sik地名
水に満ちたsik
sik という単語がある。これは「水でいっぱいに満ちた」といった意味合いで、一般アイヌ語ではよく使われるが、地名の中で使われているのはあまり見たことがない。しかしよく知られた地名のいくつかにはこの sik が使われたものがあるような感じがしたので取り上げてみたい。
sik シク 【sik】 いっぱいになる,いっぱいである. (出典:萱野、方言:沙流)
sik シク 【自動】満ちる、 いっぱいになる、 満ちている、 いっぱいである(出典:田村、方言:沙流)
萱野辞典・田村辞典
sik の持つイメージとしては、お椀いっぱいに味噌汁が入っているような感じである。ただし気をつける点として「お椀が一杯に満ちている」という意味はで取れるが、「味噌汁が一杯に満ちている」という意味合いではsikは使えない。あくまでも sik するのは中身ではなく、外側の容器である。このイメージを忘れないようにして、 sik 地名の候補をいくつか見てみよう。
祝津(シュクツ)
2つの祝津
小樽の祝津といえば「おたる水族館」のあるところで、祝津の高島岬にある日和山灯台は、小樽観光の第二のシンボルとも言えるほど、よく観光パンプレットに載るスポットである。
室蘭にも祝津がある。絵鞆岬の上端、あの白鳥大橋の根本に位置し、「室蘭水族館」がある所である。なんと偶然にも、こちらにも水族館があるのだ。
どちらも海に面した岬であり、「祝福の港」すなわち「祝津」と和名で考えても読み取れそうだが、アイヌ語由来であり、もともとは「シクツシ」に漢字を当てたものになる。
2つの祝津が似ているのは水族館だけではない。どちらも海に面して切り立った崖になっている突き出た岬である。ただ室蘭の祝津に関しては、白鳥大橋が建設された現在、その面影は消えつつある。唯一の名残として、上に展望台が設置されているくらいである。
祝津の表記
旧記類に小樽の祝津が初めて出てくるのは江戸時代前期。寛永12年(1635)の『松前蝦夷図』に「シクツシ」とあり、「シクズシ」「シシツシ」「シツクツシ」「シクツイシ」と様々なブレはあるが、17~18世紀は概ねこの「シクツシ」の形で出てくる(この時代は平仮名表記が多いがカタカナで読みやすいように統一した)。
19世紀になると、松浦武四郎が「シクジシ」としているほか、間宮林蔵や伊能忠敬は日和山のあたりに「シクトル」と書いている。シクジシはともかく、シクトルは転訛というより別の派生地名と見たほうが良さそうだ。
明治に入り、小樽の方は「祝津」と書いて「シクツシ」と読ませ、室蘭の方は「祝津志」と漢字を当てている。岬の方は「シクトツ岬」としてるのも見える。
これらからすると、小樽の祝津も室蘭の祝津も、集落名として「シクツシ」、岬名として「シクトル」となっているように見える。
ネギある所
定説(永田地名解)では、小樽と室蘭のどちらの祝津も「ネギあるところ」としている。
Shikutut シクト゜ッ 山葱 … 満山総葱◯祝津村と称す(小樽の祝津)
Shikutut シクト゜ッ 葱 … 今は無し(室蘭の祝津)
北海道蝦夷語地名解/永田方正
「満山総葱」とはなかなかの面白い表現である。しかし室蘭の方はもう無いらしい。
シクトゥッは「行者にんにく」と言われることもあるが、行者にんにくは一般に kito もしくは pukusaと言い、sikutut ないし sikutur は 「エゾネギ(チャイブ)」のことである。祝津町史によると海岸の崖上にエゾネギが生えているそうだ。
ただ植物名単体がそのまま地名になるということはあまりなく、このネギ説を取るなら
- sikutut-us-i〈エゾネギある所〉
という形になるだろう。(tuは “トゥ” に近い発音であるが、ここではわかりやすく “ツ” と書くことにする)。旧記類に「シクツシ」が多かったので、この方が近いはずだ。ただし「シクツツシ」である。ツが一つ多いのがどうしても気になる。
本当の岩崖の所
知里真志保氏は祝津に関して全く別の地名解を挙げていた。
- si-kut-us-i〈全くの岩崖ある所〉
たしかに祝津の日和山灯台の下は顕著な岩崖が形成されている。また室蘭の祝津も飛び出した岬のような形になっており、2者に共通した地形が見られることから、植物というより地形で考えるほうが可能性は高そうである。
ただやや気になるのは si〈本当の〉 という語で、これは英語の big というより、 true や main に近い意味を持っている。地名においては本流とか他と対比して目立つ場所につけられることが多く、祝津が周りと比べて凄い崖かというとやや疑問が残る。というのも塩谷からオタモイ、赤岩にかけて壮大な崖風景が広がっており、祝津はそれらに比べると ”本当の” と言えるのかどうかわからない。
水に満ちた岩崖の所
そこで今回考えたのが、si ではなく sik を使った地名解である。
- sik-kut-us-i〈水に満ちた崖ある所〉
- sik-kut-or〈水に満ちた崖の所〉
連続する子音は通常まとめられる(例:sak-kotan)。よって si-kut-us-i も sik-kut-us-i も発音はほとんど変わらない。唯一変わるのがアクセントで、siの場合は次の語にアクセントが来るのに対し、sikは先頭にアクセントが来る。祝津の古老によると、昔は祝津を「シクヅシ」と先頭にアクセントをつけて発音していたそうで、この点で裏付けがある。
また宝永元年(1704)の『蝦夷地納経記』には「シツクツシ」とある。作者の空念は独自にアイヌ語を現地で聞き取って採集しており、この表記は見過ごせない。小樽の祝津も室蘭の祝津も、水に覆われた岬に位置しており、ここでは sik を使うのが適切なような気がする。
間宮林蔵や伊能忠敬は高島岬のことをシクトル岬としており、室蘭の方もシクトツ岬とあったことから、岬の方は sik-kut-or〈水に満ちた岬の所〉と解することができる。
祝津の”シクトル岬”には金鱗洞窟や穴澗洞窟があり、水に満ちた崖の姿を見ることができる。
支笏(シコツ)
千歳と支笏湖
「シコツ」というと支笏湖を思い浮かべるが、むかしは今の千歳のことをシコツと言っていた。しかし「死骨」が連想される音は縁起が悪いということで、鶴が多いことから「千年」と改名し、後に千歳になったという。
徳川幕府が太平洋岸を直轄したときに、アイヌ語の地名の仮名書きは外国地名と誤解されてといって、日本字を用いようとしたときに、太平洋岸の現在の勇払は、有仏とも書けるしシコツは死骨で縁起が悪いというので、当時ここに鶴がたくさんすんでいたので、時の箱館奉行であった羽太正養という人が、鶴は千年の故事をとって千歳という目出度い地名に改めたのであって、元の名のシコツは支笏湖の湖の名となって、山奥に移ってしまったものである。
アイヌ語地名解/更科源蔵
シコツ(千歳)アイヌは沙流勢力のシュムクルに属する集団で、千歳・恵庭・北広島・江別あたりまでを領域としていた。石狩勢力とは別系統にあたるが、関係がなかったわけではなく、鮭の良漁場を巡って細かく取り決めを交わしていたようだ。一説によると石狩の惣大将ハウカセ亡き後は、シコツの大将が石狩を束ねたともいう。しかし幕府直轄領となり、西蝦夷と東蝦夷が分かたれてその境界が島松とされたため、シコツアイヌは分断されてしまう。
石狩低地帯の窪地
定説ではシコツは si-kot〈大きな窪み〉の意味とされ、広大な石狩低地帯、あるいは千歳市街地周辺の窪地のことだと解されているようだ。
「シコツ」は大きな窪地の意味で、もとは札幌・苫小牧間の低地帯を全体的にさしていったものであり、往時ここは天産物豊で文化の大中心地であったので、従って各地のアイヌがここに往来した。
北海道駅名の起源
千歳付近を歩いて見ると、市街地から上のあたりは、千歳川を挟んだ大きな窪地形で、英語でいえば、valleyをつくっている。それが漁の盛んな有名な場所であった。それでShi-kot(大谷間)と呼ばれ、川の名としても、土地の名としても使われたのであろう。
北海道の川の名/山田秀三
ここで千歳周辺の地形と位置関係を確認しておこう。石狩から苫小牧にかけて、「石狩低地帯」が拡がっている。石狩川の勇払川の分水嶺にあるのが新千歳空港だが、分水嶺といっても標高25mほどしかない。またかつて長都沼・馬追沼という浅くて大きな沼があり、千歳のあたりはまさに「大きな窪み」であったのだろう。
支笏湖のある山地は市街地からだいぶ離れており、よってもともとシコツが指していた場所は支笏湖ではなく、千歳市街地の低地帯である。そのシコツ川の水源にあることから支笏湖と名付けた。というのが今日の一般的な見方になっている。
シコツ山より流れる川
ところが気になる記録がある。それは江戸時代に現地のシコツアイヌ達から聞き取った、シコツの由来である。
(長都)沼を越て浅狭の清川に入り、千歳川に出つ。しこつ山より出る水にて、しこつ川といひしを、公領になりて千歳川と唱へ、山をも、ちとせ山と呼也。
未曾有後期/遠山金四郎/文化4(1807)年
千歳: シコツ山より出る古シコツ河なり。
此川は鶴多き故、川を千歳と名付けたる由なり。
入北記/玉虫左太夫/安政4(1857)年
チトセ 本名シコツ
此川上にシコツ山と云山有。又麓にシコツ沼と云沼有より流れ来るが故に、此処をシコツと云いし也
蝦夷日誌/松浦武四郎/弘化3(1846)年
全員が「シコツ山」からくる川だからシコツなのだと言っている。松浦武四郎はさらに「シコツ沼」より流れ来るとも付け加えている。定説とは順序関係が逆である。すなわち、シコツの水源だから支笏山・支笏沼と呼んだのではなく、支笏湖から流れ来るから千歳市街地一帯をシコツと呼ぶのだという。
支笏山=風不死岳
さてシコツの由来とされているこの「シコツ山」とは一体どこにあるのだろう。今日の地図には支笏山にしろ千歳山にしろ、そういった名前の山はない。シコツについての情報を集めてみよう。
- 小糸井(苫小牧)から北にタルマイ山シコツ山が見える。『入北記』
- 敷生(白老)からシコツ山タルマイ山がよく見える。『再航日誌』
- 漁太(恵庭)の蔵の上からシコツ山が見える。『再航日誌』
- 漁太(恵庭)からヲタルナイ岳タルマイ岳シコツ岳が見える。『蝦夷行程記』
- 長沼からタルマイ、シコツ、エニワ、サツホロの山々が見える『丁巳日誌』
- 石狩川を遡上すると当別太で初めてシコツ山を見る。『再航日誌』
- 千歳川はシコツ岳サッポロ岳の間より落ち来る。『再航日誌』
- ホン勇振川(勇払川水源近く)はシコツ山の麓に至る。『戊午日誌』
- 樽前山の峰はシコツ山に続く。『再航日誌』
これらの情報を統合するとシコツ山は風不死岳(1102m)であることが確定できる。特に樽前山との峰続きであるという情報はとても大きい。
風不死岳は樽前山のすぐ隣りにある山で、支笏湖に大きくせり出している。シコツの由来はこの山から流れ落ちることによるのだという。
かつて長都沼があったあたりにシコツ太(シコツ川の河口)があるので、「シコツ川」と呼ばれていた区間は今の千歳川よりもだいぶ短く、支笏湖から長都沼までの区間に限定されていたようである。現在は下流の江別川のほか、上流の美笛川も千歳川に含められている。
支笏湖の北西に「オコタンペ」という地名が残っている。o-kotan-un-pe〈河口に古潭がある所〉の意味なので、かつてのシコツコタンは旧オコタン野営場のあたりにあったのだと思われる。
千歳市街地といえば「インディアン水車」が有名で、鮭がたくさん取れる所として知られている。おそらく江別の由来はこの千歳あたりで、 ipe-ot-i〈鮭のたくさんいる所〉の意味であろう。しかし江別の地名は現在は江別太、すなわち江別川(千歳川)と石狩川の合流地点あたりになっている。このように、地名が川の河口付近に移動する例はしばしば見られる(例:サッポロ川など)。
これらからすると、先に「シコツ沼」の名前があり、それが川の名前になって、やがて千歳市全体の地名がシコツになったのだろう。しかし「千歳」と改められたことによって再び支笏は山奥限定の名前の戻ったことになる。
水に満ちた窪地
さていよいよ本題の支笏の地名解であるが、si-kot〈大きな窪み〉 ではなく sik-kot〈水に満ちた窪地〉ではないかと考えていた。kot というのは谷や窪地を表す語であるが、沼や湖をそう呼んでいる例はあまり見たことがない。だからこそ sik〈水に満ちた〉であれば可能性はありえる。sik はちょうど味噌汁の湾が一杯に水をたたえたような様子を表す言葉だ。雄大な支笏湖を見て、きっとそう呼んだのだろう。
- sik-kot-toho〈水に満ちた窪みの湖〉
toho は to の所属形にあたる。「シコツトホ」という表記も見られることからこのかたちにしたが、toho を to にしてもなんら問題はない。
なお山田秀三氏によると「シコテㇺコ・エアン・パラト」という呼び方があるらしい。
- sik-kot-emko-e-an-para-to〈シコツ川中流にある広い沼〉
の意味だと思われるが、emko は「中程」の意味なので、水源にある支笏湖がこれなのかはよくわからない。あるいは支笏湖上流の美笛川もシコツ川と見られていたのだろうか。
si-kot〈大きな窪み〉ではなく sik-kot 〈水に満ちた窪地〉である根拠に、アクセントがある。古老は「シコツ」のシの部分にアクセントを置いて発音していた。これが sikotであるなら「シコツ」のコのほうにアクセントが来るはずである。このシコツのアクセントの違いは田村辞典でも指摘されている。
そして si は big ではなく true や main の意味である。支笏湖は kot としてはやや特殊な用い方となっており、「本当の窪地」と言えるのかはわからない。
「シコツ」という地名が表しているのは支笏湖のことで、「水に満ちた窪地」の意味ではないかだろうか。
鹿部(シカベ)
駒ケ岳の麓、鹿部町
鹿部町は渡島地方の函館のすぐ北にある街で、駒ケ岳の麓、大沼の東側にある。しかしメインルートからは外れているため、函館は行ったことがあるけど鹿部は通ったことない。という人が多いかもしれない。一応、函館本線の支線・砂原線の列車が通っているが、あえて砂原回りに乗る人は少数だろう。
町で一番大きな川は折戸川で、その上流には大沼公園の大沼・小沼がある。それとは別に鹿部川もあるが、比較的小さな川になっている。
間歇泉公園が有名なところである。今はそこに道の駅ができている。
鹿部の既存の地名解
鹿部の地名の由来は諸説あり、あまり定まっていないようである。
アイヌ語「シケルペ」が町名の由来。「シケルペ」とは「キハダ(一名シコロ)のある所」の意で、イナウ(神祀る木弊)・薬用・染料他に使う貴重な木であるキハダが多い事からそう呼ばれ、後に転訛して「鹿部」となりました。
町名の由来/鹿部町の概要/鹿部町公式ホームページ
アイヌ語「シカベ」とは「あほうどり」の意。あほうどりが多かったので名付けられたものであろう。
北海道 駅名の起源
Shikebe 「荷車川」
地元での説明によると、隣に高くそびえ立っている火山の砂原岳を、この川があたかも担いでいるかのように見えるので、この名があるという。
アイヌ語地名の命名法/バチェラー
シカベ: 夷語シカウンペなり。負ふ所と訳す。シカウンとは物を負ふ事。ベとは所と申訓なり。此地内浦山、又はシカヘ山を負ておるゆへ地名になすといふ。
蝦夷地名考并里程記/上原熊次郎
と言った具合で諸説入り乱れている。今日ではシケルペのキハダ説が多く採用されるようである。ただし植物名が単体で地名になることはほとんどなく、もしキハダ説を取るなら sikerpe-tay〈キハダ林〉ないし sikerpe-us-pet〈キハダの群生する川〉などが考えられ、そういう地名なら他所にもある。
sike-p〈背負うもの〉ないし sike-un-pe〈荷物がある所〉 で「駒ケ岳を背負っている」という表現はなかなか面白い。面白いが、あまり類例は見ない。それにもしそうであれば、鹿部川よりも駒ケ岳に近い折戸川のほうが当てはまりそうだ。
水に満ちた川?
ここまで読んできた人ならなんとなくこの先の展開が予想できるかもしれない。そう、この記事では sik のつく地名について考えてきた。すなわち鹿部の意味はこうではないか?
- sik-pet〈水に満ちた川〉
なるほど、そうかもしれないし、違うかもしれない。そういえば間歇泉が有名なところであった。温泉もある。水には事欠かなそうだが……。しかし川というもの、総じてどこも水で一杯ではないか。
しかしいずれにせよ、たまたま音が似ているからと言って、すぐに結論を出してしまうのは早すぎる。もっときっちり調べる必要がありそうだ。
折戸川がシカベ川
『松浦山川図』を見ていて興味深いことに気がついた。鹿部のところに「シヽヘ」とあるほか、現在の折戸川のところに「シカヘツ」と書いてあるではないか。上流に大きな大沼が書かれているので間違いない。もしかするともともとは折戸川のほうがシカベ川だったのではないだろうか?
シユクノツヘ川
川幅七八間、歩行渡り。此の傍に温泉有る由。又川上二里にトメの湯と言うも有ると聞けども行かざれば記さず。また此処をばシカベツとも言えり。
初航蝦夷日誌/松浦武四郎
間違いない、松浦武四郎は折戸川のことを「シユクノツヘ川」別名「シカベツ」と言っている。ここで触れている「留の湯」というのはごく最近まで営業していたが、残念ながら2020年で閉業してしまった。
同様に『間宮河川図』でも、大沼の下流の折戸川のことを「シクノッペ」としている。どうやらこの シクノッペ川 がシカベの原名になるらしい。
宿野辺川
「シクノッペ」というという名前は現在もまだ残っている。折戸川の上流、大沼より上は「宿野辺川」と呼ばれているのだ。おそらくもともと折戸川全体がシクノッペ川だったが、いつしか下流部が折戸川と呼ばれるようになったのだろう。
江戸時代の史料にはオリトという地名は出てこないので、明治以降に折戸川に改名したと思われる。このオリトは一説によると「下り処」からきた和名ではないかとも言われている。
この宿野辺川は supun-ot-pe〈ウグイいる処〉と解されている。だがこう解することもできるだろう。
- sikno-pet〈水に満ちた野の川〉
この sikno は sik の派生形としてバチェラー辞典に「充ちたる / to be full.」とある。あるいは sik-nup-pet〈水に満ちた野の川〉 かもしれない。もし supun〈ウグイ〉であった場合、短縮されて「シカベツ」になった理由が説明できない。だがsik-nup-petであれば、間の nup を省いて sik-pet〈水に満ちた川〉としても意味はあまり変わらない。
鹿部大沼
この「水に満ちた」所とは一体何のことを指しているのだろうか?もちろん、それは大沼公園のことであろう。
幕末に描かれた歴検真図には「鹿部大沼」と題された絵画がある。かつて大沼公園の大沼はそのように呼ばれていたこともあったようだ。
鹿部の原名は sikno-pet〈水に満ちた川〉で、大沼公園に由来のある地名。そして「折戸川」を「シクノッペ川」もしくは「シカベツ」と呼んだ。しかしいつしかそれが忘れられてしまい、シカベの地名は河口に移動した。そしてその鹿部集落に近い小川に改めて「鹿部川」と名付けてしまったようである。これを鹿部の地名解としたい。
その他のsik地名候補
他にも sik を使った地名があるのではないかと探してみた。しかし断定できるほどのものは見つかっていない。一応検討したものをいくつか挙げておく。
敷島内(シキシマナイ)
敷島内は岩内の雷電方面にある地名。今は野塚川から雷電岬とその先のイセバチ泊までの広い地区を表す大地名になっているが、もとは敷島内神社のあるあたりの狭い地名であったようだ。
DBアイヌ語地名では siktut-oma-nay〈エゾネギある川〉と解されているが、シクツトマナイとシキシマナイではどうにも音が離れすぎている。
これも sik 地名で sik-suma-nay〈水に満ちた岩川〉あたりではないかと考えたが、肝心の「岩」がどこにあるのかわからない。というのも雷電海岸は険阻な岩だらけの場所なのに、敷島内までくると急に岩が無くなってしまい穏やかな地形になる。
あえて言うなら、鳴神の滝の風景を見てそう名付けた可能性も少し浮かんだが、どうにも根拠が薄い。そのため敷島内の地名解は保留とすることにした。名寄の北の美深にも「敷島」という地名があるので、それと比較しながら今後再検討していきたい。
色丹(シコタン)
根室の沖にある色丹島。これは si-kotan〈本村〉と解されている。
これも場合によっては sik-kotan〈水に満ちた村〉と解せなくもなさそうだ。色丹島の中心には穴澗と呼ばれる深く内部に切り込んだ湾があって、そこに今も港ができている。
ただシコタンのアクセントは「コ」にある気がするし、安易に音が似ているからといって、この説をとることはできない。定説を覆すほどの根拠は今のところ見当たらず、sik地名に含めるのは見送ることにした。
余談だが、色丹島の北には斜古潭と又古潭という地名がある。それぞれ sak-kotan〈夏の村〉 と mata-kotan〈冬の村〉 の意味である。あるいはシャコタンがシコタンになったのかもしれない。
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