軽川の由来 ~手稲の旧名~ トシリパオマナイ地名考

地名の由来

手稲の旧名・軽川

手稲駅南口

札幌市手稲区に「手稲駅」があるが、この駅はかつて「軽川駅」と呼ばれていた。明治13年に開駅して以来、手稲地区の中心的な位置づけとなり地域の発展を促してきた。同様に手稲駅周辺の手稲本町と前田地区は、昭和26年に手稲町が発足するまでは「字軽川」と呼ばれていた。

旧軽川駅舎跡

この軽川という地名は手稲駅のすぐの跨線橋の下を流れている川である「軽川」からとられた地名である。軽川と書いて「がるがわ」と読む。初見でそう読める人はほとんどいない、少し変わった地名だ。

軽川の位置

軽川 はテイネオリンピアの丘(白樺山)を水源とし、手稲駅の脇を通って、北東にほぼ真っすぐに下りてくる。護岸工事が行われ、直線化はされたものの、大まかな流路は開拓前とほとんど変化していない。

旧軽川 という名前の川が北にあるので、こちらが昔の軽川の流路と思いがちだが、明治時代はそこを追分川(ポン発寒川)が流れていて、軽川はそれより手前で合流していた。ただし炭鉱排水が引かれて追分川(中の川)が東にずれたときに一時期、旧軽川のところを軽川が流れていたことがあったと思う。また明治初期の地図を見ると、軽川と追分川の合流はもう少し下流であったようだ。

旧軽川の桜

Wikipediaから

軽川についてWikipediaにはこのように書いてある。

かつてアイヌ民族は、この川を「トゥシリ・パ・オマ・ナイ」(墓地の上手にある川)と呼んでいた。川の周辺に古墳があったらしい。後に入植した和人は夏になると干上がる川の姿から「涸川(かるかわ)」と呼び、それが訛った「がるがわ」が現在の川の名になった。

軽川 – Wikipedia 2023年4月18日 (火) 00:24版

だがこの記述にはいくつかの懸念がある。ここで言うトゥシリとは墓のことではないかもしれない。言及された古墳の位置は離れているし、軽川周辺の遺跡はアイヌ時代のものではない。そして「涸川」が「がるがわ」になったというのも誤りだと思われる。そのあたりを見ていこう。

軽川のアイヌ語地名

既存の地名解

軽川のアイヌ語地名は、河川標識に書いてある。

川の名の由来(トシリ・パ・オマ・ナイ

語源はコタンカラムイ(国作りの神)の墳陵から来ているものと思われる。形状的には、土が盛り上がったものを言う。

二級河川新川水系 軽川

トシリ・パ・オマ・ナイで tusir-pa-oma-nayトゥシㇼパオマナイ墓の上手かみてにある川」の意味。コタンカラムイという国造神の盛り上がった墓の古墳がここにあったそうだ。

コタンカラムイの墳陵

まずこのコタンカラムイの墳陵がどこにあったのだろうか。それを探す必要がある。

河川標識の文章の下敷きになった永田方正の蝦夷語地名解、通称『永田地名解ながたちめいかい』を見てみよう。

Tushir pa oma nai ト゜シリ パ オマナイ 墳頭川

「アイヌ」ハ「コタンカラカムイ」(國作神)ノ墳陵ナリト云ヒ傳フヨシ 小圓丘ニシテ栗樹其上ニ生ス 和人之レヲ「モリ」ト云フ 土を盛リ上ゲタル如キ形状ナレバナリ

『蝦夷語地名解』永田方正

土を盛り上げた小円丘で、その上に栗の樹が生えており、和人がこれを「モリ」と呼んだそうだ。アイヌ(おそらく琴似又市)曰く、それはコタンカラカムイの墳陵らしい。

花川南公園のモリ(復元)

「コタンカラムイ」という言葉にちょっと違和感があったが、これは正確には「コタンカラカムイ」らしい。なるほどそのまま kotan-kar-kamuyコタンカㇻカムイ 「国を作る神」の意味で、固有名というよりはそのまま役割を表した言葉だろう。

コタンカラカムイとは巨大な身体を持つ男性神で、村のみならず、大地モシリ人間アイヌと動物を創造したらしい。かなり大きな創造神である。そんな凄い存在の墓がここにあったというのだろうか。

砂山のモリ

永田方正によると、和人はこの丘を「モリ」と呼んだそうだ。

モリなら知っている。明治初期の地図にたびたび現れる地名で、「砂山」とも呼ばれた石狩の紅葉山砂丘の一部になっている。

札幌郡西部之図

“モリ” はかつての追分川と発寒川の合流地点にあり、現在でいうところの花川南地区、花川南小学校の裏手の位置にある。花川地区では旧樽川村と旧花畔村の境となっていた防風林が南北に貫いているが、ちょうどその付け根となっている位置である。昔からこの “モリ” は目印になっていたらしく、樽川村と花畔村だけでなく、新琴似屯田と篠路屯田の境界の線を延長すると、ちょうどこのモリに突き当たる。これは偶然ではなく、モリを基準にして土地区画を分割したのだろう。

モリの位置

文献に見える軽川のアイヌ語地名

河川標識によると軽川のアイヌ語名はトシリ・パ・オマ・ナイ(墳頭川)らしいが、本当にそうなのだろうか。松浦武四郎の日誌などを見ているとどうにも違う音で読んでいるようなので、改めて調べてみることにした。

『東西蝦夷山川地理取調図』に見える「トツフシルヲマナイ」

手稲は歩きにくい泥炭地だっただけあり、安政4年の春に銭函~発寒間に札幌越新道の前身(同年秋に道筋を修正)が仮に引かれるまで、和人はほとんど足を踏み入れたことがなかった。故に安政以前の記録はほとんどない。数少ないながらも軽川のアイヌ語名を記した史料をできるだけ集めてみた。大半は松浦武四郎の著作だが、玉虫左太夫の『入北記』など、辛うじて他者の手による記録が残っているのは救いである。

文献年代表記
間宮図1817/文化14トシリバヲマナイ
石狩場所絵図安政?トフシルヲマナイ
蝦夷海岸山道安政?トフシルヲマナイ
村山家文書安政?トフシルヲマナ井
入北記1857/安政4トツフシルヲマナイ
*巳手控1857/安政4トウシリコマナイ
*再篙石狩日誌1857/安政4トウシリコマナイ
*午手控1858/安政5トシリコマナイ
*東西新道誌1858/安政5トシリコマナイ
*東部作発呂之誌1858/安政5トブシルヲマナイ
*東西山川取調図1860/万延1トツフシルヲマナイ
官製実測日本地図1865/慶応1トツフシルヲマナイ
陸地測量部20万1892/明治25トツフシルヲマナイ
永田地名解1891/明治24トシリパオマナイ
文献に出てくる軽川(*印は松浦武四郎の著作)

先頭部分は「トシ」「トウシ」「トフシ」「トツフシ」というバリエーションがある。hもしくはpの音が入っていた可能性があり、ここからすると tusirトゥシリ「墓」と解釈するのはちょっと怪しい。

次が「シリ」「シル」と音がブレているところからすると、開音節の siri シリ ではなく閉音節の sirシㇼ の可能性が高い。rの部分はしっかり発音されないのでシㇼともシㇽとも聞こえるのだ。

中間の「パ」の音だが、安政年間の史料はことごとくをこれを落としている。しかし『間宮図』に「トシリヲマナイ」が見える。アイヌはバ行(b)とパ行(p)を区別しない。永田地名解で「トシリパオマナイ」としていたのは確かに根拠があったのだ。

最後は「ヲマナイ」と「コマナイ」があるが、omaオマ のような母音から始まる語は厳密に言えば ‘oma という咽頭破裂音になり、先頭のアイウエオが和人にはカキクケコと聞こえることがある。

笹山の方にある川

文献に見られる表記はブレがあるが、最長のもので「トツフシリパヲマナイ」。その他の表音ブレもカバーできそうなアイヌ語を考えてみた。

top-siri-pa-oma-nayトㇷ゚シㇼパオマナイ笹山の方にある川

top-sir は一般的には「トプシリ」と発音するが、道東方言で s の前にある p の音が同化することがあるので top-sir を tos-sir 、すなわち「トシリ」と発音することがある。永田方正が tusirトゥシリ「墓」 と誤解したのはこれが原因だろう。

topの発音は「トㇷ゚」だが、「トツフ」となっている文献もある。これはおそらく「トップ」であっただろう。幕末には小さな「ツ」や濁音・半濁音をつける習慣があまりなく、全て清音で書かれる傾向にある。松浦武四郎は特にそうである。同じ topトㇷ゚ を語源とする 富武士とっぷし や トップウシベツ川 という類例を見る感じ、「トプシリ」を「トップシリ」と発音することもしばしばあったのかもしれない。萱野辞典付属の音源に topsarトㇷ゚サラ「竹やぶ」が収録されているが、それを聞いてみたところ「トップサラ」とも聞き取れた。またアイヌ語はバ行(b)とパ行(p)を全く区別せず、top を「トブ」とも「トプ」とも発音する。

top-sarトㇷ゚サラ「竹やぶ」 という合成語があるのなら、top-sirトㇷ゚シㇼ「竹山」 という語があっても不思議ではない。後ろを所属形にしてtop-siriトㇷ゚シリとしてもいいかもしれない。この topトㇷ゚ は「竹」と訳されることが多いが、本州に見られるようないわゆる竹が生えていたわけではなく、この竹とは「根曲がり竹」すなわち「千島笹チシマザサ」を指す。

軽川ダム付近の笹ヤブ

軽川上流部を見ると、確かにあらん限りの笹ヤブになっている。北海道の日本海側ではおよそ標高400mほどまでがクマイザサの生息地で、それより高所ではチシマザサが多い。軽川の水源であるテイイネオリンピアの丘がおよそ標高500mで生息条件を満たしている。あいにく植物には明るくないのでクマイザサかチシマザサかは判断がつかなかったが、軽川の川沿いからテイネオリンピアの裏手にかけて多くの笹薮が広がっているのは確かだった。

pa は「頭・上手かみて・向こう」などの意味合いがある。sir-paシㇼパ で突き出た岬を表すことはよく知られている。手稲富丘が突き出た丘であることは三樽別の地名考でも述べたばかりだ。ここの場合は pa があっても省いてもそれほど意味は変わらなそうだ。いずれにせよ笹山の方向から流れてきたという意味合いだろう。この笹山とは手稲山の麓、テイネオリンピアの丘(白樺山)のことかもしれない。

テイネオリンピア聖火台

イシカリ場所の場所請負人を務めた村上伝次郎による『村山家文書』によると、「サンタラッケ(三樽別)、トフシルヲマナイ(軽川)、ヌフウトルクシヲマナイ(富丘)、ラカノチ(宮の沢)」の四箇所を「トフシル」として一地区にまとめており、このトフシルが今でいうところの手稲地区の原名であったとも言える。「此所 小山 有」とも付されている。

ということで、軽川のアイヌ語地名は top-siri-pa-oma-nayトㇷ゚シㇼパオマナイ笹山の方にある川」であっただろうと考える。

弓矢の名産地・軽川

アイヌはチシマザサを弓矢のやじりとして利用した。矢の材料となる根曲がり竹が軽川上流部に沢山生えていて、矢を作るために採取していたのだろう。それでトプシリすなわち「笹の丘」と呼んだのだ。

弓矢に関して、他にも興味深い記述が二つある。

トシリコマナイ

本名はホンシユルクヲマナイなるなり。少しばかり附子ブス有るによってなづけしものと思はる。

『東西新道日誌』松浦武四郎

松浦武四郎はトシリコマナイ(軽川)の本名がホンシュルクヲマナイだと言っている。並行記述の『西蝦夷日誌』の方では「少く鳥頭トリカブト有る澤」としている。すなわちpon-shurk-oma-nayポンシュルコマナイ「小さなトリカブトのある川」で、附子ぶすとはトリカブトの毒のことだ。

アイヌは狩りをする際、トリカブトの毒を矢に塗ってその殺傷力を高めた。このあたりの山地のトリカブトはなかなかに強力だったらしい。矢の材料である根曲がり竹と、毒の材料であるトリカブトが揃っているとは、なんとも都合のいい場所である。今でも手稲山の登山道の途中にはトリカブトが生えている。

ただし『西蝦夷日誌』ではホンシュルクヲマナイはヲタルナイに落ちる川だと言っており、ここからすると、ポンシュルクオマナイは一つ隣の稲積川である可能性はある。稲積川の水源地は軽川上流部になっているので、どちらを辿ってもトリカブト群生地にたどり着く。もしかすると軽川の別名はporo-shurk-oma-nayポロシュルクオマナイ「大きなトリカブトのある川」だったろうか。

もう一つは永田地名解で、ここにも弓矢に関する記述がある。

Ku-o pechiri nai クオ ペチリ ナイ 機弓ノ細流川

「ポンハチャム」ノ上流ニアリ 機弓ハ方言「アマポ」ト云フ 熊ヲ射ル機弓ナリ

『蝦夷語地名解』永田地名解

クオペチリナイがどこを指しているのかがはっきりはわからないが、ガルガワの項の一つ隣にあるので、このあたりであったかもしれない。

クオすなわちアマッポは一種のボウガン(仕掛け弓)で、セットしておいたトリカブトの毒付きの矢が、足元にあるさわり糸の罠に触れると自動的に発射され、熊などの獣を狩る道具である。アマッポはゴールデンカムイでも出てきたので見たことがある人もいるだろう。

アイヌの仕掛弓 (北方資料データベース所蔵)

遺跡の語る証拠

だが発音が似ている別の単語があったからと言って、直ちに既存の地名解を否定できるものでもない。あらためて永田方正の言う「コタンカラカムイの墓」説を再検証してみよう。モリの位置のすぐそばには紅葉山33号遺跡がある。

花川南公園の紅葉山33号遺跡

紅葉山33号遺跡といえば美しい文様の弓が出土したところである。この弓は先人たちの墓の副葬品として埋められていた。そしてすぐ近くの紅葉山52号遺跡では仕掛け弓の部品と思われる木片や鉄鈎が見つかっている。

文様のある弓石鏃(33号)、そして仕掛け弓(52号)。今まで検証してきた言葉の証拠品がまさにここで出土していたのだ。ここで大切なのは、これらの品々がいつの時代のものであるかということだ。

33号遺跡の美しい文様の弓。いかにもアイヌのもののようにも見えるが、これは墓の副葬品として出土したものである。この墓に眠る先人達は既に跡形もなく土に帰っており、おそらく続縄文時代。アイヌ時代よりおよそ1000年も遡った昔の墓である。そのためこれはアイヌの墓ではない。

一方で52号遺跡の仕掛け弓。52号遺跡は続縄文時代のものとアイヌ時代のものが混在している遺跡であり、仕掛け弓はおそらく中世すなわちアイヌ時代ではないかと検証されていた。他に鮭漁のための木柵なども見つかっている。

これら年代検証からすると、格式ある墓であったのはアイヌより1000年前の続縄文時代。良き狩猟・漁場であったのはアイヌ時代であったのだろう。アイヌはこの集落のことを sir-samシㇼサㇺ「丘の傍」と呼んでいた。もし著名な墓だったならば tusir-samトゥシリサム「墓の傍」 と呼んでいてもおかしくはないはずだ。同様に、トシリパオマナイも「墓の上手を流れる川」とは呼んでいなかった可能性が高い。

軽川の旧名はトプシリパオマナイ、すなわち「(矢の材料となる)笹のある山から流れる川」であったのだ。

軽川の由来

アイヌ地名の謎が解けたので、いよいよ「軽川」の地名の由来を紐解いていこう。果たしてこれは和名なのだろうか、アイヌ語地名なのだろうか

軽川は涸れ川?

軽川の由来というと、だいたい出てくるのが「れ川」説だ。これもやはり『永田地名解』から来ている。

Garugawa ガルガワ カレ

春日水アリテ夏日水無シ故ニ涸川ト呼ブ 「ガルガワ」ハ「カレカハ」の訛ナリ 原名ヲ「トシリパオマナイ」ト云フ 奥羽人始メ「ガルサワ」ト呼ビ今「ガルガワ」ト云フ故ニ軽川ノ字ヲ用フ 誤ヲ以テ誤ヲ傳フ者ト云フベシ

『蝦夷語地名解』永田方正

春は水があるが夏になると水が無くなり涸れてしまうからはじめ「カレカワ」と呼んだものが、訛って「ガルガワ」になったらしい。

しかしこれは本当だろうか?真夏に軽川を見ると確かに春に比べれば水量は少なくなっているが、すっかり涸れてしまったところを見たことがない。軽川上流部は手稲山の中腹部、テイネオリンピアと手稲ゴルフ場の広大な丘を水源地としており、それは今も昔も変わっていない。

勢いよく流れる軽川(4月)

自分は軽川沿いの学校に三年間通っていたことがあり、軽川の傍を春も夏も冬も毎朝登っていたものだが、あの川が涸れたところは一度も見たことがない。この説は何かの間違いではないだろうか?きっとどこか別の、違う川について言っていたに違いない。

手稲山口の涸川

では永田方正の言う涸れ川とはどこにあったのだろうか。春になると少し水が流れるが、夏になるとすっかり涸れてしまう川。手稲の人ならもしかするとピンと来る川が一つあるかもしれない。

すっかり涸れた山口運河(9月)

そう、山口運河である。無論、山口運河は明治30年に人工的に開削された運河なので、これ自体が方正の言う涸川だったわけではない。その川は山口運河から数百メートルほど北にある。その前に、その根拠となる『永田地名解』の記述を見てみよう。

Masara pa oma nai マサラパ オマ ナイ 前川

濱ノ方ニ在川トモ譯ス 明治十五年山口村ヲ置ク俚人「ガルガワ」ト呼ブ

『蝦夷語地名解』永田方正

従来、この記述も軽川のことを説明していると考えられてきた。だが「山口村」を置いたというのはおかしい。山口村は現在の国道337号沿い、手稲山口の山口神社のあたりを中心に山口県出身の入植者達が興した村で、その位置は軽川から1里(約4km)以上離れている。このガルガワは別のガルガワ、というよりこちらがカレカワで、たまたま名前が似ていたので永田方正が誤って軽川と同一視してしまったのだろう。

星置川下流部の流れの変化

現在、山口村には濁川が流れており、山口緑地の丘を挟んで北側に清川が流れている。清川がかつての小樽内川・星置川本流とされている。だが松浦武四郎の日誌や地図などをみると、かつては山口緑地より南側をぐるっと星置川が回り込んで流れていたようで、ホリカホシホキ(逆さまの星置川)と呼ばれていた。それがどこかの段階で山口緑地の北にあったマサラカオマプ(浜の上の川=清川)の方へ流れを変え、取り残されたホリカホシホキは涸れ川となってしまった。山口移民が開拓を始めたのはちょうどそのあたりである。

ホリカホシホキの跡?

このあたりは詳しく検証するとそれだけで一つの記事になるのでここでは割愛するが、ともかく言えることは、永田方正の言う「涸れ川」とは軽川とは関係ない、まったく別の川についての説明だった可能性が高い。では軽川の由来とは一体何なのだろうか。

アイヌ語での解釈

そのままの意味で「軽い川」としてもよくわからないし、「カルカワ」ではなく「ガルガワ」と濁音を付けて呼んでいることからすると、どうにも和名っぽくない印象がある。アイヌ語で解釈できないか考えてみよう。

例えば karusカルㇱ で「キノコ」である。karus-us-petカルスㇱベツ「茸のたくさんある川」。キノコくらいどこにでも生えているだろうから無いとは言い切れないが、根拠としてはやや乏しい。

軽川には弓矢の材料が揃っているということだった。それならば ku-kar-us-iクカルシ「弓を作る所」あたりが関係しているのではないか?そういう地名は共和町や静内など道内にしばしば見られる。これも無いとは言えないが、クカル川ではないのはどうしてだろう。

手稲のガルガワが初めて出てくるのは明治になってからで、江戸時代の記録には見当たらない。トプシリオマナイという立派なアイヌ語名があったにも関わらず、ガルガワという別の名前を付けたのは、明治以降になってからのようだ。よってアイヌ語に由来を求めるのは想像の域を出ない。

賀老の地

明治初期の地図では、軽川が「ガロガワ」と表記されていることに気がついた。例えば『札幌郡西部図』(明治6)や『札幌ヨリ銭箱新川迄地図』(明治初期)、『初寒川絵図帳』(明治10)などである。どうやら元々は「ガロガワ」だったものがいつのまにか「ガルガワ」と転訛していたらしい。

『札幌ヨリ銭箱新川迄地図』

ガロの付く地名と聞いて、思い当たるものがいくつかあった。「樽前ガロー」「賀老の滝」などである。調べてみるとどうやらこのガロ地名は道南から道央にかけてよく見られるらしく、共通しているのは明治初期頃の地図に突然出てくるということだ。しかしその意味はよくわかっていないらしい。

わかっている限りのガロ地名を列挙してみよう

  • 樽前ガロー(苫小牧市)…… 著しくゴルジュ地形が見られる
  • 賀老の滝・賀老川・賀老の渓谷・ガロ沢(島牧市)…… 巨大な滝あり
  • 賀老の沢・ポン賀老の沢・轟ガロウ沢(赤井川村) …… ライオンの滝あり
  • 賀老山・下賀老川・上賀老川(蘭越町)…… 後述
  • 賀老川・賀老橋・ガロー越沢(黒松内町)
  • 賀老川・賀老橋(せたな町)
  • 我呂ノ沢(積丹町)
  • 我路の沢(美唄市)
  • ガロー川(函館市)
  • ガロウ沢(えりも町・八雲町・厚沢部町・北斗市)
  • ガロノ沢(木古内町)(古平町)
  • ガロ川・ガロウ(奥尻町)
  • ガル川(京極町)

まさかこんなにたくさんあるとは思わなかった。北海道にはこれほど多くのガロ地名があるにも関わらず、アイヌ語地名を記した『東西蝦夷山川地理取調図』にはひとつもガロのつく川は出て来ない。ガロ地名は明治になって突然出てきた地名なのにも関わらず、その意味はあまりわかっていない。

しかしいずれにせよ手稲の軽川がるがわも、この数あるガロ地名の一つである可能性が高いだろう。他のガロ地名と同様に、アイヌ時代には出てきておらず、明治になって突然出てきた地名である。

ガリーと涸れ沢

ガロ地名が江戸時代に一つも出てこないかというとそうでもなく、実は知る限り一度だけ出てきたことがある。松浦武四郎の日誌の中でそれが説明されている。

左の方小川。人間にてガロの沢と云。ガロとは大岩峨々として尖り出たる処を此辺りの言にガロと云也。よりなづけるなり。

『丁巳日誌』松浦武四郎

これは蘭越町の目名駅の近くにある、「下賀老川」「上賀老川」の説明である。これらのアイヌ語川名として「ハナクシメナ(下を流れる目名川)」「ペナクシメナ(上を流れる目名川)」と名前がついており、パナガロー・ペナガローではない。やはりガロはアイヌ語ではなかったのだ。

松浦武四郎曰く「ガロとは大岩が峨々ががとして尖り出ている所」のことを、この辺りの方言で言うそうだ。東北地方にもガロ地名がいくらか見えることを考えると、このガロは東北方言だったのかもしれない。

樽前ガロー

樽前ガローなどのことを考えると、いわゆる「ガリ地形」の事をガロと言っていたのかもしれない。流水によって岩や山肌が侵食され、谷になっているところのことである。ガリ(gully)のことを日本語では「雨裂うれつ」 というが、しばしば「涸れ沢」もガリ地形と呼ばれることがある。

そう、涸れ沢だ。永田方正の言っていた「カレカワ」とはこれのことだったのだ。すなわち、軽川の由来がガロだと説明された時、永田氏にとってはそれは聞き慣れない言葉だったのだろう。それで意味を尋ねたところ、「ガリー、訳すと雨裂もしくは涸れ沢のことである。」と聞いたのかもしれない。それで軽川が涸れる川のことだと勘違いしてしまったのだ。そう考えると全ての辻褄があう。

軽川の滝

では軽川は本当にガリ地形になっているのだろうか。残念ながら現在の軽川は人工的な護岸工事によって固められており、原初の姿を見ることはできない。

砂防堰堤によって整備された軽川

軽川の流れる丘は、5万年以上前、手稲山の岩屑なだれによって形成されたのだという。この大規模山体崩壊の跡である地層を、軽川にかかる手稲橋のあたりで見ることができる。

この手稲橋の下に降りてみると、ひとつの滝が流れ落ちていた。上部は人工堰堤だが、下部は自然の滝である。落差はおよそ3mほど。特に名前はついていないようなので、仮に「軽川の滝」と呼ぶことにした。

軽川の滝

滝を注意深く観察してみると、流水が岩を切り裂くようにして流れ落ちていた。今でも残るガロの名残である。明治時代の地形図を見ると、軽川の上流部は丘を深く切り裂くようにして深い沢になっている。おそらく元々はもっと長い区間がこのような地形だったのだろう。

この小さな滝を見ると、その頃の険しかった軽川の姿に思いを馳せることができる。確かに軽川はガロ川であったのだ。

軽川桜つづみとテイネオリンピア

参考文献

  • 『蝦夷語地名解』永田方正
  • 『北海道の川の名』山田秀三
  • 『データベースアイヌ語地名 石狩1』榊原正文
  • 『アイヌ語地名解』更科源蔵
  • 『さっぽろ文庫1 札幌地名考』札幌市教育委員会
  • 『新川百年』新川開基百年記念協賛会
  • 『丁巳日誌』『再篙石狩日誌』『西蝦夷日誌』『東西新道誌』『東部作発呂之誌』『巳手控』『午手控』松浦武四郎
  • 『入北記』玉虫左太夫
  • 『萱野茂のアイヌ語辞典』萱野茂
  • 『アイヌ語沙流方言辞典』田村すず子
  • 『アイヌ語入門―とくに地名研究者のために』『地名アイヌ語小辞典』『分類アイヌ語辞典 植物編・動物編』知里 真志保
  • 『北海道地質百選 手稲山岩屑なだれ』石井正之
  • 『北海道ササ分布図』林業試験場北海道支場
  • 『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』中川裕・野田サトル
  • 『石狩浜「鯨」と「塚」をめぐって』いしかり暦26号/工藤義衛
  • 『石狩川沿いのアイヌ語地名(7)ハッサム・モリ・シリサム』いしかり暦34号/井口利夫
  • 『紅葉山33号遺跡』北海道石狩町教育委員会
  • 『石狩市紅葉山52号遺跡=札幌市K483遺跡』北海道石狩市教育委員会

調査にあたり「いしかり砂丘の風資料館」の学芸員の方にも色々と教えていただきました。ありがとうございます。

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