クシのつく地名 ~釧路・奥尻・幾春別~

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アイヌ語地名文法の練習

クシのつく地名

アイヌ語地名には、kusクㇱ のつく地名が時々でてくる。最も有名なのは「釧路くし」で、他にも有名な所は「奥尻くし島」や三笠の「幾春別くしゅんべつ川」など。

小樽市内でも忍路の「尻櫛しりくし」や「イクシタ」、銭函石山の「シュマクシタンナイ」などがあるが、今では聞かれなくなった地名だ。また「キムクシ」「シャクシ」「ピシクシ」といった修飾語があり、それぞれ「山側の」「海側の」「浜側の」といった意味合いなので時々支流の名前についてくる。

この kus は地名の頻出単語であるにも関わらず、誤った解釈がされやすい傾向にある。それはひとえに「他動詞のkus」と「位置名詞のkus」という2種類の異なる kus があるからだ。どちらが使われているかは、その地名の文法的構成を見ることで判別することができる。

他動詞」と「位置名詞」という、アイヌ語地名を考える上で引っかかりやすい文法的特徴を持った単語なので、それらを理解するためにも、この kusクㇱ のつく地名を見ていこう。

他動詞の kus

他動詞kusクㇱ は〈通る〉という意味がある。英語で云うなら go through。「通過する」とか山などを「越える」といった意味合いもある。

ただし他動詞なので「誰が何処を、通る」というのがはっきりと明示されていなくてはならない。名詞が二つ必要なのである。ただ漠然に「越える処」と訳しがちなので、この点が注意である。

代表的な地名例を山と川にして考えてみよう。

  • kim-kus-nayキㇺクㇱナイ〈山の方を通る川〉

この場合は「川」が「山の方」を通るという意味になる。主語はであり、人ではない。これを「人が山越えする川」と訳してしまう例をよく見かけるが、この地名ではどこにも人が出てこないのである。

もし「人が山越えする丘」と言いたいのであれば

  • chi-kus-sirチクシㇼ我々が通る丘〉
  • sir-kus-us-iシㇼクスシいつも丘を通る処〉

など、chiusウㇱ を使わなくてはならない。すなわち、chi や us が出てこない限りは人の習慣に関する地名にはならないのだ。ここが最も間違いやすい部分であると思われる。

位置名詞のkus

位置名詞の kusクㇱ には〈~の向こう〉という意味がある。英語で云うなら over もしくは across。「通る」とは似ているようで微妙に違う。確かに通っていけば向こう側に着くのだから、似たような感覚の言葉であるとは言える。だが文法的には全く別物なのだ。

位置名詞は基本的には、名詞を後置修飾するかたち使う。

  • sir-kusシㇼクㇱ〈丘の向こう側〉

これだけで完結する地名もあるが、ここにさらに動詞などをくっつけて使うことも多い。

  • sir-kus-un-nayシㇼクスンナイ〈丘の向こうに入っていく川〉

位置名詞は使い方が極めて限定されており、どこにでも置ける訳ではない。基本的には名詞にくっつけて後置修飾するが、そうではない使い方も実はある。

  • kusi-un-nayクシウンナイ〈向こうに入っていく川〉
  • kusi-pirka-nayクシピㇼカナイ〈(川の)向こう側が綺麗な川〉

この kusiクシ とは kusクㇱ所属形になる。長形とも呼ばれる。この形にすることで、元の名詞から切り離してでも使うことができるようになるのだ。稀にしか使われない用法ではあるが、覚えておいて損のない位置名詞の使い方である。

kus 地名の例

ここからは実際に kus 地名を見ていき、それが他動詞なのか、位置名詞なのかを判断していこう。

三笠の幾春別

幾春別川いくしゅんべつは三笠市を流れる川で、三笠はかつては幾春別村であった。幾春別川の支流に幌内川があり、明治のはじめに幌内炭鉱が発見されて、北海道最初の鉄道・幌内炭鉱鉄道が小樽の手宮から引かれることになる。現在は三笠鉄道記念館になっており、小樽の手宮と同様に蒸気機関車に試乗することができる。小樽ともつながりの深いところである。

三笠鉄道記念館

幾春別の地名は kus の使い方としては最もわかりやすい形をしている。

  • i-kus-un-petイクシュンペッ〈それの向こうにある川〉

この kus が他動詞か、位置名詞か。わかっただろうか。たしかに「そこを通る川」としても日本語としては通じてしまうために、一瞬迷うかも知れないが、un という他動詞が後ろにあるので、このkusは位置名詞である。

i-kusイクㇱ で〈それの向こう側〉。「それ」が何を指すのかはこれだけではよくわからないが、更科源蔵氏によると「山」のことを指すらしく、幌向や美唄のほうから見て「山の向こう側」であるらしい。確かに今も富良野の方から帰る時は桂沢湖のあるこの道を通って、峠を抜けたところで出会うのが幾春別川である。

幾春別川

なお「山と溪谷オンライン」(おそらく原文は『日本の山1000』)では幾春別川を〈熊の越す川〉の意味であるとしていた。i 〈それ〉を「熊」とするのはよくある例なのでいいとして、kus を他動詞として捉えてしまった部分が誤りである。

忍路の尻櫛

尻櫛しりくしは小樽の忍路にあった地名で、北大の臨海験潮場があるところである。

忍路験潮場/シリクシ

『永田地名解』に基づき、自分も当初はこのように解釈していた。

  • sir-kus-iシㇼクシ〈丘を越える処〉

確かに蘭島から丘越えしてくる江戸時代の道は、ここに下りてくるのである。しかしこの地名解どこが間違っているのかわかるだろうか?

そう、丘を越えるのは「人間」なのである。「人が~する」という時は chi〈我々が〉もしくは usウㇱ〈いつもする〉をつけるのが大原則であり、この地名にはそれがない。そこで『データベースアイヌ語地名』では「崖を・通る・もの(道)」とし、i を道として解釈していたが、もっとシンプルな解釈がある。

  • sir-kusシㇼクㇱ〈丘の向こう側

このように位置名詞を使えば解決である。忍路村の字名では「シリクシ」「シリコシ」「シリクス」という表音ブレが見られる。とくに「シリクス」が見えるのは、母音の伴う kus-iクシ ではなく、閉音節の kusクㇱ であった可能性が高い証拠である。

札幌の泉

札幌中心部にはかつて3つのメムがあった。

  • キムクシメム(知事公館園地)
  • ピシクシメム(北大植物園)
  • ヌプサムメム(偕楽園)
札幌の3つのメム

中央区に現在も残る園地にそれぞれ存在していた湧き水の泉で、これを水源としてコトニ川が流れ出していた。このうちヌプサムメムは北大の構内を通り、この川をサクシュコトニ川という。それぞれの解はこうなる。

  • kim-kus-memキㇺクㇱメㇺ〈山の方を通る泉〉
  • pis-kus-memピㇱクㇱメㇺ〈浜の方を通る泉〉
  • sa-kus-{kot-un-i}サクㇱコトゥニ〈海の方を通る琴似川〉

こちらはいずれも他動詞kusクㇱ になる。文法的に見ても名詞をきちんと二つとっている。もしこれを位置名詞のkusと捉えて「山の向こう」「浜の向こう」と訳したら、泉ははるか遠くに飛んでいってしまうだろう。

キムクシメム/知事公館園地

余談だが、 nup-sam-memヌㇷ゚サㇺメㇺ〈野原の傍の泉〉の samサㇺ だけは位置名詞である。

手宮の奥

手宮に3つの kus 関連の地名がある。

  • kim-kus-{temmun-ya}キㇺクㇱテムィヤ〈山の方を通る手宮川〉
  • sa-kus-{temmun-ya}サクㇱテムィヤ〈海の方を通る手宮川〉
  • kim-un-kotanキムンコタン〈山の方にある古潭〉
キムクシテミヤ/滝ノ口不動尊

「キンクシテミヤ」と「サクシテミヤ」に関しては、札幌のコトニと同じなので特に迷うことは無いだろう。ところが松浦武四郎がどうにもこれを解釈違いしているようなのだ。

サツクシテミヤ

夏越テミヤと云事也。

『竹四郎廻浦日記』

「夏越テミヤ」と訳している。さらに『東西蝦夷山川地理取調図』では「シャククシテミヤ」としている。つまりは sak-kus-{temmun-ya}サㇰクㇱテムィヤ 〈夏に越える手宮川〉と解釈しているのだ。例によって川を越えるのが人であるならば、これは誤った解釈である。

間違いに気づいたのか、武四郎は後に書いた『西蝦夷日誌』で「サツテクテミヤ」に変えている。sattek-{temmun-ya}サッテㇰテミヤ〈痩せる手宮川〉であれば文法的にはあっているが、現地で聞いた音とは異なるので、おそらく違うだろう。キンクシとセットで、sa-kus-{temmun-ya}サクㇱテムィヤ〈海の方を通る手宮川〉で良いと思われる。

もう一つ、「キムンコタン」についてだが、武四郎は気になることを残している。

キムンコタン

定て此処はキムンクシコタンなると思ふ也。

『竹四郎廻浦日記』松浦武四郎

キムシコタン

これ恐らくはキムンクシコタンにして、山越處と云義也。高島より山越にてここに出る故なづく。

『西蝦夷日誌』松浦武四郎

「キムンクシコタン」で「山越えする処」の意味じゃないだろうかと言っているのだ。kim-un-kus-kotanキムンクㇱコタン では文法が破綻するので、kim-kus-kotanキㇺクㇱコタン になるとは思うが、そうすると〈山の向こうの古潭コタン〉という意味になる。

この山の古潭というのはいわゆる「励ましの坂」の途中にある「市営住宅・手宮公園団地」のあたりにあった昔の古潭のことで、武四郎が訪れた頃にはもう古潭としては消えていたようだ。それで山越處という案を考えだしたようだが、無理にひねらずに、現地で聞いた音の通り、 kim-un-kotanキムンコタン〈山の方にある古潭〉で良いと思われる。

キムンコタン/励ましの坂/小樽市末広町

余市の歌越

余市にかつて歌越うたこしという集落があった。今では道も通っておらず、シリパの山頂からみるか、藪を抜けていかなければ見ることができない廃集落である。詳しくは「余市町歌越と神姿岩」という記事で取り上げている。ここでは文法だけ見ていこう。

歌越海岸
  • ota-kusオタクㇱ〈砂浜の向こう側

普通に考えるとこの形になる。ただ旧記類を見ると、「ウタンコシ」「ヲタンコシ」「ウタングース」など間に「ン」の音が強く残されているように見える。

となると ota-un-kusオタンクㇱ などとしたいところだが、kus は位置名詞であり動詞に直接くっつけることはできない。そこで

  • ota-un-kusi〈砂のある向こう浜

という形を考えてみた。kusi は kus の所属形である。似ているようで微妙に解釈が異なる。「砂浜の向こう側」なら歌越自体は砂浜ではなく、その先ということになるが、「砂の向こう浜」なら歌越自体が砂浜で、シリパの向こうにあるという意味合いになる。音・文法・意味ともにこちらのほうがぴったりくる感じがする。

ウトロ

積丹半島の斜里町にあるウトロはいかにもアイヌ語らしい響きがする地名で、聞いたことがある人も多いだろう。ただ uturウトゥㇽ というのは〈~の間〉を意味する位置名詞であり、この単語だけでは地名にはなり得ない。古図や旧記類を見るとウトロは「ウトルチクシ」とあった。どうやらこれが原名らしい。

  • uturu-chi-kus-iウトゥルチクシ 〈その間を我々が通る処〉

素晴らしい!まるで地名文法のお手本のような構造である。uturウトゥㇽ は位置名詞なので、頭に持ってくる時は所属形の uturuウトゥル にしなくてはならない。構造的には oro-hure-nayオロフレナイ〈その中が赤い川〉と同じタイプだ(oro は or の所属形)。アイヌ語地名文法では位置名詞の示すものを修飾したい場合は、ちょっと不思議なこの語順になる。

そして通過するのは「人間」なので、他動詞 kusクㇱ〈通る〉 にちゃんと主語の chi〈我々が〉 が付いている。ここまで完璧にkusを使っている地名は珍しいのではないだろうか。

この「間を通る処」とは、ウトロ港にあるゴジラ岩とオロンコ岩のことらしい。

ウトロ港。中央にゴジラ岩とオロンコ岩がある/GoogleMap

そこの海岸には岩と岩の間にわずかに人の通れるほどのすきまがあって、そこが部落から浜へ上下する道になっていた。

『地名アイヌ語小辞典』知里真志保

ウトロにはまだ行ったことがないので、ぜひ一度現地で見てみたいものだ。

奥尻島

奥尻おくしりはちょっと謎の地名である。街のホームページではこのように説明されていた。

アイヌ語の「向こうの島」を意味する「イク・シリ」が由来。

奥尻町の沿革と歴史』奥尻町公式ホームページで

i-kus-sirイクㇱシㇼ〈その向こう・島〉という訳になるだろうか。「その」とはこの場合「海」のことだろうか。文法的に直ちに間違いといえるものではないのだが、どうにもすっきりしない形である。ここまでを見てくれば分かる通り、これではまるで他動詞のkus〈通る〉のようだ。もう少し他の説を見てみよう。

ヲクシリはイクシリの轉語。イクはイクシタの略言、シリはモシリの略にて、イクシタモシリ也。此訳は向島の義。今に土人には、イクシリと呼ぶもの有也。

『蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付』松浦武四郎

武四郎曰くイクシタモシリの略であるという。i-kus-ta-mosirイクㇱタモシㇼ〈その向こうに・島〉。うーん、音がさらに離れた上に、動詞が欠けているのでますます違和感が強くなっている。

奥尻は「イクシュンシリ」であったと書いている記事が多い。おそらく初出は『永田地名解』か。なるほど、i-kus-un-sirイクシュンシㇼ〈その向こうにある島〉であれば文法的にすっきりした綺麗な形である。幾春別川と同じ形である。

ただ気になるのは音だ。オクシリとイクシュンシリはあまりにも音が離れすぎている。昔は、実際に「イクシュンシリ」と呼んでいたという史料を見ない限りは納得の出来ない解だ。

アイヌ語の発音は「オ」と「ウ」がよく取り違える顕著な傾向がある。また語中の「イ」と「ウ」も頻繁に聞き違えられるが、「オとウ」は語頭で誤聞しても「イとウ」に関しては語頭では滅多に変化しない。「イ」が飛んで「オ」まで変化することもない。この傾向からすると「イクシリ」が「オクシリ」と転訛したとはどうにも考えにくい。

『元禄郷帳』をはじめとして、『天保郷帳』『蝦夷喧辞辯』など江戸中期の史料では「ヲコシリ」表記が非常に多く、「ヲクシリ」は見えても、「イクシリ」ましてや「イクシュンシリ」などはどこにも見えない。ひょっとすると o-kot-sir オコッシㇼ あたりでは?と見当をつけてみたところ、天保年間の『奥尻島測量原図』で奥尻島東岸に「ヲーコツナイ」があるのを見つけた。o-ukot-nayオウコッナイ〈川尻がくっつく川〉 か。 今の地図では「恩顧歌おんこうた」になっている。o-ukot-otaオウコッ・オタ。ちなみに『蝦夷山川図』では「ウンコウタ」……。それはさておき、このあたりの小地名から、島全体の名前となった可能性をひとまず考えてみる。ただ同図には奥尻のことを「ウクシリ」と書いており、ヲーコツナイとの音の関連性は見出しにくい。

あるいは ok-chisオㇰチㇱ〈峠〉という地名が道内各地にある。オクチシとは直訳すると〈うなじの窪み〉という意味で、少し盛り上がった丘の間の窪んだ処、すなわち峠道にちょうどよい地形を表す。そこから派生して ok-sirオㇰシㇼ というのはどうだろうか。これならオコシリにもオクシリにもウクシリにもなる。ok には〈うなじ〉という名詞以外に〈俯く〉という自動詞にもなっている。ok-sirオㇰシㇼ で〈俯いた島〉。ううむ、なんとも言い難い感じ。とりあえず保留としておこう。

なおバチェラー辞典には 「oksiri, オクシリ, 荒無の地,n. (geo) bad land. 」という単語が載っている。

奥尻島/太田山より

釧路

いよいよ大本命の大地名、釧路くしろである。大きな地名であるほど、その意味はわからなくなっていることが多いと言われるが、釧路もまたその例外ではない。

北海道が蝦夷地と呼ばれた江戸時代に釧路はアイヌ語で「クスリ」と呼ばれました。その意味として「越える道」「のど元」などといった説があります

『釧路の近世・近代1(クスリ場所)』釧路市ホームページ

先に「のど元」の方だが、これだけ見るとよくわからないが、「クッチャロ」すなわち「屈斜路湖くっしゃろこ」の注ぎ口のことらしい。屈斜路湖の水が釧路川に注ぎ込むあたりに「コタン温泉」というのが今もあって、このあたりにクッチャロコタンがあったようだ。

原名クッチャロ,咽喉の義。釧路川の水源に大湖有,湖口をクッチャロと云ふ。此辺アイヌの大部落なり。寛永十二年松前藩クッチャロアイヌを今の釧路に移して久寿里場所と称す。久寿里はクッチャロの転訛なり。

『蝦夷語地名解』永田方正

『永田地名解』によると、クッチャロ古潭のアイヌを河口に移動してきてクスリ場所を開いたらしい。kutharを所属形にして、to-kutchariトウ・クッチャリ〈湖の喉口〉とすれば、クッチャリとクスリは少し音が近づくだろうか。ただやはり少し音が離れているのが気になるところではある。

なお屈斜路湖のあたりには温泉がよく湧くことから、「クスリ」説も武四郎は述べている。クスリは「薬」の借用語で、アイヌ語でも使われる単語である。

そしてもう一つの説。「越える道」説。ここが交通の要所であったことに由来する。

  • kus-ruクㇱル越える・道〉

ここまで読んできた人なら、この地名解の違和感にもう気がついたかもしれない。そう、kusクㇱ〈通る〉は他動詞であり、名詞を2つ取らなくてはならない。「誰が、何処を」越えるのか。そのどちらかが不足しているのである。

なお『釧路叢書』では「クシナイ」もしくは「クシベツ」で〈通り抜けることのできる川〉と訳している。しかしこれもやはり他動詞 kus を自動詞のように扱っている。もちろん釧路をクシベツなどと書いている昔の史料は見たことがない。

『東蝦夷地名解』では「チクシルウ」としていた。なるほどこれなら chi-kus-ruチクㇱルー 〈我々が通る道〉で文法的に正しくなる。ただ旧記類に他にチクシルウと表記しているものは見えない。

ここまで見てきた感じ、クッチャロ説が一番筋が通っている。地名が移動してきたのは寛永十二年らしく、ここまで古いとそれより以前も河口がクスリと呼ばれていたかどうかはちょっと確かめられなかった。よって釧路の由来の可能性としてはこれが一番高いだろう。

僭越ながらも、ひとつ私案を思いついたので残しておきたい。

  • kusi-orクシオㇿ向こう側の処

kus の所属形、kusi である。所属形にすることで、独立した名詞として扱うことができるというのは前述した通りだ。kusi-orクシオㇿであれば、音韻変化のルールを用いて「クシロ」「クスリ」どちらにも転訛することができる。

この場合の向こう側とは「川の向こう側」という意味合いである。

『北の遺跡案内』釧路市周辺

上の地図を見てみてほしい。『北の遺跡案内』という道内の遺跡の位置を落とし込んだ便利な地図である。

釧路川を境にして、右岸にはびっしりと遺跡が存在しているのに対し、現在の釧路駅がある左岸には驚くほど遺跡がない。遺跡時代だけでなく、アイヌの古潭やチャシ、運上屋の会所があったのも右岸の方で、かつての釧路は丘のある右岸に位置していたことが窺える。

伊能大図・釧路

『伊能図』を見ても「クスリ」は右岸の丘の上に見える。釧路といえば幣舞橋ぬさまいばしが有名だがこの幣舞とは「イナウある処」に由来し、右岸の丘の上にヌサマイチャシがあったことから来ている。

橋がまだなかった頃は、西から歩いてきた旅人は、会所や古潭にたどり着くためにはまず舟で釧路川を渡る必要があった。釧路はすなわち kusi-orクㇱオㇿ向こう側の処〉であったのである。

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