ウポポイは何を伝えているか
ウポポイの前印象

白老のウポポイに初めて訪れたのはコロナ禍が落ち着き始めた2024年の春だった(奇しくもその直後に初罹患してしまったが)。ウポポイとして開業してから4年ほど経っており、色々と噂も流れていたので、前印象は正直あまり良くなかった。でも百聞は一見に如かずともいうので、とりあえず一度見てみようとは思っていたのだ。
あらかじめ聞いていた批判とは、概ね以下の話である
- 多額の税金が投じられている
- 正しい歴史認識を伝えていない
- アイヌ文化ではないものが展示されている
実際に訪れてみて、なるほど、言われてみるとそういう批判もあるだろうなと思った。メインホールから見るポロト湖の風景は素晴らしかったが、たしかにお金はかかっているなとは感じた。設備は近代的で洗練されており、ある種の”土臭さ”がない。とくに驚いたのは家の内側が伝統的なものではなく、現代の建物にチセの”ガワ”を被せたように見えたことだ。


しかし注意深く見ているうちに、ある勘違いをしていたことに気付かされた。ウポポイの目指すところはアイヌ文化博物館ではないのである。
”アイヌ文化”は過ぎ去ったもの

アイヌといわれてどんなイメージを浮かべるだろうか
- 藁葺き屋根の家に住んでいる
- 刺繍模様の樹皮衣を着て、鉢巻を被っている
- 英雄叙事詩や口承文芸を歌い、踊る
- 伝統的な漁と狩りを行う
- アイヌ語を話す
- 和人によって抑圧され、迫害されてきた
どれも正しい。間違ってはいない。だがこれらは歴史で一般に「アイヌ文化」と呼ばれる中世から近世にかけてのアイヌの話である。現代のアイヌ民族の話ではない。現代ではだれもアットゥシを普段着として着てはいないし、”木の城”や”木造モルタル二階建て”に住んでいるし、アイヌ語をネイティブで話す人はもういなくなってしまった。
ちょうど日本人と言われて、外国人が思い浮かべる
- サムライとニンジャとゲイシャが住んでいる
- チョンマゲ頭で和服を着て腰に刀を帯びている
のようなステレオタイプな日本人像とよく似ている。今どきそんな格好をしている日本人は、時代劇の俳優か、伊達時代村ぐらいにしかいないだろう。
「アイヌはもう北海道から居なくなってしまった。現に札幌駅に降り立っても、だれもアイヌの格好をしていないじゃないか。」という批判をする人がいるが、それは東京駅に降り立ってサムライがいないことを嘆く外国人に似ている。サムライの格好をしている人がいなくなったからといって、日本人が居なくなったわけではない。それは過ぎ去った昔の文化であり、今の日本の文化ではないのだ。
ステージで演じる演者の一人が最初の自己紹介でこう言った。「私達は普段はこういう服は着ていないんです。みなさんと同じ洋服を着ているんですよ」
ウポポイが伝えること

「チセに住み、アットゥシを着ている人だけがアイヌではない」
ウポポイがやんわりと伝えようとしているメッセージはそこにある。かつてアイヌたちが歩んできた過去のアイヌ文化を大切にしている。だがそれは今を生きるアイヌたちの文化ではないのである。
歴史認識についても同様である。ウポポイの展示では和人によって抑圧された過去の歴史、負の歴史について、決して隠してはいないが、展示の前面に押し出してそれをアピールすることもしていない。それが一部の人には不満のようである。だがそれは過去に囚われるのではなく、未来を築いていこうとする意志を感じるものだった。「過去には悲しい歴史もあったけれど、同じ大地に住むもの同士、共に仲良くやっていこう」というメッセージを端々に感じた。だから誰が訪れても恥ずかしい思いをしなくて済む展示内容になっている。
単なる「アイヌ文化博物館」ではなく「民族共生象徴空間」とウポポイが銘打っている理由は、その共生のメッセージをしっかりと伝えるためであったのだ。
ウポポイにまだ行ったことがない人も、もう行ったことがある人も、そういう視点で訪れてみるとまた新たな気付きがあるかもしれない。もちろん、過去のアイヌ文化を知るための展示もたくさんあるので、一見の価値がある施設だろう。

白老町の地名の由来
さて、この記事の本題である白老町の地名の由来を見ていこう。白老の地名はなかなか癖があるものが多く、難解な地名がいくつかあった。今も残る地名について、定説を再検討しながら考えていきたい。

白老(シラオイ)
- 【定説】siraw-o-i〈虻のいる所〉
- 【私案】sir-aw-o-i〈峰枝の所〉

白老は昔からアイヌの多かったが、幕末にロシアを警戒するために仙台藩が東蝦夷地の警備拠点である陣屋を置いたことから一躍重要地点になったところである。この白老川は海岸で3つの川が合流しておりひとつの河口になっている。旧図によっては3支流が別々に海に落ちているように描かれているものもあるが、今井測量原図では3つが1つに合しており、すくなくとも幕末期には今と同じ1つの河口になっていたようだ。
シラオイは 定説では siraw〈虻〉のいる所の意味とされている。以前の河川標識では「虹・多き・処」と書いてあった。虹が見えるとは素敵な解釈ではあるが、漢字がよく似ているために間違ったのだろう。虹ではなく虻である。調査によると白老川流域でニッポンシロフアブが8月上旬に見られるようだ。そのため間違っているとは言えないかもしれない。

類例を見ると、日高町と平取町の間あたりに「シラウ川」が流れ落ちている。シラウだけで地名になるのである。虫の名前の”アブ”単体で地名になるとは考えにくい。そうなると別の意味が考えられそうだ。

白老川流域には海岸近くまで伸びた峰がいくつも突き出している。それは海の先まで出ていないため地図ではわかりにくいが、傾斜量図にしてみるとはっきりとその形が浮かび上がってくる。これらの峰が「シレトコ」「シントク」「エト」ないし「岬」などと呼ばれていたことが記録されている。知床といえば世界遺産の知床岬が有名だが、ここにも知床があるのである。とりわけ萩野駅の旧名は知床駅であったから、覚えている人もいるだろう。

そこからすると sir-aw〈峰の枝〉、そして sir-aw-o-i〈峰の枝がたくさんある処〉という地名解が見えてくる。awとは〈枝〉のことで、たとえば pet-aw なら〈川の二股〉といった意味合いになる。平取のシラウももともとは峰のことを指していたのだろう。
よって白老は、山の峰が枝のようにいくつも突き出している地形をあらわした地名のように思う。
社台(シャダイ)
- 【定説】sa-tay-pet〈前の林の川〉
- 【私案】sat-tay〈広がる林〉

シャダイとはなんとなくかっこいい響きがする地名だ。頭にエルをつけたらもっと格好いい。苫小牧との境界近くに室蘭本線の社台駅があるので、知名度はそこそこある。少し西に社台川も流れている。
さて、定説の sa-tay-pet というのは文法的に破綻しており、このままでは通じない。saは位置名詞であり、他動詞を間に挟まなければ前に置くことができないのである。〈林の前の川〉なら例えば tay-sa-un-pet といった形になるだろう。そもそも旧記類ではすべて「シャダイ」であり、ベツがついている例を見ない。なんでもかんでも pet をつけて解釈したがるのは地名学者の悪い癖である。

sat は通常〈乾いた〉の意味で使われる。他にも〈一面に広げたように見える〉という意味があることが確認されており、満点の星空のような情景にも sat が使われる。そうなると気になってくるのが「社台台上」とも呼ばれる社台川上流部の広大な台地だ。社台の滝やインクラの滝の上に広がる高原はほとんど傾斜がなく、特徴的な地形を形成している。まさにこれが sat-tay〈広がる林〉 ではないだろうか。現地アイヌは「大滝ある故に名付く」としており、社台の滝が関係していることもひとつの裏付けとなる。
よって社台の由来はこの社台台上にあったと考えたい。
敷生(シキウ)
- 【定説】siki-o-i〈鬼茅ある所〉
- 【私案】sik-i〈水に満ちた所〉
定説の siki は〈鬼茅〉をあらわす。アイヌはこの茎を切って矢柄の材料としたという。

ただ気になるのは他の表記で、伊能図では「シキ」、間宮河川図では「シキー」、松浦図では「シクエ」、今井大河図では「シグイ」とある。今井八九郎は敷生川の支流や源流までの距離までを記しており、それなりに信頼の置ける情報になるだろう。「シキー」「シグイ」の双方を満たす音となると、sik-i〈水に満ちた所〉という形が見えてくる。この sik は支笏や鹿部、祝津などでたびたび出てくる単語である。
敷生川のそばの日本製紙のあたりはかつてトンケシ(沼ノ端)と呼ばれ、このあたりに広大な沼地が広がっていたようだ。敷生川の川筋に今も湧水があることも知られている。またかつてはメップ川と敷生川は合流していたが、mep は〈泉川〉の意味である。
よって sik-i〈水に満ちた所〉という地名があてはまるのではないだろうか。
虎杖浜(コジョウハマ)・倶多楽湖(クッタラコ)
- 【支持】kuttar-us-i〈虎杖のある所〉

kuttarとは〈虎杖〉のことで、虎杖浜とはそれを和訳したものだ。山の方には倶多楽湖という見事なカルデラ湖もある。イタドリはアイヌにとってもあまり役に立たない植物で、価値のないものとされることが多かった。クッタルシという地名は道内のあちこちにあり、小樽の入船も昔はクッタルシといった。
余談だが、先日始めて虎杖浜温泉に訪れた。建物は新しく綺麗になっており、なにしろ43.5度くらいの熱湯があるのが素晴らしい。ここまで来たら登別温泉まで行ってしまいそうだが、せっかくなら虎杖浜温泉にも寄っていくのもいいだろう。

飛生(トビウ)
- 【支持】topi-o-i〈竹のある所〉
飛生川は敷生川の西側の支流にあたる。topi は top〈根曲がり竹〉 の長形で、これは定説通り竹のある所の意味であろう。飛生川にはトプシナイ川という支流があって、これは top-us-nay〈根曲がり竹のある川〉の意味だから間違いない。これを和訳した「竹浦」という地名が今も行政地名として使われている。

「根曲がり竹」とは「千島笹」のことで、よくある「熊笹」とは少し違い、葉に白い縁取りがない。飛生川沿いには熊笹もたくさん生えていたが、千島笹が群生しているところもあった。これが飛生の由来になるのだろう。
別々(ベツベツ)
- 【定説】pet-pet〈川川〉
- 【私案】per-pet〈裂けた川〉
苫小牧市と白老町の境界を流れる別々川は、昔からユウフツ場所とシラオイ場所の境界になってきた。”別々”とは変わった地名だが、意外にも類例は全道各地にたくさんある。
別々(白老町)のほか、弁辺(豊浦町)、辺別(美瑛町)、ペーペナイ(京極町)、ヘンベナイ(天塩町)、ベベルイ(富良野市)など。
旧図 | 別々 | 弁辺 | 辺別 |
---|---|---|---|
秦蝦夷島図 | ベベツ | ベンベ | |
伊能大図 | ベンベツ | ベベ | |
間宮河川図 | ベシベシ | ベベ | ベーベ |
高橋蝦夷図 | ベシベツ | ベベ | |
今井測量原図 | ベツベツ | ベベ | |
松浦山川図 | ベツベツ | ヘンベ | ヘヘツ |
道庁実測切図 | ペッペッ | ベンベ | ペペッ |
念の為、3つの地名について各表記を比べてみたが、わかったのは音が同じようでいていずれも違うということだけで、これらの地名が全く同じ意味なのか、そうでないのかはよくわからなかった。
永田地名解では「この川は西また東へと曲流してほとんど別水かと疑わしむ故に名づく」などと言っているが、「別の川」とは極めて日本語的な解釈でありちょっと違うだろう。pet-pet で〈川・川〉というのもちょっと受け入れがたい。知里真志保氏は pe-pe〈水・水〉とし水たまりの群がって存在する処などと解した。それらをあわせて pe-pet〈水・川〉とか pe-un-pet〈水のある川〉などという解もある。
そんな中、注目に値するのは、美瑛の辺別川で松浦武四郎が記録した「幾十条の枝川、網の如し」という解だ。ベベツと呼ばれるような川の地形をよく見ると、低地で合流しており幾筋かに分かれているような地形が多い。現在は河川改修で整備されていても、過去には三角州のような地形になっていたところが共通しているように思う。

e-pet-pet-ke〈スルメイカ〉、o-pet-pet-ke〈破れた着物〉という単語がある。これはper-perを重ねることでペッペッに音が変化することがあることを表している。そこで思い出したのが帯広の地名解だ。帯広はオベリベリとも呼ばれ、o-per-pere-p〈河口が裂けた所〉の意味とされる。
よって別々川も同様に per-pet で〈裂けた川〉といった意味合いなのではないだろうか。
風雨別(ブウベツ)
- 【支持】pu-pet〈倉の川〉
- 【諸説】hure-pet〈赤い川〉

ブウベツは白老川の3つの流れのうちの真ん中にある支流。「倉のあった川」だと言われると明確に否定できる材料はないが、この形はあまり類例を見ない。

しかしブウベツ川の西に「フウサワ岬」とよばれる峰が伸びており、これを倉に見立てた可能性がある。フウサワとは pu-sapa〈倉の岬〉だろうか。このフウサワ岬の傍らにある川なので、ブウベツと呼んだのだろう。

ウヨロ
- 【定説】岩から染み出る水?
- 【諸説】凹み?
- 【私案】iwor-uturo-ci-kus-nay〈奥山の間を通る川〉
ウヨロ川は白老川の3つの枝のうち一番西側にある流れで、現在は石山と呼ばれる地区を流れている。

このウヨロは難解な謎地名とされている。音がシンプルなだけに難易度が高い。音だけ見るとuy-orあたりになりそうだが、あてはまる単語がない。
秦蝦夷島図に「イヨウ」、間宮河川図に「イヲロウトロチクシナイ」とあり、どうにもこれが原名に近そうだ。イウォロ(奥山)とはおそらく三角点:阿部牧場のある64m峰のたんこぶ山で、その間を通るからそう呼ばれたのだろう。松浦武四郎は「岩より出る水を云う」と現地アイヌから聞いたようだが、ニュアンスとしてはなんとなく近いものがある。

アヨロ
- 【定説】ay-or-o-kotan〈矢のある村〉
- 【私案】ay-or〈崖の所〉
ウヨロと並んで謎地名とされているアヨロ。秦蝦夷島図では「アイロウ」、間宮河川図でも「アイロ」。

このアヨロの位置を今井図で確かめると、現在のアヨロ川の方ではなく、ポンアヨロ川のある崖地のほうになっている。この台地はkamuy-mintar〈神の遊ぶ庭〉とも呼ばれる特別な場所であったようだ。

アヨロを考えるうえで、各地にある愛冠という地名を参考にすることにした。アイカップは aykap〈できない〉の意味とされ、矢も届かぬような崖地を表すという。しかし動詞が単体で地名になるとは考えにくい。aykap は もともとは ay-ka-o-p〈崖の上にある所〉であったように思う。そうするとアヨロとの共通点が見えてくる。

アフンルパロ
- 【支持】ahun-ru-paro〈あの世の入口〉
このアヨロ岬の傍らにあるのが地獄穴だ。同じような地名に oman-ru-paro があるが、ahunもomanも「入って行く」という意味なので、どちらも意味合いとしては同じである。道内のあちこちの洞窟がこの名前で呼ばれている。

それほど深い洞窟ではなく、すぐに行き止まりになるが、死者だけはこの奥へと進めるのだという。余市のオマンルパロも同様な伝承があり、いなくなった妻を探しに行った男がその中へと入っていった。なんとなく出雲の黄泉比良坂を連想させるエピソードである。
このアフンルパロの中にイルカの頭蓋骨が置いてあって、少しびっくりした。誰かが置いたのだろうか。

ヨコスト
- 【支持】yoko-us-to〈獲物を狙う沼〉

白老市街地の東側に「ヨコスト」というバス停があって、その先に「ヨコスト湿原」が広がっている。yoko とは〈獲物を待ち構えて待ち伏せする〉といった意味合いがあり、この沼でよく獲物を狙ったのだろう。
ウトカンベツ
- 【定説】u-tukan-pet〈互いに射る川〉
- 【私案】utka-un-pet〈せせらぎのある川〉
ウトカンベツ川は陣屋町を流れる白老川支流で、定説では「戦争で互いに弓を射ち合った川」だという。”陣屋町”という名の通り白老仙台藩の陣屋があったところであり、古くはアイヌの砦もあった。そこから「弓で射ち合う」というイメージが連想されるのはよくわかる。しかしいかんせんこういう地名は類例がなく、後付けの説話感が否めない。

utka とは〈浅瀬〉をあらわす一般的な地形の名称で、地名にも時々使われる。川が浅く小石が見えていて、その上をさらさらと音を立てて水が流れるような地形だ。「せせらぎ」という言葉がぴったりくる。ここは白老コタンのほとりであり、さらさらとしたせせらぎの音がいつも聞こえていたのだろう。ただし現在のウトカンベツ川は河川改修によってまっすぐにされており、本来の川は陣屋跡のほうを流れていたようだ。そのため当時のせせらぎの様子を窺うことはできなかった。

ポロトコタン
- 【支持】poro-to〈大きな沼〉
今はウポポイがあるところを、むかしはポロトコタンと呼んだ。poro-to の kotan という意味だろう。ただし昔からここにコタンがあったわけではなく、近代になってから復元されたコタンである。

2つの沼があり、大きい方を poro-to〈大きな沼〉 、小さい方を pon-to〈小さな沼〉という。ただ明治期の地図を見ると、現在のポロトを「ポントー」と呼んでおり、もともとはポントだったのかもしれない。
仙台藩の地図を見ると、沼の水が今とは違い白老川のほうに合流している。ただこの地図では幕末に三川合流していたはずの白老川支流が別々に流れ落ちているように描いてあるので、それが信頼できるかはわからない。ただ松浦図でも沼のようなものが白老川河口付近にあるので、これがポロトなのかもしれない。

ウポポイ
- 【私案】upopo-o-i〈歌のある処〉

民族共生象徴空間の愛称は文化庁主催の公募と投票によって「ウポポイ」に決まった。ウポポイとは〈おおぜいで歌うこと〉の意味だそうである。
意外にも、upopoy という単語はどのアイヌ語辞書を開いても載っておらず、端的に言ってしまえば造語である。ただし upopo〈歌〉という言葉はある。ウポポとは手をたたきながら歌詞を輪唱していくタイプの歌である。分解すると u-po-po で、 u- は〈互いに〉を表す接頭辞、po は手を叩くときの擬音語であるという。
ウポポイは造語はであるが、これを地名と考えると実にしっくりくる。つまり upopo-o-i で〈歌がたくさんある所〉の意味だ。ウポポイの体験交流ホールでは様々な歌のプログラムが実演される。まさに歌がある所ということができるだろう。
ウポポイにまだ行ったことがないという人も、どのようなところか一度訪れてみるといいだろう。
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