岩内町雷電
雷電の栄枯盛衰
「雷電」とは北海道岩内町にある地名である。
正式な住所の地名としては既に使われなくなっており、「岩内町敷島内」に含まれる。敷島内の西側、概ね敷島内漁港や鳴神トンネルの西側地区が「雷電」と呼ばれる。
海岸に面したおよそ10kmほどの区間だが、これほど広い土地にも関わらず現在は人口がおそらくゼロ。かつては雷電小学校ができるほどの集落があったが、今は1人も住む人がいない。雷電温泉郷の温泉街も建物が朽ちすべて廃墟になってしまっている。
そんな雷電の歴史を地名を見ていこう。
雷電といえば
- 雷電岬
- 雷電山道
- 雷電温泉
- 雷電国道
- 雷電スイカ
などが思いつく。まずはこのあたりを簡単に振り返ってみよう。
雷電岬の刀掛岩
雷電岬の先端にある『弁慶の刀掛岩』は雷電、そして岩内のシンボルにもなっている。この地を訪れた義経一行。その従者の一人である武蔵坊弁慶が釣りの際に刀を立て掛けたという。しかしどれだけ大きな刀なのだろう。
“刀掛” の形に見えるのは東の岩内側から見た時であるが、西側から見た形もなかなか格好いい。しかし現在は旧道が封鎖され、西側からは見ることができなくなっている。この形を小さい頃に車の中から見た記憶があって、まるで”鬼”の顔のようなおどろおどろしい雰囲気を感じたのも懐かしく感じる。この先端に「不落の洞窟」があるという。
天保年間の今井八九郎図ですでに「カタナカケト云フ」とあり、古くから刀掛岩と呼ばれていたようだ。刀掛岬とも呼ばれていたことがある。
アイヌ語地名は「エトクシシリパ」データベースアイヌ語地名では etu-ko-us-sirpa〈鼻・そこに付いている・岬〉と解している。ただこの接頭辞 ko- の使い方をすると、目的語がもう一つ必要になってしまう。etu〈山崎〉ではなく etok〈先端〉のほうがいいような気がする。e-tokで〈頭の突き出た〉の意味である。
- etok-us-sirpa〈突き出た頭のつく岬〉
あるいはセトクウンシレハ(今井図)、セトコウシシレハ(松浦図)と、セから始まる例も見えることからもしかすると頭に si- をつけて si-etok-us-sirpa〈本当に突き出た頭のつく岬〉かもしれない。いずれにせよあの突き出た刀掛の岩のことを指しているのだろう。
雷電山道
雷電岬をはじめとした雷電海岸は非常に切り立っていて、海岸を歩いて通行することができない。そこで山側を大きく迂回する道を切り開くことになった。これが「雷電山道」である。
アイヌ時代から踏み分け道があったようだが、正式に道として開いたのは安政3年で、途中のユウナイにある温泉場のほか、いくつかの小休野立を置いて旅人の通行の便を図った。
岩内のニヘシナイ(当別川)から蘭越の浜スマイ(尻別川の北)までおよそ3里。最高地点であるイナヲ峠は高度750mにも達し、山越えというよりは登山と言っていいほど非常に大変な道のりだったようである。
できたばかりの雷電山道は、松浦武四郎だけでなく箱館奉行の村垣淡路守、その従者の玉虫左太夫、成石修などが通行し、記録に残している。
これより山坂となり始めのうちは平坂なれど、中程に至り険阻岩石多くして甚だ危険なり。この山頂をアフシタ峠と云ふ。ここ迄は麓より一里弱なれど、鎮台(箱館奉行)その外の面々満身の汗疲労を極む。一坂毎に鎮台のために補理たるとて小憩所あり、いずれも団飯或いは菓を出す。
又下ること一里ばかりにてユウナイに至る、これまた険にて上り坂と同様なり。この所にて午飯を喫す。温泉あり、湿毒に妙と云ふ。僕試みに一浴せり。
『入北記』玉虫左太夫
御奉行様が通るということで、ひと坂ごとに休憩所を設けるというかなりの配慮がされていたにもかかわらず、一行は相当に疲れたようだ。そして山道の中央部分にある湯内で休み、温泉に浸かっている。しかしその後の鼻ツキの坂が一番きつかったようで、前の人の足が目の前にあるほどの急坂だったようである。相当の傾斜だったことがうかがえる。
また老中・久世大和守広周の家臣達は雷電山道を下る途中に道を見失ってしまい、残雪の雷電山中をさまよい歩く羽目になっている。
腹は飢えて行厨後にあり、僅に雪を噛んで渇を医せり。未過る頃温泉の小屋に至り、ここに昼の行厨を遣う。
暫く休みて第三の峰に踏る。険阻いやまさる。漸く絶頂に至り、又下るに満山雪なれば、路はすこしもなし。(中略)あやにくや先導道をうしなえり。(中略)いかに寒くとも雪に力なければ、陥りなば水に溺るべし。退かんとすれば樹橋に下りて降り来る雪山なれば、帰るべき由なし。進退ここにきわまれり。
しかるにいずくともなく二匹の白犬走り来たれり。此こそ里の犬なれば道も近きになるべしと、各力を得るに、先導また尋ねあるきて道を得たり。それより行事半里計にして雪なき道となり、各蘇生の思いをなせり。先に来りし犬も此行の為には神仙の加護にやと各不測のおもいをなせり。
『東徼私筆』成石修
道を見失い進退窮まったところで、二匹の白犬が現れてそれを追いかけると、道を見つけることができたそうだ。
こちらは明治初頭に東本願寺の一行が雷電越したときの錦絵。人と馬が崖から転落しているのが見える。ただし横の文章によると、この人は運良く助かったようである。
雷電山道はほぼ全区間現存していないが、唯一踏み分け道が残っているのが朝日温泉~雷電峠間の雷電山登山道のルートで、そこを少し歩いてみた。道路というよりはまさに登山道という感じで、道は狭くまわりは藪が茂っており、急なところもたくさんある。歩きならともかく、馬を連れて行くのは相当困難だと感じさせるものだった。
この雷電山道を現代に通して歩いてみた人はいるのだろうか。降雪期ならいくらか行けそうな気もするが、当時ですら大変な道だったので、安全は保証できない。
雷電温泉
前述の雷電山道の中間地点、湯内川の上流部に山道を通る旅人のために整備されたのが雷電温泉の始まりである。なお yu-nay とは〈温泉の川〉の意味であり、湯内川はアイヌたちにも知られた源泉だったのだろう。安政三年の『観国録』によると、温泉の湯気は船の上からも見えたそうである。
道南の和人地を除けば、おそらく西蝦夷で最初の温泉宿ではないだろうか。明治初期のある地理調書では、北海道の温泉地として定山渓温泉と雷電温泉の2つのみが挙げられている。非常に歴史が深い。明治になるとここに「雷電通行屋」が設けられ、この温泉は引き続き旅人の身体を温めた。
明治2年の雷電通行屋の様子を描いた図によると、川の右側に温泉が、左側に通行屋がある。これは現在の朝日温泉の建物と、源泉や露天風呂の位置に一致する。現在「朝日温泉」と呼ばれている場所は、元々は雷電通行屋だったようである。
朝日温泉は麓から3kmほど山に登った所にある。かつては車道が通っていたが、今は道がかなり荒れているため車で登ることは難しい。歩いていくと1時間強かかる。しかしせっかく歩いて行っても、朝日温泉は現在休業中である。2010年に事前災害によって壊滅的な被害に遭い、その後復興の目処が立っておらず放置されている。麓の温泉街すらやっていけなかったのだから、朝日温泉の再建はなおのこと難しいだろう。
源泉と露天風呂は川を渡った先にあり、かつての絵や写真をみると、ここに橋がかかっていたようだ。現在は橋が撤去されており、川を渡らなくてはならない。
「ホテル雷電」を始めとした麓の雷電温泉街は、昭和の最盛期は9軒もの温泉施設が立ち並んでいたという。しかし令和元年に最後の旅館が閉館し、雷電温泉街の歴史に終止符が打たれた。
麓の温泉街に温泉を引いていた源泉はまだこんこんと湯を湧き出し続けており、とても惜しい。いつの日が再び温泉の賑わいが戻ること期待するのみである。
雷電国道
雷電国道は、鳴神トンネルから磯谷トンネルまで、10400m中9060mがトンネルの中。まさにトンネルだらけの区間である。
とはいえ始めから長いトンネルが連続していたわけではなく、雷電国道が開通した当初はもっと細かいトンネルがたくさん並んでいた。それが豊浜トンネル崩落事故をきっかけに、そのほとんどが新しいトンネルに付け替えられている。新旧トンネルの長さを簡単に比較してみよう。
現行 | 延長 | 旧道 | 延長 |
---|---|---|---|
鳴神 | 273 | 鳴神 | 273 |
敷島内 | 137 | 敷島内 | 146 |
雷電 | 3570 | ビンノ岬 | 470 |
樺杣内 | 93 | ||
鵜の岩 | 379 | ||
弁慶 | 1048 | ― | 0 |
カスペ | 638 | ― | 0 |
刀掛 | 2754 | 弁慶 | 210 |
雷電 | 193 | ||
刀掛 | 503 | ||
イセバチ | 223 | ||
磯谷 | 640 | 磯谷 | 573 |
計) | 9060 | 計) | 3063 |
新トンネルの切り替えにより、トンネル区間がおよそ3倍になっている。特に長いのが雷電・刀掛・弁慶の三本で、このうち雷電は北海道の一般国道の海岸トンネルとしては「えりも黄金トンネル」に次ぐ道内で2番目の長さになっている。
トンネル区間が長くなったことで美しい雷電海岸を見る機会が減ってしまったが、安全には替えられないということだろう。なお旧道や隧道跡といえば一部の廃道マニアにとって心くすぐられるものであり、旧道を踏破したという記録もいくらか見える。ただし一部の旧道区間への侵入は非常に危険が伴う。くれぐれも自己責任で。
雷電西瓜
雷電といえば「らいでんスイカ」。多くの人にとってはこちらのほうが親しみがあるかもしれない。
とはいえブランド名として岩内の名所雷電の地名を使っているだけで、実際に雷電地区で育てているわけではない。昔は雷電の山の上に畑があるのだと思っていた。らいでんスイカは岩内の隣の共和町の「JAきょうわ」にて生産されている西瓜のブランドである。
個人的にはスイカといえばらいでん!と幼い頃からインプットされているので、買うときはだいたいらいでんスイカを選んでしまう。
雷電の由来
雷電の既存の地名解
雷電とはなんとも格好良い響きがする地名である。直接的な意味は雷の「雷鳴と電光」といったところで、太平洋戦争後期の戦闘機の名前や、相撲の力士の名前として用いられたこともある。地名としては茨城県と埼玉県に雷電があるようだ。
北海道岩内町の雷電の由来はどのようなものだろうか。やはりアイヌ語由来なのだろうか。
雷電の既存の地名解は以下の3つが挙げられている。
- ライニ(枯れ木)
- ラエンルム(低い出崎)
- 義経がまた「来年」と言った
それぞれを簡単に見てみよう。
ライニ(枯れ木)説
Raini ライニ 枯木
往時枯樹林あり故に名く
『北海道蝦夷語地名解』永田方正
アイヌ語の ray-ni で〈死んだ木/枯れ木〉を指す。ただこの言葉が指すのは「一本の枯れ木」である。例えば rayni-us-i〈枯れ木の群生地〉とか ray-ni-tay〈枯れ木林〉のようなものであれば地名としてありえたかもしれないが、一本の枯れ木が地名となるような例は他に見たことがない。
枯れ木などどこにでもあるだろうし、いつもあるわけではないのでランドマークとしてはあまり適していない。いずれにせよこの雷電の地名が現れてから250年以上経っている今、当の枯れ木があったとしてもとっくに朽ちてしまっているだろう。そのため確かめようがない。
念のため現地を観察してみたが、取り立てて枯れ木が多いとか、流木が多く流れてついているという印象は受けなかった。
ラエンルム(低い出崎)説
ra-enrum で〈低い出崎〉の意味。知里真志保博士の説だという。
刀掛岩のある雷電岬が “低い出崎” とは言い難い。それで、雷電岬の手前にある「靴のつま先のような形の岬」がラエンルムではないかということである。特に名前はついていないようなのでここでは「湯内崎」と呼ぶ。
確かに昔の日誌や地図類を見ると、「ライルム」という地名がこのあたりで時々出てくる。しかしライルムの位置ははっきりしている。
「ライルム」は湯内崎や雷電岬よりずっと西の尻別川よりさらに向こう、磯谷の島古丹あたりの地名である。雷電岬とは位置が離れすぎており、全く別の地名に感じる。逆側の「ライニ川」のほうがずっと近く、こちらのほうが関係ありそうにも感じる。それで「ラエンルム」が「雷電」になったという話はちょっと苦しい感じがする。
「来年」説
酋長チパは義経主従を尊敬しチパの愛娘メヌカは義経を恋い慕い、一族の情けにほだされ、ついにこの地にひと冬を過ごすことになりました。
やがて訪れた北国の春に義経主従はこの地を出立することになりました。
泣いて袂にすがるメヌカの肩を抱いて義経は「来年はきっと帰ってくる。来年まで」と慰めたがメヌカは「らいねん ほんとうに……」と繰返して涙で袖を濡らしました。
今なお多くの伝説を秘める雷電の地名は、アイヌメノコ・メヌカの胸に残した悲劇の英雄義経のかなわざる再会のことば「らいねん」のいつか転訛した呼び名といわれており、奇岩怪石にいろどられた海岸美は、雄大なスケールと共に神秘的な美しさで、見る人に深い感銘を与えております。
『国定公園・雷電』岩内観光協会
やがてメヌカは来年なっても帰ってこない義経に絶望し、雷電岬から海に身を投げ、その洞窟が残されているという……。
こういう義経伝説は西蝦夷に数え切れないほどある。義経も罪な男である。シララ、チャレンカ、フミキなど、いったい何人の女性を泣かせて死に追いやったのだろう。英雄と云うよりはただの女たらしではないか。
それはさておき、このような伝説的な逸話は、地名の由来としては説話として語られるのみである。義経伝来説の正当性も含め明らかに後付の創作である。
ただし雷電岬が「来年」と呼ばれていたことがあるというのは事実である。
文化5年の『蝦夷国輿地全図』や安永5年の『津軽一統志』の附図などに雷電岬のことが「来年サキ」と書かれており、「ライネン」という呼び方がされていたことがあったのは確かである。
ライニの位置
江戸時代の複数の日誌や地図類に「ライニ」という地名が出てくる。例えば『伊能大図』では、現在「親子別川」と呼ばれているものが「ライニ川」、「雷電川」の隣の「車滝」のあるあたりが「ホンライニ」とある。
このライニが雷電と関係がある可能性は高そうだ。ではライニとはどこを指した地名なのだろうか。
明治25年頃の道庁実測切図には「ライニ」という地名が書かれている。
『今井測量原図』には今日の親子別川を示す「ラエニベツ」とは別に、「ラエニ」の地名の位置が特定されている。どうやらそこにライニはありそうだ。
地元では「エイノ浜」と呼ばれている浜である。一体ここに何があるのだろうか?
エイノ浜の傘岩
エイノ浜に行ってみると、明らかに異彩を放つ一本の「枯れ木」があることに気がついた。
これだ!これこそが「枯れ木」の正体。旧道沿いに今もそびえ立つ「傘岩」である。
いつまでも朽ちない、死んだ木。地名のランドマークとして相応しい立派な岩である。
遠くから見ると、枯れ木がそこに佇んでいるようにも見える。いつからここに傘岩が立っているのかはわからないが、もし数百年以上前から立ち続けているのであれば、これがライニと呼ばれた可能性は十分に考えられるだろう。
あるいは ray-ni-an〈枯れ木がある〉から「来年」になって「雷電」と転訛していったのかもしれない。よって、雷電の由来はこの傘岩にあると考えたい。
傘岩のアクセス
かつては観光名所のひとつであった傘岩も、今は旧道沿いにあり、その旧道はゲートで厳重に封鎖されていて通ることができない。傘岩までの遊歩道を整備する計画もあったようだが、未だ実現していない。
傘岩の面するこの旧道に立ち入ることはできないが、幸いにも浜に降りるルートがあるので、そちらを使えば立入禁止エリアに入らずに傘岩のところまで行くことができる。ただし足場の悪い石浜を250mほど歩かなくてはならないので、滑りやすい靴などは避け、怪我などないよう自己責任で行こう。
雷電トンネルと弁慶トンネルの間に「敷島内 風の駐車場」という無料駐車スペースがあり、そこに車を停めると傘岩の案内板が立っている。その先の歩道から旧道に入り、突き当りのゲートの脇から浜に降りる道筋がついている。
途中にある「二ッ岩」もなかなか見ごたえのある岩だ。小学生の頃、これを「赤ガエル」と呼んでいた。上の方に穴の空いた岩があるので、それが目のように見える。この二ッ岩のアイヌ語地名は「ウカヲフ」という。ukaw-p〈岩が重畳する処〉の意味か。
ちなみに傘岩のほうは「ニワトリ」と呼んでいた。
カムイルオマ/神の道がある処
カムイルオマと雷電
雷電の由来を調べていたら興味深い記述を見つけた。
雷電温泉
地名はアイヌ語のカムイルオマ(神の道がある意)の転訛とも、ライニ(枯れた水)の意ともいう。
『小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)』
百科事典にこのように書いてあった。ライニに触れつつも、「カムイルオマ」で「神の道がある」の意味だという。これはどういうことだろう。
なるほど、たしかに松浦図を見ると、「カモエルヲマ」の下に和人が「ライテン」と云うと書いてある。これを見て、カモエルヲマがライデンに転訛したのだと考えたのだろう。だが西蝦夷日誌を見ればわかるが、カモエルヲマとライデンは別の地名である。
カムイルーヤイ(岩平、七町)、
ラエンベツ(小川、出稼)和人ライデンと訛り、今雷電の字を用いゆ。
『西蝦夷日誌』松浦武四郎
ということで、武四郎はラエンベツ(今の親子別川か)が訛って雷電になったと言っている。やはり別の地名である。最後にイがついているところからして、アイヌ語の綴りは
- kamuy-ru-oma-i〈神の道がある処〉
となるだろう。さてこのカムイルー(神の道)は一体どこにあるのだろうか?
雷電の山越道?
カムイルオマの由来について、『データベースアイヌ語地名』では次のように論じている。
この海岸線一帯は、古くより”交通の難所”として知られ、海岸沿いに通行することは殆ど不可能で、山道は小説「飢餓海峡」の舞台となった山中の「朝日温泉」を経由して「岩内」方面へと抜けていた。つまり、この地名は、人間には到底通行できない切り立った絶壁を、そこを行き来するのは”カムイ(魔神)”だけであると考えて命名したもので、ここでは「湯内川」を指すものと考えたい。
『データベースアイヌ語地名 後志』榊原正文
人間は決して通れず、魔神だけが通ることのできる道、とはなかなか粋のきいた解釈である。たしかに雷電峠は難所の一つで、刀掛岩の雷電岬を迂回するために、大きく山の中を回り込んでいる。
雷電温泉郷から湯内川の河口に渡ってみようとしたことがあるが、難しかった。岩をへつりながらなんとか到達した人もいるようだが、いずれにせよその先の雷電岬は完全に崖であり、陸を歩くことは不可能である。なるほど、ここを通れるのはカムイだけだろう。
カムイルオマの位置
アイヌ語地名を理解する上で、その正確な位置を確かめることは重要である。カムイルオマはどこにあったのだろうか?
伊能大図も今井測量原図も、カムイルオマに関しては全く同じ座標を示している。すなわち、現在の「カスペノ岬」にあたる位置である。データベースアイヌ語地名で比定していた湯内川の位置とは、岬と湾ひとつぶん離れている。ではここはいったいどんな地形になっているのだろうか?
カスペノ岬の”神の道”
カスペノ岬は、雷電岬や湯内崎に比べれば、そこまで崖が切り立っているという感じではない。先端部分に岩礁の大岩がくっついているのが少し印象的である。赤鱏の形にも見えなくもないかもしれないがよくわからない。これの一体どこがカムイルーなのだろう。
しかし近づいてみて、あることに気がついた。
こ…これは!間違いない。これこそが神の道だ!
一見、人間が作った遊歩道のようにも見えるが、よく見ると天然の岩である。それがまるで道のようになっていて、この上を歩くことができる。少し潮が満ちれば左右は海水に浸かり、この道だけが残されるかもしれない。
これは貫入岩脈と呼ばれるものらしく、すぐ背後にある「弁慶の薪積岩」と同じ構造をしている。また湯内崎にも似たような岩の道があった。
アイヌはこの岩の道を見て、まるで神の作った道のようだと考えたのではないだろうか。単なる断崖や山越道などではなく、もっと具体的に、はっきり目にすることができるランドマークとして機能する地名である。念のため調べてみたが、このカスペノ岬の岩道が特別に注目されている様子はなかった。これはなかなかの発見である。
このカスペノ岬の岩礁を、神の道と見立てて、そう名付けたのが kamuy-ru-oma-i 〈神の道がある処〉という地名なのだろう。
アブシタ/衝立の岩戸
雷電岬の南西の浜
雷電と云うと、雷電岬より北東側については注目されるが、雷電岬より南西側、雷電岬からイセバチ岬に至る区間についてはほとんど触れられることがない。現在もほぼ全区間が「刀掛トンネル」として通過してしまう。わずか140mだけトンネルから顔を出すが、またすぐに次の「磯谷トンネル」に入ってしまう。
この雷電岬からイセバチ岬岬までの区間を「アブシタ」という。大正時代の旧字名としても残っているが、地元でもほぼ忘れられた地名かもしれない。大正時代の地図を見ても、雷電岬から北東方向のビンノ岬まではおよそ30軒の建物が並んでいるが、雷電岬から南西方向のイセバチ岬までのアブシタに建物の影はひとつも見えない。まさに空白地帯である。
しかし色々調べていくうちに、ここに重要なものが一つあることに気がついた。
アブシタの意味
Apaushuta アパウㇱュタ 岩戸
「アパウシタ」は戸の義なり。数仞の岩屏立して戸の如し故に名く。和人「アブシタ」と訛る
『北海道蝦夷語地名解』永田方正
アブシタは岩戸の意味らしい。田村辞典に 「apa-usta 戸口:板で作った戸をアパウシタという」 とあった。apa-usta は母音が連続しているので、前の母音が追い出されて apusta と聞こえることもあっただろう。
一方でこのアブシタについて、『データベースアイヌ語地名』ではこのように注解されている。
アパウㇱシトゥ apa-us-situ イナウの祭壇・ついている・山の尾根
この地名については、明治期の地形図には、「雷電山道」を「岩内」方面に越える少し手前の山麓部に記載されているものであって、どの史料も”岩壁”を示す地名であるとしていることから、「蘭越町」と「岩内町」との境界となっている「687.3m峰」付近にある”岩壁”を指しているものと考えたい。
またこの ”アパapa” については、「網走」の期限となったと考えられている “チパchipa(イナウの祭壇<イナウサンの古語>)” と同じ意味の “アパapa” と見なすと、交通の難所に安全を祈願して設置された”イナウサン”と解すことができることから、ここではこの地名を上記のように解しておくこととしたい。
『データベースアイヌ語地名 後志1』榊原正文
雷電山道沿いにある「イナウの祭壇」に注目した、大変興味深い考察である。だがこの地名解にはひとつ欠点がある。雷電山道には二つの峠があり、温泉宿(朝日温泉)より南の峠を「アブシタ峠」、温泉宿より北の峠を「イナウ峠」と呼んだ。アブシタ峠とイナウ峠は隣り合った別の峠なのである。こちらのアブシタも同様にイナウの祭壇だと考えるのはちょっと無理があるような気がする。
どの史料でもほぼ一貫してアブシタの表記は「アブシタ」で、やはり apa-usta〈戸〉の意味ではないだろうか。ではその「岩戸」とはどこにあるのだろう。
アブシタの屏風岩
『今井測量原図』を見ると、アブシタの位置がはっきりと示されている。ここに何かがあるのだろうか。ということで現地を見てみた。
なるほど、これだ!この岩。これがアブシタなのだろう。弁慶の薪積岩とよく似た構造をした平らな岩で、たしかに岩戸のように立っている。
永田方正は「数仞の岩屏立して戸の如し」と言っていた。仞=8尺=2.4mで、数仞ならその数倍の大きさ。後ろの岩崖はそれよりはるか大きいのであてはまらない。やはりこの板のような岩戸がアブシタと見て良さそうだ。
イセハチトマリ 岩山の間に衝立石あり
『東海参譚』志鎌万輔
文化3年の『東海参譚』で「衝立石」とこの岩のことが触れられていた。
いわせとまり、こゝより嶮岨の山続く。屏風岩といふ有。形に拠っては「硯屏岩」と改め唱ふべし。
「亀岩」とて山の頂にある小岩に、具体の亀を見る。「うつしみばや」と筆潤すばかり、一瞬にて舟過て亀と見へしはあらぬ形に変じゆく。刀掛岩有。
『未曾有後記』遠山金四郎
遠山金四郎は「屏風岩」もしくは「硯屏岩」だと言っている。硯屏とは”ついたて”のことである。いずれにせよこの岩は昔の人々の興味を引く重要なものだったのだろう。
文化年間の地図にも「屏風岩」が書き込まれているのが見える。
ついでに遠山の金四郎が言っていた「亀岩」のほうも少し気になるところである。丘の上の方を見てみたがよくわからなかった。まだ現存しているのだろうか。
岩内・磯谷境
このアブシタの屏風岩は、単なる目立つ岩だっただけではなく、イワナイ領とイソヤ領の境界線をなす重要な岩であった。ただし始めからここが境界だったわけではないようだ。
イワナイ イソヤ 領境
其境目は往古はライテン岬を以て定め有候之由。其後イソヤ領シャウツ川に相定、相互に訴訟に相也候処、ユウナイの上の方は皆イワナイえ入込候間、岩内より頻に其段申出候間、後漸々アフシタと相定候由にて両所え被仰付候。
『東西蝦夷場所境調書』松浦武四郎
最初は「雷電岬」が境界だったものを、「精進川」に変更したら双方で訴訟が起き、その結果中間である「アブシタ」に定めてまとまったらしい。
ただしその後明治初頭に再び「雷電岬」が境になり、現在は「イセバチ川」の北の峰になっている。境界争いとはなんとも面倒くさいものだ。
チセセ/雷電ヘゲ山
ウエンドマリのチセセ
『松浦図』や『今井測量原図』には「チセヽ」「チセヽリヲマヘ」という地名が並んでいる。位置はちょうど「敷島内 風の駐車場」があるあたり。かつては「ウエンドマリ」とも呼ばれ、バス停の名前としても残っている。これは wen-tomari〈悪い泊〉か。
チセセ。なんだが面白い響きがする地名である。ぱっと聞いた印象では、なんとなくオーストラリアのエアーズロックことウルルを連想した。ではこのチセセは何を意味しているのだろうか。まずは既存の地名解を見てみよう。
チシヤ chis-ya 立岩の(ある)・海岸
この地名については”立岩”と表現できるような岩礁があった入江の海岸を指す名称であろうと推定され、ここでは「親子別川」の北東側(二ッ岩付近)の海岸を指すものと考えたい。
『データベースアイヌ語地名 後志1』榊原正文
chis-ya〈立岩海岸〉の意味で、「二ッ岩」付近ではないかとしている。確かに今井測量原図の指定する座標と比較しても、位置は間違っていない。現在の二ッ岩は赤ガエルのような岩と、その隣の岩が残っているが、実はもう一つ立岩のような大岩がひとつ道路沿いに立っていた。しかし危険のため爆破したそうである。もし立岩だというならそれのことだろう。
それにしても「チセセ」と「チシヤ」である。似ているとも似ていないとも言い難い。そう思って『伊能図』を見てみると、「チセシリマイ」とあった。チセシリ!これならなんとなくわかる。すなわち
- chise-sir〈家の山〉
- chise-sir-oma-i〈家の山にあるもの〉
これがチセセ、チセセリヲマヘの原形だろう。すなわち背後の山を指しているのではないだろうか。風の駐車場から見える大崖である。「ウエンドマリの崖」とも言われ、ここでロッククライミングの大会が行われたこともある。この山はここに来れば必然的に目に入り、圧倒的な存在感をもって迎えてくれる。
雷電ヘゲ山
地形図によるとこの奥に「熊野山」がある。この熊野山というのは雷電山道の途中に住んでいた樵が、生涯熊に襲われなかったということで熊野権現を祀ったことに由来するのだろう。しかしその山頂はここからは見えず、チセセの山=熊野山というわけではない。
土地連絡図を見ると、旧字名として「雷電ヘゲ山」「雷電ヒゲ山」「雷電ハゲ山」の表記が見えた。地元住民にはそう呼ばれていたのだろう。ヒゲやハゲはなんとなく響きが悪いので、ここは「雷電ヘゲ山」としよう。(ヘゲが一番表記が多かった。ただし語源はヒゲかハゲのどちらかかもしれない)。
この下にはかつて集落があり、雷電小学校があったという。その後キャンプ場となったが、今は駐車場以外はなにもない空間である。しかしこのチセセの山は見ごたえがある。通りがかったときはぜひ風の駐車場に車を止めて、トンネルの続く殺風景な景色から離れて荘厳な景色を見てほしい。
チセシリマイ
チセシリマイは〈チセセにあるもの〉の意味だが、その「あるもの」が何を指しているのかよくわからない。『永田地名解』によると「岩石墜落して今は無し」とある。その座標に行ってみると、廃道脇にそそり立つ大岩が目を引いた。
ただしこの岩がそれを指しているのかはよくわからない。
あるいは滝の名前かもしれない。チセセの崖にはいくつかの滝がある。地形図にある「雲間の滝」のほか、ロッククライマーには「ナイル川」と呼ばれる滝もある。
タンネシナイとは tanne-so-nay〈長い滝川〉の意味だろうか。 残念ながら訪れた10月には水は流れていなかった。雪解けシーズンになれば滝の流れが見れるのかもしれない。
雷電海岸の滝
雷電海岸には他にもいくつか滝があるが、現在はいずれも道路から見ることはできない。
湯の滝
湯の滝は雷電岬の東側、湯内川の河口にある滝。雷電温泉郷からは湯内崎ひとつを挟んでいるので、陸から見るのは困難である。地形図によると3つの滝が連なっているようである。
弘化三年に松浦武四郎が船の上から見たスケッチがあり、左に「湯ノ滝」とあるのが見える(右に弁慶刀懸)。
現代にこの滝を遡行した記録があったのでご紹介したい。→ 湯内川遡行(ゆっくり歩きで低山を楽しむ)より。
梯子滝/カバソマナイ
現在の雷電トンネルの途中。かつて鵜の岩隧道と樺杣内隧道の間にあるのが「梯子滝」である。
かつてはこのように道路沿いに見ることができたようだが、今はこの区間全体が覆道に覆われており、景色は一変している。そしてここに陸からたどり着くのは非常に難しいようだ。行けるかどうか一度試してみたが、鵜の岩崎で断念した。
樺杣内の由来は kapar-so-oma-nay〈平らな滝のある川〉で、まさしくこの梯子滝のことを表現した地名なのだろう。
車滝/ヘソショウ
同じく雷電トンネルの区間、梯子滝のおよそ500mほど東に「車滝」がある。こちらもやはり現在は陸から見るのは困難である。このあたりの旧字名は「字滝の下」となっている。
『松浦山川図』によると「ヘソショウ」、『伊能大図』によると「ヘシノシケオマナイ」とある。それぞれ
- pes-o-so〈崖にある滝〉
- pes-noski-oma-nay〈崖の真ん中にある川〉
の意味か。
その名の通り「滝の下」はゴロゴロとした大小の石を飛ぶようにして歩きますが、春秋は二十数本の滝が懸かり、水の飛沫で石が滑るので、歩く石を選びながら足を乗せる海辺が、梯子滝まで続いていました。
『雷電のはなし』
車滝に限らず、雪解けシーズンには二十数本の滝が落ちていたようだ。
安政四年の旅日記である『罕有日記』には、四條の滝が並んでいる様子が描かれている。
鳴神の滝
ぎりぎり雷電エリアをはずれたところにあるが、せっかくなので紹介しておきたい。鳴神の滝は幌内川の中流にある滝で、二條の滝が並ぶ形になっている。美しさでいえば岩内随一の滝と言えるだろう。
しかし知る限りは、江戸時代の紀行文でこの滝のことを触れているものは見当たらない。アイヌ語名もわからない。鳴神の由来も定かではないが、滝の名前として先についたのだろうか。
残念ながら遊歩道が荒れているために、現在は道が整備されておらず、案内板はすべて撤去され、入り口にもトラロープが引かれた状態になっている。ただ気をつけて歩けばそれほど危険なところもないため、命をかけて他の滝を見るくらいなら、この鳴神の滝を見るほうが安全かもしれない。
その他の雷電海岸の地名
クシナブイ/穴澗
雷電トンネルの旧鵜の岩トンネルのあたりに、「クシナブイ」(松浦図ではクシナフヒヲマイ)という地名がある。
- kusna-puy-oma-i〈通り抜ける穴のある所〉
クシナプイ、すなわち「通り抜ける穴」という地名が指すように、ここに文字通りの穴があるようだ。探索した人によると、手掘りの人工トンネルが1つ、そして天然の海蝕洞が1つあるらしい。おそらくクシナブイとは天然の海蝕洞のほうで、昔からここを通り抜けていたのだろう。
それにしてもこの鵜の岩トンネルの岬は非常に険しい道で、大岩の間を登ったり降りたりしながら、常に転落の危険に晒されながら歩かなくてはならない。試しに少しだけチャレンジしてみたが、到底難しいと感じた。昔の人もこれを越えていたというのだから、大したものである。
このクシナブイの海蝕洞を実際に通行した方の動画があったので、ぜひご紹介したい。なお前後の動画では、手掘りの隧道や梯子滝を近くで見た様子も映されているので、非常に貴重な動画である。
エクシュアントマリ/雷電温泉郷
雷電温泉ホテルのあったところ。すべての温泉が廃館した今も、「雷電温泉郷」のバス停だけはその名残を残している。トイレ付きの駐車場があり、一休みすることができる。ここの入江をエクシュアントマリという。
この入江が廻浦日記や今井測量原図で「エクシユアントマリ」と呼ばれている。データベースアイヌ語地名では etu-ko-us-i-an-tomari〈鼻・そこに・ついている・もの(岬)・(の所)にある・停泊地〉と解していた。文法的に添削するなら etu-ko-an-tomari〈鼻のところにある泊〉になるだろうか。しかしエクシュアントマリの位置はユウナイ川の湾のひとつ手前の湾になり、雷電岬とはすこし離れているので、岬についているとまでは言えなさそうだ。
- e-kusi-an-tomari〈岬向こうの泊〉
と解してみた。kusi は kus の所属形で、オロフレ構文になっている。直訳すると「頭(岬)がその向こう側にある泊」という感じである。
ヲヤコベツ/親子別川
親子別とはなんとも可哀想な感じがする地名だが、「ベツ」で終わる地名なのでおそらくアイヌ語由来だろう。しかし江戸時代の文献には全く出てこず、現在の親子別川のことは「ライニ川」もしくは「シライニ川」となっている。シライニとは隣のポンライニとセットで、接頭辞のsi-〈本流の〉がついただけだろう。
- o-ya-kor-pet〈河口に岸を持つ川〉
の意味と思われる。しかしどうだろう。川というものはどれも河口に海岸があるではないか。
なぜこの地名がついたのかを考えてみると、やはり雷電山道のことが関係してくるように思う。
雷電山道は10kmほどの長い峠道だが、唯一途中で麓に降りてくるルートがある。それが朝日温泉から親子別川に下る道だ。朝日温泉は湯内川上流にある温泉だが、湯内川は崖が急なので、隣の親子別川を通って下っていた。すなわち、下る道が海岸に繋がっている川、「河口が岸にある川」という意味ではないだろうか。
なおここに弁慶の薪積岩があり、雷電の観光名所のひとつになっている。
イセバチトマリ
雷電山道の磯谷側出口。この磯谷トンネルのところにある岬を「セバチ鼻」といい、刀掛トンネルと磯谷トンネルの間の入江を「イセハチトマリ」。その北にかつてあった隧道を「イセバチトンネル」といった。今はほぼ消えてしまった地名である。
「セバチ鼻」というのは「イセバチ岬」の「イ」がなぜか落ちた形なのだろう。「鼻」は「岬」と同義である。イセバチとは「伊勢鉢」であり和名である。ただし西蝦夷日誌に
エショハケ(岩崎)、イセハチ泊と誤る。此湾恰も擂盆の如より号くと云り。上をエシヨハケ岳と云
『西蝦夷日誌』松浦武四郎
とあり、元々のアイヌ語地名は「エショハケ」だったらしい。iso-pake〈磯岩の頭〉の意味で、セバチ鼻のところの描写だろうか。ただ経験上、iso は岬というより海上の岩を指すことが多いような気がする。このあたり、とくに目立つ海上の岩などは見当たらない。
盆の形のような湾ということで、イセバチ泊はもしかしたら二つの崎の間のところを指しているのかもしれない。松浦図は雷電山道の麓としてイセバチ泊を挙げている。一方で玉虫左太夫などは雷電山道の磯谷側の麓を「浜スマイ」と言っており、これもよくわからない。スマイは so-oma-i〈磯岩あるところ〉?
なおシルウトルは sir-utur〈丘の間〉で二つの崎の間の地点を直接示した地名だろう。またこのあたりで「カムイシリパ」という地名がたびたび出てくるが、文献によって雷電岬を指す場合もあれば、イセバチ崎を指す場合もある。このあたりの位置も含め、はっきりしたことがわからない地名がまだまだたくさんある。
雷電の見どころ
雷電温泉は灯が消え、雷電国道から見える美しい風景もあまり見ることができなくなった雷電だが、通りがかったときは、ぜひ車を停めて、その風景を見て欲しい。
現在の雷電海岸の見どころは、ウェンドマリの「風の駐車場」から見るチセセの山と、「雷電温泉郷」から見る刀掛岩である。
少し余裕があるなら、雷電温泉郷に車を停め、海岸沿いに出て、カスペノ岬のカムイルーや、湯内崎の磯岩、そして弁慶の薪積岩を見てみて欲しい。いずれも同じ特徴を持つ不思議な岩で、この雷電の地形を形作った火山活動の一遍を垣間見ることができる。
雷電はとても魅力的な場所なので、引き続きこの美しい風景が語り継がれていくことを期待したい。
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