ、訳して魚を取る具の事を云也。我が勢にて此具をかごしと云なり。
『志利辺津日誌』松浦武四郎
漁に使う道具である。よく見ると中に魚が描かれている。これを川の中に沈めておくと、魚が捕れる仕組みなのだろう。武四郎の故郷・伊勢ではこれを 籠簀 というらしい。
おそらく岩内アイヌの酋長セベンケに倶知安の由来を聞いたのだろう。それで返ってきたのがこの「クッシャニ」で、漁具の名前だというのだ。このような漁具はアイヌでは一般的なもので通常は uray と呼ばれている。kut というのは広義には「中空の筒」のようなもの、ストローやパイプや土管のような形状のものを指すことがあり、クッシャニとはそこから派生した言葉のような気がする。
ただ、道具の名前がそのまま地名になることは滅多にない。松浦武四郎のこの地名解は今日ではあまり取り上げられることはなく、これをアレンジして「川」に適用した、「”くだ”を流れ出る川」と解釈が広まっており、それが町の公式でも採用されている。
くだのような所を流れる川
この”くだを流れる川”という説は虻田アイヌのレッコ(和名・恵良惣太郎)が述べたものから来ているようである。
倶知安は「クッチャン」ではなく「クドサニ」なのだ。昔から「クドサニ」で通って来たものだ。「クドサン」川は、其流の中に細く狭い所を流れている川の義で、「クド」は、ドウグイ、アマニオ、ニカニオ、竹、鉄管等中空の管を云う。魚をとる為の「ウケ」も「クド」であるが、この「ドウグイ」の茎を三分の一位そいで、湧水を導いて飲用する様を、川にとって「クド」の如く狭い所を川の水が流れる、即ち川の流の中に渓谷となって居る処がある筈だ。
『北海道の地名』山田秀三
『倶知安町百年史』ではこれを「北六線のやや南」の倶登山川の幅が細くなっている処と比定している。
その地点で、川は急に1mから1.5mほどの幅になり、5mほど流れて、再び元の広さにもどっている。両側は平たい石で、丁度くだの中を川の水が勢よく流れ出ているように見える。まさに、クッ・シャン・イ「くだ(のようなところ)を・流れ出る・もの(川)」なのである。
『倶知安町百年史』
この場所を見つけることができた。
確かにそれまで3mほどの幅があった川が急に狭くなり、雪が積もっているせいもあって数10cmまで狭まっている。ここを過ぎるとまた広くなり、5m以上の川幅になっている。これが倶知安百年史の言う「”くだ”のようなところ」なのだろう。
ただどうしても引っかかってしまうのは、kut とは”中空の筒”のような構造を指すもので、もしそれを川にあてはめるのだとしたら、トンネル状になっており、筒の中を水が通過するような場所があったのではないだろうか。残念ながらそれは見つかっていない。
クッチャンとクトサン
よって倶知安の地名の由来については、もう少し詳しく考え、再検討が必要だと感じた。
クッチャンに関係する現存する地名は以下のものがある。
- 倶知安町
- 倶登山川
- 本倶登山
- ポンクトサン川
”クッチャン” という音だけなら、kucha-an〈仮小屋がある〉とか kut-ichan〈くだの産卵場〉といった解釈もできそうだが、それらでは ”クトサン” という発音が残っていることを説明できない。アイヌの古老は “クトサニ” という発音もあることを述べている。これらを全て満たす単語の組み合わせは果たしてあるのだろうか?それが一つだけあるのである。
文法的アプローチ
- kut-san〈崖が出ている〉
- kut-o-san-i〈崖がそこに出ている所〉
- kut-o-san-nay〈崖がそこに出ている川〉
- ✕ kut-san-i(※誤り)
- ✕ kut-o-san(※誤り)
まず san は自動詞(一項動詞)なので、名詞を2つ持つことができない。そのため kut-san-i というのは文法的に誤りになる。公式ホームページにもあった「クッ・シャン・イ」というのは間違いということになる。(なおsanはサン/シャンどちらの発音もできる)
接頭辞 o– を san の前につけることで、名詞を2つ持つことができるようになる。すなわち kut-o-san-i や kut-o-san-nay ならば文法的に正しい。逆に kut-o-san のように名詞が足りないのは誤りである。
そして「s は、 t の後へ来ると、chになる。」(『アイヌ語入門』p174)という音韻変化のルールがあるので、kut-san は kutchan になり クッチャン と発音されるのである。
ということで、クッチャン(倶知安)、クトサンナイ(倶登山川)という2つの発音があることは、ここから完璧に説明できる。別にどちらかが訛ったわけではなく、もともとクッチャンとクトサンナイであったのだ。
このように同じ意味でも o-,e-,ko- といった目的語指示接頭辞の有無でバリエーションがある地名として、ru-san と ru-o-san-i 、ru-ran と ru-e-ran-i というパターンでも全国で見られる。室蘭がモ・ルエラニと言われるのもこれが原因だが、室蘭は mo-ru-ran で正しい。また前述した nisey-ko-an-nupri の ko- もこの目的語指示接頭辞である。
sanは出る
主要な地名解は san を「流れ出る」と訳していた。川について言うのであればそれは間違いではないのだが、kut-san の主語は「崖」である。よって kut-san や kut-o-san-nay は「”くだ”のようなところを流れる川」というよりは「”くだ”がそこを流れる川」となってしまい、意味がよくつかめない。地名研究家はなんでもかんでも川として解釈しがちだが、アイヌ語地名は必ずしも川についてのみ言及しているわけではない。
この san の用法については知里真志保氏がユコサンナイの地名解でこんな風に説明している。
Yuk san nai:鹿下ル沢
san を「下ル」と訳したのは ran と混同しているのであって、正しい訳ではない。また「鹿下ル沢」というように、アイヌ語をいったん日本語に置きかえて、その日本語で物を考えている人には、このアイヌ語のまずさは分るまい。
だいたい、いまのアイヌの古老と称する者にさえ、こういう点になるとはっきりとした知識をもたぬ者がすくなくない。現在のいわゆる’アイヌ’は日本人と同じ生活をし、日本語を使って暮らしているので、日本語の発想法でアイヌ語を話すことも多いのである。(中略)
この地名の正しい形は当然、上にかかげたように yuk-o-san-nay〈鹿がそこへ出てくる沢〉でなければならない。
『アイヌ語入門』知里真志保
ということで san は「出てくる」の意味。この san の語幹をなしているのは sa-un〈前にある〉であると思われるから、目に前にそれが出てくるイメージになるだろう。
人が歩いていると突如としてバーンと崖が目の前に現れる。それが kut-san〈崖が出ている〉の持つイメージ。類似表現として小樽のシュマサン岬があり、あれも suma-san〈岩が出ている〉という意味である。
kut は帯を締めた岩
kut を便宜上 「崖」と訳したが、この語の持つイメージをもう少し深く見てみよう。kut には「中空の管」のほかに「帯」という別の意味がある。知里真志保は「山も帯をする」という表現でこれを説明し、地名に適用すると「層のあらわれている崖」といった意味合いがあるようである。
kut, ,i/,u くッ
①岩層のあらわれている崖。帯状に岩のあらわれている崖
②川岸に高い nupri があって、その側面が岩壁になっていて爪もかからぬような断崖;絶壁
③岩崖についている岩層の段々。岩棚
④のど。⑤中空の茎。⑥帯
『地名アイヌ語小辞典』
この kut を用いた地名の例に、小樽の祝津がある。
祝津は古くはシクツシもしくはシックツシと呼ばれ、 sik-kut-us-i〈いっぱい帯がある所〉と解釈できる。柱状節理によって帯状に重なる岩層が顕著に現れている。
クッチャンもこのような帯状に地層の現れた地形のそばを流れる川なのだろう。よって倶登山川の河川標識に記された「帯状に岩層の露われた断崖を下る川」という由来は、仔細は多少気になるところはあれど、説明としては概ね正しいのではないだろうか。
地層の現れている所
では倶知安や倶登山川のあたりで「帯状に層の現れている崖」は実際にどこにあるのだろうか。倶登山川は比較的穏やかな流れであり、残念ながらニセイケのような地形が見えない。そこで地質図を注意深く眺めて、その場所を推察することにした。
怪しい場所が一か所あった。倶登山川は全体的に黄色の「倶知安盆地堆積層」を流れているが、濃い青で示された「両輝石安山岩」の層がにゅっと南に伸びてきており、そこに倶登山川がぶつかっている。
傾斜量図で見るとその場所がくっきりと地形に現れており、どうにもここが怪しそうだ。
現地調査
ということで急遽現地調査に行ってきた。スノーシューで雪を踏みしめながら川沿いを歩いていくと、その場所はすぐにわかった。周りは木々に覆われているのに、そこだけ木が生えておらず剥き出しの崖になっている。
残念ながらこの日の倶知安の積雪量は120cmを越え、問題の崖はすっかり雪に覆われてしまっていた。
雪に覆われていない僅かな部分を見てみたところ、石が敷き詰められたような崖になっている。これは少し期待できそうだ。しかし雪が溶けた後に改めて調査する必要はあるだろう。
この場所の崖について地質図の説明では次のように紹介されている。
Ⅱ.3.4 倶知安盆地堆積層 倶知安町附近に分布し,尻別川・倶登山川等の沿岸に高さ10数mの崖となって露出している。よく成層した水平堆積層で,いろいろの色をした砂礫層あるいは粘土ないし泥岩層,および凝灰質砂礫層からなっている。 礫は円みを帯び,繊維状の白色軽石・安山岩(径0.4mに達するものがある)等からなっている。倶知安町北方2kmの倶登山川沿岸には高さ10数mの崖となって露出している。そこでは,下部は厚さ5mほどの粘土層で,その上部は凝灰質粘土層,最上部には軽石質の礫を含む砂礫層があり,きわめてよく成層している。凝灰質泥岩は植物の茎らしいものを含んでいる。
『5萬分の1地質図幅說明書 ―岩内』
まさにこの場所の露頭が取り上げられており、地質学者達にも代表的な地層として観察されていることがわかる。やはり地層が見えるのはこの場所で間違いないのではないだろうか。
ちなみにこの場所はちょうど前述した、川が「くだのようなところを下っている所」のすぐ奥である。2つの由来地が同じ場所に並んでいるのは偶然ながらも興味深い。あるいはそこだけ岩が露出しているためにできた地形であり、偶然ではなく必然とも言うことができるだろうか。
琴平
現地調査から戻る途中に、新幹線工事の看板に書かれた文字が目に飛び込んできた。
「琴平高架橋」。そう、この場所の住所は琴平というのである。
- kut-o-pira〈地層のついている崖〉
とっさにそんな訳が思い浮かぶ。pira とはもっと直接的に〈崖〉を意味する言葉だ。ひょっとしたら「クトピラ」から「琴平」に漢字をあてたのではないだろうか?
念の為調べてみたが、「琴平」という字名は昭和10年の字名改正の際に他の地名とともに出現している。イワオベツが岩尾別、カンベツが寒別など全て漢字に改められたが、それ以前に琴平がコトピラないしクトピラと呼ばれていたという証拠は見つからなかった。琴平の由来についても何も述べられていないので、和名由来なのか判断が難しい。しかし一つの可能性としては残しておいても良さそうだ。
クトンナイ
間宮林蔵の河川図や、それを元に描かれた高橋景保の蝦夷図には「クトンナイ」なる川名が書かれている。
- kut-un-nay〈地層がある川〉
の意味で、表現は少し違えど、意味としてはクトンナイはクトサンナイとほぼ同じであると言えるだろう。あるいは単純に ”サ” を書き落としたのかもしれない。
倶知安の由来
倶知安および倶登山川の由来は
- kut-san〈地層が出ている〉
- kut-o-san-nay〈地層がそこに出ている川〉
で、もともとは琴平地区の北にある崖地を指した地名であるようだ。この崖は岩内や余市へと山越えする際に目印としたのかもしれない。近くには峠下遺跡もある。
倶知安町の東端には 本倶登山(1009m)がある。サンに「山」という漢字をあてた面白い名前である。こちらは pon-kut-o-san-nupri〈小さな地層がそこにある山〉と訳すこともできるが、単にポンクトサン川の水源にある山という意味で〈ポンクトサン川の山〉と解したほうが適切かもしれない。
岩見沢
岩見沢は言わずと知れた空知の最大都市だが、倶知安の由来を探っているうちにその関連性が見えてきたのであわせて紹介したい。
岩見沢の地名解の定説
アイヌ語の地名が多い北海道において、岩見沢は数少ない和名の都市です。明治11年に幌内煤田を開採のため、開拓使は札幌~幌内間の道路を開削に当たり、工事に従事する人たちのため、当市の北部、幾春別川の川辺に休泊所を設け、ここで浴(ゆあみ)して疲れをいやしたといわれています。
当時の人々にとって、この地は唯一の憩いの場所として、「浴澤」(ゆあみさわ)と称するようになり、これが転化して「岩見澤」(いわみざわ)と呼ばれるようになったといわれています。
地名の由来 ―岩見沢市
岩見沢市の公式ホームページによると、「湯浴み沢」から「岩見沢」に転訛した、和名由来の地名だという。Wikipediaをはじめとした様々な文献で湯浴み沢説が引用されており、定説となっている。
『岩見沢市史』では岩見沢の由来について多くのページを割いて深く考察していたが、湯浴み沢説を支持しつつも、”岩見澤”という地名が初めて見えるのは明治7年の史料で、休泊所を設けたという明治11年よりも地名の方が先行していることを指摘している。
他の地名解
タウン情報サイト「わくわくいわみざわ」の「いわみざわ歴史ガイド」では他にもいくつかの説が紹介されている。抜粋すると
- カケス(鳥)をアイヌ語で「エヤミ」という
- 道路工事に従事した「岩見三治兵衛」「高見沢権之丞」の姓から
- 原野に岩がないので「岩を見ざる=岩見澤」
- 石見国出身者が関係している
- 石炭を見分ける沢
などの諸説が挙げられているが、いずれもそれらを裏付ける根拠が薄いとされている。
アイヌ語由来説
もう一つ、更科源蔵氏による『アイヌ語地名解』にはこんな記述がある。
あるアイヌの古老の話に、昔札幌村付近の酋長琴似又一老にきいた話では、岩見沢より志文よりのところにクト゜サンペッという川があって、その川の名を訳して岩見沢としたのだという。しかし昔の地図にそういう名の川は見当たらない。
『アイヌ語地名解』更科源蔵
琴似又一といえば浦臼出身のアイヌで、後に札幌の琴似にコタンを持った古老。地名解ではたいへんよく出てくる人物である。
彼の言うことによると、クトサンペッという川があり、それを岩見沢と訳したらしい。
ここまで読んできたならきっとピンとくるはずだ。クトサンペツとはすなわち
- kut-o-san-pet〈地層がそこに出ている川〉
であろう。そう、倶知安や倶登山川とほとんど同じ意味なのである。san〈出ている〉に「見」という漢字を当てたのは本当に絶妙である。この訳を当てた人物は、アイヌ語を辞書的に知っていたのではなく、san の表す意味をよく理解していたのだろう。岩(地層)がそこに見えている沢なのだ。
見つかった ”岩見沢”
しかし「昔の地図にそういう名の川は見当たらない」と更科源蔵氏が言っているように、現在に至るまで岩見沢にクトサンペツという川があったことは認められていない。逆に言えば、それが見つかるならこの説はぐっと重みが増してくるだろう。
松浦武四郎の『東西蝦夷山川地理取調図』でも、 幌向や市来知(三笠)はあるが、岩見沢に相当する川筋は見当たらない。幾春別もなく、全体的に川筋が不明瞭なものが多い。というのも武四郎は石狩川や樺戸・浦臼のあたりは何度か通ったが、岩見沢市街地のあたりは通っていないからである。
他の蝦夷図でも出てくるのはせいぜい幌向と幾春別くらいで、岩見沢に相当する沢は全く描かれていない。
しかしこの記事でもたびたび取り上げてきた『間宮河川図』にそれはあったのである。
「クトサルナイ」!本当にあった。幌向川の支流、幾春別川の上の方で、三笠の幌内炭鉱よりも少し下。そこにたしかにクトサルナイが描かれている。たぶんクトサンナイの書き違いではないかとは思うが、位置関係としては確かに岩見沢のところになっている。古老の言うことは間違いではなかったのだ。
間宮林蔵は松浦武四郎の蝦夷探検よりおよそ50年前に蝦夷地を測量しており、川筋も松浦図と比べてかなり正確である。これがおそらく岩見沢近郊について触れた最初の史料と言うことができるだろう。
岩見沢に関する最も古い史料に「クトサルナイ」と書いてあるとなれば、浦臼出身のアイヌ琴似又一が語った「岩見沢にクトサンペツがあった」という説は、俄然、真実味を帯びてくる。というより、もうこれしかないと言えるのではないだろうか。
和訳した地名
すなわち岩見沢は元々は「クトサンナイ」で、「岩層が見える沢」の意味。誰かがそれを和訳して「岩見沢」としたのだろう。
- kut-o-san-nay〈岩層の見える沢〉=岩見沢
- yam-o-nay〈栗の多い沢〉=栗沢
同様の例として、現在は岩見沢市に合併した栗沢町の由来も、「ヤムオナイ」で「栗の多い沢」の意味だと言われている。アイヌ語地名は音をそのまま無理やり漢字に当てはめることが多いが、このあたりに関しては和訳して意味を重視する傾向にあったのかもしれない。
- ota-us-nay〈砂の多い川〉= 歌志内/砂川
- so-rapte-i〈滝が落ちる〉=空知/滝川
- ooho-nay〈深い川〉=大鳳川/深川
- cup-pet〈太陽川〉=忠別川/旭川
- cikap-un-i〈鷹の住む所〉=近文/鷹栖
- pipa-o-i〈沼貝の多い所〉=美唄/沼貝
- tapkop〈たんこぶ山〉=達布/峰延
こう並べて見ると、12号線沿いの街や駅名はやけにアイヌ語を和訳した地名が多い。他の地域ではあまり見られない傾向である。誰かが石狩川流域のアイヌ語地名を和訳して残したのだろう。岩見沢もその一つだったというわけだ。
岩見沢はどこにあるのか
その「岩層の見える沢」とは一体どこにあるのだろうか。残念ながら調査が不十分なため、まだそれを特定できていない。
休泊所ができたというのが現在の狩野橋のほとりだとすると、それに近い川筋、すなわち東利根別川かポントネ川あたりではないかと目星をつけてみる。グリーンランドのある利根別自然公園の丘は、ちょうど間宮図で茶色く描かれていた丘に相当するのではないだろうか。この丘のどこかに地層が見える所があるのだろうか。
地質図で見ると、東利根別川のあたりで地質が渋滞しているところがある。ここに「玉泉館」の公園があり、言い伝えによるとアイヌが数百年前に温泉を見つけたのだという。例の「湯浴み沢」説も含め、どうにもこのあたりが怪しいような気がする。
ただ一番地層が混み合っているところに、現在は高速道路が通っており、その工事によって地層は損なわれてしまった可能性がある。
雪が溶けたら現地調査してみようと思っている。
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