赤岩海岸の地名 ~ワタリシ地名考~

地名の由来

小樽の赤岩山

小樽運河から北の方に目を向けると、赤岩山 が見える。いくつかの鉄塔が立つ小高い山で、小樽市民にとっては馴染みがある山だ。

赤岩山/小樽運河より

赤岩山と隣の下赤岩山には遊歩道、小樽海岸自然探勝路が整備されているので、片道30分ほどのトレッキングでぞれぞれ絶景を眺めることができる。一度は訪れておきたいポイントである。

祝津日和山/下赤岩山テーブルリッジより

赤岩といえば現在、手宮の奥に赤岩一丁目・ニ丁目として住宅街が形成されているが、ここはかつて「南赤岩町」、もっと古くは「牛ノ澤」とか「本田澤」「新田澤」などと呼ばれたところで、元々の赤岩の集落はそれより北、すなわち赤岩山の向こう側、その断崖絶壁の下の浜辺にあった。

この赤岩というのは日本語由来の地名だが、その「赤い岩」とは、実際にはどこにあるのだろうか?

そしてかつては鰊漁で栄えていたが、今は誰も住まなくなってしまった赤岩海岸の地名の秘密に迫っていこう。

小樽北海岸

小樽北海岸の主な地名

小樽はちょうど石狩湾に逆巻く波のような形をしていて、遠目には葛飾北斎の浮世絵を思い起こさせる。その “大波” の頭のところが小樽北海岸で、断崖絶壁の連続する極めて険しい地形になっている。そのため現在のところ、この小樽北海岸地区に住んでいる住人はわずか一人しかいない。

「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」にも指定されており、およそ2/3ほどの区間は丘の上に遊歩道が整備されている。オタモイ海岸と言えば、戦前にオタモイ遊園地の龍宮閣という夢の建物が建っていたが、昭和中頃に焼失してしまった。最近、ニトリがオタモイ山のあたりに観光設備を作ることを計画しているようで、このエリアも再び注目されるようになってきている。

しかしがけ崩れの影響でいくつかの道が封鎖された結果、海岸部に降りる人はほとんどいない。それで塩谷ポンマイから祝津までの長い海岸線と丘の上を、可能な限り歩いて調べてみた。この海岸部は大きく分けて「オタモイ海岸」「山中海岸」「赤岩海岸」の三つのエリアに分けることができる(現在の住所区分とは若干異なる)。

今回はこの赤岩海岸について、その地名を調べていこう。

戦前の赤岩海岸の地名

明治初期から戦前にかけて鰊漁が行われていた頃は、ここにいくつもの漁小屋が立ち並んでいた。その地名からまず見ていこう。「祝津」「赤岩」を除けば、今では地図からも消えてしまった地名ばかりである。

戦前の赤岩海岸の地名

目梨泊

目梨泊めなしとまり は高島岬のすぐ西側に位置する小湾である。ここは赤岩海岸とは言わないが、江戸時代から拠点となっていた重要な場所なので、取り上げておこう。

目梨泊/おたる水族館海獣公園

menas-tomariメナㇱトマリ とは「東風の泊」の意味で、南東からの風が強いときに舟の待避所となるような停泊所のことである。かつては漁場だったが、現在はおたる水族館の海獣公園になっており、トドやペンギンが子どもたちを賑わせている。現在は目梨泊の地名は地図には見えない。

赤岩

祝津パノラマ展望台から見える、斜面の立岩のことを 赤岩 という。火山性の噴出物で斜面は赤茶に剥げており、その風景は絶景。夕暮れ時に日が落ちる様は、よく絵になるようで、多くの観光写真などでも紹介されている。

赤岩/祝津パノラマ展望台より

またその海上には ポン赤岩 と呼ばれる岩島があり、赤と白のコンストラストを見せている。ポンとは「小さい」の意味だが、高島旧図をみるとこちらを赤岩としていることもあり、崖上の立岩と海上の岩島のどちらも赤岩と呼ばれていたようだ。いずれにせよ赤岩の地名の原名はここにあったのだ。

赤岩とポン赤岩/極楽谷より

なお海岸から到達する道はなく、ここに集落や漁小屋があったという記録もない。ただしこのあたりで金が採れたことがあるようだ。

首目

赤岩峠の駐車場から崖下に降りていく小道があり、途中に竜神の水 と呼ばれる小さな鳥居がある。その先は通行止めになっているが、さらに降りると蟹岩のガレがあり、さらに下ると虎杖群生地の沢地がある。このあたりに集落跡が見え、ここを 首目くびれめ という。地名の由来はおそらく少しくびれた湾になっているからだろう。

首目/蟹岩のガレより

竜神の水から流れ下った水がこのあたりで海岸に落ちており、ここと渡石の集落の人々の飲用水になっていたのだと思われる。

渡石

首目の沢地から下って海岸に降りると、目立つ青白い立岩が見える。青立岩とか青い岩塔とか地蔵岩などと言われる岩だ。このあたりは昔から一大集落地になっており、石垣の跡なども見える。ここが渡石わたりし で、アイヌ語の watara-us-iワタラウシ 「岩のある所」の意味だろう。青立岩だけでなく、浜にはたくさんの磯岩が散乱している。

青立岩/渡石

赤岩山鳥瞰図の古い看板ではここが「キャンプ可」になっていた。今はその表示が消え、通行止め表記になっている。

赤澁

赤岩山の麓は多くのがけ崩れの跡が見られ、ルンゼやガレを成しているが、ここを旧字名で 赤澁あかしぶ (赤渋)という。温泉成分が染み出しているのか、海岸の石が文字通り赤く染められており、崩れた崖地も火山性の成分が見られる。

鉱泉が海に滲み出ている/赤岩赤澁

ここでかつて 赤岩温泉 が営業されていた。明治17年には温泉の成分調査が行われた記録が残っており、道南の七飯から偉い人がわざわざ入りに来たという記録もある。残念ながらがけ崩れにより戦前に営業は終了してしまったようだが、この温泉跡を見にやってくるトレッキング好きも時々いる。

『小樽西部』大正5年にみえる赤岩温泉

短期間だがここで鉱山が操業していたこともあり、銀や鉛などの採掘も行われたようだ。(台帳によると高島郡祝津村大字山中小字赤岩赤澁山の内とある)

地質図 小樽西部(昭和29年)より。鉱山のマークが見える

江戸時代の赤岩海岸の地名

文献調査

この赤岩海岸は戦前にも鰊漁が行われていたが、江戸時代から既にその記録は見える。江戸時代の文献における赤岩海岸の地名を見てみよう。

江戸時代の文献に見える赤岩海岸の地名

まず水族館の海獣公園があったメナシトマリ。これは全ての文献で見られる地名であり、重要地点であったのがわかる。

他に、ケトヂヒルカワッカフレチシなどの地名が見え、だいたい同じ場所を指している。少し気になるのがノテドで、位置が2箇所に分かれている。ウコロシケという地名がわずかに見える。またワタラクッタルシヲワタルシハンタカイシといった地名があるが、ここのブレが大きい。それぞれの地名を戦前の地名と対比しながら見ていきたい。

誤りだらけの西蝦夷日誌

そしてこの表で何よりも注視しておきたいのが松浦武四郎の『西蝦夷日誌』の表記である。はっきり言ってしまうとバラバラでめちゃくちゃだ。

ケトヂならびて)クツタラシならびて)ヒルカワツカ(小川)フレチシ(大赤岩)すぎ(十町十五間)ワタラ(大岩岬)この上を赤岩山といへるなり。そうじて草山にして樹木一本もなし。ハンタカイシならびて)赤岩ならびて)ノテド(大岬)是則これすなわち高島岬と言也。此岬ハママシケのアイカツプと對して一湾と成たり。廻りて(廿町五十五間)メナシ泊(岩湾)やくして東風泊といへる也(二八多し)此邉このへんいよいよ繁華也。

『西蝦夷日誌 四編』松浦武四郎

多くの地名研究がこの西蝦夷日誌をベースに考えているために混乱が生じている。正しい順番と位置関係を比定していこう。

フレチシ

ポン赤岩とフレチシ

hure-chisフレチㇱ 「赤い立岩」で、その名の通り「赤岩」のことである。これがパノラマ展望台から見える立岩の位置を指していることは、測量の正確な『伊能図』からわかる。

『伊能図』に見えるフレチシ

『西蝦夷日誌』では「フレチシ」と「赤岩」を別々の場所に書いており、あたかも離れた別の場所にあるかのようにみえるが、これは誤りで、フレチシ=赤岩と見ていいだろう。武四郎自身『廻浦日記』の方では「フレチシ、又赤岩とも云。此上の山を赤岩山と云」と述べている、ただし海上のポン赤岩が赤岩であった可能性は『高島旧図』から見いだせる。

『高島旧図』より。海上の岩島(ポン赤岩)に「赤岩」、赤い崖地に「フレチシ」が見える

ヒルカワッカ

竜神の水

pirka-wakkaピリカワッカ「綺麗な水」の意味で、ここに飲水があった可能性が高い。ぱっと思いつくのは赤岩峠の下にある 竜神の水 で、わざわざ鳥居を立てるほどの水脈であったということは、おそらく集落の飲水として重宝されたのだろう。

ただし調べていくうちに、このピリカワッカが鉱泉を指していた可能性が浮上してきた。

明治17年札幌県治類典の鉱泉御試験願の図

明治17年に山中温泉の鉱泉試験が行われており、その図を見るともしかするとこの竜神の水は鉱泉だったのかもしれない。当時の分析によると、色は少し混濁した硫化水素臭のする中性の冷泉で、カルシウム、マグネシウム、ナトリウムなどを多く含む鉱泉。赤澁の蒼氷のルンゼのほうにも鉱泉が湧き出ているところがあるが、そちら位置は海岸から120mほど。この図によると三丁(約320m)程とあるので、これは竜神の水から海岸までの距離にほぼ等しい。竜神の水の隣の水脈のほうが明らかに水量が多いのに、こちらに鳥居があることからもそれが窺える。

いずれにせよこのあたりに川らしい川はここしかなく、この竜神の水が下る小川がピリカワッカであったようだ。他にも岩から水が滲み出ているところはいくつかあるが、ヒルカワツカの位置が(西蝦夷日誌を除く)全ての文献でワタリシより東側に書かれているので、赤澁に近い、パイプから出る水脈などは当てはまらないと思われる(古い看板では飲用不適になっていた)。ということで、竜神の水ヒルカワッカであった考えたい。

渡石集落の水脈(飲用不適)

ケトヂ

ケトヂ/赤岩山ガレ地帯

ケトヂとはちょっと聞き慣れない地名だが、ketunke-i ケトゥンキ剥がれた処」くらいの意味であったろうか。赤岩山北側の山肌は遠くから見ても明らかに崩れている様子が見え、蒼氷のルンゼ、赤黃のガレとも呼ばれる。すなわち赤澁ケトヂとみて良いだろう。

蒼氷のルンゼ/赤澁

箱館奉行の『公務日記』によると、安政6年2月22日に高島から舟を出して、「河白山勝浦山金銅山」の見分を行っている。これがちょうどこのケトヂの位置であった可能性が高い。更に遡ると文化2年『東海参譚』でも「金山也ツル。掘ベキ山ナリ」と言っている。遠山の金四郎に同行した最上徳内の見立てであると思われる。実際に明治24年と昭和10年~15年まで赤岩鉱山として操業しており、金銀銅・亜鉛・重晶石などが採掘された。

ノテド

not-etuノテトゥ岬(顎の突端)」の意味で、岬を表す一般的な地名の一つ。

『西蝦夷日誌』で「これすなわち高島岬なり」と言っているので、これからすると日和山灯台のある方かと思いがちだ。あるいはこの日誌の順番を見ると祝津パノラマ展望台のある崎のようにも感じる。『データベースアイヌ語地名 後志』でも「トド岩の南南西の突出部がノテトゥであったと推定される」としている。

だが文化13年の『村上図(松前蝦夷地嶋図)』などによるとノテトはカワシラとケトヂの間に描かれており、『高島旧図』でもトド岩(エショ)からかなり離れたカワシラのそばの位置。すなわちノテトはカワシラ崎とも呼ばれた赤澁の崎のことを指していると思われる。

『再航蝦夷日誌』では「ケトヂ 岩岬サキ。夷人アイヌ此上このうえを越る」とある。この赤澁ケトヂの崎は、数メートルはある巨大な岩石が海岸にいくつもゴロゴロと転がっているところで、通行する際は、その岩を慎重に越えていかなくてはならない。

ノテドの岩場/赤澁の崎

赤岩山山頂のほぼ真北に位置する崎である。地図で見るとさほど岬のようには見えないが、海上から見ると赤岩山の大きな山体が海に突き出ており、その先端がこの崎になっている。遠くは余市のほうから見てもここが一番突き出ており、その風景は松浦武四郎もスケッチし、カワシラサキとメモしている。

『西蝦夷日誌 ヨイチ越山中より眺望』に見えるカワシラサキ
カワシラ崎/右手前は塩谷の窓岩岬/忍路龍ケ岬より

『廻浦日記』では「ノテド 此上烽火有」と付されている。文化5年の『高島澗内見渡之図』には確かに「カワシラ山烽火」とあり、ここに烽火のろしを上げるキマキがあったようだ。小樽の方からも見れることを考えると、これはアンテナのある赤岩山山頂だろうか。

井上貫流家文書『西蝦夷地高島澗内見渡之図』にみえるカワシラ山烽火

ウコロシケ

極楽谷

謎の地名。『松前蝦夷地嶋図』の二つの写本、通称『津軽図』『村山図』に出てくる地名。松浦武四郎の日誌類には出て来ない。しかし『東海参譚』に「ウコロケウシ」というよく似た名前が出てくることから、地名そのものは存在したようだ。東海参譚ではフレチシより東にあり他の図と食い違うが、東海参譚の順序はやや怪しいところがあり、ヒルカワッカとフレチシの間にウコロシケはあったと考える。

ここにちょうど下赤岩山がある。もともと赤岩山と呼ばれたのはこちらである。この特徴的な山にアイヌ語地名が無かったとは考えにくく、下赤岩山の山頂付近がウコロシケだったのではないだろうか。

意味は uko-roski-iウコロシキ 「互いに立つ処」あたりだろうか。『田村辞典』には「ukoroski ウコロシキ 一緒に/共々に…を立てる。」という項目がある。東海参譚はのウコロケウシは uko-roski-us-iウコロㇱキウシ 「いつも互いに立てる処」くらいになるかもしれないが、他動詞なので再検討の余地がある。なお沙流方言で roskiロㇱキroskeロㇱケ とする辞書もあった。

下赤岩山

しかしおそらくは、下赤岩山頂付近にある多くの立岩群を指しているのだろう。一番尖ったピナクルリッジをはじめとして、大黒岩・恵比寿岩・不動岩・ミミズク岩など、多くの立岩がたくさん乱立しており、ロッククライマー達を惹きつけている。海上から見るとまるでいくつもの尖塔を抱えたヨーロッパの城のようで、神秘的な雰囲気を感じさせる。これこそがウコロシケだったのだろうと考える。

大黒岩/赤岩極楽谷

大混乱の地名・ワタラ

ワタラだけ別項目にして章立てしたのには理由がある。それは位置も、意味も、表記も、極めて混乱が見られるからである。

赤岩海岸の残った地名は「ワタラ」「ヲワタラシ」「ヲタネウシ」「クッタルシ」「ハンタカイシ」などである。このうちワタラ・ヲワタラシは同じ地名だということがなんとなくわかる。しかし他はどうなのだろうか。結論から言うとこれらは全て同じ一つの地名であったと考える。それを検証する前に、先にこのワタラがどこにあったのかを特定しよう。

ワタラはどこにあるのか

ワタラの位置について、多くの地名研究ではバラバラの位置を示している。

今日の地名研究が示すワタラの位置

『データベースアイヌ語地名』では「トド岩」をワタラとし、『小樽博物館紀要7号』では赤澁にある「クジラ岩」をあたりをワタラとみなしている。他にも下赤岩山直下の布袋岩や、パノラマ展望台の岬をワタラと見ている地名研究もあるが、それらは全て誤りである。

『今井原図』に見えるワタラ
『伊能大図』に見えるヲワタラウシ

測量的に正確な『今井原図』『伊能大図』どちらもワタラの位置を正確に残しており、それは戦前に「渡石わたりし」と呼ばれた集落のあったところ、すなわち青立岩のあった位置を示している。この青立岩こそがワタラであったのだ。

『高島旧図』に見えるワッタラウシ

タカシマ場所所蔵の『高島旧図』でも赤岩の西方に「ワッタラウシ」という目立つ立岩が書かれており、この位置と形は青立岩とほぼ一致する。

山尻に岩のつく処

wataraワタラ とは単に「岩」を指す言葉で、o-watara-usiオワタラウシ で「山尻に岩のつく処」の意味となる。ちょうど下赤岩山頂あたりからワタリシを見ると、赤岩山の山体が大きく海岸に伸びたその先端に青立岩がくっついており、山尻に岩のつく処と言える地形になっている。また usiウシ は群在を表す言葉でもあり、このあたりには多くの磯岩が点在している。

オワタラウシ/山尻に岩のつく処

『永田地名解』ではこの岩のことをセタワタラと呼んでいる。

Seta watara セタ ワタラ 犬岩

犬ヲ殺シタルトキ其血滴リテ岩面斑点ヲ残ス因テ此名ヲ附スト云フ

『蝦夷語地名解』永田方正

犬を殺すとはなんとも物騒なエピソードだが、青立岩には特にそのような模様は見られなかった。古平のセタカムイ岩となんとなく形が似ているのでそれを連想させるが、セタワタラという名前を挙げているのは永田方正ただ一人なので、信憑性のほどはあまり高くない。とはいえ地名ではなく岩の名前として青立岩を「セタワタラ」と呼んでいた可能性は否定できない。

クッタルシ?

『廻浦日記』や『西蝦夷日誌』には「クッタラシ」ないし「クッタルシ」なる地名が出てくる。これは一見すると kuttar-usiクッタルシ虎杖イタドリ多き処」の意味のようで、小樽の南樽地区のクッタルシとほぼ同じ地名に聞こえる。

渡石のイタドリ群生地

ちょうどこのあたりの丘の上にイタドリの群生地があり、虎杖多き処クッタルシ という地名がぴったり当てはまるように感じる。

だがワタラとクッタラシを分けて書いているのは『西蝦夷日誌』ただひとつで、松浦武四郎以外はこの地名を挙げていない。おそらく「ワッタルシ」(西蝦夷地行程)→「ウッタルシ」(再航蝦夷日誌)→「クッタルシ」(廻浦日記)という誤字に基づいた誤りだろう。松浦武四郎は廻浦日記の際のフィールドノートである『辰手控』にこの地名を記載しておらず、再航蝦夷日誌の「ウッタルシ」と今井図の「ワタラ」が同じ地名だと気が付かなかったらしい。それで別々の地名として『西蝦夷日誌』には書いてしまったようだ。

ヲタネウシ?

山田秀三先生が模写した文化7年の小樽古図(通称『津軽図』)には「ヲタウシ」という地名が書かれているらしい。この地図の現物は見たことがないので、『アイヌ語地名を歩く』(山田秀三)からの孫引きになる。この地図はかなりの誤字があることで知られている。

この図とほぼ同じ内容だが仔細の異なる、村山家が所蔵していたという地図を見ることが出来た。同じ地図(『松前蝦夷地嶋図』)を別の人物が模写したものらしい。これを『村山図』と呼んでいる。

『村山図』に見えるヲタラウシ

ここでは「ヲタ子ウシ」のかわりに「ヲタウシ」と書いてあった。やはりヲタネウシは『津軽図』の模写の際に発生した誤字で、「ヲワタラウシ」の一文字落ちである「ヲタラウシ」が原図の本来の表記だったらしい。そのためヲタネウシもまたワタラと同じ地名であったのだろう。

ハンタカイシ?

一番特定に苦労したのがこのハンタカイシである。hantakaハンタカ とはラン科の「チドリソウ」を表すことがあるらしい。あるいは hantakorハンタコㇿ は「黒百合」のことなので、 hantaka-usiハンタカウシ「蘭の群生地」 、もしくは hantakor-usiハンタコルシ「黒百合の群生地」ではないかと考えた。

この下赤岩山には「フミキの花」という悲恋の物語が伝えられている。フミキの身投げした崖の下に赤い花が咲いたのだという。花に関する伝説が伝わる地に、花に関する地名がついているのはなかなか興味深いものである。

渡石のカタクリとエゾエンゴサクの群生地(4月下旬)

だがいくら探してもチドリソウも黒百合も見つからなかった。長橋苗圃公園の調査によると赤岩山頂付近にサイハイランの群生が見られるらしい。春先に多くのカタクリやエゾエンゴサク、また初夏にはムラサキヤシオが赤い花を咲かせていた。『祝津町史』によるとエゾスカシユリが “フミキの花” ではないかとしている。

結局ハンタカと言える花は、季節をずらした四度の現地調査では見つからず、過去の調査でもそれらしい記録はなかった。よって植生からの裏付けを得ることはできない。

ところでこのハンタカイシという地名は『西蝦夷日誌』および『辰手控』のみに出てくる。この『辰手控』とは松浦武四郎が現地で聞き取り調査をした際の野帳フィールドノート、すなわちメモ帳のことである。現地の案内人であったイソゴロウへの聞き取りとして以下のようにメモしている。

(略)…ノテト、ケトヂ、ハンタカイシ、赤岩、メナシトマリイソ…(略)

『辰手控』松浦武四郎

ノテト(カワシラ岬)→ケトヂ(赤澁)→ハンタカイシ→赤岩→メナシトマリイソ(目梨泊・トド岩)と西から順番に地名を挙げていることがわかる。これを見て気がつくことがあった。そう「ワタラウシ」がすっぽりと抜けているのだ。立岩が目立つ地名であるはずのワタラウシを抜かして、代わりに他にどこにも出てこないハンタカイシを入れている。案内人であるイソゴロウがこの地名を忘れることなどるだろうか?

これは「ハンタカイシ=ワタラウシ」ということではないか?そんな仮説を立てて考えてみた。実のところ松浦武四郎は結構字が汚くて、自分が書いた字が汚すぎて自ら読み間違えるということがしばしば起きている。最も当時は楷書ではなく “くずし字” で書くのが一般的だったのでそれも仕方がないことである。一例を見てみよう。

『廻浦日記』より余市から見た忍路・高島海岸のスケッチ

一番左になんて書いてあるかわかるだろうか。これは松浦武四郎の直筆で、どうやら「カワシラサキ」のようである。赤岩山の麓にあるノテトのことである。そう言われればそのようにも見えるが、例えば「アハンウケキ」だ。と言われてもそうなのかと思わざるを得ない。ヒルカワッカをヒルカハッカと書いている文献があることからも、ワとハの混同はしばしば生じたようだ。

おそらく辰手控にメモした「ワツタライシ」を「ハンタカイシ」と松浦武四郎自身が誤って読んでしまい、それが『西蝦夷日誌』にハンタカイシとして記載されてしまったのだろう。

よって、「ワタラ」「ワッタラウシ」「オワタラウシ」「ウッタルシ」「クッタルシ」「オタネウシ」「ハンタカイシ」といった地名は、すべて同じ地名であったと考える。

西蝦夷日誌の再考察

謎が全て解けたところで、改めて『西蝦夷日誌』を読んでみよう。

西蝦夷日誌の距離の記録

ケトヂ、(ならびて)クツタラシ、(ならびて)、ヒルカワツカ(小川)、フレチシ(大赤岩)、すぎて(十町十五間ワタラ(大岩岬)、この上を赤岩山といへるなり。そうじて草山にして樹木一本もなし。ハンタカイシ、(ならびて)赤岩、(ならびて)ノテド(大岬)、是則これすなわち高島岬と言也。此岬ハママシケのアイカツプと對して一湾と成たり。廻りて(廿町五十五間メナシ泊(岩湾)、やくして東風泊といへる也(二八多し)。此邉このへんいよいよ繁華也。

『西蝦夷日誌 四編』松浦武四郎
『西蝦夷日誌』に出てくる地名と距離

ケトヂ(赤澁)→クッタラシ(渡石)→ヒルカワッカ(首目)→フレチシ(赤岩)。ここで一度区切らなくてはいけない。ここまでは弘化三年に松浦武四郎が自分の目で見た地形の順番である。

次に十町十五間(約1120m)でワタラ(渡石)に戻っている。この距離はちょうど渡石から赤岩までの距離に等しい。つまり西から東に行っていたものが、東から西に逆戻りしているのだ。ハンタカイシはも渡石だった。そして再び東に行き赤岩を挙げている。これは案内人イソゴロウの聞き取りメモに基づいた地名である。

そしてノテド。この距離が廿町五十五間(約2280m)というのはかなり遠い。測ってみると、本来のノテド(カワシラ崎)からメナシトマリまでがだいたいこの距離だった。やはりこのノテドは祝津の方ではなく赤岩山の麓を指していたのだ。『按西扈従』でなぜかノテドを2回書いてしまい(並行記述の廻浦日記にはない)、その誤りを西蝦夷日誌でも引き継いでしまったのだろう。

松浦武四郎の行程

『西蝦夷日誌』は記述の順番はたしかにめちゃくちゃではあるが、それぞれの聞き取った情報はそれなりに整合性が取れている。松浦武四郎なりに色んな情報を詰め込もうとした結果、詰め込みすぎておかしなことになってしまったのだろう。

赤岩海岸について松浦武四郎は3つの日誌に書いている。しかし実のところ、自分の目でオタモイ・赤岩海岸を見たのは弘化三年の1度だけのようである。しかも船で通過しただけで、海岸を歩いてはいない。この頃はまだ本格的な地名調査が目的ではなかったようだ。安政三年と四年に忍路・小樽へ再び訪れた際は、海岸を通らずに長橋の山中を峠越えしている。よって弘化三年の記憶以外は、案内人からの伝聞や、当時の地図や行程記などに基づく二次情報のようだ。

西蝦夷日誌にこのような混乱が見られるのは、赤岩海岸に限る話ではなく、このすぐ隣の高島地区でも、あるいは忍路ツコタンや塩谷でも起きている。はっきり言ってしまうと西蝦夷日誌は全く正確ではないので、扱いには注意が必要である。

他の日誌類(再航蝦夷日誌、廻浦日記、按西扈従、辰手控、川筋取図調図等)と比べつつ、武四郎が引用したさらに古い史料(今井原図、間宮図、西蝦夷行程記など)を参照しながら、どこで誤りが生じたかを確認しながら読まなくてはならない。

しかしその性格をよく理解した上で参照するなら、とても貴重な史料である。

見渡せば すみれたんぽゝ 蓮華れんげぐさ

 枕に結ぶ ひまとてもなし

松浦武四郎/赤岩山中にて一句

赤岩の歩き方

ここからは、現在見ることができる赤岩の風景と、その行き方を紹介しよう。

祝津パノラマ展望台

祝津パノラマ展望台

小樽水族館の背後の道を登っていくと、江差追分の石碑がある展望台がある。車で行くことができるので、近くまで来たときはぜひ立ち寄りたいポイント。赤岩と呼ばれた立岩を見ることができる。

小樽観光のついでにおすすめ。余裕があれば日和山灯台や鰊御殿のほうも景色がいいところである。鰊御殿の建物につながる狭い道を登ると無料駐車場がある。

下赤岩山テーブルリッジ展望台

テーブルリッジ展望台より

最もおすすめなベーシックなコース。スニーカーなどの軽いハイキング装備で25分も歩けば絶景が見れ、立ち寄った観光客でも安全に楽しめるのがこのルート。整備された遊歩道を歩くことができる。

よく整備された遊歩道

赤岩峠、祝津の水族館裏の山のどちらからもアクセスできるが、おすすめなのは赤岩峠。祝津側はひたすら上り続きで展望スポットもあまりないので、赤岩峠の方に車を停めて向かったほうが楽しい。運転手以外はそのまま祝津の方まで降りていく方法もある。

赤岩峠の右手にある「赤岩山白龍神社」。この正面奥にある石段を登っていく

白龍胎内巡り

白龍権現洞窟

滑落や落石などの危険が伴うので、最低限の装備は必要。滑る斜面を足場を確保しながら登ったり、数十メートルのはしごを登ったり、岩に張り付いてロープと鉄線頼りに登ったりなど、かなりの危険が伴うので自己責任で。ただしロッククライミングほどの難しさはなく、山慣れしている人なら踏破はできる。

白龍門、白龍神社本院、白龍権現洞窟、白龍胎内巡りなど、まさに秘境と呼べる絶景スポットを楽しむことができる。十分な準備をして、自己責任で臨もう。

赤岩海岸

赤岩峠から下に下り、竜神の水の鳥居まで行くと、そこから先は通行止めになっている。その先は自己責任で。ただし一部道が崩れているところがあるくらいで、胎内巡りほどの危険はない。蟹岩のガレからは美しい風景を見ることができる。

蟹岩のガレ

海岸まで降り、左手に進むと青立岩がある。その先は赤岩温泉のあった赤澁で、さらに先に行けば山中・オタモイ海岸の方に抜けていくこともできるが、途中大岩を越えなければならないところがあり、そこから先に行くには最低限軍手などの装備が必要。

赤岩海岸/青立岩

赤岩峠から下りてくる坂の入り口は、海岸付近が崩れていてわかりにくくなっている。帰り道がわからなくなったら、この半モアイの岩を探そう。この頭のすぐ後ろの斜面に取り付くと、帰るための道を見つけることができる。

赤岩海岸の番人・半モアイ

赤岩ロッククライミング

不動岩に挑むクライマー

多くの人がロッククライマーが絶壁の岩に挑んでいる。クライマー向けの小路がいくつかあるが、いずれも危険な急斜面に繋がっているので、十分な装備と経験を積んでいるのでない限りは行かないほうがよい。

観光船・青の洞窟巡り

観光船あおばと

安全に赤岩海岸を見るなら、海から行くのがいい。

「観光船あおばと」は冬季以外は定期運行しており、予約無しで乗ることができる。祝津で乗り降りすると少し料金が安い。観光船は青の洞窟には行かずにその手前のツルカケ岩で引き返してくる。

「青の洞窟巡り」のツアーは色々な会社がやっている。観光船よりも迫力ある景色が楽しめるのでおすすめ。要予約で、波が強いときは中止になりやすく、料金も5000円前後とやや高いが、一度行ってみる価値があるツアーである。龍宮クルーズであれば、天気が良ければ赤龍の洞窟に行けることもある。

船の上から海岸を見るとき、地名を知っていると知らないでは楽しさがまた全然違うので、ぜひ「あそこの地名はなんというのだろう」と探しながら、赤岩海岸を楽しんでみてほしい。

海から見た展望閣

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