開拓前夜
蝦夷から北海道へ
北海道はいつから日本の領土になったのだろうか。
明確にそうなったと言えるのは明治2(1869)年。蝦夷地から「北海道」と改められ、開拓使が置かれた。そして臨時政府である蝦夷共和国が滅んだ。この1869年をもって、有史以前より存在していた蝦夷文明が、その長い文明としての歴史を閉じたと言えるだろう。
だがそれよりやや遡ること1855年、日露和親条約によって日本の領土は千島の択捉島までであるということをロシアと確認している。1855年の時点ですでに対外的にも日本の領土ということになっていたのだ。ではいつからそうなったのだろうか?
江戸時代初期において、松前藩の持つ領域は道南の松前および函館周辺に限定されており、熊石より北はアイヌたちの領域であった。松前藩はあくまでもアイヌに対する優先的な交易権を持っていたにすぎず、蝦夷地は貿易相手国、すなわち外国であった。
松前藩は蝦夷各地に運上屋を置いたが、それはあくまでも外国に置かれた海外支社のようなものであって、行政権は引き続きアイヌたちが持っていた。アイヌは自分達で狩場の領域を定め、領域を巡って討論したり、時には武力で奪い取ることもあった。村を治める酋長の上には、その地域を束ねる大酋長もいて、蝦夷地全体はそれら大酋長達による群雄割拠状態だったと言えるだろう。主権も領土も国民のいずれもアイヌたちのものであり、少なくとも江戸時代中期までは独立した文明を築いていた。
状況が変わったのは1700年頃。商場知行制から場所請負制に移行するにしたがって、徐々に運上屋を拠点とした和人支配が強まっていく。自由な移動や商売を禁じ、強制的に労役に当たらせ、奴隷のように扱った。徐々に主権を掌握していき、蝦夷地を事実上の植民地としたのである。ただこの時点でもまだ蝦夷地は外国だった。
時は1799年。ロシアの南下を警戒して、江戸幕府は東蝦夷地を直轄領とする。続けて1807年に西蝦夷地も直轄領とした。あえて区切りをつけるとするならば、この1799年を境に、北海道は日本の領土となったと言ってもいいのではないだろうか。
その10年前の1789年にクナシリ・メナシの戦いが起こっており、この戦いを最後にアイヌ達の武力抵抗は終了し、二度と反乱を起こすことはなかった。
この1800年前後を境として、アイヌ文明は「諸豪遊時代」から「役蝦夷時代」に移行したと言えるだろう。蝦夷地の和人支配が確定的なものとなり、蝦夷文明における最終局面に突入したのである。
蝦夷地探検隊
その土地を治めるには、まずその土地の地理を知らなくてはならない。だが当時の日本は蝦夷地の形も地名もまだほとんど把握していなかった。海岸部の地名はそれなりにわかっていたが、内陸部となるとまったく未知の世界である。
それぞれの地名を “点” で把握していなかった。まずはこの点と点を結んで “線” にしなくてはならない。最終的には “面” での掌握が必要である。そのためには現地を測量をし、地図を作らなくてはならない。
江戸時代に地図を作った人物といえばなんといっても伊能忠敬が有名だ。だが伊能忠敬よりも少し前に蝦夷地を探検し測量したグループがいた。それが近藤重蔵とその一行で、その中には最上徳内や秦檍麿もいた。
2つの地図を比べてみてほしい。上が天明年間・1786年頃の地図、下が文化年間・1809年の地図である。その差は歴然で、近藤調査隊による測量によって、現在の北海道の形とほとんど相違ない輪郭を描き出している。まさに劇的な進歩と言えるだろう。
1800年初頭の測量により海岸線は明らかになったが、内陸部となるとまだまだ未知の空間であった。内陸部の川について地図に書き出した人物といえば松浦武四郎、間宮林蔵が思い浮かぶが、内陸部を詳細に記した地図といえば秦檍麿の地図が最も古い部類になる。
秦檍麿の地図
蝦夷島奇観の作者
秦檍麿 は 村上島之允 の別名で、江戸幕府の役人として何度も蝦夷地を調査した画家である。彼の描いた『蝦夷島奇観』はアイヌ文化を絵で描いた史料として非常に重要視されており、もっとも有名なアイヌ風俗画の一つと言えるだろう。
秦は近藤重蔵の探検隊の一員に加わっており、絵だけでなく測量技術やアイヌ語にも通じていたようだ。あの間宮林蔵の師でもある。
秦蝦夷島図
蝦夷島奇観はとても有名だが、彼の描いた地図の方はあまり注目されることはない。しかし蝦夷地全土の地名と支流名を詳細に記した地図としては知る限りで最も古いもので、その史料的価値は計り知れない。この地図はいろいろな名前で呼ばれているが、ここでは仮に『秦蝦夷島図』と呼ぶことにする。
原本は見つかっておらず、現存しているのはすべて写本と思われる。以下の4つの写図が確認できる。
- 松前蝦夷地嶋図 (北大)
- 蝦夷地之図(北大)
- 北海道(道南地方)精図 (道立)
- 津軽藩旧蔵文化七庚午年蝦夷地図(弘前)
史料の解題を見ても誰が書いたのか定かではないように書いてあるが、2015年の伊能忠敬研究会の研究により、この地図が秦檍麿によるもので、原図は1808年に描かれたものだと判明したようだ。
誤字の多い写図
現存するものがいずれも写図であると思われる根拠は、誤字が非常に多く、版によって記載されている地名の数も異なることによる。
誤字が最も多い写図は北大所蔵の『蝦夷地之図』で、小樽付近だけ取り上げてみても地名の実に半分以上が誤っているという激しい誤字っぷりだ。おそらく全く地名に対する見識がない人が見て写したのだろう。
よって元図に記載されていたと思われる正しい地名を正確に割り出すのは難しいが、それぞれの写図を比較しながらできる限り復元する努力をしてみた。
秦蝦夷島図の書き起こし
後志・石狩地方を中心に、西は寿都の歌棄、北は厚田までを書き起こしてみた。明らかな誤字はわかる限り訂正したが、よくわからないものはそのままにしてある。
この図の札幌付近から読み取れる興味深いポイントをいくつか見ていこう
石狩川の流路
伏籠札幌川から対雁川への流路変更
秦蝦夷島図では札幌川(豊平川)が途中で2つに分かれて別々に石狩川に注ぎ込んでいる。もともとは北区の篠路のあたりに注いでいた札幌川が、洪水によって流路を変え、江別の対雁のほうに流れ落ちるようになった事によるものだ。篠路に流れ落ちる川を伏籠札幌川、江別に流れ落ちる川を対雁川というが、現在は後者は世田豊平川と呼ばれている。
この大規模な流路変更が起きたのが1802年頃と言われ、この図が描かれた1808年というのはその数年後にあたる。豊平川の流路変更という大きな出来事をリアルタイムで記録している地図なのである。
秦蝦夷島図ではツイシカリの上流に大きな沼が描かれている。これはツイシカリメムと呼ばれた泉で、現在の菊水あたりにあったもののようだ。この図からわかるのは、札幌川が突然に対雁まで溢れていったのではなく、もともとツイシカリメムを水源としていた対雁川に、洪水によって札幌川が流れ込んだと考えるのが良さそうである。
札幌川はそのままではどちらを指すのかわからないということで、後に豊平川に名前を変えて今に至っている。なお大規模な治水工事により、現在の豊平川は人工的に当別川河口の対岸あたりに流路を変えられている。
発寒川のコタン
札幌北区の発寒川の下流域に「ツルウコタン」と「チヒヤコタン」という2つの古潭が書かれている。ここにアイヌコタンがあったという記述は、知る限り他の地図では一切出てこない、非常に貴重な情報である。
この地図が描かれてからおよそ50年後、松浦武四郎などがこのあたりを川船で通過しているが、コタンがあったという記録はなく、その頃にはもう誰も住んでいなかったようである。本当にここにコタンはあったのだろうか?
それがあったのである。2つのコタンのそばにある「シリシャム」と「ウラウ」という地名にも注目してほしい。
シリシャムすなわち sir-sam〈丘の傍〉というのは松浦図などにも出てくる地名で、明治期に「字モリ」と呼ばれた、現在の花川南公園付近を指している。
このそばの「紅葉山50号遺跡」ではアイヌ期の木柵が、また「K483遺跡」では木柵に加えて丸木舟が出土している。ここにアイヌ期の遺跡があったという考古学的な裏付けが得られているのである。アイヌコタンが地名として地図に残されているのは非常に珍しいパターンだ。
ウライというのは川に柵を立てておびき寄せ、魚を取るための設備のことである。発寒ウライ跡は「いしかり砂丘の風資料館」の特集展示で見たことがある。
秦蝦夷島図に見える「ウラウ」という地名は uray-us-i〈木柵のある所〉のことだろうか。また「チヒヤコタン」は cip-yan〈舟を上げる〉から来ているのかもしれない。「ツルウコタン」のほうは、tururで〈山積みの魚〉を意味するのでそれが関係しているような気がする。
いずれにせよここを拠点としたそれなりの規模のコタンがあったことは確かである。幕末に札幌に住んでいたアイヌはほぼ全滅してしまうが、発寒コタンの4家族11人だけは辛うじて生き延びて明治維新を通過しており、彼らの祖先が漁をした貴重な記録と言えるかもしれない。
札幌中心部の地名
秦蝦夷島図に見える札幌中心部の地名をざっくりと見ていこう。
シノロ
篠路。sino-or〈本流の所〉。もともとは妹背牛町あたりからの移動地名で、雨竜川に対する石狩川本流筋のことを指したか。地図が示すのは百合が原公園や学園都市線・篠路駅付近。
ヘニウシヘツ
おそらくケネウシベツのこと。kene-us-pet〈ハンノキが群生する川〉。東西線・二十四軒駅あたりを流れている現在の琴似川(十二軒川とも)に比定されている。水源は幌見峠。
シヨコシヘツ
ヨコシベツ。シがついているので本流のという意味で、si-yoko-us-pet〈(本流の)いつも狙う川〉か。円山公園付近を流れる現在の円山川に比定されている。もうひとつのヨコシベツは界川かもしれない。
シャクシコトニ
北大構内を流れるサクシュコトニ川。sa-kus-{kot-un-i}〈海側の琴似川〉。
モイレヘツトホ
モエレ沼。moyre-pet-to〈静かな川の沼〉。この地名からするともともとはモエレは川の名前だったようだ。
ナイボウ
苗穂。nay-po〈小川〉。現在も苗穂川というのがあるが、完全に人工河川になっておりもともとの流路はわからなくなっている。この地図によると沼か泉を水源としていたようだ。
ヌフロテツ
野幌および野津幌川。ヌフロベツの誤字か。nup-or-o-pet〈野原にある川〉。
フシコシヘツ
厚別。昔はアシリベツといった。フシコ(古い)↔アシリ(新しい)は対義語で、ここも川の流路が変わってフシコに対するアシリベツがあったのかもしれない。husko-si-pet〈古い本流の川〉。ただ厚別の由来は has-us-pet 〈灌木の川〉と言われており、他の地図ではアシュシベツとかハシウシベツとなっていることが多い。そう考えるとフシコシヘツはアシユシヘツの誤字なのかもしれず、これだけではアシリベツ説を断言できない。
ツイシカリ
対雁。秦蝦夷島図には2つツイシカリが書かれているが、北のほうが江別の世田豊平川、南のほうがツイシカリメムで菊水のいずみ公園あたりを指している。ツイシカリの和訳はどうにもはっきりしない。tuy-{i-sikari}〈切れた石狩川〉くらいなものだろうか。
ヌマウシ
おそらくモマウシで moma-us-i〈李桃のある所〉、あるいはmoma-ni-us-i〈李桃の木がある所〉 とも。イシカリ13場所のひとつナイボ場所は、モマニウシ場所と呼ばれることもあった。元禄郷帳ではコトニとナイボの間に挙げられている。正確な位置はわからないが、概ね札幌駅の東側あたりではないかと思う。
トイヒ
豊平。tuy-pira〈崩れる崖〉の意味で、豊平橋のあたり。ほかの3つの地名は後述。
ハラヒウカ
para-piwka〈広い小石原〉。現在の中の島あたりの河原地帯。今も豊平川の中洲として小石原が広がっている。
ヲシヨウシ
精進川。o-so-us-i〈河口に滝のある所〉。いまの澄川地区。精進河畔公園に精進川の滝というのが今もある。豊平川の流路後が河岸段丘になっていて、その段差を滝として流れ落ちている。かつてはもっと流量が多かったが、精進川の付け替えによって小さな滝になっている。
マコマナイ
言わずとしれた真駒内。mak-oma-nay〈奥にある川〉。この川名は全道各地で見られるが、本流が大きくカーブしているところで直進しているような支流に付けられることが多いような気がする。
ハッタルウシベ
hattar-us-pe〈淵のある所〉。北の沢を panke-hattar-us-pe〈川下の淵〉、中ノ沢を penke-hattar-us-pe〈川上の淵〉、南の沢を tanne-hattar-us-pe〈長い淵〉といい、このあたりを明治時代は八垂別とも呼んでいた。「おいらん淵」と呼ばれる白い絶壁の下の淵が今も景勝地になっている。
豊平の謎の地名
上記のように秦蝦夷島図に書かれた札幌中心部のほとんどの地名は他の地図や日誌でも見られるため特定しやすいのだが、豊平のあたりにある「フナハ」「フツツイウシ」「イシヤヌ」の3つはこの地図でしか見られない謎の地名である。
「フナハ」はおそらく「船場」で和名のような気がする。ここに渡守が置かれたのは幕末になってだが、それ以前にも舟で川を渡るポイントになっていたのだと思われる。
「フツツイウシ」は難易度が高い。一応、putu-tuy-us-i〈河口がよく崩れる所〉と訳を当ててみた。この直前に前述の通り伏籠札幌川から対雁川への洪水による流路変更が発生しており、このあたりが崩れやすかったのではないだろうか。
「イシヤヌ」もよくわからないが、ichan-un-i〈産卵場のある所〉なら全道でよく見られる地名である。豊平橋の近くに上サッポロのコタンがあったので、このあたりが鮭の漁場ともなっていたのだろう。石狩場所絵図に「フシコヘツヱシャン」とあり、伏籠川と豊平川の分岐点に書かれている。そこからするとサッポロファクトリーのあたりがイシャヌだったようだ。
南区の地名
豊平川を遡上した人たち
定山渓温泉の開祖といえばその由来でもある美泉定山が有名である。だがそれ以前にも豊平川を遡上し、定山渓に立ち寄った和人はいた。松浦武四郎、間宮林蔵、そして近藤重蔵である。
松浦武四郎の『東部作発呂留宇知之誌』によると、1807年頃に近藤重蔵の一団が留萌から雨竜に越え、石狩川を下って対雁に入り、そこから虻田まで越えたという。秦蝦夷島図には豊平川の上流部の地名も記載されている。
ところが地図をよく見てみると位置関係がちぐはくで、いまひとつ正確性に欠けている。また虻田側の洞爺湖方面の地名が手薄なため、1807年には秦檍麿は近藤調査隊に同行していなかったのかもしれない。翌1808年に秦檍麿は急逝している。
その後、間宮林蔵も定山渓あたりまで遡上して引き返しているが、間宮河川図に見える豊平川上流の川筋はさらにぐちゃぐちゃである。松浦武四郎はここでは間宮図を参考にしなかったようだが、武四郎の地図や日誌でも左右や順序が食い違っており、南区の川筋を正確に知るのは難しい。
しかしそれら中では最も信頼できると思われる現地アイヌの案内人の情報をベースにし、秦蝦夷島図に見える南区の地名を解明していこう。
南区の地名
ヒラホヲマナイ
pira-pok-oma-nay〈崖の下にある沢〉。秦蝦夷島図にしかない地名だが、間宮河川図に「ピラー」とあるのでおそらく同じ地点だろう。石山の硬石山の麓ではないかと思う。
豊平川の左岸、川沿地区を南下していくと、ここで硬石山の崖に阻まれ行き止まりに突き当たった。今は石山橋で対岸に渡るが、開拓初期はここが左岸道路(ハッタリベツ古道)の終点となったようである。
ウコチシネ
uko-chisne-i〈山の鞍部〉。案内人エルモは北の沢と中ノ沢の間に「ヲコツシネイ」、もうひとりの案内人は中ノ沢と南沢の間に「ヲコシネ」を挙げており、これらからすると真駒内公園および裏にある真駒内柏丘がウコチシネだと思われる。案内人は「両方より川が来たり、今少し行くと一つに成ると云う事也」とウコチシネの説明をしており、この柏丘は豊平川と真駒内川に挟まれた狭い丘で、案内人の説明と地形が一致している。山の鞍部という意味に注目すると、柏丘の南で丘が細くなっているあたりを指すのかもしれない。
なお『南区の歴史と地名』では o-kot-nay〈河口が穴になっている川〉で「穴の川」と解していた。和訳はともかく、当初の穴の川が藻南公園あたりを河口としていたことを考えると、ウコチシネの川は現在の穴の川に相当するのかもしれない。
ヲカハルシ
o-kapar-us-i〈川尻に岩のある所〉。そのままオカバルシ川という名前がまだ残っている。ただし秦蝦夷島図の位置は明らかに反対で、本当のオカバルシ川は南から注いでいる。このあたりから支流の左右がアテにならなくなってくる。
オカバルシの沢はむかし「十五島」と呼ばれていた。豊平川のこのあたりには多くの岩が顔を出しているからだとか、イシカリ請負人阿部屋の屋号からなどとも言われている。案内人はここで「遅流浅くなるよし」と言っている。橋がなかった頃は岩を跳んで渡ったことともあったという。現在も岩がいくつもあるのが見える。「川尻に岩のある所」という地形の説明と一致しており、十五島=ヲカハルシと見てよさそうだ。
チャシヲシマケヲマナイ
chasi-osmak-oma-nay〈砦の後ろにある川〉。間宮河川図に「チャシヲシマヲマベツ」、松浦山川図に「チャシハロヤンヘツ」とあり。chasi-paro-e-an-pet〈砦の入口がそこにある川〉か。どこかに砦があったのだと思われるが遺跡としては登録されていない。
案内人によるとチャシハロヤンヘツはエプイウトロマップ(野ノ沢)とヘンケチライヲツの間にある左川だと言っている。この案内人はニセイヲマフ(簾舞)には触れていないことにも注目できる。また秦蝦夷島図ではチャシヲシマケヲマナイはひときわ大きい支流として描かれている。そこからすると、チャシは簾舞通行屋の近くにあり、簾舞中学校の裏手の丘が怪しい気がする。
チライヲツ
ciray-ot-i〈イトウのいる所〉。秦蝦夷島図では南側にかかれているが、松浦武四郎によると逆の北側らしく、ここは現地調査をした武四郎のほうが正しいと思われる。位置からすると砥石山から流れ落ちてくる観音沢あたりだろうか。また武四郎はパンケチライヲツとペンケチライヲツの2つを挙げている。
今は藻岩発電所の取水堰が建造されており、イトウはもう棲んでいないだろう。
ニセヲマフ
nisey-oma-p〈箱崖のある所〉。ここからミソマップになり簾舞になったらしい。秦蝦夷島図では北側になっているが簾舞川は南側なのでここも左右が逆だが、ニセイ地形があるのは本流にあたる。このあたり、柱状節理による崖が顕著に見られるようになっている。
ラウイナイ
rawne-nay〈深い川〉。これも武四郎の日誌と比べると左右が逆。案内人エルモによると八剣山のすぐ手前のところを示しており、現在の豊滝地区に相当すると思われる。
なお八剣山のアイヌ語地名はウハトラシ。u-pa-turasi-i〈互いに頭を上げている所〉の意味か。
ヲロウヱサツホロ
oro-wen-{sapporo}〈中が悪い札幌川〉。秦蝦夷島図では白井川(ヨウチヲマサッホロ)の途中から分岐するように描かれており、ここからすると小樽内川に相当するような気がする。間宮林蔵も白井川より下流に描いている。
ところが松浦武四郎はヲロウェンサッポロが定山渓温泉街よりも上流にあるとしており、ここからするとカッパ淵あたりに相当するような感じもする。
ただ武四郎は手控の中で、ヲロウェンサッポロを銭函川や星置川から手稲山を挟んだ向こう側としており、また案内人エリモは白井川より下流としているのでこれからすると小樽内川がやはり有力のように思う。なおもう一人の案内人は小樽内川のことをエピショマサッポロ(浜の方に行く札幌川)と呼んでいる。
ヨウチヲマサッポロコラヘツ
{yu-ot-i}-oma-{sapporo}-kor-pet〈余市の方にある札幌川(を持つ川)〉。コラヘツの部分はよくわからない。豊羽鉱山のある白井川とその支流・右俣川のことで、ヨイチヲマの名の通り余市岳を水源としている。
秦蝦夷島図に記されたこの地名は「余市」の由来を知るのに重要な証拠を提出している。間宮林蔵が徹底して余市は「イヨチ」だと主張しているのに対し、それより古いこの地図ではちゃんと「ヨウチ」になっており、イヨチ説を否定する材料になっている。また現地アイヌに案内された松浦武四郎も白井川を「ヨイチパヲマナイ」と聞いている。よって余市の由来は i-ot-i〈蛇のうじゃうじゃいる所〉ではなく yu-ot-i〈温泉のある所〉である可能性が高い。
シケルベニンシベ
sikerpe-ni-us-pet〈キハダの群生する川〉。シケルペウスベツの前半が切られて薄別になってしまった。薄別川は西から流れ落ちる川であり、これも秦蝦夷島図の左右が逆。豊平峡を迂回して中山峠に向かう沢である。現在はキハダではなく白樺の保存林になっている。
イチャリヲマサツホロ
{ichan-un-i}-oma-{sapporo}〈漁川に行く札幌川〉。豊平峡の奥にはその名の通り「漁入沢川」という川が今もあり、漁岳を水源としている。
チセネシリ
chise-ne-sir〈家のような山〉。チセネシリという山は松浦武四郎もたびたび触れており、松浦山川図にも描かれているが、未だにどの山なのかがはっきりしない。チセネシリを烏帽子岳、プーネシリを神威岳とする説もある。
豊平川の水源地近くとなると空沼岳がちょうど細長く屋根のような形をしており、秦蝦夷島図でいうチセネシリとは空沼岳のことのような気がする。漁入沢の隣に空沼入沢という川もある。
定山渓地区の地名比定
まとめ
200年以上前にすでに札幌についてこれだけ地名が明らかになっていたのは興味深いところである。ただ南区の地名についてはやや正確性に欠くところもありまだまだ検討の余地が残されている。間宮林蔵や松浦武四郎の地図などもあわせて、さらなる地名の比定作業ができそうだ。
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