サッポロの由来は誰も知らない
地名の由来は面白い
北海道の地名の多くはアイヌ語由来になっている。
たとえば積丹は〈夏の集落〉だとか、富良野は〈匂いがする所〉だとか、美瑛は〈白みがかった所〉だとか。そう言われてみると、脳裏に夏の美しいシャコタンブルーとか、富良野のラベンダー畑とか、美瑛の青い池や白ひげの滝が思い浮かんで、「確かに!」と面白がってくれる。旅行の時なんかにそういった地名の由来の蘊蓄を披露すると、みんな面白そうに話題に食いついてくる。だが、次にくるかもしれない最悪の質問はこれだ。
「じゃあ札幌の由来ってなんですか?」
来た。札幌は北海道でいちばん有名な都市だから当然くる質問だ。 ところがこれを聞かれると、実は非常に困ってしまう。誰もきちんと答えられないからだ。それがアイヌ語に堪能な人であったとしても、地理学者であったとしても。
もちろん、もっともらしい由来を述べることはできる。「札幌は〈乾いた大地〉の意味で、豊平川の扇状地が広がっているからなんですよ」と。いわゆる”定説”と呼ばれているものである。一般に対する説明はそのくらいでいいかもしれない。だがよく知っている人ほど、その由来を語る時は内心、後ろめたさを感じている。なぜならそれが正しくないかもしれないことを知っているからだ。
実のところ、サッポロの本当の由来は誰も知らないのである。
辞書にない地名
なぜサッポロの由来がこれほどまでに難しいのだろうか?それは、今ある辞書では解けない地名だからである。
今あるアイヌ語の辞書は、全て19世紀末から20世紀にかけて編纂されたものになる。基本的な単語を集めたものはそこそこあるが、膨大な語彙を網羅したものは4冊くらいしかない。それに”地名解のバイブル”こと知里真志保の『地名小辞典』を加えた5冊がほとんど全て。だが残念ながら、これら全てを駆使したとしてもサッポロという地名の意味を解き明かすことはできない。
大きな地名ほどその由来はわからなくなっているという傾向があることが知られている。例えば「石狩」「後志」「網走」「釧路」「根室」「留萌」「十勝」「虻田」「江別」「雨竜」「増毛」といったよく知られる北海道の地名は、意外なことにほとんどきちんと解釈されていない。そのうちひとつが「札幌」だ。これらの地名はおそらく古くから使われており、名前がつけられたのは数百年前、ひょっとすると千年以上前のものがあるかもしれない。
だからどんなにアイヌ語に堪能な人に聞いても、アイヌの古老に聞いても、こればっかりは限界がある。なぜなら彼らが話すのは、あくまでも18世紀以降の「近代アイヌ語」。現代の日本人が平安時代の言葉を理解するのが難しいように、昔のアイヌ語と近代アイヌ語ではかなり変化しているだ。近代アイヌ語ですら辞書が限られているのに、何百年も前のアイヌ語など、一体どうすればわかるというのだろうか。
だが全くアプローチの方法がないわけではない。語彙は変化しても、文法というものはそうそう変化しないからである。また全道に似たような地名があれば、そこから類推していく方法だってある。
「乾いた大地」ではない理由
たとえば定説となっている札幌の由来、sat-poro〈乾いた大地〉説。これがなぜ間違っているかもしれないと言われるのだろうか。
それは文法がおかしいからである。 sat〈乾く〉も poro〈大きい〉も、いずれも自動詞。アイヌ語地名において、このように名詞を伴わず、自動詞が2つ並ぶということはまずありえない。全道1万個ほどの地名を眺めてみても、こういうかたちの地名はほぼ存在しないのだ。ただ表面的に音だけ拾って辞書を開くのではなく、文法をきちんと知っていてそれをあてはめる人ほど、「サッポロのこの解釈は絶対におかしいぞ?」という感覚に陥っていく。
日本語地名に例えるなら、新千歳空港のことを「千歳飛行大量」と言うようなものだ。「いや、言いたいことは分からなくもないけど、それは地名としては絶対におかしい。」と日本人なら誰もが思うだろう。しかしアイヌ語地名界隈ではそういう地名解が平気でまかり通っていたりする。
だから地名研究家たちは苦し紛れに、川を表す pet をつけて sat-poro-pet で〈乾く広大な川〉と解釈してみたりする。”乾燥広大”の動詞オンリーよりはいくらかマシになったが、それでもまだ「自動詞が連続する」という禁忌は破れていない。
あるいは poro-pet〈大川〉 を1つの合成地名とみて、sat-poropet〈乾くホロベツ〉という解釈をすれば、ぎりぎりなんとかこの動詞の連続の禁忌を脱することはできる。”ホロベツ”という本流に対して、支流名として sat を頭につけるようなのはわりとある文法パターンだ。
だが、過去の文献を見ても、その名はほぼ全てが「サッポロ」「サツホロ」で、「サッポロベツ」とpetをつけているものは片手で数えるほどもない。まして本流となっているはずの「ホロベツ」はこの近くにはどこにもない。いや「石狩川こそがホロベツ」なのだ、と解釈してしまおうじゃないか……?
ここまで来てようやく”それっぽい”感じにはなってくるが、随分と独自解釈を進めてしまったものである。一応の理屈は通っているが、自信満々に発表するには傍証が全然足りないのである。
そんなわけで、サッポロの由来は地名研究家にとって、実に頭の痛い質問なのだ。
サッポロの既存の地名解
もちろん、札幌の地名解は「乾いた大地」だけではない。
| カナ表記 | アイヌ語 | 意味 | 提唱者 |
|---|---|---|---|
| サッポロ | sat-poro | 乾燥広大 | 永田方正 |
| サッポロベツ | sat-poro-pet | 乾く大きい川 | 山田秀三 |
| サッテクホロ | sattek-poro | 乾き上がる所 | 松浦武四郎 |
| サリポロ | sar-poro-pet | 湿原が広い川 | 更科源蔵 |
| サップオロ | sap-oro-pet | 水が流れ下った川 | 榊原正文 |
| サッポロヌプリ | sat-poro-nupuri | 乾く大きな山 | J・バチェラー |
| サチッポポロ | sat-cep-poro | 乾いた魚が多い | 林顕三 |
提唱者を見れば、地名研究家なら誰もが知っている名前ばかり。まさにオールスター勢揃いで、しかもそれぞれが全然違うことを言っている。いかにこの札幌という地名が地名研究家たちを悩ませ、また議論の的となってきたかがわかるだろう。
だがこれらが並んでいるのを見たうえでもなお、全く別の視点で新たな説を提唱したい。
サッポロとはどこにあるのか
サッポロ川の古い流路
そもそもサッポロとはどこを指しているのだろうか?
多くの地名研究者はこう言う。「サッポロとは豊平川の旧名なのだ」と。 確かにそれは事実だ。豊平川はかつて「サッポロ川」と呼ばれていた。

その流れを追ってみよう。定山渓のさらに奥、豊平峡ダムの上流から流れ出し、南区の真駒内でぐるりとカーブを描く。そして藻岩山の麓、まさに「山鼻」のすぐ近くを掠めて札幌市街地中心部へと入っていく。中島公園の脇を通り、札幌で最も古い橋である豊平橋に差し掛かる。 ここまでの上流部は現在の豊平川とほとんど変わらない。だが、この先の下流部が違う。
かつてのサッポロ川は、そこから現在のサッポロファクトリーの方へ北上し、丘珠空港のあたりを越え、ガトーキングダムサッポロのある茨戸へと流れ落ちていた。 この古い流れを今は「伏籠川」、すなわち husko-sapporo〈古いサッポロ川〉と呼ぶ。 そして、その河口である茨戸のあたりを「sapporo-putu〈サッポロ川の河口〉」と呼んだことから、多くの地名研究家はサッポロ川そのもの、あるいはサッポロ川が流れ下る札幌の広い扇状地にこそ”サッポロ”の由来があると考えていた。だがこれが罠である。
「アイヌ語地名=川の名前」なのか
多くのアイヌ語地名研究家が陥りがちな問題として、「なんでもかんでも川の名前だと解釈しようとする」という傾向がある。 とりあえず語尾に pet や nay を補ってみて、全部川の名前として処理してしまう。「内陸のアイヌ語地名の9割は川の名前だ」なんて極論を言う人もいるくらいだ。
だがそれは大きな罠である。実のところ、純粋に「川の特徴」から名付けられた地名は現在も残るアイヌ語由来の地名の4割程度に過ぎない。残りの多くは、別の場所につけられた地名が、後に「その場所を流れる川」として転用されたものかもしれない。
たとえば「信濃川」という川があったからといって、「川がシナノだから信濃川なのだ。信濃という地名は川からつけられた」とはあまり考えない。むしろ「信濃という国がまずあって、そこから流れている川だから信濃川なのだ」と考えるのが普通である。もちろん川名から先に生じた地名もたくさんあるが、「川が先か、別の地形が先か」というのは地名の由来を考えるうえで欠かすことができないキーポイントである。

アイヌ語地名の多くが川名だと認識されるようになったのは、松浦武四郎の影響もある。彼が書き上げた『東西蝦夷山川地理取調図』は素晴らしい傑作だが、「山川取り調べ」とあるように、内陸地名のほとんどは川名と山名として書いている。アイヌの案内人に、「あの川はなんというのか」「あの山はなんというのか」と片っ端から聞き取っていったのでそういうスタイルになっている。
でもサッポロの由来は本当に川の名前から来たのだろうか? 古い文献を見ても「サッポロベツ(Sat-poro-pet)」と書かれた記録は極めて少ない。もし元々が川の名前なら、もっと頻繁に「ベツ」がついているはずだ。
川ではない、もっと別のランドマーク、あるいは集落名から来ているのではないだろうか?
サッポロの地名解
山の崎の所
札幌の由来をこのように提唱してみる。 sap-or で〈崎の所〉だ。崎とはすなわち「山の端が突き出た場所」のことを指している。
想定される語形は sap-or、もしくは sap-poro である。 自動詞 poro が後置する地名は樺太にはいくつか例があるものの、北海道では滅多に見かけない。とはいえ現在の Sapporo 表記に限りなく近いため見過ごすこともできない。〈崎の所〉も〈崎が大きい〉もざっくりとした意味としてはさほど変わらないので、poro 説はひとまずサイドボードへ控えておくとして、ここでは sap-or〈崎の所〉 を本命として論を進めたい。
「~の所」を表す or
この説のカギとなるのが、語尾につく位置名詞 or だ。 これは「~の所」とも訳される位置名詞で、全道の地名に数多く見られる馴染み深いものである。
- 名寄:nay-or 〈沢の所〉
- 芽室:mem-or 〈泉の所〉
- 士幌:sup-or 〈激湍の所〉
- 野幌:nup-or〈野原の所〉
- 塘路:to-or〈湖の所〉
- モヨロ:moy-or 〈入江の所〉
地形を表す名詞の後ろにこの or をくっつけることで、その特徴的な場所を特定し、地名化する働きがある。つまり、前半の sap が地形を表す名詞であればいい。
だがここで大きな壁にぶつかる。 問題は、「位置名詞or の前には必ず名詞が来なくてはならない」というルールがある。肝心の sap はどうなのか? 辞書を開いてみよう。そこにある sap の意味は「(たくさん)下る」という自動詞である。 そう、自動詞だ。
「自動詞が連続してはならない」「自動詞に位置名詞はつかない」。 これはアイヌ語地名における鉄則である。もし sap が辞書通りの自動詞だとしたら、sap-or も sap-poro も、定説と同じく明らかな文法エラーとなってしまう。
失われた古名詞
さてこの or 地名、いくつか謎の地名がある。
- 根室:nem-or〈泉?の所〉
- 広尾:pir-or〈渦?の所〉
- 足寄:as-or〈?の所〉
- アヨロ:ay-or〈?の所〉
- ウヨロ:uy-or〈?の所〉
- オヨロ:oy-or〈?の所〉
どうにも or 地名っぽいが、その前につく名詞らしきものの意味がさっぱりわからない。こういう地名がいくつかあって、特に白老のアヨロ・ウヨロ・オヨロ三兄弟ときたら全く皆目検討がつかない。しかし位置名詞 or がつく以上はそれはなんらかの地形を表す名詞なのだろう。だが今の辞書からはそれが失われてしまった。
そうだ、札幌もの sap もまたこれなのである。 札幌の sap は、「みんなで下る」という動詞とは全く関係のない、辞書には載っていない名詞なのではないだろうか、と。
いよいよ独自解釈が過ぎてきて、ページを閉じたくなってきただろうか? だが、興味がある人はもう少しだけ付き合ってほしい。実は全道を見渡すと、この sap が使われている地名が他にも結構あるのである。
3つの突き出た岬
sap が使われている3つの地形を見てみよう。納沙布岬、野寒布岬、そして函館山である。



函館山の麓の谷地頭のあたりはかつては尻澤部村といって、『津軽一統志』や『元禄郷帳』によると「しりさつふ」「しりさふ」とある。これも sap 地名である。
納沙布岬は東の果て、野寒布岬は北の果て、函館山はある意味で南の果てとも言える場所にある。海に対して大きく突き出しており、地図で見ても現地で見てもたいへん目立つ。
すなわち not-sap で〈岬の突き出た所〉だ。アイヌ語の sa は サともシャとも読むからノサップのノシャップも同じである。そしてシリサップの方は sir-sap で〈山の突き出た所〉。
sap の定義
ということで失われた名詞 sap を〈突き出た所〉すなわち〈崎〉の意味であると定義しよう。
あえてこれを分解すると sa-o-p で〈前にあるもの〉という要素が見えてくる。 sa というのは「前面」とか「海側」といった意味を持つ言葉だ。sa から派生した名詞には例えば sapa〈頭〉がありこれも地形では〈岬〉をあらわす。また sa-un〈前にある〉の合成で san〈出てくる〉あるいは〈出崎〉という合成語もあったりする。「前へ、海へ」というニュアンスを持つ言葉なのだ。
札幌の兄弟地名・佐幌
十勝の新得町にある「サホロリゾート」を知っているだろうか。この佐幌という地名は札幌とよく似ており、実のところ全く同じ由来の地名なのかもしれない。 古い地図を見ると、佐幌が「サツホロ」と表記されていることもある。

実はこの佐幌がある「新得」の方も全く無関係ではない。新得駅から500メートルほど北に行った場所を見てほしい。そこには新得山と、対岸の丘が川に向かって大きく突き出している地形がある。 そもそもこの「シントク」という地名の由来は、アイヌ語の sir-tuk すなわち〈山が突き出る〉という意味になっているのだ。
そして「サホロ」はその新得山の麓を指し、sap-or すなわち〈崎の所〉なのである。
sap は必ずしも海に面した岬だけでなく、平地の中に突如として現れる山崎のことも指すらしい。
藻岩下の山鼻にあり
藻岩山のサッポロ

では札幌における sap〈崎〉とは一体どこにあるのだろうか? その目印となるのは、札幌市民なら誰もがよく知るあの山、藻岩山である。
藻岩山は札幌市街地に大きくせり出すように山峰が伸びていて、遠くから眺めるとまるで陸にある岬のように見える。
この藻岩山、実は地元の人にかつて「軍艦岬」と呼ばれていたことがあったのをご存じだろうか。 石狩平野という大海原に、あたかも巨大な軍艦が鎮座し、舳先を突き出しているように見えるからだ。この「突き出している」という形状こそが、まさに sap なのである。
山の端の山鼻

藻岩山の麓には「山鼻」という地区がある。すでに住所の字名からは消えてしまったが、中央区の南の方に位置し、道路が大通りよりわずかに斜めに傾いているエリアがおおよそ山鼻といっていい。もっとわかりやすく言うと「市電が走っているところが山鼻」だ。
さてこの山鼻という地名、かつて「山の端」と言っていたものが訛ったものだ。つまり「山の突き出た端っこ」という意味で、藻岩山の麓にある集落を指してそう呼んだのである。 日本語の「山の端」と、アイヌ語の「sap-or〈崎の所〉」。 言語は違えど、それが指し示している地形のニュアンスはよく似ている。
つまり本来の「サッポロ」とは、広大な札幌扇状地や豊平川を指す言葉ではない。この藻岩山が突き出した場所、現在の山鼻地区周辺に存在した集落を指す地名だったのであろう。
見張り台のインカルシベ
もう少し藻岩山という山そのものに目を向けてみよう。 実はモイワというのは現在の神宮のある「円山」を指していたらしいということは、札幌の地理に詳しい人ならよく知っている。

藻岩山はかつてエンカルシベ と呼ばれていて、これは inkar-us-pe〈見張りをする所〉の意味である。 この山はアイヌにとっての聖地であり、時には神の松明が見えたり、聖なる加護がある山だと信じられていた。 札幌近郊のアイヌにとって阿蘇岩山、手稲山、藻岩山の三山はイナウを捧げる特別な山だったのである。
擦文文化の集落跡
ではその聖なる山の麓には何があったのか? 現在のブックオフ札幌山鼻店の近くに「C54-57遺跡」があり、これらは擦文時代の集落跡で、プロトアイヌ達がここに住んでいた形跡がある。

地質学的に見ると、数百年前のサッポロ川(豊平川)は、今よりもだいぶ西の方を流れていた、数千年前ともなると、伏見のあたりまで蛇行していて、藻岩山ロープウェイ乗り場の前にある急な断崖は、かつての河岸段丘の跡である。
エンカルシベの麓にあった、今の山鼻地区にあった集落こそが、真の「上サッポロのコタン」だったのだろう。あるいは、川を挟んで対岸にある天神山にもチャシや集落跡が見つかっていることから、この一帯が広くサッポロ集落の生活圏だったことが予想される。これを上サッポロ遺跡群と呼ぶ。(下サッポロは篠路周辺にある)
ちなみに1000年前の集落群の中心地は、今の北大敷地内にあって、北大病院のあたりには東北蝦夷の末裔のものと思われる末期古墳も見つかっている。これをコトニのコタンとも言うが、山鼻にあった上サッポロのコタンは、コトニの人々が山に狩りに行くために拠点とした所、あるいは越冬のために設けられた後背地のコタンだった可能性もある。
失われた記憶
なぜそんな重要な場所の意味が忘れ去られてしまったのだろうか?実は「サッポロ」は一度、消えてしまったのである。

山鼻の上サッポロコタンや、北大のコトニの大集落群は、近世アイヌ期にはもうコタンとして機能しておらず、ただの遺跡となっていた。 近代の記録に出てくる「上サッポロコタン」のアイヌたちは、実は古くからそこに住んでいた人々ではない。石狩下流アイヌの伝承によると17-18世紀頃に当別の美登位が洪水に襲われ、そこから引っ越してきた民たちなのだという。そしてコトニにある竪穴住居の ”窪み” は “コロポックル” のものであるという。
コトニはコロポックルの本拠で、コツ(穴跡)が沢山ある意味である。
バンナグルアイヌ・能登酉雄の聞書
彼らがやってきた時、そこには古びた穴ぼこと、「サッポロ」という音だけが残っていた。 だから彼らはその地名の本当の意味を知らなかったとしても無理はない。古の「サッポロ」の記憶は、集落の消失と共に、すでに失われていたのである。
サッポロ山はどの山か
一定しないサッポロ山
江戸時代の文献には「サッポロ山」と呼ばれる山が時々でてくる。それらを全て徹底的に洗い出してみて、それがどの山を指しているのかを確かめてみた。
すると一つの山には比定できないことがわかってきた。大きく分けて2箇所ある。
- 支笏湖北西の山地群(札幌岳・空沼岳・漁岳・小漁山・恵庭岳)
- 札幌藻岩山
とくに松浦武四郎がしきりにサッポロ岳、サッポロノホリと言っているのはどうやら漁岳か小漁山のことらしく、”サッポロ川の水源”という水源山名主義を貫いていることがわかる。これがサッポロ山の位置を惑わせる要因ともなっている。現在、札幌岳(1292m)と呼ばれている山も、これに近い。
では藻岩山のほうが”サッポロ山”と呼ばれていた、その証拠となる史料やスケッチを見ていこう。
箱館奉行が言及したサッホロ山
村垣淡路守範正は箱館奉行、すなわち幕府から任じられた当時の北海道の行政トップであり最高権力者である。そんな奉行の下には、蝦夷地の事情にもっとも通じた案内人がついていたはずである。
その村垣が1857年銭函に上陸し、そこからヲタルナイ川(現在の新川河口)あたりまで来たときの日誌にはこのようにある。
ヲタルナイ川、この川上は平原至って広く、サッホロ・アッサフ山麓まで見渡し、この辺、在住の場所に申し立て候処や、至極よろしいと見える。
在住場所はサッホロ・アッサフ両山麓に取り極め、早々普請取り掛かること。
『村垣淡路守範正公務日誌』
ヲタルナイ川(新川)から見えるサッポロ山とアッサフ山(発寒山)の麓の一帯が在住場所にふさわしい。早速開拓に取りかかれと命令している。
ヲタルナイ川河口近くの山口緑地の望みの丘から見ると、確かにこの二つの山はしっかり見える。この「サッホロ山」が現在の札幌岳や、ましてや漁岳や恵庭岳などではないことは明らかだ。このサッホロ山が指しているのは「藻岩山」以外には考えられない。
ヲタルナイ川から見たサッホロ山

村垣の訪問より時代は50年ほど遡り、幕府の近藤重蔵探検隊が西海岸を詳細に調査したときの海岸図がある。そこにはちょうど同じ場所、つまりヲタルナイ川河口付近から眺めたスケッチがあり、そこには「サッホロ山」「タルマイ山」「ヲタルナイ山」の三山が描かれている。

このヲタルナイ山とは手稲山のことであるようだ。タルマイ山はもちろん樽前山である。その手前、左側にサッホロ山があるわけだが、これも藻岩山なのだろうか。その山の形は恵庭岳のシルエットに見えなくもないので断言はできないが、ヲタルナイ川河口からヲタルナイ山とタルマイ山を見ると、恵庭岳、漁岳、札幌岳、いずれもタルマイ山よりも右手に見えるはずである。この位置からするとタルマイ山より左手に見えるのは藻岩山以外にはない。地図に線を引いてみると、樽前山より恵庭岳を左手に持っていくためには、小樽の忍路あたりまで行かなくてはならず、他の山々でも同様だ。
そこからするとこのサッホロ山もやはり藻岩山のように見える。
蝦夷図のサッホロ山

同時代の蝦夷図には、ちょうどこのサッホロ山、ヲタルナイ山、タルマイ山が描かれている。サッホロ山がシコツトウの近くに描かれていることから、この地図だけ見ると札幌奥地の山地、札幌岳か恵庭岳あたりに見えなくもない。
だが手前のヲタルナイの川がヲタルナイ山の麓から流れ落ちているのに注目できる。間宮林蔵や松浦武四郎の地図でもそうだが、この時代のヲタルナイ川(現・星置川)は非常に長く描かれがちだ。伊能忠敬の測量よりも古い時代の地図であり、あくまでも海岸から見たイメージを書いている点には注意したい。

注目できるのは、地図には西海岸から東海岸を繋ぐ、現在の洞爺湖町まで抜ける「アブタ越え」の山道が点線で描かれており、それがサッホロ山とヲタルナイ山の麓を通過しているところである。アブタ越えといえば札幌の歴史に詳しい人なら中山峠のことだと思うだろう。だが松浦武四郎の日誌によると、昔のアブタ越えは銭函の上にあり、キロロリゾートや国際スキー場のある朝里岳を越えて、倶知安原野のルスツに出て、そこから洞爺湖のほうへと抜けているルートであったことが記されている。まさにこの点線のルート通りで、ヲタルナイ山(手稲山)の麓を歩いたはずだ。
そこからするとこの小さく書かれたサッホロ山も藻岩山に見えてくる。
札幌から見たサッホロ山

別の角度の絵図も見てみよう。箱館奉行の役人が書いた現在の札幌中心部から見たと思われる山のスケッチで、手前にサッホロ山、右手にヲタスツ山、一番奥の真ん中にハッシャフ山が見える。
ハッシャフ山が百松沢山であるのは確定で、ヲタスツ山はヲタスツ川と呼ばれた銭函川の水源である奥手稲山を含んだ手稲連山にように思う。そうなると一番手前にあるサッホロ山はやはり藻岩山であろう。

別の図ではサッポロ山こそ出てこないものの、ハッシャフ山が描かれていて、その左の方にヱンカルシ、すなわち藻岩山が見える。藻岩山がランドマークとされていたことがよくわかる。
豊平から見上げたサッホロ山

最もはっきり描かれているのは幕末の目賀田帯刀が描いた錦絵で、豊平から見た風景が描かれている。右手にはハッシャフ山(百松沢山)が見え、左には大きく札幌岳が描かれている。札幌の町並みを歩いているとビルの合間に見える、雄大に聳える藻岩山のイメージにそっくりだ。
この歴検図の別の図には「エニワ岳」も出てくることから、この札幌岳が恵庭岳を指しているわけではないことも裏付けが取れている。
同様にこの豊平通行屋に宿泊した玉蟲左太夫が「サツホロ山、又コトニ山、ハツサフ山等見ユルナリ」と言っている。
また西本願寺設立の際に「サッホロ山麓」を候補としたり、札幌八幡宮、今の北海道神宮の前身を「イシカリ領字サッポロ山麓」に指定した。松浦武四郎はわざわざこれを「エンカルシベ」と言い直しているのが面白い。なおこの幕末における西本願寺と八幡宮の建立はどちらも成立せず、場所は変更されている。
このように藻岩山を「サッポロ山」と呼んだ例は、江戸時代から明治初頭にかけて枚挙に暇がない。
失われた地名解を求めて
藻岩山の山鼻のサッポロ

サッポロの意味は sap-orで〈崎の所〉、もしくは sap-poroで〈崎が大きい〉であり、それは藻岩山の麓、すなわち山鼻地区を指す地名であった、という説を考えてきた。
「乾燥広大」だとか、「湿原の川」というような漠然としたイメージではなく、”藻岩山”という目に見えるランドマークからつけられた地名であったと考えると、札幌の街のイメージがまた変わってくる。
そして豊平川に名前を変えたサッポロ川とは、その崎の所のすぐ傍らを流れる川だったというわけである。それならば古文献に pet がほとんどつかないことの説明もつく。極めて数少ない「サッポロベツ」の記述については、sap-or-o-pet〈崎の所にある川〉と解釈すればいい。
sap地名はまだまだある?
この記事では、sap は〈崎〉の地形を表す失われた名詞ではないかと考えた。
さて、この記事で時々百松沢山を表す「ハッサム山」が出てきたのを思い出せるだろうか。ハッサム山は古文献の中で「アッサフ」とか「ハッシャフ」などと呼ばれていた。「あれ?発寒も、もしかして sapのつく地名なのでは?」と思った人はなかなか鋭い嗅覚を持っている。
発寒の既存の定説では「ハチャム・ペッ」で〈桜鳥の川〉とされている。だが例に漏れず、江戸時代にハッサムを”ハッサムベツ”と書いた文献はどこにも見当たらない。また pet を勝手につけてしまったようだ。それに桜鳥の川というのもいまいち意味がわからない。
ハッサムといえばイシカリの大首長ハウカセの親族で、ヲタルナイからイシカリ下流域一帯を支配したなかなか力ある首長ヨロタインの治めたところで、その砦は三角山の麓のベッカウシのところにある。このベッカウシの崖は、平地のなかに鋭く突き出た崎になっている。もしかしたらこれが sap なのでは……?と興味が深まる。
発寒だけではない。札幌には月寒という地名があって、古くは”ツキサップ”と呼んでいた。これもsap地名なのだろうか?
京極の湧き水のところにワッカタサップ川があるし、屈斜路湖のほとりにはサワンチサップ、マクワンチサップという双子山もある。また発寒がそうなら、よく似た和寒や厚沢部はどうなのだろうか?興味が尽きない。
地名の由来に迫るのは面白い。ぜひ気になる地名を見つけたら、その由来を一緒に考えていこう。


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