文法のはなし
避けたい文法
「文法」と聞いてワクワクする人はあまりいないだろう。できれば避けて通りたいと思うのが人の常である。
かく言う自分も高校時代、英語のテストで赤点を取ったし、古文に至ってはほとんどゼロ点に近かった(現代文の物語読解は得意だったのでそれでカバーした)。文法など始めから投げていたのだ。
そんな自分が辞書を片手に江戸時代の地図や文書と毎日にらめっこするようになるとは、当時の自分は考えもしなかっただろう。
文法のただしさ
さて、アイヌ語地名を理解するために、まず第一にやることは単語の意味を調べることである。知里真志保、萱野茂、田村すず子らのアイヌ語辞典を紐解き、音と照らし合わせながら単語を拾い上げていく。とても楽しい作業である。
だが既存の地名解の誤りを正したり、新しい地名解を提唱したりするようになると、どうしても文法に触れないわけにはいかない。アイヌ語は、多くの人が想像するかもしれない単純で原始的な言葉ではなく、かなりしっかりした文法によって構成されている。せっかく考えだした地名解も、文法がおかしければ台無しになってしまい、その支持を得ることは難しくなる。
そこで、未熟ながらも自分なりに理解したことをここに少しまとめてみたいと思う。体系的な理解は入門書などに譲るとして、ありがちな間違いなどを重点的に見ていきたい。
地名の主となる名詞
川なのか山なのか岬なのか
アイヌ語地名にはほとんど必ず主となる名詞、すなわち主名詞がある。これはたいてい最後に来る。
ここで言う主名詞とは、その「地形そのもの」を表す名詞のことである。要するに一番最後にある pet などのことだ。
- pon-pet〈小さな川〉(=奔別) → 川
- poro-pet〈大きな川〉(=幌別) → 川
- ota-moy〈砂の湾〉(=オタモイ )→ 湾
- ri-sir〈高い島〉(=利尻) → 島
たまに岬に nay〈川〉 がついていたり、川に tay〈林〉 がついていたりすることもあるが、それは地名がもともと指した場所が近くにあって、その地名が移動してきたと考えることができる。それで、その地名は川を指していたのか、岬を指していたのか、湾を指していたのかを判別することで、その地名に附せられた意味を探っていくことになる。
地名の例:
- nupur-pet〈霊力ある(濃い)川〉(=登別)
- mak-un-pet〈奥に入る川〉(=幕別)
- mak-oma-nay〈奥にある川〉(=真駒内)
- iwaw-nay〈硫黄川〉(=岩内)
- iwaw-nupuri〈硫黄山〉(=イワオヌプリ)
- nisey-ko-an-nupuri〈絶壁にある山〉(=アンヌプリ)
- muy-ne-sir〈箕のような山〉(=無意根山)
- e-en-iwa〈尖った(神聖な)山〉(=恵庭)
- mo-iwa〈小さな(神聖な)山〉(=藻岩)
- tuy-pira〈崩れる崖〉(=豊平)
- hure-pira〈赤い崖〉(=古平)
汎用的な i と pe
この主名詞としてとてもよく使われるものに i〈もの・処〉がある。
- to-mak-oma-i〈沼の奥にある処〉(=苫小牧)
- kot-un-i〈窪地(住居)にあるもの〉(=琴似)
といった具合で、色々なところに出てくる。
だが便利だからといってなんでもかんでも i を使えるわけではない。i が最後に来るのはたいていの場合、他動詞の後ろにつくときで、自動詞の例もたまにあるが、名詞につけている場合は明らかな間違いである。たとえば『データベースアイヌ語地名』で pes-pok-i〈崖の下の処〉(=星置)としている例があるが、pokは名詞のため後ろに i をつけることができない。
i と同じように使える汎用的な主名詞に p、pe〈処〉がある。これの気をつけるべき点として、母音の後ろに来る時は p 、子音の後ろに来る時は pe という使い分けがある。動詞の後ろにしか置けず、名詞につけることができないという点は i と同じである。例えば
- ✕ hum-koi-pe〈波音高き処〉(=畚部)※誤り
- ○ hunki-o-pet〈砂丘にある川〉(=畚部)
という地名解があるが、フンコイペのほうはkoi〈波〉という名詞の後ろに pe を置いていること、母音の後ろなのに p ではなく pe にしていること、という二重の誤りを犯している。pet なら母音の後ろに置けるし、江戸時代の色々な旧記はフンコベツと書いている。
この i や pe を形式名詞と呼ぶこともある。i は 〈それ〉として前に置くことができるが、pe は前に置くことができない。 他に〈処〉をあらわす語に ke があるが、これは少々複雑なのでここでは取り上げない。
地名の例:
- i-ot-i〈それが沢山いる処〉(=余市)
- ranko-us-i 〈桂が生えている処〉(=蘭越)
- wakka-o-i〈水の多い処〉(=若生)
- mat-oma-i〈女性のいる処〉(=松前)
- so-rapte-i〈滝が落ちる処〉(=空知)
- at-oma-p〈楡のある処〉(=厚真)
- o-toyne-p〈川尻が泥まみれの処〉(=音威子府)
- ru-pes-pe〈道に沿う処〉(=留辺蘂)
- ✕ ichan-i〈産卵床の処?〉(=漁川)※誤り
位置名詞による修飾
位置名詞とは、地形の位置関係を表す少数の特別な名詞のことで、アイヌ語では普通の名詞と区別されている。例えば pa 〈上・頭〉や etok〈先端〉などが位置名詞である。それぞれ
- sir-pa〈山の頭(岬)〉(=尻場山)
- sir-etok〈山の先端〉(=知床)
といった具合で、地形を表す名詞のすぐ後ろにつけることができる。
位置名詞のこの用法の特徴として、前につく名詞とセットで一つの名詞のように扱われるということがある。「sir-pa」で一つの名詞のようになるのだ。これは文法的に名詞が一つしか置けない場所にも、まとめてセットで置くことができるということを覚えておいて損はない。よって、poro-sir-pa〈大きな岬〉という場合は、sir-paがまとめて主名詞になっていると理解することもできる。
ちなみに位置名詞でない名詞を所属形にすることで、位置名詞と同様に前の名詞とセットにすることもできる。pok〈下〉 の所属形は poki〈~の下〉 である。先程の星置の例を pes-poki〈崖の下〉にするならば、少なくとも文法的には通るということになる(ただし星置の地名解はこれではないと考えている)。
また位置名詞そのものを主語として使いたい場合は、位置名詞を所属形にする。
地名の例:
- us-or〈湾の内側〉(=忍路)
- nay-or〈川の内側〉(=名寄)
- ota-sut〈砂浜の端〉(=歌棄)
- ota-noske〈砂浜の真ん中〉(=大楽毛)
- not-or〈岬の内側〉(=ノトロ)
- not-ka〈岬の上〉(=野塚)
- not-sam〈岬の傍〉(=納沙布岬)
- pira-utur〈崖の間〉(=平取)
- yu-paro〈温泉の口〉(=夕張)※paro は par の所属形
- nup-ka〈丘(野の上)〉(=信香)
- rep-un-nup-ka〈沖側にある丘(野の上)〉(=礼文塚)
- sir-kus〈丘の向こう〉(=尻櫛)※kusは位置名詞
- ota-un-kusi〈砂の向こう浜〉(=歌越)※主語なのでkusを所属形に
自動詞が後ろに来るケース
主名詞が最後に無い、主名詞+自動詞 の形の地名が少数ながらある。例えば
- suma-san〈岩が突き出る〉
- suma-hure〈岩が赤い〉
- ya-soske〈岸が剥げる〉
といった具合で、これに無理矢理 i〈処〉 を付けようとしたりするとおかしなことになってしまう。
suma-hure〈岩が赤い〉はひっくり返して hure-suma〈赤岩〉としても問題ないはずで、実際に両方あるが、どうして動詞が後に来る形になっているのかはよくわからない。
地名の例:
- suma-perke〈岩が裂けている〉
- suma-retar〈岩が白い〉
- i-sikari〈それ(川)が回る〉(=石狩)
主名詞の無い地名解
地名なのに主名詞に欠くという例はほとんどない。知る限り唯一の例外は
- aykap〈(矢が)届かない〉(=愛冠)
で、通行できないような崖を表す。完動詞ひとつという珍しい地名例である。ただこれも末尾に p があるので、合成語の中に p〈処〉 が含まれているとも考えることができる。
このことを考えると、
- ✕ sat-poro〈乾く・大きい〉(=札幌)※誤り
という地名解には主名詞が無いことに気がつくだろう。どちらも動詞である。よって札幌の地名解 sat-poro は文法的に正しいとは言い難い。sat-poro-pet〈乾く大きい川〉の略である、という説もあるが、そもそもこのように自動詞が2つ並ぶような例はあまり見ない。
別の例として
- ✕ haru-poro〈食糧が多い〉(=有幌)※誤り
- ○ haru-us-i〈食糧多き処〉(=張碓)
という地名解を比べてみよう、有幌のほうは主名詞を欠いている。haru〈食糧〉は名詞だが土地を表す言葉ではない。似たような意味である張碓の地名解には、きちんと主名詞 i〈処〉 が後ろにあるのでこちらは正しいと言うことができる。だからといって haru-poro-i〈食料・多い・処?〉にすれば解決するわけではなく、これはこれで別の問題をはらんでいる。よって有幌の地名解も再検討を要する。
なお、命名に関して特殊な事情がある地名もある。
- △ ni-kap〈木の皮〉(=新冠)※事情あり
然る処寛政の前、松前某此処え来り、ヒホクは其呼方よろしからずとて、此川すじは諸木の皮剥によき故、其を以て名とさすとて、ニイカツフと改められしと。
『東部毘保久誌』松浦武四郎
新冠は、土地に関する名詞ではない例外的な地名である。元々アイヌはここを pi-pok 〈石の下〉と呼んでいたが、松前藩がやってきたときに「ヒホク」は音がよろしくないとのことで、「ニイカップ」に変えてしまったというのだ。でも現地アイヌはヒホクと呼び続けたらしい。アイヌが地名を大事にしていたことがよくわかるエピソードである。このようなはっきりとした逸話がないかぎり、土地を示す主名詞に欠く地名解は採用が難しい。
地名の例
- ✕ nisew-pok〈ドングリ・ホッキ貝〉(=銭函)※誤り
- ✕ oro-at〈中・集まる〉(=於古発)※誤り
- ✕ kamuy-heroki〈神のニシン〉(=神居古潭)※誤り
自動詞と他動詞
自動詞と他動詞の区別
アイヌ語には日本語と同様に自動詞と他動詞がある。アイヌ語地名を理解する上では、この自動詞と他動詞の区別が非常に重要になってくる。使用する全ての動詞に関して、それが自動詞か他動詞かを確かめる必要があるだろう。そのくらい重要な要素であり、誤りも発生しやすいところである。
自動詞のことを一項動詞、他動詞のことを二項動詞と呼ぶこともある。すなわち一項動詞は名詞を1つ、二項動詞は名詞を2つ持つことができる。逆に言えば、自動詞に名詞が2個ついていたり、他動詞に名詞が1個しかついていないなら、特別な用法や理由がない限りそれは間違っている可能性が高いということだ。
自動詞:形容詞のようにはたらく
アイヌ語で形容詞と言われるものはほとんどが自動詞である。例えばよく使われる poro は名詞の前に置けば〈大きい〉という形容詞、名詞の後に置けば〈大きくなる〉という動詞のように働く。
- poro-nay〈大きな川〉(=幌内)
- poro-pet〈大きな川〉(=幌別)
- poro-nup〈大きな野〉(=幌延)
この「自動詞+名詞」という形は非常に多く見られる形で、最も基本的な地名のテンプレートである。ごく稀に「名詞+自動詞」とひっくり返った形になって現れることがある(前述の i-sikari など)が、意味としてはほとんど変わらない。
ちなみに修飾する言葉でありながら動詞にはならない、連体詞とか副詞という品詞もあるが、ここでは省略する。
地名の例:
- hure-pet〈赤い川〉(=赤井川)
- hure-chis〈赤い立岩〉(=赤岩)
- tanne-to〈長い沼〉(=長沼)
- poro-to〈大きな沼〉(=ポロト湖)
- onne-to〈老大な沼〉(=オンネトー)
- sikar-pet〈回る川〉(=然別)
- sat-nay〈乾く川〉(=札内)
- charse-nay〈滑り落ちる川〉
他動詞:~ある処
アイヌ語地名で最も顕著なテンプレートがこの「~ある処」の形で、これは他動詞を使っている。
- mose-us-i〈イラクサのある処〉(=妹背牛)
- ranko-us-i 〈桂のある処〉(=蘭越)
「~ウシ」のつく地名が道内にはたくさんあるが、これはこの us〈群在する〉に i〈処〉をつけた形である。us の他にも、oma、o、un、ot などがあり、細かい違いはあれどいずれも〈~にある/~のたくさんある〉を意味する。
似たような〈ある/たくさんある〉という意味だが an、at は他動詞ではなく自動詞なので、同じように使うことはできない。
- tat-us-pet〈樺のある川〉(=タウシュベツ)
余談だが、地名として合成される時、隣り合う子音と母音はくっつくので tat-us-pet は「タツシベツ」と発音される。これが「タウシュベツ」と読まれるのは永田地名解の癖によるものだろう。
地名の例:
- hunki-o-pet〈砂丘にある川〉(=畚部)
- sar-o-pet〈葦原にある川〉(=サロベツ)
- sar-oma-pet〈葦原にある川〉(=サロマ)
- taor-oma-i〈川岸の高所にある処〉(=樽前)
- to-mak-oma-i〈沼の奥にある処〉(=苫小牧)
- mak-oma-nay〈奥にある川〉(=真駒内)
- mak-un-pet〈奥にある川〉(=幕別)
- so-un-pet〈滝のある川〉(=層雲峡)
- kot-un-i〈窪地にある処〉(=琴似)
- ciray-ot-i〈イトウのいる処〉(=キライチ川)
- i-ot-i〈それ(蛇?)のいる処〉(=余市)
- toy-o-i <土のある処>(=豊井)
他動詞us:我々がいつも~する処
他動詞 us には〈たくさんある〉だけでなく、動詞の後に置いて〈いつも~する〉という意味にする特別な用法がある。
- at-kar–us-i〈楡皮を取る処〉
- chip-ta–us-nay〈丸太船を掘る川〉
この用法で楡皮や丸太を”いつも取る”のは「川」ではなく「人」であるという点に注目してほしい。逆に言えば、〈我々が~する〉という訳になるのはこの用法である可能性が高い。us のほかに ot や ki などの他動詞も us と同じような働きをするらしいが、そういう例はあまり見たことがない。
なお〈我々が~する〉という形には基本的には us が入るのだが、この us を落としている例が見られる。
- haru-kar-moy〈食糧を穫る湾〉?
食糧穫るのは「我々」のはずなので、この場合は us が入っているはずである。このように訳したいなら haru-kar–us-moy となるはずである。実際、今井八九郎図や武四郎の地図を見ると「ハルカルモイ」となっているので、本当は us が入っているのかもしれない。
- mose-kar–us-i〈イラクサを刈る処〉
- mose-kar-i〈イラクサを生み出す処〉
どうしても us が入ってるように見えない場合は、訳を見直してみるといいかもしれない。
またこの用法では、〈我々が〉に相当する語が省略されているのだが、稀に省略せずに主語を明示する例もある。
- kamuy-op-kar–us-i〈神が槍を作る処〉(=水無の立岩)
地名の例:
- inkar–us-pe〈見張りをする処〉(=札幌藻岩山)
- inkar–us-i〈見張りをする処〉(=遠軽)
- i-ika–us-i〈そこを越える処〉(=伊香牛)
- heroki-kar–us-i〈鰊を穫る処〉(=ヘルカ石)
- yam-uk–us-nay〈栗を拾う川〉(=山越)
他動詞:その他
それ以外の具体的な意味を持つ他動詞もある。
地名の例
- hura-nu-i〈匂いを感じる処〉(=富良野)
- muy-ne-sir〈箕のような山〉(=無意根山)
- chise-ne-sir〈家のような山〉(=チセネシリ山)
項の数に要注意!
- ✕ suma-san-nay〈石の流れ下る川〉(=石山町)※誤り
この地名解のどこがおかしいかわかるだろうか。辞書を開いてみるとわかるが、san〈入る〉は自動詞なのである。すなわち一項動詞であり、原則として1つしか名詞を持てない。にも関わらず、suma〈後ろ〉とnay〈川〉という2つの名詞を抱えてしまっている。それでこの地名解は何かがおかしいと考えなくてはならない。
- ✕ yanke-sir〈陸揚げする島〉(=焼尻島)※誤り
これだけ見ると、人が船で上陸する島、あるいは魚を水揚げする島という意味に捉えたくなる。しかし yan〈陸に上がる〉は自動詞だが、yanke〈陸に上げる〉は他動詞である。にも関わらず名詞が sir〈島〉1つしかないのでこの時点でおかしい。じゃあ自動詞の yan を使えばいいかというとそうでもなくて、yan-sir なら〈陸に上がっている島〉、すなわち「島が陸に上っていく」というニュアンスになる。sir が主名詞だからだ。
こういったおかしなことが起きてしまうので、自動詞と他動詞の理解は非常に重要である。
地名の例
- ✕ mem-an-pet〈泉ある川〉(=女満別)※誤り
項の数を変える方法
じゃあ自動詞の場合は絶対に名詞が一つしか持てないかというと、そういうわけでもない。e-、 o-、 ko-、ta、などを挟み込むことで、前に名詞を置くことができるのだ。細かく言うと長くなるのでここでは例だけを挙げておこう。
地名の例:
- nisey-ko-an-nupuri〈絶壁がそこにある山〉
- nup-pa-ta-an-nay〈丘の処にある川〉
- kamuy-e-roki-i〈神がそこに座る処〉
- ru-o-san-i〈道がそこで下る処〉
名詞・動詞の連続
アイヌ語地名文法では、名詞同士や自動詞同士の連続を避ける傾向にある。
名詞の連続
ところが実際の地名を見ると名詞が連続しているものがたくさんある。
- ota-moy〈砂・湾〉(=オタモイ)
- suma-moy〈岩・湾〉(=島萌)
- kamuy-kotan〈神・古潭〉(=神居古潭)
- sak-kotan〈夏・古潭〉(=積丹)
こういう地名には動詞がない。地名解としては、あまりすっきりしない形である。一体どう解釈すべきだろうか?
隠れた他動詞
名詞の連続を見つけたらまず、間に o や un、us などが隠れていないか考えてみるべきである。
- moma-nay → moma-o-nay 〈李桃のある沢〉(=桃内)
- net-tomari → net-o-tomari 〈流木のある泊〉(=猫泊)
- ota-ru-nay → ota-ru-un-nay〈砂路のある川〉(=小樽内)
連続する母音や同じ子音は片方が落ちる傾向にあるので、こういったことがよく起きる。
隠れた所属形
しかしそれでも説明がつかない、本当に名詞の連続する地名はたくさんある。
前述した位置名詞の項で、名詞を所属形にすれば位置名詞と同様に名詞にくっつけることできると言ったのを覚えているだろうか。
- yu-paro〈温泉の口〉(=夕張)
この paro は par の所属形で、こうすることで名詞を修飾する語にすることができる。すなわち前述の例を所属形にするなら
- ota-moye〈砂の湾〉(=於多萌)
- suma-moye〈岩の湾〉(=島萌)
- kamuy-kotani〈神の古潭〉(=神居古潭)
- sak-kotani〈夏の古潭〉(=積丹)
といった具合である。オタモイを武四郎がオタモヱと書いたのは別に訛っているわけではなかったのだ。
ところがこの所属形、大変紛らわしいのだが、必ずしも所属形の形にしなくてもいいらしい。実際所属形の形になっていないものがほとんどなのではないだろうか。気持ちとしてはカムイコタニだけれども、そのままカムイコタンと呼ぶ方が多いようだ。オタモエをオタモイと言ったところで別に間違いというわけではない。
しかし名詞が連続する時は、話し手の気持ち的には所属形になっているということを意識したほうが良い。例えば『銭函郷土史』に載っているゼニバコの地名解を見てみよう。
- ✕ nisey-pok〈ドングリのホッキ貝〉(=銭函)※誤り
郷土史はこれで「セニポコ」と読み「ドングリとホッキ貝の豊富な所の意」としているが、後ろの名詞は前の名詞の所属形になっているはずで、こういう何の関連性のない名詞が並ぶということはありえない。
よく見たら所属形になっている例も見てみよう。
- top-siri-oma-nay〈笹山にある川〉(=軽川)
手稲区を流れる軽川のアイヌ語名である。top-siri 〈笹の山〉で後ろが所属形になっている。もしこれが基本形の sir だったのなら、後ろの母音とくっついて top-sir-oma-nay と呼んでいたはずだ。また武四郎は「トシリコマナイ」と書いていることもあったが、これは母音の連続を避けるために咽頭破裂音を挿入したため top-siri-‘oma-nay と聞こえたのだろう。これらは sir の所属形 siri になっていないと起きない現象である。
地名の例:
- wao-naye〈アオバトの川〉(=青苗)
- wao-siri〈アオバトの丘〉(=和宇尻)
- kina-siri〈草の島〉(=国後)
- oman-ru-paro〈入っていく道の入口〉(=地獄穴)
地名の固有名詞化
〈いつも~する〉の us 以外で動詞が連続することは普通無いし、名詞も所属形でなければ連続することは基本的には無い。自動詞には名詞を一つしか置くことができない。だが実際はそれらの制約を飛び越えている例がある。特に地名が固有名詞化している場合は、これらの制限に縛られなくなる。
- moma-o-nay〈李桃の沢〉(=桃内)
- pon-{moma-o-nay}〈小さな桃内〉
- poro-{moma-o-nay}〈大きな桃内〉
桃内川の支流と本流の名前である。poro-moma となっているからといって「桃が大きい」わけではない。「桃内川の小さい方(支流)」と「大きい方(本流)」という意味である。
このように地名が固有名詞化すると、まるで一つの名詞になったかのように振る舞う。その中に名詞がいくつあろうが、動詞が入っていようがお構いなく、ただ一つの名詞と化すのである。
地名の例:
- {to-pet}-putu〈当別川の河口〉(=当別太)
- sa-kus-{kot-un-i}〈浜側の琴似川〉(=サクシュコトニ川)
- husko-{sapporo}〈古い札幌川〉(=伏古)
- {i-ot-i}-pa-oma-nay〈余市岳の方にある川〉
- mo-{asari}〈小さな朝里川〉(=柾里)
その他の用法
主語のある地名
〈我々が~する〉という地名は他動詞 us を使うと言ったが、これは地名独特の表現らしく、日常会話ではあまり使わないようである。地名でも稀に日常会話と同様に主語を頭に持ってくる場合がある。
- chi-e-toy-nay〈我々が食べる土の川〉
- chi-kisa-p〈我々が擦る所〉(=月寒)
この「食べる土」とは珪藻土のことで、汁物に少量入れて飲むらしい。
月寒の方はどうにもしっくりこないが『西蝦夷日誌』に「チキシヤブ。小川。昔神が火打を忘れし古跡なりと。チキシヤブは火打の事なり。よって秦皮をチキシヤニといへるなり」とあった。
地名の例:
- chi-kus-pet〈我々が通る川〉(=秩父別)
- chi-nomi-sir〈我々が祈る山〉(=乳呑)
所属形が先頭に来る地名
まずはこの地名を見てみよう。
- oro-hure-nay〈中が赤い川〉(=オロフレ)
oro は or〈~の中〉 の所属形だが、これは一体どう解せばいいのだろうか?
この地名の主語は nay なので、これを先頭に持ってきて考えるといい。「nay oro-hure〈川の中が赤い〉」なるほど、こうすると理解しやすい。oro は 主名詞である nay にくっついていたのだ。このように、迷った時は、主名詞を前の方に持ってきて文にして考えると理解できることがある。
地名の例:
- uturu-chi-kus-i〈間を我らが通る処〉(=ウトロ)
- oro-wen-nay〈中が悪い川〉
- oro-kunne-p〈中が黒い川〉
- ✕ oro-at〈鰊が群来る処?〉(=於古発)※誤り
接頭辞
先頭に o-〈尻に〉や o-〈頭に〉を付けている地名が時々出てくる。これはあってもなくても文法的にはあまり変わらないが、その地名が表す場所をより特定している。si-〈本当の/とても〉という接頭辞もある。
- watara-us-i〈岩のある処〉(=渡石)
- o-watara-us-i〈山尻に岩のある処〉
赤岩海岸の渡石に関しては、o が付く方と付かない方のどちらの呼び方もされている。
地名の例:
- e-sa-us-i〈頭に浜がある処〉(=江差、枝幸)
- e-en-iwa〈頭が尖った山〉(=恵庭)
- o-ki-us-nay〈川尻に茅のある川〉(=興志内)
- o-so-us-i〈川尻に滝のある処〉(=精進川)
- o-sirar-nay〈川尻に岩のある川〉(=尾白内)
- o-ukot-pe〈川尻がくっつく処〉(=興部)
- si-pet〈本流の川〉(=士別)
- si-{yu-paro}〈本流の夕張川〉(=シューパロ)
- si-kot〈大きな窪み〉(=支笏湖)
単語ひとつ
シンプルに、単語ひとつだけという地名もある。
地名例:
- tomam〈湿地〉(=トマム)
- sar〈葦原〉(=斜里)
- us〈入江〉(=有珠)
- enrum〈岬〉(=襟裳)
- chikep〈切り立った崖〉(=地球岬)
まとめ
地名と文法
アイヌ語地名を解読する上で、念頭に置いておきたい基本となる文法を自分なりにまとめてみた。これだけあれば道内のアイヌ語地名の7割くらいは説明できるかもしれない。しかし実際にはもっと複雑な地名もあり、解読に窮するものも少なくない。また、未熟ゆえに誤った理解をしている部分もあるかもしれない。
アイヌ語地名は、単純に単語を並べたものではなく、確かな文法によって構成されているものがほとんどである。地名解読の際の参考にしていただければ幸いである。
参考文献
- 『アイヌ語入門~とくに地理研究者のために~』知里真志保
- 『アイヌ語沙流方言概略』田村すず子
- 『アイヌ語地名文法の部屋』浜田隆史
- 『蝦夷語地名解』永田方正
- 『地名アイヌ語小辞典』知里真志保
- 『萱野茂のアイヌ語辞典』萱野茂
- 『データベースアイヌ語地名』榊原正文
- 『北海道の地名』山田秀三
- 『北海道の地名の由来ビギナーズ』
- 『bojan International』
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