銭函村
後志国 小樽郡 朝里村 大字銭函村
銭函は小樽市の東端、札幌と石狩との境界に位置する町である。小樽中心部からは峠一つ越える必要があり、経済圏としては札幌に含まれることもある。銭函駅は幌内鉄道開業と同時に開駅した駅で、北海道で最も古い駅の一つ。
アイヌ時代はヲタスツと呼ばれ、イシカリ勢力の一部に含まれていたらしい。これに由来する歌棄という地名は未だにわずかに残っている。
明治初期に「銭函村」として発足。朝里村に編入され「小樽郡朝里村大字銭函村」となる。朝里村が小樽市に編入されると、「小樽市銭函町」となり、現在は「銭函1-5丁目」に分けられている。
銭函の由来
「銭函(ぜにばこ)」は和名由来である。古くは「銭箱」とも書いた。由来には諸説あるが、「免税のドル箱漁場」というのが一番正解に近いらしい。
ゼニハコと申すも村名にあらず、古より是所は運上金外の場所にてヲタルナイの銭箱と言ふ
入北記/玉虫左太夫
出稼ぎ漁師は通常、「二八取り」と言って漁獲の2割を運上屋に収めなくてはならなかった。だが19世紀前半は銭函に運上屋の漁場が設定されておらず、ここで獲った魚は丸ごと漁師の懐に入った。ボロ儲けのドル箱漁場、という意味でゼニバコであるらしい。銭函にはそのシンボルとしてその名の通り「銭の箱」が置かれている。
現在の銭函も小樽とは距離が離れており、日常的に銭函の人が小樽中心部に行ったり、その逆はほとんどない。小樽市の領域にありながら経済的には小樽と分かたれているあたりは、ある意味で昔と同じなのかもしれない。
行政区画のギャップ
地元民の感覚と行政区画
現在、小樽市内で「銭函地区」と呼ばれるエリアには、「銭函1-5丁目」「桂岡町」「見晴町」「星野町」「春香町」「張碓町」が含まれる。このうち春香と張碓はかつて「張碓村」と呼ばれていたところで、張碓村の字名についてはまた別の記事で扱おう。
ただこの行政区画、管理しやすいように上から引かれたものであり、住民の感覚とはかなりズレている。地元民の感覚としては、西から「張碓」「春香」「桂岡」「銭函」「星野」「工場団地」となっており、そのエリアは実際の住所表記とはかなり異なっている。
銭函4-5丁目
銭函4-5丁目に関しては石狩湾新港建設にあたり石狩町樽川村から割譲された区画である。全て工業用地で住民はゼロ。銭函町民からしてもここが銭函という感覚はない。地元民ですら「え?銭函に4丁目と5丁目なんてあったんだ」と言うくらいの認識である。おそらく銭函町民の9割以上は銭函4-5丁目の区画中に入ったことがない。
石狩湾新港はもともと小樽市主導の計画で、小樽港のサブ港的な位置づけの予定だった。この「銭函副港構想」は銭函2丁目案、3丁目案があったが、最終的には大幅に東にずれた現在の位置に決まった。しかしあくまでも小樽の港である。小樽市の区画外に作るわけにはいかないということで、なかば強引に石狩町樽川村から割譲してもらったという経緯がある。このエリアの元の住民は全員移転しており、石狩市民のなかには未だにそのことについて懸念を示す人もある。
現在の町名
銭函1丁目
かつて歌棄と呼ばれていた丘の上にある台地で、海に面しているものの海岸の降りる道はない。かつては畑が広がっていたが、昭和末ころからニュータウン建設が進み、住宅が立ち並ぶ。住所としては銭函だが、このあたりも桂岡と呼ばれることが多い。校区は桂岡小学校だが、銭函小学校に通うことを選ぶこともできる。
銭函2丁目
銭函駅周辺。狭義の銭函とはこの銭函2丁目をいう。駅前の本通は最も古くから家が並んでいたところだが、昔からの家は残っておらず、カフェなどが立ち並ぶ。線路の下と上で分かたれており、下を浜中、上を山ノ上という。
かつては駅前通りが中心街だったが、国道5号沿いにその中心は移りつつある。しかしこの銭函の国道沿いは平成期、いくつもの飲食店が新規開店しては数年以内に潰れることを繰り返しており、魔の区間とも呼ばれていた。最近はやっと安定し始めており、いくつかの店が定着しつつある。また駅前通りの方も再び活気が戻りつつある。
銭函3丁目
むかし大浜と呼ばれていたところ。御膳水通り(大山通り)から新川河口までの広いエリア。大半は工業団地か防風林からなっている。しかし通常は三丁目というとアカシア団地とはまなす団地の浜通りのことを指す。海水浴場のドリームビーチやスターセットビーチがあるのもここ。
平成中ほどに「海商」というプレハブの店舗ができて、それはやがて大型店舗を持つ会員制海鮮ストアに発展したが、その後夢が散った出来事は地元の記憶にも刻まれている。
銭函4丁目
むかし小樽内と呼ばれていたところ。住宅は一軒もなく、工場が数軒あるのみ。あとは防風林と風力発電所の立ち並ぶ「オタネ浜」という海岸や「オタネ沼」がある。なにもないところ。
銭函5丁目
むかし分部越と呼ばれていたところ。「石狩湾新港」の西側を占めており、埠頭には火力発電所、洋上には風力発電所がある。工場地帯は石狩との市境が途中で曲がっているが、これはもともと樽川運河を境界としていたからである。今は道路に合わせてまっすぐに直されている。「ハマナスブロムナード」という港湾公園があり、小樽と石狩の「絆の輪」をあらわしたオブジェがある。
桂岡(かつらおか)
かつて十万坪とよばれていたところ。昭和中ほどまでは丘の上に1面のブドウ畑が拡がっていたが、昭和後期にニュータウン開発が行われ一変した。桂岡小学校もありかつては幾つもの個人商店もあって銭函とは異なる文化圏を持っていた。
しかしニュータウンの老朽化と住民の高齢化が進み、坂の多いところともあって、昭和のニュータウン共通の問題を抱えている。とくに薬科大学が移転した影響は非常に大きく、若者が街からすっかり消えてしまった。薬科大学が6年制になると聞き、学生アパートを増設した矢先の移転発表はまさに寝耳に水である。
とはいえ桂岡十字街のラルズマートは銭函で最も賑やかなところであり、銭函経済の中心を成している。中央バスは桂岡最上部まで行く銭函桂岡線と、国道からグリーンベルトに寄る小樽桂岡線があり、高齢化した住民の大切な交通インフラとなっている。
見晴(みはらし)
かつて銭函山ノ上と呼ばれていたところの、国道より上の部分。銭函小中学校のある石山エリアと、銭函インターチェンジのある御膳水エリアに分かれている。住所としては見晴町であるが、実質的には銭函の一部として見られており、見晴という地名は店舗名などにもあまり使われない。
星野(ほしの)
かつて銭函星置と呼ばれていたところ。隣接する手稲星置や山口星置と区別するために星野と名前を変えた。近くに星観駅があり、外からの人にはよく「ほしみ」と呼ばれる。
銭函と異なる文化圏を持っており、地元住民には銭函の民という意識はない。星野の人が銭函方面に出かけることは稀で、買い物などは全て星置・手稲圏で賄われている。小樽の中でも最も小樽市への帰属意識の低いエリアと言えるかもしれない。しかし歴史的に見るとヲタルナイコタンがあったところであり、小樽のルーツとも言える場所でもある。
昔の主な旧字名
旧字名とは明治~戦前くらいまで使われていた古い住所系統で、銭函に関しても小樽市に編入されるまでは字が使われていた。しかし地番整理が行われる前で、申請してきた順にそのまま登録したので、実際に見ると字はめちゃくちゃになっている。地域のおおまかな地名である(中)字と、土地一つ一つについている(小)字が食い違っていることはザラで、それをきっちりまとめるのは難しい。唯一の公式資料である北海道市町村行政区画でも、主な字しか載っておらず、全ては網羅されていない。そこでここでは可能なかぎり昔の字をピックアップして、紹介していきたい。
旧字名と現在の町名の対比は以下のようなものになっている。細かい部分は異なるが、概ねイメージとしてはこんな感じである。
旧字名(戦前) | (戦後) | 現町名 |
---|---|---|
歌棄・沢町 | 桂岡 | 銭函1丁目 |
本村・山ノ上・稲荷町 | 銭函 | 銭函2丁目 |
浜中・谷地 | 大浜 | 銭函3丁目 |
小樽内川 | (樽川村) | 銭函4丁目 |
分部越 | (樽川村) | 銭函5丁目 |
十万坪 | 桂岡 | 桂岡町 |
山ノ上・御膳水 | 見晴 | 見晴町 |
星置 | 星野 | 星野町 |
十万坪(じゅうまんつぼ)
現在の桂岡地区。狭義の「字十万坪」は桂岡小学校の西側一帯にあたるのだが、桂岡地区全体を含めて十万坪と呼ぶ。
国道と直交する桂岡のメインストリートが「十万坪線」が呼ばれるほか、「桂岡十万坪会館」が現存する。ただほぼそのまま桂岡に置き換わっているため、地元でも使われなくなくなりつつある地名だろうか。
開拓使が10万坪以下の土地を安価で貸与し、10年以内に開拓すれば払い下げを受けることができた布告に由来する。十万坪ないし五十万坪といった地名は道内のところどころにある。
歌棄(うたすつ)
現在の銭函1丁目の東側一帯に位置する。アイヌ語のヲタスツ(ota-sut〈砂浜の端〉)に由来。もともとは海岸の地名だったが、現在は銭函川西岸の丘の上を指すようになった。銭函川河口の西側を歌棄、東側を銭函と区別して呼ぶこともある。
「歌棄町内会」が現存しており、この町内会の範囲が概ね歌棄地区にあたる。中央に「うたすつ公園」があり、今なお目に見える形での”歌棄”という地名が残るのはここだけだろうか。
かつては銭函川を歌棄川とも呼んだ。そのため旧字名の分布としては銭函一丁目全域および桂岡まで含まれる。「字歌棄山ノ上」「字歌棄野」などの派生字名が見られるが、現在使われることはない。
沢町(さわまち)
銭函川下流域の道道小樽石狩線の坂道沿いの川沿い集落。細長く狭いエリアだが、銭函の中では最も早くから開けたところだという。道道小樽石狩線のこの坂道は「さわさわロード」という愛称がついている。
- 川上 … 途中に仲の橋が掛かっているが、この東側一帯を「字川上」という。
銭函本村(ぜにばこほんそん)
銭函駅前通り。正式には「字ナシ」なのだが、ここが「銭函本村」もしくは「本通」と呼ばれる。現在も「本通町会」がある。かつて戦前に家が立ち並んでいたのはこの本通のみで、あとはぽつりぽつりと点在するのみだった。今はカフェなどが立ち並ぶ。
稲荷町(いなりまち)
銭函駅通りの東側にセブンイレブンがあり、そこから踏切に行く方面の道。そのあたり一帯が稲荷町である。稲荷町というからには銭函の稲荷社である豊足神社に由来している。だが現在の豊足神社は稲荷町にはない。かつては「スミ美容室」の向かいの丘に稲荷社と小学校があったが、鉄道路線の拡幅に伴い丘の一部を崩した。その際に稲荷も移転したようである。そのため、昔稲荷があったところという意味になる。
- 厚生 …… 稲荷町の北のシーサイドヴィレッジなどがある一帯
- 新栄 …… グリーン団地の北
山ノ上(やまのうえ)
現在の見晴町から銭函二丁目にかけて。概ね鉄道線より上側を「山ノ上」と呼ぶ。その名の通り段丘上に位置する。この「山ノ上」という字名は朝里村一帯に広く分布しているので、とくに区別して「銭函山ノ上」と呼ぶが、こちらの呼び方が直接使われることはない。
山ノ上は町内会の名前として残っている。「山ノ上町会」を分割し「東山」「西山」「扇」「山ノ上」の4つの町内会に今は分かれている。扇町は街区の形に由来している。
- 東山 …… 市民センター付近
- 西山 …… 市営住宅付近
- 扇町 …… 小学校の下付近
- 山ノ上 …… 三央ストア付近
浜中(はまなか)
銭函2丁目の浜沿い。今は「海岸通」と呼ぶことが多い。広義には谷地川河口から小樽内川河口までの広い一帯だが、一般には谷地川河口からポンナイ川河口まで。町内会としては「南浜中」「中浜中」「東浜中」「大浜」に分かれる。
- 中浜中 …… 信金周辺の浜通り一帯
- 南浜中 …… 1本中の通りからポンナイ通りまで
- 東浜中 …… 旧大山の向かいの一帯
谷地(やち)
銭函3丁目の内陸部。野地(やち)とも書き、地図ではよくこちらが出てくる。アイヌ語の yachi〈泥地〉に由来し、山間の谷という意味ではない。
昭和56年の石狩洪水の際には、このあたり一帯は水に覆われ、舟を漕ぐことができるほどだったという話を聞いたことがある。
「谷地川」という川が今も残っているが、地図からは消え、橋名標にもないため、次第に忘れられつつある地名。信金横の川は正式には「旧星置川」なのだが、紛らわしいので「谷地川」と呼んだほうがわかりやすい。現在の谷地川は線路沿いをずっと流れており、全て人工河川である。
星置(ほしおき)
現在の星野(ほしの)。星置川流域の一帯を「星置」と呼んでいたが、札幌市手稲区の星置と区別するために「星野」と名前を改めた。概ね現在の星野町と一致するが、旧星置川が谷地川のほうまで流れていったので、字名として市民センターあたりまで字星置が見える。
かつては水田地帯だったが、今は多くのニュータウンが立ち並び、住宅地となっている。銭函の中でも若い世代が多いエリアである。
大浜(おおはま)
銭函3丁目の浜沿い。とくにポンナイ川より向こう側を「大浜海岸」という。ドリームビーチまで細い車道が通っている。かつて銭函と石狩番屋を結ぶ「石狩道」という徒歩道で、松浦武四郎もこの道を5回歩いている。
正確には旧字名ではなく、銭函三丁目の旧名。小樽市に合併後の地番整理前に存在した大字。
御膳水(ごぜんすい)
国道沿いにある御膳水の祠に由来する。明治天皇がここで水を飲んだと言うが、実は当日急遽予定が押したため鉄道で銭函は通過してしまい、翌日になって親王が代わりに来たというのが真相らしい。
正式な地名ではなく、字名として存在したことはない。が、実質同じ扱いに近いのでここでは旧字名に含めている。御膳水という地名が指すエリアは三種類あり、
- 「見晴町の交差点以東の丘」(町内会由来)
- 「札樽病院周辺」(バス停由来)
- 「極東高分子の交差点の道」(市道名由来)
のいずれかを指す。地形的には連続しているのだが、それぞれ離れたエリアにあるので感覚的には別物である。見晴町の東側一帯が「御膳水町会」で、集落としてはここが御膳水エリアと言えるだろうか。
小字名
山間部の沢などの字名で、ほとんどが知られていない、ほぼ全て消えてしまった地名である。
桂ノ沢(かずらのさわ)
銭函川上流部の西岸、桂岡のかなり上の方にある。「桂岡」という地名のもととなった字名だが、この桂の沢は現在の「銭函峠川」のことを指し、浄水場からさらに1kmくらい遡ったところにある。ここを登っていくと銭函峠にたどり着く。
シコロタイ
銭函川上流部の東岸、桂ノ沢の対岸にあたる。今は使われていない銭函石山の採石場などがある。シコロとは”キハダ”でタイは”林”を意味する。すなわちシコロタイとは「キハダ林」の意味である。
「市道シコロタイ線」という道路が銭函中学校脇を通っている。そこからすると中学校周辺から自衛隊演習場の一帯をシコロタイと呼びそうな感じがするが、正確にはそこより更に山の上で、丘一つ越えた先になる。かつてここから山道が伸びていたようだが、現存していない。
松ノ沢(まつのさわ)
銭函川上流、シコロタイのすぐ南。廃屋が1軒ある。
この松ノ沢から銭函天狗山を挟んでキライチ川上流に抜ける「三笠越」という山道が古い地図には見える。峠道としては有用性が低く、明治初期の造林合資会社の地図にもあるので、造林関係の作業道にも見えるが、古くは銭函から手稲山を越えて西野の平和のまで1日で抜ける山道があったといい、その山道の名残であるかもしれない。
和宇尻(わうじり)
和宇尻とは張碓村のオーンズあたりの字名だが、実は銭函村にもかつて和宇尻と呼ばれていたエリアがあった。それは現在の桂岡町一帯で、十万坪と呼ばれる前は和宇尻と呼んでいたようである。
おそらく和宇尻山の麓という意味で、かつて定山和尚が開いた山道が桂岡の薬大の峰を通っていたことからそう名付けられたのだろう。
和宇尻とは wao-us-sir〈アオバトのいる山〉の意味である。
利分止場(りべしべ)?
旧薬大の峰のこと。古い地図に「利分場止」とあるのみで、読みも含め色々と謎の地名である。ここにかつて山道があったことや、ルベシベをリイベシベなどと呼ぶ例もあることから、 ru-pes-pe〈山道〉の意味ではないかと考えた。あるいは礼文塚のレブンに関係している可能性も否定はできない。
幕末に張碓で温泉宿を経営していた美泉定山は、奥にはもっといい温泉があると教わり、アイヌの案内で山をはるばる20kmを越えて定山渓温泉にたどり着いた。その後、定山は地元の幕府役人・葛山幸三郎の協力を得て、定山渓温泉に至る道を開いたという。その道がこの旧薬大の峰である。一度冬期に歩いてみたことがあるが、1箇所急坂があって大変だったほかは、銭函峠まで通して歩くことができた。途中の麓にワオーの森という個人が整備した自然公園がある。
歌棄山(うたすつやま)
歌棄山とは現在の銭函南岳のこと。字名としては桂ノ沢やシコロタイよりさらに上流になる。
ここでかつて温泉が見つかったことがあり、温泉開発が期待されたこともあったが、市街地からあまりにも遠すぎるので実現はしなかった。銭函鉱山が開山しマンガンなどを掘り出していたが、今は土地にわずかにその痕跡を残すのみで、目立った構造物などは見当たらない。鉱山用の道路が通っている。かなり荒れているがこの道をかつてはトラックが行き来していたようである。
相(そう)?
謎の字名。読みは「ソウ」なのか「アイ」なのか、他の読みをするのかも不明。so とはアイヌ語で〈滝〉の意味なので、ここに滝があった可能性もあるが、それを裏付ける資料はない。
位置は沢町の下の方の道路西側。「民宿まつよ」の向かい側、かつて「ショップいいだ」があったあたりである。
天狗山下(てんぐやました)
見晴町のインター交差点の山側、太田整形外科から登っていった一帯。銭函墓地と松泉学園の間あたりにあたる。「市道・天狗山下線」にわずかに地名を残すが、現地でその名前を確認することはできない。
石山(いしやま)
銭函石山の麓。銭函小学校グラウンドの脇の道をずっと登っていった先にある。地元では「石切山」とよく呼んでいたが、採石場が閉山してからは忘れられつつある地名。「市道・銭函石山線」がダム横のの看板に書いてあり、それが唯一現地で見れる石山の地名だろうか。
かつてはこの道路が石山の採石場に通じていたが、高速道路を通して橋を掛けた時にこの橋が採石トラックの荷重に耐えられないということで廃道になり、桂岡経由で採石場の道が新たに開削されている。この廃道はまだ残っていて、かつては銭函小学校の遠足コースにもなっていたが、今は登山者も含めて通る人はほとんどいない。しかしここから銭函天狗山まで登っていくルートが実はある。
キライツ
星野町の山の上、チサンCCの一帯。「キライチ川」の上流部である。アイヌ語の ciray-ot-i〈イトウのいる所〉に由来する。字名としてはかつてはキライチ川流域の一帯を指していて、国道沿いのパスコロのあたりまで含まれていたが、後に狭まりチサンCC周辺のみになった。
キライツにはかつては炭焼き小屋などがあったようである。さらにもっと遡ると、ヲタルナイアイヌの越冬古潭がこのあたりにあったのではないかと予想している。
丸山(まるやま)
金山採石場のある山。かつては300m以上あり、銭函天狗山と並んで銭函村の山として知られていたが、今はすっかり削られてしまい標高もガタ落ち。ただしほしみ駅から見える北峰は変わらぬ存在感を持つ。高速道路の上に畑が広がっているが、国道沿いに住むおばあちゃん一人で管理していた。今も元気だろうか
滝(たき)
「星置の滝」のあたり。現在も真言宗のお寺が一軒ある。かつては金山採石場のあたりの星置川西岸は全て小樽市の範囲だったが、そのあたりの住民が札幌市への編入を希望し、それが実現したため、お寺以外は札幌市になっている。しかし編入された部分にもう人は住んでいない。
ポンナイ
銭函3丁目のポンナイ川沿い。ポンナイは pon-nay で 〈小川〉の意味。この地名はかつては全道にたくさんあったが、地理院地図で残っているポンナイはこれが唯一。そして橋名標のあるような橋もないため、現地でポンナイ川という看板は見られない。「市道ポンナイ川沿戦」という看板が唯一現地で見れるポンナイの文字である。
新川通(しんかわどおり)
銭函3丁目の内陸部。現在の道央新道が通っているあたりで、「あおぞら銭函三丁目」などがある一帯。
この「新川」というのは手稲の新川のことではなく、銭函運河、すなわち現在のポンナイ川の人工河川部分のことを指している。現在はこの新川通という地名が使われることはない。
清川(すみかわ)
星置川下流部、星観緑地のあたり。字名としては「清水川」として多く見える。かつての星置川の流路として「清川」という川が残っており、わずかに地名を残す。しかしほぼ消えた地名である。スミカワ、キヨカワ 両方の読みが見える。いずれにせよ隣の「濁川」との対比であろう。
小樽内川(おたるないがわ)
現在の新川河口部。「オタナイ」「オタネ浜」とも。またここに旅人用の小休所があったことから「気楽町」と呼ばれることもあったようだ。
「オタナイ発祥の地」の石碑があるが、無人である。石狩湾新港建設の際にこのあたり一帯が小樽市に編入される際、小樽内川集落は村ごと現在の樽川地区に移転した。今は風車が立ち並ぶほかは草原が広がるのみである。
白川(しらかわ)
新川河口部東岸の少し奥まったところ。「白井川」とも。小樽内川集落と並ぶ集落がここにあった。小樽内川集落は浜沿いで水が悪く、ここにある井戸か湧き水を飲水としていたのかもしれない。
分部越(ぶんべごえ)
石狩湾新港西方の発電所があるあたり。十線の先にあることから「十線浜」とも言い、石狩市民にはこちらの呼び方のほうが定着している。分部義(ぶんべぎ)という字もあるが、表記ブレの一種だろう。アイヌ語の hunpe-oma-i〈クジラのいる所〉もしくは hunpe-moy〈クジラの入江〉に由来する。クジラが流れ着いたことがあったのだろう。
幕末に石狩運上屋がここに小休所を建てて、連れてきたアイヌを管理にあたらせるが、その手当が杜撰で彼らは飢えと病死で死んでしまう。それで別のアイヌを連れてきたが、その扱いは変わらず、松浦武四郎が繰り返し訴えたほどである。その後、分部越集落は漁師を中心に23軒102人が住んでいたが、石狩湾新港建設に伴い村ごと移転した。
川の名前
礼文塚川(れぶんづかがわ)
張碓町との境界にある川。昔は「字礼文塚」は張碓村に属していたため、今とは少し境界が変わっている。1本東の「小礼文川」がかつての村界。
礼文塚はアイヌ語のレブンノツカに由来し、rep-un-not-ka〈沖側の岬〉もしくは rep-un-nup-ka〈沖側の丘〉の意味で、いずれにせよ川というよりは春香ニュータウンの台地をことを指した地名と思われる。礼文塚そのものはホロナイ poro-nay〈大川〉とも呼んだ。
- 銀嶺沢 …… 東支流。上から伸びる林道は途中で消失。ここで熊に遭遇したことがある。
- 和宇尻沢 …… 西本流。和宇尻山から流れるからだろう。ただし和宇尻川は別にある。
桂岡川(かつらおかがわ)
銭函一丁目の中央を流れる小川。歌棄川としているものもある。国道部分は暗渠で通しているため、注意して見ないと川があることにすら気が付かないかもしれない。水源はラルズの裏側あたりにある。このラルズの敷地には「桂岡遺跡」があり、調査によると旧石器時代の遺跡ではないかと言われている。小樽でも最古の遺跡となる。時代の真偽はともかく、昔から人の活動があった場所であるようだ。
銭函川(ぜにばこがわ)
歌棄山を水源とし、桂岡の谷地を形成して、銭函駅の西方に流れ落ちる川。「歌棄川」ないし「ヤンゲノツカ/ヤウシノツカ」とも呼ばれる。
- 中学校沢(石山沢)……銭函中学校の裏
- 銭函1号沢 …… バレイシャルの裏。暗渠でほぼ見えない
- 銭函2号沢(白金沢)…… 桂岡小近くの大きな支流
- 銭函3号沢 …… 春香山登山道をすこし登ったところ
- 石山沢…… 採石場の道路の脇
- 松の沢(シコロタイ沢) …… 天狗山の真西
- 銭函峠川 …… 登山道に沿った大きな支流
- 長沢 …… 本流の最深部。鉱山のあったところ
このうち松浦図や日誌にある「ヘテウコヒ/ハンケホンナイ」は白金沢、「ヘンケヘテウコヒ/ヘンケホンナイ」は銭函峠川、「シュマクシタンナイ」は石山沢、「シノマンヲタシュツナイ」は長沢を表すと思われる。「ヘテウコヒ」は「二股」、「ハンケ/ヘンケ」は「下流/上流」、「シュマクシタンナイ」は「岩の向こうにある川」、「シノマン」は「一番奥」を意味する。
谷地川(やちがわ)
厳密に言うと「旧星置川」水系なのだが、わかりにくいので谷地川水系と呼んでいる。一時期、星置川を人工的にこちらに流していたことがあった。手稲山口住民からは反対があったり色々ごたごたがあったようだ。
- 旧星置川 …… 星観緑地を水源とする用水路。今はほとんど水は流れていない。
- 谷地川 …… JR線路を流れる用水路。洪水対策として56年洪水の後に整備
- 三吉川(谷地沢川) …… 市民センターの近くを流れる小川。語源の三吉神社は豊足神社に合祀
- 銭函学校沢 …… 銭函小学校裏。砂防ダムがあるが水はほぼ皆無である。
- 団地沢 …… 松泉学園裏。砂防ダムが2つあり、銭天登山のときに通る。水はほぼ無し
- 銭函石山沢 …… 国道から階段状に流れるのが見える。御膳水の水源となっていた。
- 銭函山の上川 …… 国道から見える。これと銭函石山沢はどうにもピンとこない命名。
- ゴンシロ川(タカノス沢) …… 道央新道の高架下を流れる。ゴンシロはおそらく人名か。
ポンナイ川
銭函3丁目のヨットハーバー横に流れ落ちる川。元々は三吉川~山の上川までを水源としており、銭函平野の水を全て集約する川であった。今は谷地川にその水を奪われてしまい、pon-nay〈小川〉の示す通り本当に小さな川になってしまった。新宮商行のほうからナナメに流れ落ちるポンナイ1号川のほうがもともとの本流で、道路に沿った直線部分は「銭函運河」の名残である。
- 銭函運河 …… 谷地川河口から石狩市役所前まで通じていた運河。山口運河、樽川運河とも
キライチ川
星置川支流。星野町を流れる川。現在は星観緑地で星置川と合流している。キライチは ciray-ot-i〈イトウの多い所〉から。江戸時代の地図に「マサラカマフ」「マサラママ」とある支流はこのキライチ川と思われる。
56年水害のときに氾濫しており、いまのつつじ団地一帯が水浸しになった。それで現在は護岸工事が行われており、鮭もあまり上まではいかなくなってしまった。
新興ニュータウン
昭和末から平成にかけて星野町を中心に多くのニュータウンが造成された。しかし年月が経つにつれてニュータウンの名前は地図から消え、その境界線も徐々に見えなくなっていくなっていくものである。一般にニュータウンは「~ヶ丘」「~台」などの瑞祥地名がつけられる傾向があるが、旧銭函村管内の名前の隠れたニュータウン群も見ていこう。だいたい公園が1つあるのが特徴。ただ筆者の記憶に基づいているため、全ては網羅できていないかもしれない。
しらかば団地
銭函一丁目、聾学校西方の台形の形をした団地。「しらかば公園」がある。
グリーン団地
銭函二丁目、新宮商行の裏手にある団地。南浜中会館のところから入る。「グリーン団地公園」があるが、遊具や看板などはなくただの空き地のようになっている。戦時中、新宮商行を狙った米軍機の爆弾が落ちたらしい。
桂岡団地
桂岡町の団地。2回に分けてニュータウン造成が行われており、小学校の西と東の縦貫道路でそれぞれ分かれている。「かつら公園」「らいらっく公園」「どんぐり公園」「ひばりが丘公園」「桂岡中央港円」「あけぼの公園」があり、公園名で大体の場所がわかる。
はまなす団地
銭函三丁目、海商の西方にある”コ”の字の通りにある団地。
あかしあタウン
銭函三丁目、能開大西方にある斜めになった団地。このあたりではかなり大規模なニュータウンで、平成初期は多くの子供達がここで育った。かつては銭小のスクールバスはここまで来ていたこともある。「ヤチダモ公園」がある。
ひばり団地
銭函三丁目、国道5号線沿いの北側。ネッツトヨタ修理工場の東方。市の資料によると「谷地川沿い団地」とあるが、「ひばり公園」があり、ひばり団地と呼ばれることが多い。地元ではかつて「一正団地」とも呼んでいたのだが、一正工場が移転した今はそう呼ぶ人もいないだろう。食品工場東方の一角は新しく造成された区画で「はちす公園」があることから「はちす団地」と呼ぶこともある。
星野団地
星野町の銭函IC東方の団地。坂道に位置している。星野地区では最も古くに造成された団地で、第二博愛コーポというなかなか年季の入ったアパートがあったのだが、解体されてしまった。「ふれあい公園」がある。
星野ニュータウン
銭函更科の裏手にある団地。星野町の団地としては規模が大きめ。平成初期は「つつじ団地」と「星野ニュータウン」がニ大団地として星野町の中核を担っていた。川一つ隔てた2つの団地は、どこかお互いライベル意識のようなものがあったようにも思う。「キライチ公園」がある。ターザンロープが人気だったが今はなくなってしまった。
翔陽台
星野町の脳天大神の向かいにある丘の上の団地。途中にある脳天大神の坂は冬になると車で通るのが怖く感じるところだった。星野ニュータウンよりも新しく、高台で眺めのいい立地でやや高級な住宅が並ぶ。公園用地が一つあり遊具もあるが名称不明。
スターヒルほしみ
星野ニュータウンと翔陽台の間にある谷地の団地。このあたりでは比較的新しい。国道へ直接降りる道は歩行者専用。小さな公園用地があるが遊具も看板もなく空地になっている。
つつじ団地
星野町の団地としては2番目に古く、つつじ団地単独で町内会を持つ(他は大部分が星野町会)。「ひろせ商店」の前の入口に「つつじ団地」という大きな看板があるのが特徴で、そのおかげか団地名も消えずに地元でもよく知られている。分譲当初は分譲前の土地につつじが植えられていたという。現在はその姿が見えない。「ほしの公園」がある。昔は大きなオレンジの滑り台があったが、今は普通の遊具になってしまった。
つつじ団地は、背後の青葉台造成の反対運動によって一度分裂を経験している。一部世帯が町内会離脱し新たな町内会を立てたが、青葉台が建設されたことにより反対運動も立ち消えて自然消滅した。
青葉台
つつじ団地の背後にある比較的新しいニュータウン。「パスコロ」の入口から入っていく一帯。つつじ団地と青葉台の境界は外の人からはわかりにくいが、地元の人はよく知っている。「ほしの丘公園」がある。青葉台で単独の町内会を持つが、銭函連合町内会には加入していない。
かつてこのあたりの沢にはニホンザリガニがたくさん生息していて、それが採れる秘密の場所が子どもたちに共有されていた。
ザ・スプリングスほしの
星野町のニュータウンでは最も新しい。しかし実は2000年頃に一度分譲したのだが、岩倉土地開発の倒産の影響で分譲がストップしてしまい、背後の不気味な旧アドバンテスト研究所もあいまって、道路が荒れ果て雑草の生えた廃墟地帯のようになっていた。
しかし2020年近くから再び分譲が再開され、今は一番新しい住宅地が広がっている。小さな公園用地がひとつある。名称不明だがGoogleMapのピンによると「星野スプリングス児童遊園地」とあった。
コメント