札幌に残るアイヌ語地名
札幌は都市化が進んだため、その地名のおよそ8割は和名由来になっている。だが古くからある地名にはアイヌ語由来のものも残っている。現在なお地図や現地で見られる、30ほどのアイヌ語地名の意味と、その地名が示していた位置を考えていきたい。
手稲区
手稲(ていね)
手稲の由来は teyne-i〈濡れた所〉だという。ほとんどの地名解がこれを支持しており、旧記にもこの形が見られるため間違いないだろう。teyne とは〈どろどろの、じめじめした〉といった意味合いがある。
ただし武四郎の日誌を含めほとんどの記録は「テイネニタツ」すなわち teyne-nitat〈濡れた湿地〉の形で出てきており、テイネニタツのニタツが省略されたものと見てもいいかもしれない。テイネニタツは現在の宮の沢、札幌西IC付近を中心に広がっていた湿地帯のことを指していたようだ。
このような湿地帯は歩行にも農耕にも居住にも適さず、そのため手稲地区は遺跡の数も少なめである。
明治の代になると炭鉱鉄道会社が鉄道路線の排水を目的として引いた炭鉱排水を始めとして、道庁排水、山口排水、土坑排水、軽川大排水など次々と排水路が引かれていき、徐々に濡れた湿地状態も解消されていく。
かつて”テイネ”な湿原だった手稲も、今は広く住宅地が広がり、住みやすい土地になっている。
星置(ほしおき)
永田地名解はso-pok〈滝下〉、山田秀三氏は pesh-pok〈崖下〉ではないかとしており、今日では後者が定説とされることが多い。
松浦武四郎は「ソウシホキ、ソウは滝の事、ホキは並ぶと云事、此源に小滝二ツ有と」と言っており、これが正解に近いと思われる。現地に伝わる字名としては「ホシホッケ」の形で出てくることからすると、星置の由来は so-us-poki ないしは so-us-pok-ke で〈滝の群在地の下〉の意味か。位置名詞pokの前にusを付ける例はあまり見られず、文法的に見ると永田方正の云うようにso-pokとしたいところだが、あえてusを挟むことで滝が複数あることを示していたのかもしれない。
星置川上流には「星置の滝」と「乙女の滝」というよく知られた滝が二つあり、かつては「字滝の沢」、現在も「滝見町」などという地名が残っている。滝の存在が強く意識されていることがわかる。
三樽別(さんたるべつ)
手稲富丘の旧名。三樽別川として名前を残し、公園の名前にもなっている。
定説によると「サンタロッキヒ」で「縄で鹿を縛り荷降ろしする処の意」などとしているがこれは意味がわからない。旧記類では「サンタラッケ」の形でよく見られる。
三樽別の由来は san-taor-ke〈突き出た丘〉 、そこから川名に派生して san-taor-o-pet〈突き出た丘の川〉となったのではないだろうか。taor とは〈川沿いの高所〉という意味である。この突き出た丘とは、広義には手稲山から伸びる富丘の山裾、狭義には富丘丸山を指すと思われる。国道5号や札樽自動車道は今もわずかにカーブしてこの丘を迂回している。
西区
発寒(はっさむ)
謎多き地名。発寒の由来は定説によると〈桜鳥〉のことだと言われる。hachamは〈ムクドリ/サクラドリ/エゾライチョウ〉などを表すようだが、地名としてはどうだろう。
旧記類では「ハッシャフ」「ハチャム」「ハサミ」等の表記が見られる。「サ」と「チャ」の表音ブレが見られるのは、t+s の子音が隣り合ったときで、「t+s → tc」「t+s → ss」の二通りの音素交替のパターンが起こりうる。 hat-sam が音素交替し、 hatcam もしくは hassam になるならば、この音素交替のルールに完璧に当てはまる。hacham〈桜鳥〉 あるいはhas-sam〈灌木の傍〉では、このハッチャム・ハッサムのブレを説明できない。
よって発音表記から推定される語形は hat-sam〈山葡萄の傍〉となりそうだ。同じく桜鳥説が取られる類型地名・厚沢部の方は at-sam〈オヒョウ楡の傍〉になるだろうか。
松浦武四郎はマクンベツ湿原からサッポロ川河口(篠路)にかけて川沿いに「野葡萄多く熟し」ているところをその目で見ており、昔このあたりに山葡萄が多かったのは間違いない。今でも、琴似発寒川沿いにある赤坂山に自生の山葡萄が実をつけているのを見つけることができた。
琴似(ことに)
定説によると kot-ne-i〈窪地になっているもの〉とされている。しかし「コッネイ」とは随分と発音しにくい。旧記類は「コトニ」で固定されており、それ以外の表音はほぼ出てこない。コッネイは音として遠すぎる。しかしながらこの説を最初に唱えたのは琴似又市エカシであろうことから、ややこしくさせている。
琴似の由来は正しくは「コトゥニ」すなわち kot-un-i〈窪地に住む処〉だろう。
kot は単に〈窪地〉という意味合いもあるが、村を表す古潭の語形が kot-an〈窪地が・ある〉であることからしても、住居と深い関わりがある。また un は単に〈ある〉と訳すこともあるが、そこにいつもある、すなわち〈住む〉というニュアンスを含んでいる。
かつてのコトニは現在の琴似駅よりずっと東側に位置していて、コトニ川は札幌中心部にある知事公館園地のキンクシメムすなわち mem〈泉〉を水源とする川だった。コトニの原名がある知事公館のほか、北大の敷地内のシャクシコトニにも大規模な集落跡が発見されており、コトニはまさに住む処であったようである。
kim-kus は〈山側の〉、sa-kusは〈海側の〉という意味で、知事公館のキンクシコトニと北大構内のシャクシコトニは対になっていたようだ。
小別沢(こべつざわ)
小別沢は西野・福井の奥、三角山の裏手にある小さな沢。一説によると ku-o-pet〈仕掛け弓のある沢〉が由来ではないかと言われている。ただ江戸時代の旧記類には出てこない地名なのではっきりしたところはわからない。
中央区
盤渓(ばんけい)
盤渓の由来は panke-i〈下流の所〉もしくは panke-nay〈下流の川〉で、スキー場に面した盤渓川のことを指すのではないかと言われてきた。panke〈川下の〉とpenke〈川上の〉は各地で頻繁に見られる連体詞で、ほとんど必ず対となって出てくる。盤渓川がパンケナイならペンケナイはもう一つ上流の沢だろうか。
ところがこれらの発寒川支流にパンケナイ、ペンケナイと名をつけた史料が見つからない。かわりに盤渓川は「ルートラシハッサブ」と呼ばれている。ru-turasi-hatsam〈道に沿って登る発寒川〉の意味だろう。昔もここに ru〈道〉 があったのだ。
盤渓から小林峠の新しいトンネルを抜けると 北ノ沢 に出る。この北の沢のアイヌ語地名が実は「ハンケハッタルシベ」なのである。すなわち panke-hattar-us-pe〈川上の淵につくもの〉。どうやら盤渓の地名はこのハンケから来たらしい。ちなみにペンケハッタルシベもあり、こちらは隣の中ノ沢である。
盤渓~北ノ沢の峠道はアイヌ時代からあったようで、この峠をハンケハッタルシベと呼んだのだろう。いつの間にかそれが峠の西側の地名にもなったようである。トンネルができてからは随分走りやすくなったものだ。
藻岩(もいわ)
藻岩の由来は mo-iwa〈小さな岩山〉。モイワは藻岩山のことではなく、元々は円山のことを指したようである。藻岩山の方は「エンカルシベ」、すなわち inkar-us-pe〈いつも見張りをする処〉と呼ばれていた。
iwa とは単なる岩山ではなく、神聖な存在として見られていたらしい。 kamuy-iwak〈神が住む処〉から来た言葉で、それほど大きくないが集落の後ろにある、心の拠り所となった小山を指してモイワと呼ぶようだ。
いつ頃からエンカルシベのほうが藻岩山と呼ばれるようになったのかは、きちんと調べていないのでよくわからないが、もしかすると円山村と山鼻村が合併して藻岩村になったあたりが関係しているかもしれない。
ちなみに現在「三角山」と呼ばれている山が「マルャ山」だったようだ。ちょっと紛らわしい。三角山は琴似山ともハチャムエプイとも呼ばれ、百松沢山がハッサム山と呼ばれる。このあたりの山名の変遷を追いかけてみると面白そうだ。
北区
茨戸(ばらと)
現在の茨戸川は断ち切られたかつての石狩川本流の残骸を指しているが、治水工事をする前は発寒川下流部を茨戸川とも呼んだようだ。
茨戸の由来は para-to で〈広い沼〉の意味らしい。昔の地図を見ると「カハトウ」なる沼が現在の西茨戸の茨戸耕北川あたりに見える。kapato-o-to〈コウホネのたくさんある沼〉か。夏に発寒川を見るとコウホネがたくさん浮かんでいる。
カハト沼は明治時代に入ると篠路川の方に流れ落ちていったようで、「シノロ沼」とも呼ばれている。上の地図ではそれなりの広さに描かれているが、その後急速に沼は小さくなっていったようだ。
篠路(しのろ)
謎多き地名。駅名起源では「意味は不明」としており、あの永田地名解も「?」とするのみである。篠路村史によると「スウォロ」で「鍋を浸しておく処」らしいが、地名解としてちょっと苦しいものがある。山田秀三先生は sino-or-o〈本当に水の多い処〉という試案をあげておられた。ただこの形は地名ではあまり見ない。
実はシノロは移動地名のようである。もともと雨竜河口に住んでいたアイヌとの交易の場としてシノロ場所を設けたが、和人にとって雨竜はあまりにも遠すぎるので美登位に交易所を設けたのである。それでシノロの地名が移動してきた。ということは現在の篠路をいくら探してもその由来は見つからず、雨竜河口の方を見なくてはならない。
雨竜川は石狩川の主要な支流のひとつで、水源までの長さこそ石狩川本流には及ばないものの、川の方向的には本流のような位置づけにある。それで雨竜川と石狩川本流を見分けるために、本流のほうを sino-oro〈本当の所〉と呼んだのかもしれない。(文法的に見ると sino は連体修飾語、 oro は位置名詞 or の所属形になる。概念形(原形)のorは被修飾語になり得ないが、所属形oroにすることで名詞と切り離して単独で名詞のように扱うことができる)
なおバチェラー辞典では shinoro を〈河口〉と訳している。2つの川の合流地点を指してそう呼んだのだろう。
烈々布(れつれっぷ)
篠路から丘珠にかけての古い地名。今も橋や神社の名前として辛うじて残っている。
レツレップとはいかにもアイヌ語らしい響きがするが、この意味がよくわかっていない。ri-turep〈背の高いオオウバユリ〉説や、 ru-e-tuye-p〈道がそこで(川を)切っているもの〉などの説がある。
アイヌ語に tsu という音は存在しない。そのためレツレツの「ツ」の音は何かが化けたものと考えるしか無い。たぶん retar-pet〈白い川〉が転訛したものではないだろうか。篠路の川は赤土のせいでいつも赤い印象がある。丘珠のあたりにくると赤みが目立たなくなる。そういう意味で白い川なのかもしれない。
ペケレット沼
篠路にある直径300mほどの湖。湖全体が私有地という珍しいところである。それ故に無断で立ち入りはできないが、お店で飲食を注文すれば散策できるらしい。あいにく閉店しているときにしか寄ったことがないので、まだ沼を直に見たことがない。
peker-to で〈澄んだ湖〉の意味だろうかと思った。だが蝦夷山川図を見ると「ヘケツテシカ」になっている。ペケレットとはだいぶ音が違う。ただこの表音も間違っているらしく、弘化三年の蝦夷日誌では「ペケレトシカ」になっている。peker-toska〈澄んだ堤〉どうやらこれが原名らしい。ペケレトシカ。なんだか声に出して呼びたくなるきれいな響きだ。
松浦武四郎がこのあたりを舟で通った時、李桃の実が流れてきたのでアイヌがそれを拾い、武四郎にくれたらしい。「その志ざしうれしく覚たり」と述べており、彼がアイヌ達と良い関係を築いていたことが窺える。
トンネウス沼
あいの里公園にある沼。tunni-us-i で〈ナラの木の生える処〉の意味らしい。なお tunni は萱野辞典では「柏の木」になっているが、同じようにドングリをならせる木としてブナと混同されることがあるようだ。
なるほど、と思って次に行こうと思ったが、ここで沼にはまってしまった。
まず明治20年頃の実測切図には「クン子ウシュ沼」と書いてある。kunne と言えば〈黒い〉を意味する言葉だ。ちょうどペケレット沼と逆の意味になりそうだ。ただし kunne-us-i〈黒い・つく・処〉はちょっと文法的に受け入れがたい。他にクンネとする史料がないのでこれは誤字のような気がする。
明治6年頃の札幌郡西部之図によると「トン子ヤウス」になっている。こちらはトンネウスにかなり近い。ただこの間にある「ヤ」が見過ごせない。石狩川沿岸には「トウヤウス」「カマヤウス」「タンネヤウス」「ピラカヤウス」といった地名が並んでいる。「ヤウス」とは ya-us-i で〈網上げをするところ〉すなわち〈漁場〉を意味する。そこからすると「トンネヤウス」もこの漁場の名前の一つということができそうだ。
タンネは〈長い〉、ピラカは〈崖の上〉、トウは〈沼〉、カマは〈岩盤〉だとして、トンネの意味がよくわからない。tunne で〈気が進まない漁場〉?いや、やる気を出してもらわないと困る。to-onne-ya-us-i〈沼の大きな漁場〉あたりだろうか。文法的にはちょっとグレーだが、近くに沼があるので一考の余地がある。あるいはもっとシンプルに tanne-ya-us-i〈長い漁場〉の訛りかもしれない。
松浦武四郎はこの沼に興味があったようで、わざわざ舟を降りて見に行っている。「トウハラと云枝川有。此上に一里の計大沼有るよし。又其辺りこヽかしこに小沼多しと。上陸して是を見るに蘆しげり、少しの間も見えがたし。此沼に比目魚、アメ鱒多しと。」廻浦日記の方でも「トウパラ。右の方に沼有。凡周り一里斗なり。此落口上りて見るに芦萩鬱叢として其周不文分なり」とある。周囲が1里とは相当大きい。それが本当なら、沼端が「あいの里公園駅」や「あいの里教育大駅」くらいまで届く大沼だったろう。武四郎が訪れた際は、アシやハギなどの低木・草ばかりで、ナラなどの大木は無かったように見える。なおトウパラとは to-par〈沼の口〉の意味で、沼そのものというより、沼から流れ落ちる小川の河口を指した地名と思われる。
東区
モエレ沼
旧記には「モイレトウ」とあり、moyre-to〈静かな湖〉の意味。モエレ沼に繋がる、現在、篠路新川・雁来新川になっている流れを、かつては「モイレベツ」といった。沼は「モイレベツトー」とも描いてあるものもあり、モイレは元々は川の名前だったのかもしれない。
江戸時代の旧記にもたびたび大きな沼として出てくる。かつては札幌川の本流だった時もあるのかもしれない。なお明治20年頃の地図を見ると三日月湖である現在のモエレ沼の北西、丘珠鉄工団地のあたりにもう一つ沼があり、そちらの沼の方がモイレトウになっている。
苗穂(なえぼ)
nay-put〈河口〉 か nay-pok〈川下〉 あたりかと思ったら苗穂の由来は nay-po〈小川〉らしい。小川と言えばポンナイと呼ぶのが一般的だが、-po は子供のように親しみを込めて呼ぶときに使うようだ。さながら「川っ子」といった感じだろうか。なおポンナイポもあるらしい。
苗穂というとJRの車両基地のあるところを思い浮かべるが、現在の苗穂川はモエレ沼に向かって流れ落ちている小川。途中から暗渠になっていて水源はわからなくなっている。ただし現在の苗穂川は人工河川で古い地図には見えない流れなので、別の所にあった小川かもしれない。ナイホが小さな沼(泉?)を水源としている地図も見える。
このあたりを指す地名として モマニウシ が時々現れ、イシカリ十三場所の一つとして数えられたことがある。moma-ni-us-i 〈スモモの木が多い処〉の意味である。
伏古(ふしこ)
江戸時代中期まで「札幌川」と呼ばれる川があり、定山渓のほうから茨戸まで流れ落ちていた。上流部は今の「豊平川」に相当する。ところが寛政年間に大規模な氾濫が起こり、札幌川は大きく流れを変えて江別の対雁のほうに流れ落ちるようになった。それで新しい方の札幌川を「豊平川」、古い方の札幌川を「フシコ札幌川」と呼ぶようになった。すなわち husko-sapporo〈古い札幌川〉である。
町の名前は伏古、川の名前は伏籠と異なる漢字を当てているが、二つは同じ由来である。
丘珠(おかだま)
丘珠といえば空港のあるところである。正式名称は「札幌飛行場」だがこちらで呼んでいるところをあまり聞かない。新千歳空港に行く飛行機も行き先が「札幌」と表示されることがあり紛らわしい。
さて丘珠の由来だが、定説によると「オッカイ・タム・チャラパ」で〈男が刀を落とした所〉の意味らしい。okkay-tam-charpa〈男が刀を撒き散らかす〉。charpa は複数形動詞なので、一本ではなく何本もばら撒いたことになる。うーん、さすがにこれは無いと思うんだけどどうだろう。
データベースアイヌ語地名では o-kay-tomam-car-pa〈尻・折れる・湿地(川の)・口・の岸〉としている。これもまた凄い解釈だ。
そこまでひねらずに、丘珠の由来は o-katam-oma-i〈川尻にツルコケモモの生える所〉あたりではないかと思うのだがどうだろう。なお katam はツルコケモモに限らず、ススキとか細い草全般を指すこともある。
なお現在の丘珠川はつどーむの前を通って旧琴似川のほうに流れ落ちるが、元々の川は丘珠緑地周辺を流れる丘珠五号川に近い流れだったような気がする。
白石区
大谷地(おおやち)
現在の住所としての大谷地は厚別区に含まれるが、元々の大谷地は白石区北郷・川北・川下・米里に至るまでの広大な原野を指していた。
日本語で「谷地」というと山と山に挟まれた沢地のことを指すが、大谷地のヤチはアイヌ語の yachi〈泥地〉に由来する。平原の泥炭地でもともと海だったところが干上がってできた地形である。耕作には適さず、それどころか歩くにも難儀するような場所で、開拓には随分と苦労したようだ。
JR函館本線、かつての幌内鉄道が、苗穂駅と江別駅の間で大きく南に迂回しているのは、この大谷地を避けるためである。
厚別区
厚別(あつべつ)
アツベツなら at-us-pet〈オヒョウ楡の群生する川〉 か、滝野に「アシリベツの滝」というのがあるので asir-pet〈新しい川〉 あたりだと思った。ところがどうやら違うらしい。
清田の方にこのあたりをかなり熱心に研究されている方がいて、その調査によるともともとは「ハシュシベツ」すなわち has-us-pet〈低木の群生する川〉という音が近いらしい。なるほど、たしかに蝦夷山川図を見ると「アシユシヘツ」とあるし、札幌郡西部図では「アシベツ」となっている。
何故だか分からないが、ここに限らずアイヌ語地名は「シ」と「ツ」の交換が頻繁に起きる。「チャシ」が「チャツ」になったりする例は枚挙に暇がない。カタカナの書き間違いかと思いきや、発音の方も変化しているので、発音に聞き取りにくい独特の方言があったのかもしれない。
なお、サッポロ川の〈古い川〉と〈新しい川〉という意味で、husko-pet と asir-pet という呼び方がされることはあったようだ。
野幌(のっぽろ)
野幌といえば江別の地名だが、厚別区内を「野津幌川」が流れているのでここに含めた。町の名前は「野幌」、川の名前は「野津幌」だが意味は同じらしい。野幌の由来は nup-or で〈野原の所〉の意味。野津幌川は nup-or-o-pet〈野原にある川〉。
清田区
トンネ川
羊ヶ丘の東の住宅地を流れる川。恥ずかしながら今回調べるまでこの川名は聞いたことがなかった。なんとなく利根川を連想させる名前である。支流にポントンネ川もある。
tunni-us-nay で〈ナラの木の生える川〉。そう、トンネウス沼のときに出てきたトンネである。明治20年頃の実測切図に「トンネウシイ」とか「トンネウンナイ」などと見えるので、今度こそナラの木のトンネであったようだ。山田先生の調査によると、ここの地主の方の話で、たしかに昔から楢の木がたくさん生えていたそうだ。
豊平区
豊平(とよひら)
豊平の由来は tuy-piraで〈崩れる崖〉の意味。旧記類では「トイビラ」の形でよく見える。
豊平川といえば現在は札幌を流れる最大の川だが、かつてはこれを「札幌川」と言っていた。そして現在の豊平橋のあたりの川岸に崖があり、これを「トイビラ」といった。武四郎によると高さ一丈三四尺。およそ4mということでそれなりに高さのある崖である。今は治水工事がなされて見る影もないが、道路との高さの差はそれなりにあるので、原初のトイビラの姿を想像することはできる。
西蝦夷と東蝦夷を結ぶ銭函から勇払までの札幌越新道ができると、現在の豊平橋の所が札幌川の渡し場になり、「トヨヒラ通行屋」が置かれる。そこから豊平はこのあたり一帯を指す地名となり、後に札幌川の名前を豊平川と変えるまでになった。このトイビラの上に「札幌開祖 志村鐡一」の石碑が置かれ、この街の発展を静かに見守っている。
平岸(ひらぎし)
平岸の由来は pira-kes で〈崖の端〉の意味。旧記類にはあまり見えない地名だが、この pira〈崖〉 とは豊平の pira と同じものだろう。
傾斜量図で見ると真駒内から中の島まで精進川に沿うようにして長い崖が伸びている。かつての豊平川の流域であったところである。このほとりにあるのが平岸地区だ。
精進川(しょうじんがわ)
上記の豊平・平岸と深く関わっているのがこの精進川で、そのpiraを流れ落ちて小さな滝を成していたことに由来する。すなわち o-so-us-i〈川尻に滝がある所〉が精進川となったようである。
今も天神山の西、精進川河畔公園に「精進川の滝」という小さな滝があり、かつてはここで豊平川と合流していたようである。このあたりの調査は山田先生が熱心に行っておられた。
月寒(つきさむ)
明治期の地図では「ツキサップ」の形で見える。鉄道駅の名前も「月寒駅」である。しかし江戸時代の地図や旧記では「チキシャフ」の形で見え、こちらが原名に近かったようだ。
月寒の由来は chi-kisa-p〈我ら擦る所(火打棒)〉説と、tu-kes-sap〈丘のはずれの下り坂〉説があるらしい。
「火打棒」説は西蝦夷日誌で松浦武四郎が「チキシャブは火打の事なり。依て秦皮をチキシャニといへるなり。」と言っている。実際に月寒川の川沿いにはアカダモ(ハルニレ)の木が並んでいたそうで、ここで火打棒を拾い火を起こすために使ったと考えれば一理あるような気はする。だがそれなら chi-kisa-ni-us-pe 〈アカダモの群生地〉とでもしそうなもので、これを省略したものだと考えることもできる。
バチェラー辞典に chikisapで〈斜面、小山の坂の面〉とする項が載っている。バチェラー辞典は文法では正確性に欠く面もあるが、この辞書にしか載っていない単語がいくつもある。どうにもこれは見過ごせない感じがする。ひょっとすると chi-ke-sap〈崖の突き出たところ〉くらいの意味合いではなかったろうか。chikep〈崖〉は室蘭の地球岬でも使われている単語である。望月寒川沿いの月寒公園のあたりに長い崖が続いていて、むかしバスでその坂道を上がるときに苦労したそうだ。
隣に望月寒川が流れており、こちらは mo〈小さい方の〉月寒川である。
ラウネナイ
羊ヶ丘展望台や札幌ドームのあたりを流れる川。ラウネナイと呼ばれる川は全道に非常にたくさんあり、札幌市内だけでも少なくとも3本はあった。小樽にも2本ある。「ヲンネナイ」「ラウネナイ」といえば定番の川名である。
rawne-nay〈深い川〉の意味で、そのまま和訳したのが「深川」である。ただし何が深いのかはよくわかっていない。川の水位というより、「両岸の谷が深く切り立った谷川」ではないかとも言われ、たしかにそれが当てはまるラウネナイもあるが、月寒のラウネナイのように平原を流れるラウネナイもたくさんある。
川沿いに遡っていくと途中で進めなくなるような川をラウネナイと呼んだのではないかと仮説を立ててみたが、それぞれのラウネナイについて現地調査したわけではないので憶測の域は出ない。
南区
真駒内(まこまない)
mak-oma-nayで〈奥にある川〉の意味。豊平川は藤野のあたりで大きく西に入っていくが、真駒内川は真っ直ぐ奥の方に入って行く川である。
音の響きが似ている苫小牧、すなわち tu-mak-oma-i〈マコマイの古川〉も実は真駒内と同じ語源由来である。
簾舞(みすまい)
簾舞はちょっと思い当たらなかったので調べてみたら、昔は「ミソマップ」で、元々は「ニセイオマプ」だったとのこと。本当だろうかと調べてみたら、確かに蝦夷山川図に「ニセイケシオマプ」とある。また東部作発呂留宇知之誌には「ニセイヲマフナイ」と「ニセイトロマプ」が出てくる。
nisey-oma-p〈崖のある処〉、nisey-kes-oma-p<崖の端にある処>、nisey-utur-oma-p〈崖の間にある処〉といったところで、いずれにせよniseyの処であるようだ。
簾舞川の落口付近を見ると、豊平川の両岸が切り立つ崖になっており、それが顕著な地形として現れていた。これが簾舞由来となったニセイなのだろう。
薄別(うすべつ)
定山渓温泉街を抜け、豊平峡へと繋がる道の分岐点に信号がある。左に曲がって豊平峡の方に行くのが豊平川本流、直進して中山峠のほうに行くのが支流・薄別川である。この川沿いは古くから峠道として使われていたようだ。
頻出の us〈群在する〉という他動詞を使う場合、必ず前に何かが置かれるはずである。そう思って日誌を読んでみると、「シケルペニウシヘツ」というのが出てきて、どうやらこれが薄別川らしい。なるほど、前半部分がなぜか省略されてしまい、最後のウシヘツだけが残って薄別になったようだ。すなわちsikerpe-ni-us-pet〈キハダの木が群生する川〉の意味か。札幌郡西部図を見ると何故か「シケレヘ」「ウスベツ」が分けて書かれており、ここから省略が生じるようになったのかもしれない。
銚子口のあたりの山林を歩いたことがあるが、今は一面シラカンバの遺伝子保存林になっていて、キハダがまだ残っていたかどうかは覚えていない。
札幌
札幌(サッポロ)
札幌の由来は sat-poro〈乾く・大きい〉というのが一応定説となっているが、このように自動詞ふたつが並んで名詞がない地名というのは通常ありえないパターンである。それで sat-poro-pet〈乾く大きい川〉と pet を補って解されることが多い。記録上、札幌川(豊平川)が「サッポロベツ」と呼ばれたことは一度もなく、いつも「サツホロ」ないしそれに類する表記で”ベツ”はつかない。ただ一つだけ旧記類にベツがつく例があり、宝暦年間の伐木図に「モサツホロ別川」と出てくる。これは定山渓の小樽内川のことを指しているようである。
ほか、札幌の由来については様々な説が出てきたがどれも決定打に乏しい。
私案として、sap-oro〈山崎の所〉という説を考えた。納沙布、野寒布岬、月寒、ワッカタサップなど、sap のつく地名はいくつかあり、いずれも丘が突き出ている場所のことを指しているように見える。sap を 分解してみると sa-o-p〈前方につく所〉となり、これが原形なのかもしれない。また sapaという語は〈岬〉を表すことがある。
いくつかの旧記では、「藻岩山」のことを「サッポロ山」と称しているように思う(安政年間の公務日誌など)。藻岩山は通称「軍艦岬」とも呼ばれ、平地に対してまるで軍艦のように突き出ているのが特徴である。藻岩山の麓は「山鼻」地区であるが、かつては「山端」とも呼ばれており、藻岩山麓に入った開拓民たちによって開かれたところである。古くは上サッポロコタンが札幌中央区の一帯にあり、これが山の端のコタン、すなわち sap-or-o-kotan〈山崎の所にある古潭〉だったのだろう。すなわち「山鼻のコタン」である。
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