分部越は銭函5丁目の旧名。現在の石狩湾新港のあたりである。
昭和28年発行の地理院地図には名前が載っているが、その後消えた地名。樽川十線の先にあることから「十線浜」とも呼ばれた。
十線浜の道路は石狩湾新港発電所の道となっており、ゲートで閉鎖されていて一般には入れないようになっている。
かつての分部越集落跡には痕跡もなにも残っていない。かつては樽川村の集落だったが、石狩湾新港の建設に伴い村ごと移転し、その領域は小樽市に組み込まれている。
フンベヲマイという地名は江戸時代から見え、松浦武四郎の『東西蝦夷山川地理取調図』では「ヲタルナイ」(新川河口)と「石狩川」の間の唯一の地名として「フンヘヲマイ」が見える。
文献 | 年代 | 表記 |
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西蝦夷地行程 | 1805/文化2 | フンヘマイ |
西地海陸里程 | 1805/文化2 | フンヘマイ |
東海参譚 | 1806/文化3 | クンベマイ |
田草川日記 | 1807/文化4 | フンベヲマナイ |
伊能図甲 | 1821/文政4 | フンヘヲマイ |
今井里数書 | 1831/天保2 | フンヘマイ |
今井図 | 1841/天保4 | フンヘヱ |
海岸里数書 | 1855/安政2以前 | フンヘモイ |
道中見取図 | 1855/安政年間 | ヘンベムイ |
蝦夷行程記(阿部) | 1856/安政3 | フンベマイ |
按西扈従 | 1856/安政3 | フンヘムイ |
観国録 | 1857/安政4 | フンベムイ |
東西蝦夷山川図 | 1859/安政6 | フンヘヲマイ |
江戸時代の文献に見える表記は「フンベマイ」ないし「フンベヲマイ」で、humpe-oma-i〈鯨のいる処〉の意味だろう。一応「フンベヲマナイ」の表記も見えるが、目立つほどの川は無かったはずだ。しかし飲用水にするための少しの水源はあったのかもしれない。
石狩湾には鯨がいたようで、いしかり砂丘の風資料館には鯨の骨が展示されている。
大正2年の樽川花畔原野の地図では「フンベオマイ」と「フンベコイ」が分けて描かれている。しかし他に分けて書いている例は見当たらないので、フンベコイは和人によって言い馴らされた表現なのだろうか。旧字名では「分部越」(ブンベゴエ)のほかに「分部義」(ブンベギ?)も見える。和人集落ができるようになってからも発音のブレがあったようである。
昭和41年の空中写真では分部越の集落に15軒前後の建物が見え、それなりの規模の集落だったことが窺える。しかし現在は建物もその土台も何も残されていない。この分部越集落については「たるかわの歩み」という郷土本で少し紹介されている。
幕末の安政年間に「フンベムイ小休所」が置かれた。銭函から石狩元町まで5里(20km)の海岸を歩行する旅人の便宜をはかるためである。今で言うところの「道の駅」にあたる。
しかしイシカリ場所請負人の阿部屋村山家による小休所運営は杜撰だった。上川にいるアイヌの70代の老夫婦ハッチヒとその妻を孤立無援の浜に住まわせただけで、ほとんど支援しなかった。そのため松浦武四郎が訪れた安政3年の冬に餓えと寒さで死んでしまう。その代わりに、また上川の老夫婦オカマフとその妻を連れてきて小休所の管理にあたらせたが、僅かな米と魚を与えただけでほとんど支援せず、このままでは冬を越せず、自分たちも前の住人と同じように飢えと寒さで死んでしまうだろうと言う。その惨状を武四郎は「ハマナス取り入れの儀、申し上げ奉り候」という手紙で訴えている。このあたりにハマナスが生えているので、それを集めさせて買い上げることで、どうか見殺しにせず支援してあげてほしいと切実に訴えている。しかしその後も大した支援はされなかったようだ。小休所として旅人の支援をするどころではなく、自分たちの食料すら無い悲惨な状況である。
ここだけに限らず、阿部屋の様々な杜撰な管理が問題視され、安政5年、箱館奉行のイシカリ改革によって村山家は場所請負人の役を取り上げられイシカリ場所は廃止。幕府直轄領となっている。
かつてここに烽火台が置かれたこともあったが、文化年間に消失したようだ。今は風力発電の風車が立ち並ぶだけで、あとは何もない浜になっている。
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