塩谷峠 ~7代の道路変遷~

特集

塩谷峠

塩谷峠:小樽と余市の中間あたりにある小峠

塩谷峠しおやとうげ、といってもあまりこの名前で呼ばれることはないので馴染はないかもしれない。小樽市西部の塩谷しおや桃内ももないの間にある海岸沿いの峠で、現在は塩谷トンネルが峠を貫いている。車であれば1分ちょっとで通り抜けてしまうので、あまり峠という感覚はなくなってしまった。

だがこの区間には多くの世代にわたる道路の変遷が見られるのである。それらの旧道たちのルートを見ていこう。

世代道路名竣工年概要
第0世代チャラツナイ越アイヌ時代人道
第1世代忍路山道1858/安政5人馬道
第2世代笠岩峠1880/明治13車道
第3世代桃内隧道群1932/昭和7隧道7本
第4世代笠岩・塩谷隧道1966/昭和41隧道2本
第4.5世代フルーツ街道1993/平成5隧道2本
第5世代塩谷トンネル2021/令和3隧道1本
歴代の塩谷峠越え道路
4つの世代の道路がひと目で見える

第5世代:塩谷トンネル

第5世代:塩谷トンネル(赤色)

塩谷峠は現在4つの交通路があり、多くのトンネルが掘られている。後志自動車道だけは、塩谷峠に関してはトンネルではなく切り通しで通過している。

塩谷トンネルと塩谷隧道(旧道)

塩谷トンネルは2021年竣工でまだ新しく、トンネル入り口のすぐ横に旧トンネル(塩谷隧道)が見える。トンネルの手前で国道が2車線から1車線になるので、そろそろ右に寄っておこう…などとドライバーの方は考えるところかもしれない。

第4.5世代:フルーツ街道

フルーツ街道、正式名称は「北後志東部広域農道」というが、従来のがけ崩れの危険がある区間の迂回路として整備されたバイパス道路である。既存の国道を置き換えるものではないので、ここでは4.5世代という位置づけにすることにした。今でも小樽から余市方面に行くときは、国道ではなくこちらを使う車も結構多い。小樽環状線とあわせると、朝里から仁木の然別までずっと国道に出ることなく抜けていくことができる。

文庫歌トンネル

フルーツ街道の塩谷峠区間では「文庫歌トンネル」と「丸山下トンネル」の2つのトンネルが連続している。「文庫歌」という印象的な地名が記憶に残りやすい。「丸山下」も割と古くからある地名だが、字名としての「字丸山下」は塩谷駅裏手のあたりになる。尤も塩谷丸山の山峰をずっと伸ばした先にあるのがこの丸山下トンネルなので、間違っているというわけではない。

フルーツ街道と元になった道路

フルーツ街道の忍路区間はかつて「野田通」という小さな道だったが、蘭島区間は完全に新しく道路を開いている。桃内区間は「津古丹越つこたんごし」に種吉沢トンネルを開け、そして塩谷に繋がる部分は後述の「笠岩峠」に2つのトンネルを開けたルートとなっている。

第4世代:笠岩・塩谷隧道

第4世代:笠岩・塩谷隧道

第4世代は「笠岩トンネル」と「塩谷隧道」の2本に分かれていた。2021年まで現役だったので、まだ覚えている方も多いだろう。2024年現在、まだトンネルそのものは封鎖されていない。

塩谷隧道

途中でかつてのチャラツナイ集落を通る。現在は無人の集落跡である。地図で見ると笠岩が見ることができそうだが、残念ながらここからは笠岩は見えない。

チャラツナイと笠岩隧道(左)

第3世代:桃内隧道群

第3世代:桃内隧道群

第三世代の旧々道は旧道よりもさらに海岸寄りで、「桃内第一号」から「桃内第七号」まで、実に7つものトンネル群が存在していたというのだから驚きである。

塩谷付近の海岸のトンネルを行く郊外バス/写真で見るこころの小樽
桃内第1号隧道と崩落の進む崖

このうち第5、第4は現在も辛うじて開口しているが、崩落の危険があるところである。第1から第3と第6はそこに至る道が崩落して到達できない。かつてバスが通っていたとは信じられないほどの崩落具合である。

桃内第4号隧道
桃内第6号隧道が崩れの向こう側に

笠岩を見ることができるのは第4号の前後のあたりだ。かつては観光名所としてパンフレットにも載せられていた笠岩である。ただ写真と見比べると少し細くなったような気もする。今のほうが傘というかキノコらしい形をしている。

国道5号の桃岩トンネル(桃内第4号か)/写真で見るこころの小樽
旧々道から見る笠岩

なおこの項で取り上げた場所はいずれも危険な箇所であり、訪問はおすすめはできない。

第2世代:笠岩峠

第2世代:笠岩峠(ピンク色)

第2世代の笠岩峠はまだトンネルがない時代の道路で、山峰を大きく迂回しながら登っていく。基本的なルートは国道よりも現在のフルーツ街道に近く、フルーツ街道の2つのトンネルを迂回して山の方に登っているルートとも言えるだろうか。

笠岩峠の道

現在も峠の西側は農道として残されており、夏でも快適に歩くことができる。しかし東側は廃道になっており、夏は藪が茂り歩くことも困難である。冬にスノーシューを使えばわずかに道形が残っていることを感じることができる。

笠岩峠・東側の廃道区間

第1世代:忍路山道

第1世代:忍路山道(黄色)

第1世代は幕末の安政年間に整備された忍路山道のルート。このルートに関してはほとんど史料がなく、『忍路郷土史』でもどこを通ったかわからないとされている。だが幕末の絵図と、土地連絡図を注意深く調べた所、そのルートは笠岩峠よりずっと南側に山峰を迂回していたことがわかった。

字忍路旧道と見える/『塩谷村土地連絡図』

この山道は松浦武四郎が提言したルートかもしれない。

余按ずるに運上屋より山道来るに、モヽナイえも下らず、又シホヤえも下らずして、直に此処え岡道を山の腰通り来りてもよろしかるべしと思ふ也。

『竹四郎廻浦日記』松浦武四郎

松浦武四郎がこのように「桃内にも塩谷にも下らず、忍路運上屋から直にヱナヲ峠(長橋方面)に道を開いてもいい」と提言したは安政3年。安政4年の日記ではまだ誰も通っていない。安政6年に箱館奉行が新道を通行しているので、実際の山道の竣工は安政5年か6年だったことだろう。

明治6年にホーレス・ケプロンが馬で通行しているのも時系列からするとこの道である。これより前のチャラツナイ越は馬が使えなかったので、馬が通行できるように遠回りしてでも行くルートを開いたのかもしれない。

西蝦夷地ヲシヨロ麁繪圖
絵図のルートを再現

絵図中に記載された距離を計算してみると、桃内からチャラツナイまで16町(1.75km)。チャラツナイからシヲヤ小休所まで14町50間(1.62km)/14町(1.53km)と2つの距離が記載されている。ここからすると一旦チャラツナイに降りるルートと、降りないルートがあったように思う。笠岩峠やチャラツナイ越ではこの距離を満たすことができず、この絵図は忍路山道のものと考えて間違いなさそうだ。

特筆すべき点は、峠の一番上に「塩谷小休所」が設けられたことである。幕末から明治初期にかけて、旅人の便宜をはかるためにあちこちに小休所が整備された。この小休所に関する史料はあまり残っていないが、村垣淡路守の『公務日誌』に安政6年8月9日「シヲヤ山中」で小休したとある。おそらく奉行の通過にあわせてこの小休所も整備したのではないだろうか。塩谷小休所の跡地に行ってみたが、たしかに小屋ひとつくらいなら十分に建てられそうな空間があった。

塩谷小休所跡地

地形図などには載っていないが、塩谷峠から桃内の山正踏切の手前までわずかに道形が残っていた。また峠より東側区間は「清水沢通」と市道名がついている。倒木や藪で夏に歩くのは難しいが、冬にスノーシューでいけばまだ歩くことができる。

旧忍路山道

第0世代:チャラツナイ越

第0世代:チャラツナイ越(緑色)

第0世代はチャラツナイ越、有史以来アイヌたちが利用していた踏み分け道である。アイヌ古道の特徴として、多少の傾斜はものともせず、ともかくできるだけ最短距離を直登直降することが多いが、このチャラツナイ越もまさにそのようなルート取りをしているようである。

安政3年に松浦武四郎が『廻浦日記』で通過しているのはこちらだと思われる。また安政4年には玉虫左太夫が『入北記』にて通過している。

モモナイに至る。此所小憩。また五丁斗してチャラツナイにて小憩、また十四丁行きてシヲヤと云ふ所に至りまた小憩、此間山坂多く少しく険なり、馬行叶はず。

『入北記』玉虫左太夫

桃内からチャラツナイまで5町ばかり(約550m)とは、ほぼ直線距離に等しい。ここの記述から古道のルートがほぼ直線に近かったことがわかる。また同年、石川和助の『観国録』では

モモナイに至り、又沢の丘岡に登り、瀧澤嶺を打越し再び鍋岩嶺を打越しスウヤに下り至り

『観国録』石川和助

瀧澤嶺(チャラツナイ)、鍋岩嶺(シオヤ)の2つの山を越えたとある。これはそれぞれ旧道における笠岩トンネルと塩谷トンネルの丘に相当するものだろう。鍋岩嶺は三角点:塩谷のある108mの低山で、「塩谷天狗山」とも呼ばれる。

西蝦夷地ヲシヨロ繪圖面

こちらの絵図では桃内(モムナヱ)からヲコツナヱ(浜中川)まで21町(2.3km)。これもほぼ直線距離に近く、チャラツナイ越を描いたものと思われる。

西蝦夷海岸之図

こちらの絵図はおそらく文化年間の近藤重蔵探検隊によるもの。山道が大きく山奥に入っているようにも見えるが、年代からしてまだチャラツナイ越の時代のはずである。海岸から見た道を描いているのだろう。

この最古の古道のルートを正確に記録した地図などはないが、後に「チャラツナイ街道」としてチャラツナイ集落の人々のためにも時々整備されていたようで、今も「チャラツナイ本通線」として市道認定が残されている。

チャラツナイ越。桃内からチャラツナイまでは緩やかな斜面が続く
チャラツナイ集落。一旦下ったあと、右に見える小山(鍋岩嶺)に登っていく

現地を実際に歩いてみたところ、桃内からチャラツナイの間は比較的歩きやすかった。おそらくチャラツナイ集落の人が日常的に使用していたのだろう。しかしチャラツナイから塩谷までの区間はかなり急で、玉虫左太夫が ”馬行叶わず”と言ったのも納得の斜面である。

此間山坂多く少しく険なり、馬行叶はず。さて是迄の景色甚だ快にして西シャコタンフルヒラ等の岬々を見て東北にマシケの岬を眺め、目下はアイカブと云ふ岩ありて突兀と海中へ出て其他種々の奇厳是を見れば旅中の疲労を忘るヽ程なり。

『入北記』玉虫左太夫
鍋岩嶺より。忍路、余市、古平、積丹が一望できる
鍋岩嶺より、ポンモイ岬・アイガップ岬と、かなたに見える増毛連山

この”鍋岩嶺” こと塩谷天狗山からの眺めは素晴らしいもので、余市のシリパから塩谷のアイガップまをパノラマで一望できる。そのあたりまでは旧笠岩峠の道も通っているので、景色を眺めながら昔の古道に思いを馳せてみるのもいいだろう。

おまけ:桃岩海岸の奇岩たち

桃岩

桃岩は桃内のシンボルとも言える大岩。かつては陸と繋がっていたが、軟石を掘り出しているうちに崩落して今の形になっているらしい。

桃内漁港から見た桃岩
東桃内岬から見た桃岩と積丹の山々

裏から見るとタケノコのようにも見える。

笠岩

笠岩は傘のような形をしたちょっと不思議な岩だ。よく鳥がとまっている。

笠岩
笠岩

現道からは笠岩を見ることができず、なかなかアクセスが難しい場所になっている。

ビラボケの顔岩

桃内第一号隧道を下から眺めたときに面白い岩を見つけた。なんとなく顔のように見えないだろうか。

ビラボケの顔岩
ビラボケの顔岩/兜?ガンダム?

ビラボケ 此処海岸に赤石崩山有。其形ち焔の燃立が如し。尤甚大きなると云る山にもあらず。然れども至極妙なる怪しき形をなせり。

『再航蝦夷日誌』/松浦武四郎

松浦武四郎も ”至極妙なる怪しき形” と言っている。ビラボケの顔岩と呼んでみよう。

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