備忘録#03 石狩川流域の江戸時代の歴史特集

備忘録

樺戸とイシカリの大酋長

アイヌ文化後期の諸豪勇時代、多くのコタンを束ねる大酋長が各地に現れ、影響力を振るっていた。アイヌ時代のなかで最も華々しい時代と言えるかもしれない。本州で言うところの江戸時代初期にあたる。

諸豪勇時代のアイヌ勢力図

西蝦夷には三人の大酋長がその名を連ねていた。岩内のカンネクルマ、余市のハチロウエモン、そして石狩のハウカセである。

石狩灯台/ハウカセは川口に300もの武装小屋を建てたという

ハウカセは現在の石狩・空知地方のほぼ全域に影響力を持つ大酋長であった。1000人の部下を従え、寛文蝦夷蜂起(シャクシャインの乱)のときには石狩川河口に300もの小屋を建てて松前藩に徹底抗戦する構えをみせた。だが他の場所の酋長とは違い、和人を襲って殺さなかった。彼には、松前藩の背後には津軽藩や盛岡藩がいること、そしてその背後には幕府がいることが見えていたのである。

最終的には西蝦夷全体で和睦を受け入れ、争点の一つだった鮭と米の交換レートも、100:20から100:7と不当に下げられていた比率を100:12まで回復させた。しかし結局のところ、この乱を境に西蝦夷は和人支配が強化され、ここからアイヌ文化の終末期・役蝦夷時代に入っていくことになる。

石狩トクビタ(元町)の運上屋

さてこのイシカリの大酋長ハウカセ、一体どこに住んでいたのだろう。この時代はまだ和人は石狩川の奥深くまで入り込んだことが無かったので、詳細な記録は残っていないが、その位置はおそらく樺戸であっただろうと概ね見解は一致している。樺戸郡は現在の浦臼町・月形町・新篠津村。また対岸には奈井江町がある。

上カバトと下カバトの境/浦臼町

この樺戸地区は河口からの距離がいくつかの記録と一致する上、浦臼には多くのチャシ跡も残っている。奈井江町に茶志内駅というJR駅があるが、これもこのあたりにチャシがあったことに由来する。チャシナイについて武四郎は「此処にむかし夷人の貴人有し処にて、チヤシは城の事也。昔し城の有しと云事」と残している。

しかし松浦武四郎が訪れた幕末期、既にその場所に繁栄の影はなく、「昔アイヌ多き頃は~」という説明がこのあたりで並んでいる。ハウカセの時代から200年。華々しい大酋長が支配する時代はとうに終わっていたのである。

ちなみに幕府の近藤重蔵が対ロシア前線基地の候補として上げた3つの候補地のうちの1つに、この樺戸が入っている。その3つとは①樺戸山麓(月形・浦臼)②札幌の西、天狗山周辺(定山渓)③小樽高島の奥(オタモイ・赤岩)である。結局この案は採用されることはなく、交通の要所である札幌が北海道の中心地となった。

樺戸三軒屋/浦臼町

イシカリの交易所チョマカウタ

ハウカセの時代が終わると、イシカリは13の場所に分けられ、それぞれに運上屋が置かれた。いわゆるイシカリ13場所である。しかしそうなる前は唯一つの場所で交易していた。

それが「チヨマカウタ」と呼ばれる場所。他の地名と違ってこれだけは名前が残っていない。チョマカウタとはいったいどこにあったのだろうか?松浦武四郎の時代にはすでに地図や記録から消えていたが、伊能忠敬の地図にはその場所が記されていた。

伊能図に見える「チョマヲタ」
チョマカウタは現在の当別川の川口にあたる

チョマカウタの示す位置は、現在の当別川河口。およそ「道の駅とうべつ」のすぐ裏手と考えればいいかもしれない。当時は松前藩の船もここまで上がってきて石狩アイヌと取引をしていた。ここが交易の中心地だったのである。

道の駅とうべつ

チョマカウタの意味は一説によると chi-o-maka-otaチオマカオタ〈我らが開いた浜〉とも言われている。

現在はこのあたり「水と生き物の郷トゥ・ペッ」として公園地になっているので、当時の賑わいに思いを馳せながら散策してみるのもいいかもしれない。

水と生きものの郷トウペッ

篠路はどこにあるのか

イシカリ13場所とは、年代によって名前や場所は変化するものの、概ね

  • トクビタ(石狩元町)
  • ハッサム(発寒)
  • 上下サッポロ(札幌)
  • シノロ(篠路)
  • 上下ツイシカリ(対雁)
  • 上下ユウバリ(夕張)
  • 上下カバト(樺戸)
  • シママツフ(島松)
  • ナイホ(苗穂)

の13箇所であった。トクビタを除けば全て今も残っている地名である。このうち札幌市内にあるのは、発寒、札幌、篠路、苗穂にあたるだろう。

場所請負制が始まった当初、札幌にも多くのアイヌが住んでいたようである。

ところがここで一つ不思議なことがある。

『東西蝦夷場所境調書』によると、シノロの位置は「ウリウ川口の上也」と書いてあるのである。そう、もともとのシノロは雨竜川の合流地点付近にあったのだ。

シノロは雨竜川河口にあった

雨竜の川口のコタンとは現在の妹背牛町のあたりかもしれない。

雨竜町
妹背牛郷土館

しかし雨竜は和人にとってあまりにも遠すぎたので、そこに住むアイヌを当別の美登位ビトイまで連れてきて、そこに運上屋を置いた。これがシノロ場所である。偶然にもその場所は前述したチョマカウタのあたりである。やはりここが交通上便利な場所だったのだろう。

シノロの地名解を考える時、札幌北区の篠路地区について一生懸命考えていたのだが、どうやらシノロの指す場所は全く違う位置にあったようである。移動地名の可能性についてはすっかり失念していた。

雨竜の川口とわかるとシノロの意味はおのずと定まってくる。すなわち sino-oroシノロ本流の所〉の意味ではないだろうか。雨竜川は石狩川の主要な支流の一つで、遡っていくと方向的には本流のほうが曲がって行ってしまう位置にある。左に行けばウリウ、右に行けば本流シノロ。という意味で妹背牛のあたりをシノロと呼んだのだろう。

ゴーストタウンと化した札幌

篠路の隣、苗穂ナエボ場所の乙名ニシトレンは、旭川チュクベツ出身だったようである。

しかし苗穂に実際に足を運んだ松浦武四郎は「ナエホの土人アイヌと云は帳面ばかり一人も当所に住するものなし、今拾三人と志るし有れども其内三人は死人也。実に棒腹ほうふくに堪ざる事なりけるや」と言っている。戸籍帳簿では苗穂のコタンにアイヌが13人住んでいるはずなのに、実際は誰一人住んでいないゴーストタウンと化していたのだ。

安政3年の人別帳(戸籍帳簿)と実際のアイヌ居住人数の差をまとめるとこのようになる。

場所人別帳の記載実際の居住
ハッサム5軒21人4軒11人
上サッポロ20軒79人1軒3人
下サッポロ5軒26人0軒0人
シノロ9軒38人0軒0人
ナイホ3軒13人0軒0人
安政3年の人別帳記録と実際のアイヌ居住数

下サッポロ(伏古)、シノロの関しても既に人は住んでおらず、上サッポロ(中央区)にモニヲマの家族が1軒あるだけだった。この後モニヲマ家の3人もまもなく死亡する。

上サッポロコタンがあったとされるところ

「明治元年、札幌中心部には吉田茂八と志村鐵一の2人しか住んでいなかった」というが、これはなにもアイヌのことを数に入れなかったわけではなく、そもそも札幌のアイヌは(ハッサムを除いて)全滅していたのである。

しかしこれらの実態を隠すために、イシカリ支配人は数合わせのために他所のアイヌや、既に死んだ者の名前などを記載していた。帳簿に偽りを記載し、悪政を誤魔化そうとしていた石狩の支配人を、武四郎は厳しく批判している。

当所二十軒と有れども、十九軒は当所を見た事も無もの、二十余人は何時か黄泉の鬼と成しもの、十余人はトカチえ行居ものをもて、当所の帳面に志るし置こと、如何にも棒腹ほうふくに堪たり。遺恨の余り蕪雑ぶざつに過れ共、軒別の相違を志るし置ことなり。

上サッポロ場所について/『丁巳日誌』/松浦武四郎

文化7(1810)年には3067人いた石狩アイヌも慶応元(1865)年には439人になっていた。わずか50年あまりで人口が1/7になるという驚異的な減少率である。

しかしなぜ石狩アイヌはここまで急激に減少したのだろう。石狩支配人はなにも積極的にジェノサイドを行ったわけではない。一つの大きな要因として天然痘の大流行があり、このため数百人が亡くなったという。だが天然痘の流行が終わった後も、引き続き急速なペースで人口は減り続けていった。その減少の理由が見えてくる、人口ピラミッドのグラフを見てみよう。

完全な壺形、超少子化状態になっている。参考までに、江戸時代の内地の人口ピラミッドと比べてみよう。

『江戸後期から明治前期までの年齢別人口および出生率・死亡率の推計』より引用

本来ならこのような形になっているはずだ。子育て世代である20-24歳の人口に対し、0-4歳はおよそ1.5倍。しかし石狩アイヌの21-25歳に対する0-5歳の人数は0.46倍。深刻な少子化である。

ここから見えてくるのは、石狩アイヌの急激な人口減少の大きな要因のひとつは「適齢期の若者に子育てをさせなかった」ことにあるように思う。若い男性を労働力として酷使し、家には帰さない。そして若い女性は番人の妾にしてしまう。その結果新たな子供は生まれず、山奥の家に残された老人は働き手が居なくて餓死してしまう。

一つの例として、上サッポロの最後の家族・モニヲマの家の顛末を見てみよう。彫刻の名手・モニヲマは浜に使役に出され、妻クスリモンを番人に取られてしまった。妻との間に生まれた乳児は、母親と引き離されて餓死してしまう。村に残された高齢の母のイメクシュラも餓死し、叔母のトシキランがただ一人残された。しかし母の死も知らされず、モニヲマは浜で働かされ続け、しきりに家の様子を気にしている。だが帰ることは許されなかった。そして叔母のトシキランも翌年死亡してしまう。トシキランが瀕死の状態にあったのを見つけた武四郎は薬と食糧を残して急いで浜のモニヲマに伝えるが、なかなか帰郷は許されず、遂に叔母の死に目に会うこともできなかった。やがてそのモニヲマも、慶応元年の人別帳から名前が消える……。

これは一例に過ぎないが、19世紀の蝦夷地ではこういったことが様々な場所で記録されている。

一応、全ての和人がこの惨事に加担していた訳ではないことも付け加えておく。石狩で起きていたこの異常事態に気がついた幕府は、直ちに箱館奉行を派遣して監査に乗り出し、悪政を働く場所請負人を排除。石狩全域を幕府直轄領に戻してイシカリ改革に乗り出した。改革後にはアイヌの出生率もいくらか回復する。

しかしそれから間もなく幕府そのものが倒されてしまう。その新政府によって打ち出された方針は、アイヌの若者を東京に送り出して教育し、和人化させるというものだった……。

若者を家族から引き剥がして酷使し、結婚と子育てという最も基本的な人間の活動を阻害されると、驚くほどのスピードで文明が破壊されていくことがわかる。

歴史とは過去の教訓から学ぶことである。19世紀におけるアイヌ社会の急速な減少と滅亡は、差別や抑圧の問題とはまた別に、現代社会への警鐘として見ることもできる。2022年の日本の出生率は1.26で、2021年より0.4ポイント低下している。20~24歳に対する0-4歳の割合は0.67倍。そしてこの減少はさらに加速している。止まらない少子化は、一つの文明を滅ぼすほどの破壊力を持つということである。

(参考文献:新札幌市史)

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