弁慶岬と義経弁慶伝説・寿都西部の地名由来

地名の由来

マド岩現る

一枚の絵葉書から

探索のきっかけはこの一枚の絵葉書だった。

寿都郡政泊村天然のマド岩

寿都にある「マド岩」の写真。素晴らしいアーチを描く岩で、しかも天然に出来たという。後志の海岸には人口のトンネル跡は残っているが、天然の奇岩の多くはもう失われてしまった。

この窓岩がどこにあるのか、情報がない。GoogleMapや地理院地図にも載っていない。もしまだ残っているのなら、一度見てみたいなと思った。もし天然の岩穴なら、昔から存在していたはずだ。

窓岩の位置を見つける

フヱヲマイが見える/東西蝦夷山川地理取調図

さっそく松浦図を見てみると、気になる地名がある。弁慶岬のすぐ西に「フヱヲマイ」。これを見てピンときた。これは puy-oma-iプイオマイ〈穴のある所〉の意味ではないだろうか!

レレマキ泊(番屋、いなり)、和人すなまさ泊と云。
ならびて)フエヲマイ(岩岬、穴有)、このあなもっなづく。

従是これにしたがい大岩壁なる故、九折つづらおりを上り平野に出、ここをベニツケウ[弁慶岬](大岬)と云。

西蝦夷日誌/松浦武四郎

予感は的中し、松浦武四郎もこの穴について日誌で触れている。フエヲマイは「この穴をもって名付く」とあるので、やはり puy-oma-i で間違いなさそうだ。

地名のてがかりから、位置を特定していこう。まず今の地図にはない昔の地名をリストアップしていく。

旧寿都郡政泊村の地名

今井測量原図などを元に政泊村の海岸地名の座標を確定していく。今井図では「ブヱヲイトマリ」となっていたが、puy-o-iプイオイ 〈穴のある所〉でも同じ意味だ。石政泊だけは各地図で位置が異なっていたのでよくわからなかったが、フヱヲマイ泊の位置はだいたいわかった。あとは現地に行ってみるしかない。

現れたマド岩

存在した!まだ残っていた!確かにこれはマド岩だ。手前にあるプールのような袋澗は人工的に作られたものに見えるが、マド岩自体は天然にできたもののようだ。数百年、ひょっとすると数千年もずっと同じ形を保ってきたのだろうか。人々はこの天然のトンネルをくぐって寿都の方へと歩いていったのだのだろう。だが今は誰もおらず、ひっそりとただその姿を残している。

フヱヲマイのマド岩の位置

このマド岩、一応位置だけは示しておくが、安全に到達できるルートがない。それなりの崖を登り降りしたので、訪問はおすすめしない。近くに地元漁業者の道があるが、私有地を通ることになるのでそこは避けたほうがいいだろう。最短ルートで行くとそれなりの崖を下ることになるので、くれぐれも自己責任で。

弁慶岬と弁慶伝説

 この弁慶岬には義経弁慶伝説がある。北海道に伝わる義経伝説についてまず見ていこう。

判官神・義経

天才的な戦術で平家政権を打ち破ったが、兄頼朝に疎まれて奥州平泉で討たれてしまった源義経。その義経が死ぬことなく、ひそかに北海道渡ってきた。にわかには信じがたい話だが、そういう伝説を北海道中のアイヌが伝えている。単なる伝説上の人物としてでなく、義経は判官神ホンカンカムイとして各地で神として祀られていたようである。

例えば蝦夷地を訪れた玉虫左太夫は、アイヌ酋長に酒の場へ招待されたとき、次のような記録を残している。

さて土人、酒を飲まんとするとき、一本の箸少々先を酒に浸して上へ上ぐるや、三遍程なり。しかる後その箸をもって上髭をすくひ上げて大椀の酒三度位にて飲み終わる。その箸を上へ上ぐる次第を尋ねしが、第一天地を祭り、次に義経公を祭り、その次には先祖を祭るという。一杯毎にこのごとく致し、礼儀正しくいわゆる一献百拝と同様なるべし。

入北記/玉虫左太夫

西海岸のアイヌは酒を飲む前に、第一に天地を、次に義経公を、最後に先祖を祀ったそうである。アイヌがどれだけ義経のことを慕っていたかがわかる。

1775年の絵馬。左の武者が義経、右で傅いているがアイヌ達と思われる

伝説はやがて義経が樺太を通って大陸に渡り、モンゴルのチンギス・ハーンになったなどといういかにも作り話じみた話になっていくが、これはアイヌたちの説ではなく19世紀にドイツ人医師シーボルトが書いた話であることは付け加えておきたい。

義経本人が来たかどうかは別として、この義経伝説は多少の史実をもとにしつつも、装飾し膨らませた伝説だと考えることもできる。義経のモデルとなった人々がいて、それがいつの間にか義経という一人のシンボルに置き換わったという話だ。義経のモデルは複数おり、それ故に北海道各地にその伝説が残っている。

義経伝説の三系統・オキクルミとサマイクル

義経伝説は北海道中にあるが、よく見ると3系統に分けることができる。

義経伝説の三系統

ひとつは義経弁慶一行の旅路に関する伝説。これは西海岸に集中している。その多くは義経とメノコの悲恋の物語で、義経に捨てられたメノコはたいてい身投げしたり岩になったり怪物になったりする。

一方オキクルミとサマイクルはアイヌの文化神で、アイヌに様々な技術をもたらした存在だ。オキクルミは平取を中心とした道央地方で、サマイクルは道東・道北でよく見られる。このオキクルミとサマイクルが義経と同一視され、義経伝説のひとつに数えられることが多い。よく松前藩が政治的プロパガンダのためにオキクルミとサマイクルの伝説を義経の伝説に置き換えたのではないかと言われることもあるが、そう単純な話ではなさそうだ。

それぞれの伝承の細かい検証はとりあえず別の機会に譲るとして、古いのがサマイクル系統で、後から入ってきた新しいのがオキクルミのようである。また義経弁慶伝説の広まっている西海岸は、アイヌ文化の源流である青苗文化が花開いた地域と重なっている。

義経の正体はおそらく中世初期にやってきた和人系の渡党たちであろう。東北からやって来た彼らは竪穴住居で暮らしていた当時の擦文文化人に、鉄鍋を供給し、本州式の住居であるチセの技術を教えた。擦文文化がアイヌ文化に転換するきっかけを作った渡来人たちである。しかし彼らは完全に同化することなくいつしかいなくなってしまう。文化神オキクルミは伝説では天の国に帰ってしまったことになっている。オキクルミとは「他国から来る大将」の意味だそうである。

和人の渡党たちに関する記憶が、彼らの語った物語である義経伝説と重なり、やがて同一化していったのだろう。オキクルミはアイヌラックルとも呼ばれる。アイヌラックルとは「人間くさい神」の意味である。文化神オキクルミはアイヌ文化の始祖であり、ゆえに彼と同一視された判官神ホンカンカムイを熱く慕うのである。

弁慶岬の弁慶伝説

では本題である寿都に残る義経弁慶伝説を見てみよう。

弁慶岬の義経伝説

義経は蝦夷地に逃れ、この寿都までやって来てリベンジの機会を窺った。しかしこの地のアイヌに訴えかけても、当然ながらだれも一緒に戦いに加わろうとはしてくれない。そんななか、かつての部下である常陸坊海尊(あるいは常陸入道念西)が多くの軍船と食料を持ってやってくるという話を聞く。船軍がいつ来るかいつ来るかと弁慶は岬の先端で待ち続けたが、ついに来ることはなかった。これが弁慶岬につたわる義経伝承である。

弁慶は今も岬の先端に立ち続けている

寿都湾の他の伝承

寿都湾の弁慶伝説と義経伝説

義経伝説の多くが義経と恋仲のメノコに焦点が当たっているのに対し、この寿都湾に関しては従者である弁慶になぜかスポットが当たっている。とりわけ有名なのがこの寿都の弁慶岬と、雷電岬の刀掛岩になるだろう。ふたつの大きな岬に囲まれて、弁慶はその足跡を大きく残している。

他にも土俵跡や土俵を作る時に余った糠を盛った丘、義経に相撲で投げ飛ばされた弁慶の鼻血だとか、刀をかけたところ、薪を積んだところなどたくさんの弁慶関連の伝説が伝えられている。

弁慶の刀掛岩

雷電岬の刀掛岩
寿都側からみた刀掛岩は鬼の横顔にも見える

弁慶の刀掛岩かたながけいわは雷電岬の先端にある大岩。弁慶はここに刀をかけたという。弁慶といえば大薙刀の印象がある。彼の持つ岩融いわとおしの刃の長さは106cmにもなるという。

一方、雷電には米を食う不思議な刀の伝承があり、鞘のなかに米を入れると消えてしまうのだという。刀が食う米の量は1年で3石(約450kg)にもなるそうだ。また近藤重蔵によるとその不思議な弁慶短刀は、長さ1尺4,5寸(45cm)、幅3寸(9cm)ほどで、白米5升を食べたという。岩内酋長が松前に差し出しても、いつの間にか元の場所に戻っているそうだ。その刀は今も寿都場所請負人の田付家に秘蔵されているというが真偽は定かではない。

弁慶の薪積岩

親子別にある薪積岩

義経が暖を取るために薪を積んだところが化石となったというところ。板のような赤い岩が露出している。同様の貫入岩脈が雷電にほか3個所あり、カスペノ岬、湯内崎、そしてアブシタにある。実はアイヌが特別視していたのはこの薪積岩ではなく、カスペノ岬とアブシタの方だったりする。

カスペノ岬の先端をアイヌはkamuy-ru-oma-iカムイルーオマイ〈神の道があるところ〉と呼んだ。まるで海に向かう道のように自然で出来た岩が続いている、刀掛岩トンネルの途中にある板のような岩である apaustaアプシタ〈扉〉も岩内と磯谷の境界として古くから知られていた。昔の人も、この不思議なこれらの岩になにか感じるものがあったのだろう。

カスペノ岬のカムイルー(神の道)
アブシタ岩(右の板状の岩)

弁慶の土俵跡と糠森

弁慶の土俵跡

弁慶岬の駐車場から島牧方向に500mほど行った国道沿いにひっそりとある弁慶の土俵跡。立て看板はあるが、(2024年現在)GoogleMapにピンがないので見落としがちなポイントである。

この土俵跡については松浦武四郎の西蝦夷日誌が詳しい。

此処に弁慶の角力場と云う物あり。幅およそ十余間、土俵の如く丸く土を積み上げたり。これ恐らくは土塁なるか。上に物見台と云う小山あり。義経卿此処より見たまひしと言い伝ふ。また弁慶の粟畑・糠が森とて、粟糠を捨てたると云う小山あり。余この辺りを随時歩行し居て、土器の欠片三つ四つを拾いたり。頗る古代の物にして、内地の行基焼とも言える類なり。

西蝦夷日誌/松浦武四郎

土俵跡のほか、物見台や糠森ぬかもりという小山があるらしい。さらにこのあたりには畑跡もあって、そこから8世紀の天平年間の大阪産の土器の欠片を拾ったそうだ。8世紀といえば擦文文化が始まったばかりの頃であり、その頃から本州との交易があったことが窺える。

朱太川渡し場からのスケッチ/辰手控/松浦武四郎

このヌカモリの位置は、松浦武四郎のスケッチに描かれている。歌島川支流がルウクシヲマナイなので、ルウシャノホリは416峰(▲新栄)とすると、ヌカモリは194峰(▲政泊)から北に突き出た丘に当たるのだろうか。凝灰岩が露出しているそうである。地質図を見てみたが特定はできなかった。ヌカモリは「糠盛り」からきた和名かと思われるが、not-ka-moriノッカモリ〈岬上の小山〉と解することもできるかもしれない。

弁慶像の見る先にある丘がヌカモリか

ヌカモリは弁慶の粟畑とも言われていたようで、稗・粟の栽培を教えた文化神オキクルミ伝説とも重なっていることがわかる。

弁慶の鼻血岩

おそらく弁慶の鼻血と言われる場所

弁慶の土俵跡に関する言い伝えの中に、「弁慶が義経と相撲を取って投げ飛ばされたときの鼻血の跡」と呼ばれる」場所があるという。ただ具体的なことはわからない。

このあたりの海岸を歩いていたところ、どうにもそれらしき場所を見つけた。というよりは、あまりにも赤いのでアイヌ語で hure-sumaフレシュマ とでも呼ばれていないか思わず写真を撮ったのだが、後からその鼻血の伝説を知ったのである。ああ、あれのことか!と直感した。

ここだけ非常に赤い

マグマのように赤い岩が露出している部分は、たしかに鼻血と言えるかもしれない。

義経弁慶岩

義経弁慶岩

政泊の海岸を歩いている途中に、二人の顔に見えるような岩を見つけた。これを義経弁慶岩と呼んでみたいのだがどうだろう。

寿都西部の地名の意味と由来

かつて西は寿都郡、東は歌棄郡とわかれていた。弁慶岬のある寿都の西部地区の地名の由来を見ていこう。

弁慶(ベンケイ)

弁慶岬

さてこの弁慶岬、地名の由来はどこからきたのだろうか。記録に出てくる江戸中期ですでに弁慶岬と呼ばれており、和名とも考えることができる。だがいくつかの地図を見る限りはどうにもそうとは限らないらしい。

旧図弁慶岬
松浦山川図ヘニケウ
伊能大図ヘニケウ岬
今井測量原図ベニケフトマリ
間宮河川図ベニケウ
天保里数図ヘニツケウ岬
泰蝦夷島図ヘニケウ
旧図に見られる弁慶岬のアイヌ語形

「弁慶岬」と和名で書いている地図も多いのだが、「ヘニケウ」のような形で表している地図もいくつかある。純粋な和名なら音がブレるとは考えにくく、ここからするとどうやらアイヌ語由来らしい。ではどのように解釈されているのだろうか。

地名解アイヌ語和訳
永田方正perke-iペㇾケイ破れたる処
上原熊次郎pen-ikkewペニッケウ獣の背首
間宮林蔵penike-ruペンケル上手の道
弁慶岬の既存の地名解

あちこちのホームページなどを見ると「破れた所を意味する”ペル・ケイ”」などと書かれているが、永田説を取ると「”ペレケ・イ”」で切るところが違う。それはさておいて確かに岬一帯には岩が裂けたところがたくさんあるので一理はあるように思う。が「ペレケイ」が「ヘニケウ」になるかというとどうだろう。

「ペニッケウ」で”背骨”説は音としてはぴったりなのだが、いかんせん地名としての類例がない。このタイプは、地名が出来た後から、たまたま音が似ている別の単語になぞらえられた、というパターンに見える。いわゆる地名説話タイプの作り話である。

3案の中で一番可能性がありそうなのが間宮案で、この「ヘンケル」という地名はあちこちに類例があるのだ。余市や豊富町の海岸線にこの地名が見え、おそらくそれと同一だろうと間宮林蔵も考えたのだろう。

余市に見える「ヘンゲルー」。現在の登地区/伊能大図
「弁慶岬は蝦夷言葉でヘンケル」とある/窮髪紀譚/間宮林蔵

「べんけい」にはあらず、「へにける」也と云。転訛して「べんけい」と呼しより、判官のことは一般の口実なれば、やがて弁慶の字を用るなるべし。

未曾有後記/遠山景晋

間宮林蔵のみならず、松浦武四郎の50年ほど前にこの地を訪れた遠山金四郎景晋も「へにける」だとしており、この説を裏付けている。すなわち

  • penke-ruペンケル上手かみての道〉:弁慶

というのが弁慶岬の地名解だ。なお penkeペンケpenikeペニケ もどちらも辞書にあり、同じ意味である。

武四郎の廻浦日記を見ると、フヱヲマイの岩穴を過ぎたあたりから丘の上に登っている。伊能大図には反対側に ru-sanルーサン〈道が下る〉 という地名も見える。実際このあたりを歩いてみたことがあるが、マド岩を過ぎた石政泊の途中で、岩に大きな切れ目がありそれ以上進めなくなった。そこから丘に取り付いて国道まで戻った記憶がある。この地名解を考える前だったが自然とこのルートを取った。文化年間の『西蝦夷地行程』でもこのマツナトマリからサメトマリまでの山道が記されている。

よって、弁慶岬の由来は「上手かみての道」で、この国道229が通っている道こそが、その ”ペンケル”なのだろう。

余談だが岩内にかつて”ヘンケル”が実在していた。かつて蝦夷大王と呼ばれた岩内の大酋長シュクセエヘンケル。そして子孫のセベンケ。彼らはいわばアイヌの”弁慶”とも言えるかもしれない。伝説では、義経公は彼らから兵法書を奪い取ったという。彼らの城は現在、泊原子力発電所になっており、泊村の兜のカントリーサインだけがわずかに”ヘンケル”の足跡を残している。

寿都(スッツ)

寿都港と道の駅

今は一つの町になっているが、昔は寿都湾の西側を寿都すっつ、東側を歌棄うたすつと呼んだ。歌棄は ota-sut〈砂浜の端〉の意味であり、よく音が似ている寿都も同系統の地名かと思うのだが、なぜか定説では全く別になっている。

寿都(スツツ、スッツ)の名は、アイヌ語の「シュプキ ペツ(茅の多い川)」から「スツツヘ
ツ」と訛り、これが現在の地名になった。語源となった「シュプキペツ」は現在の朱太川を指し
ていたが、周辺一帯を商場所として設定していた

寿都町公式ホームページ

ということで supki-petシュプキペッ〈茅の多い川〉説が取られている。だがこれはかなり奇妙である。シュプキがシュブトに、そしてスッツになったとは考えにくい。

古地図・旧記寿都朱太川
松浦図シユフキ
間宮図シユツツシユブト
伊能図シツツシユブト
今井図スツヽシユフトベツ
蝦夷海岸山道絵図スツヽ
蝦夷全地スツヽスツヽ川
西蝦夷海岸之図スツヽスツヽ川
西蝦夷地分間スツツ川
津軽一統志すつゝ
元禄郷帳すつゝ
天保郷帳スツヽ
正保日本図スツヽヱソ
蝦夷嶋図すつゝ
松前西東在郷すつ津
絵図面方角道規スツヽ
江戸時代の地図・里程表より

”シュフキ”としたのは松浦武四郎のみで、他の図では全て”スツツ”ないし”シュツツ”である(アイヌ語はサ行とシャ行に区別がない)。その松浦武四郎自身も現地で”シュフキ”という音を聞いたわけではない。

スツツは人言、夷言シツツトと云よし

辰手控/松浦武四郎

と、彼は現地フィールドノートである野帳に記録している。これからわかるようにすなわち、寿都の由来は

  • sutuストゥその端

になるだろう。sutスッ の長形である。sut は位置名詞なので、単体で用いるときは長形にする。このかたちであれば「スツ」「スットゥ」「スッツ」「シュッツ」のような表記になり得る。

では「その端」とは、なんの端なのだろうか?実はもともとスッツと呼ばれていた場所は、今の樽岸のあたりであった。そこにいたアイヌを岩崎と呼ばれる今の寿都市街地に移したために地名も移動したのである。そう考えると、寿都の意味は「砂浜の端」と考えられるだろう。

スッツ、ヲタスツの移動とそれぞれの川

すなわち対岸にある歌棄うたすつota-sutオタスッ〈砂浜の端〉と同じである。かつてヲタスツと呼ばれていた場所に、「シュツシナイ」という川がある。sut-us-nayストゥㇱナイ〈端にある川〉の意味だ。歌棄の方もスッツだったのだから、寿都の方もオタスツであろう。寿都浜中の海水浴場は広く砂浜になっているが、その端と端がそれぞれスッツとオタスツなのである。そう考えればとても自然である。

朱太(シュブト)

朱太川は寿都湾に注ぐ川で、後志の四大河川のひとつである。

朱太川河川標識

上の項でほとんど説明してしまったが、定説では supki-petシュプキペッ〈茅川〉からの転訛になっている。しかし江戸時代の誰もこの音を聞いたことがない。「シュブト」もしくは「スッツ川」とみな呼んでいるのだ。すなわち朱太川の由来は、

  • sut-putuシュプトゥスッツの河口

になるだろう。「スッツ」が川名としても用いられるようになり、その河口にあたる部分を「シュブト」と呼んだ。それがいつの間にか川そのものの名前が朱太シュブトになったのだろう。

川名に putuプトゥ をつける地名は、江別太エベツブト空知太ソラチブト当別太トウベツブト幌内府ホロナイフ など各地に見られる。いずれもそれぞれの川の河口部を指す地名である。朱太もシュプキの転訛などと考えるより、「寿都の太」と考えるほうがずっと自然である。

政泊(マサドマリ)

政泊まさどまりは寿都の西端、弁慶岬付近の地名で、かつては寿都郡政泊村と呼ばれ、寿都からは独立した行政を敷いていた。かつては多くの鰊小屋が並んでおり、600人も住んでいたというが、今はほとんど人が住んでおらず数軒の家があるだけになってしまった。

政泊マサドマリmata-tomariマタトマリ冬泊〉と解釈されて定説になっている。

政泊まさどまり マタトマリ

(マタ)の港(トマリ)。冬でも避難しやすい入江。

寿都地方の地名の由来/寿都町文化財展示室

ところが旧記をよく見てみると、「マタトマリ」なんていう表記はどこにもない。

古地図・旧記政泊(マサトマリ)
松浦山川図イシ/スナマサトマリ
伊能大図マキナヲトマリ
泰蝦夷島図マツナトマリ
今井測量原図マシナトマリ
高橋蝦夷図マツナトマリ
東海参譚マツナトマリ
田草川日誌マツイトマリ
蝦夷全地シナマツナイマリ

「マツナトマリ」でほぼ統一されており「マタトマリ」ではない、ここからすると

  • matnaw-tomariマッナゥトマリ北風泊〉:政泊まさどまり

が正解だろう。この泊は冬にしか使わないわけではないのだ。だいたいこの風の強い弁慶岬で真冬に船を漕ぎだすのは危険でしかない。冬季間は山の奥まったところにある mata-kotanマタコタン〈冬村〉に籠もり、秋に獲って干しておいた鮭を少しずつ食べるのが冬のアイヌの暮らしで、荒波の日本海にわざわざ漕ぎ出していって漁をすることなどあまりしなかったはずだ。

砂政泊/中央左の大岩が北風を防ぐ

政泊のもともとの示す位置は、海水浴場があったところで、ここに少しの砂浜がある。この入江の北側にピラミッドのような岩の丘があり、これが北風を防いでいたのだろう。岩に切れ目があり、船出しにもよい場所になっている。

中央の岩の隙間から舟を出すのに良い

政泊がこのあたりの惣地名になって拠点が弁慶岬のほうに置かれると、それと区別するために元の政泊を「砂政泊すなまさどまり」と呼ぶようになった。北の方を「石政泊いしまさどまり」と呼ぶ。

樽岸(タルギシ)

樽岸は寿都湾の底にある地名で、かつては寿都郡樽岸村と呼ばれていた。今も町名やバス停名として残っている。

寿都郡樽岸村/道庁20万図

タルキシという音から直感的に terke-us-iテㇾケウシ〈飛び跳ねる所〉ではないかと考えた。磯岩を飛び跳ねて越えるような場所によくつく地名で、このあたりには磯が拡がっている。しかしエ音からア音への転訛は滅多に起きない。

定説では taor-kesタㇻケㇱ〈川岸の高所の端〉となっている。なるほど、これなら樽岸になるだろうし、地形的特性としてもあっている。違和感のない地名解だ。

だが松浦山川図を見ると「タラエキクシナイ」になっている。これはどういうことだ?そう思い各種地図の表記を確かめてみた。

古地図・旧記樽岸(タルキシ)
松浦山川図タラエキクシナイ
今井測量原図タラエキリシナイ
天保里数図タリキシナイ
伊能大図タライキリシ
秦蝦夷島図タラキルシ

なるほど、見えてきたぞ。まず松浦図の「クシ」は「リシ」の誤字である。今井図は「イ」を「ヱ」と書く癖があるので、「タラエ」ではなく「タライ」が元の発音だろう。そうすると現れてくる形が、

  • taor-ikir-us-iタリキルシ高岸が並ぶ所

というかたちになるだろう。「タリキルシ」が樽岸タルギシの原名であるようだ。

このタリキルシナイとは具体的にどこを指しているのだろう。現在は樽岸川なる地名は存在しない。伊能図と今井図の座標を重ねてみると、現在の「番屋ノ沢」に相当するようだ。バス停「建岩」のあるあたりである。

樽岸神社への参道/昔の山越道

海沿いまで高岸が迫っており、波風が強いときはこの高岸の上を歩いたのだろう。幕末に山道が整備されたらしく、樽岸神社の参道がわずかにその痕跡を残している。神社より奥は道が無くなっていたが、少し歩いてみたところ、鹿の獣道になっていた。

樽岸の高岸の上から

矢追(ヤオイ)

寿都港の北側の半円状の丘になっているところ。矢追崎、あるいはホロトマリの崎ともいう。

矢追の岩礁地帯と大丸磯灯台

ヤオイというのはなんとなく気になる響きがする地名だが、データベースアイヌ語地名では ya-o-iヤオイ で〈海岸・広くついている・もの〉と解している。たしかに矢追崎には岩礁が広く発達していて、特徴的な地形をなしている。大丸磯灯台が目印。しかし岩礁なら ya〈陸〉よりも kapar-sirar〈平磯〉などがきそうなところだし、こういうかたちの地名は見たことがない。

たぶん ya は 〈網〉で、ya-o-iヤオイ は〈網のある所〉すなわち〈漁場〉くらいの意味ではないだろうか。道内各地に類型として ya-us-iヤウシ〈網のある所〉という地名があちこちにある。矢追には昔からここに漁小屋が並んでいたようだ。

寿都ノ鰊漁/明治末
矢追の船着場

六条澗(ロクジョウマ)

現在は六条町となっているが、六条澗はとても歴史が古く、江戸中期の地図などにもよく出てくる。

スツツ(当時は朱太川河口)と弁慶崎の間に六条澗が見える/林子平図

道の駅のある寿都港の南で、岩崎とよばれる崎の向こう側にある。いまは小さな漁船が留まる船着場がが、昔はここに和人の弁才船を着けていたようだ。

六条澗。向こうに見えるのが石崎

六条澗とは rokuntewロクンテウ〈客船〉から来ており、同様の地名が青森にもある。

建岩(タテイワ)

樽岸と六条の間に「建岩」というバス停があり、海岸集落が並んでいる。アイヌ語地名では ri-sumaリシュマ〈高い岩〉という。ところが浜を見てもそれらしき岩は見当たらない。

地元の漁師の方に聞いてみると、樽岸漁港の堤防にあるこの岩がもとの建岩で、今は削ってしまい高さが無くなってしまったそうだ。

写真中央が元・建岩。上が削られてしまっている
建岩トンネルから見た建岩/寿都海岸のトンネル

絵葉書にはトンネルの向こうの、写真中央左に、崎の先端に岩があるのが見える。これが建岩だったのだろう。なおこの建岩トンネルは最近まで現役だったが、いつの間にかオープンカットしてしまったようで現存していない。

母衣月山(ホロツキヤマ)

寿都と島牧の間にある山脈を「月越ツキコシ山脈」といい、その真ん中にある一番高い山を「母衣月ホロツキ山」という。なんとも格好いい名前の山だが、その意味ははっきりわかっていない。

月越のほうは「母衣月山を越える」という意味合いだろう。島牧の美川から月越山脈原野を越えて黒松内へと下る月越峠の道は、今はよく整備されている。松浦武四郎のスケッチによると、昔は島牧から矢追のほうへと下っていたというから、母衣月山の山頂近くを越えたのかもしれない。

tukiトゥキ というのは「酒の杯」の意味であるから、poro-tukiポロトゥキ〈大きな杯〉と解釈して、母衣月山を伏せた杯のようだと見たり、寿都湾をなみなみ満ちた杯と見立てたり、そういう地名解が取られることが多い。

しかし母衣月の由来はおそらく poro-tuk-iポロトゥキ〈大きく伸び出た所〉の意味であろう。tuk-iトゥキ というのは〈小山〉と地名アイヌ語辞典に載っているが、単なる小山ではなく、tukトゥㇰ〈伸びる〉のニュアンスが含まれている。ニョキッと伸びたところで、寿都の半島全体をそのようにみなしたのだろう。そのなかでも一番高いところを、poro-tuk-iポロトゥキ と呼んだのだと思われる。

対岸に見える月越山脈と母衣月山(左)

浜中(ハマナカ)

浜中は和名であるが、もともとアイヌ語地名では ota-noskeオタノシケ〈浜の真ん中〉と言った。全道のヲタノシケは浜中と訳されることが多いようである。

寿都の歌棄の境界線

このヲタノシケ、位置が明確に定められている。スッツとヲタスツのアイヌで境界線争いがあり、弁慶岬と矢追崎(ホロトマリの崎)がちょうど重なるところを境界に定めたそうである。その後も寿都郡と歌棄郡の境界となってきたが、ひとつの町に合併してからは境を意識することもなくなった。

弁慶岬と矢追崎が重なるポイントから

風泙大神かざなぎのおおかみの祠が昔からここにあり、境界線の目印となっていたようだ。”だしの風”を和らげることを祈ったようだが、今は逆にその風を利用した風車が立ち並んでいる。

風車の並ぶ浜中地区

湯別(ユベツ)

湯別にある「ゆべつのゆ」は素晴らしい温泉施設だ。設備が綺麗だし、個人的な好みとして、熱湯がとてもいい。43-44℃の高温湯があるスーパー銭湯はなかなか貴重なので、寿都を通るたびに寄っている。

湯別はそのままアイヌ語で yu-petユベツ〈温泉川〉だが、高橋蝦夷図に「ユヲーベツ」とあり、ここからすると yu-o-petユオベツ〈温泉ある川〉かもしれない。余談だが岩内雷電の湯内ユウナイyu-nayユナイ ではなく yu-un-nayユウナイ〈温泉ある川〉と他動詞を入れても解釈できる。

武四郎は安政3年に「この小川(湯の沢川)、半里ばかり上に温泉あるよしや」と述べており、昔から温泉が湧くことが知られていたようだ。その7-8年後の文久年間には最初の温泉が開かれたらしい。今の「ゆべつの湯」の場所に温泉が掘られたのは平成初期、ふるさと創生一億円事業の予算でボーリングして掘り当てた泉源だそうだ。

寿都温泉ゆべつのゆ

寿都を通るときはぜひ寄りたい、おすすめの温泉施設である。

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