星野とほしみ
「星野」とは、小樽市の一番東にある住宅街で、札幌市との境界に位置している。「銭函」と「星置」の間にある集落である。
銭函と星置の間にあるのは「ほしみ」では?
多くの人はこう感じるかもしれない。JRのほしみ駅ができてから、いつの間にか星野より星観のほうが有名になっている。とくに一部の列車の始発駅・終点駅になっているので、「ほしみ」行き列車の案内が電光掲示板に現れるため、この地名は札幌中心部のほうにもそれなりに知られているかもしれない。ひらがなの駅名は北海道では珍しい。「ほしみって何処だろう」と思った人もいるだろう。しかし意外なことに、星観という住所はどこにもなく、その地名が表す領域もはっきりは規定されていない。
「星野」と「星観」、そして「星置」。このあたりに「星」のつく地名が多いのは何故だろう。その由来と歴史を簡単におさらいしてみたいと思う。
星置のアイヌ語地名
星野・星観・星置のうち、最も古い地名は「星置」である。「ホシオキ」だけはアイヌ語に由来し、残りは全て和名である。まずは最初に出てくるこの星置の地名解について考えてみよう。
ホシオキのアイヌ語地名解は定説がなく、以下のように解釈されている。
アイヌ語 | 意味 | 出典 |
---|---|---|
ソーポク | 滝の下 | 『蝦夷語地名解』永田方正 |
ペシポキ | 崖のその下 | 『北海道の地名』山田秀三 |
ペシポキ | 崖の下のもの | 『データベースアイヌ語地名』榊原正文 |
ポショポキ | 小さい滝の下 | 『私のアイヌ語地名解』浜田隆史 |
ホォソォポケ | 深い箱の麓端 | 『銭函郷土史 第一巻』 |
星置川沿いに設置された看板は、これを踏まえて「滝の下」説と「崖の下」説を併記している。
しかしホシオキの地名解に関しては松浦武四郎の手控に重要なヒントが載っている。それは既存の説とは少し異なるものだ。
ホシホキはヲタルナイに落る也。本名ソウシホキと云り。滝二ツ有と云義。
『巳手控』松浦武四郎
ホシホキと云よし。この川をもて領境とするよし。水末はヲタルナイ川に落るとかや。本名ソウシホキのよし。ソウは滝の事、ホキは並ぶと云事。此水源に小滝二ツ有と。
『再篙石狩日誌』松浦武四郎
松浦武四郎によると、本名は「ソウシホキ」で「滝が二つある」という意味だそうだ。
アイヌ語表記に直すと〈ソウシポッケ so-us-pok-ke「滝の下の処」〉だろうか。松浦武四郎「ホキは並ぶ」の意味だと言っているが、正確には〈ソso〉が「滝」で、〈ウシus〉が「群在する」、〈ポクpok〉が「下」、〈ケke〉が「処」を意味する。
昭和初期までは「ホシボッケ」という地名も見える。ソウシポッケがホシボッケになり、ホシオキに言い慣らされたようだ。
〈ソウシホキso-us-pok-i〉としたいところだが(以前も自分はそのように考えていた)、形式名詞の〈イi「処」〉は基本的に動詞の後ろにつき、名詞にはつかないという制約がある。〈ポクpok「下」〉は名詞なので〈ポキpok-i「下の処」〉とすることはできない。〈ポッケpok-ke「下の処」〉なら文法的にも問題なく、地元に実際にそういう音が残っているのだからこちらが正解であろう。
ソウシポッケは『永田地名解』の「ソーポク」と解釈はかなり近い。明治期にこれをまとめた永田方正は『再篙石狩日誌』を読んでいないはずで、松浦武四郎とは別ルートからこの〈ソーポクso-pok「滝の下」〉を聞き取ったはずだが、微妙に差異があるもののむしろ信憑性を高めている。
明治6年の『札幌郡西部図』には小さく「タキ」の文字が書かれている。「ヲタルナイ川」とは現在の星置川のことだ。開拓初期からこの滝の存在が広く知られていたことがわかる。星置はまさに「滝の下」の集落である。
このあたりの地名に多い「星」とは、「滝」のことだったのだ。
星置の二つの滝
松浦武四郎は興味深いことに、「滝が二つ有る」と言っている。この滝とはどれのことだろうか。
星置川の上流には「星置の滝」そして「乙女の滝」がある。もう一つ「金山の滝」というものあるが、これは近年発見されたものであり、おそらく二つには含まれていないだろう。いずれにせよ〈ソウシホッケ〉の〈ウシus〉は「群在する」を意味しており、複数の滝の存在を伺わせる。
「星置の滝」は雪解けシーズンにはなかなか迫力があり、見ごたえのある滝だ。高速道路の橋のすぐ上にあるので、気軽に見に行くことができる。「乙女の滝」は宮町浄水場のあたりから1km弱歩いたところにある。軽いトレッキング気分で行けるが熊がよく出るところなので注意が必要だ。乙女の滝は星置の滝ほど迫力はないものの、水の落ちる姿が美しく、よく星置のシンボルとして写真が使われている。
二つは星置の原点となる滝なので、ぜひ見に行きたい所だ。
札幌の始まりの地・星置
星置村は明治17年(1884)の広島移民の入植が始まりとされ、星置稲荷神社にある星置の開村記念碑もそれが基準となっている。
しかしそこから遡ること27年前の安政4年(1857)、箱館奉行の命により4人の幕府役人が星置の地に入った。札幌で始めて和人が入植した地が、この星置と発寒なのである。
西蝦夷はそれまで漁業と林業が全てであり、産業の基盤はニシンや鮭に頼り切っていた。ニシンを本州に売って、その代わりに米や野菜を本州から買い付ける。必然的に居住地域は海岸沿いか石狩川沿いに限定され、内陸の方には和人は全く住んでいなかった。ニシンに頼る脆弱な産業構造を変えるべく、西蝦夷でも農業を推し進める必要があった。箱館奉行は役人を派遣して現地に住まわせ、農業の試作を行わせた。これがイシカリの在住制度である。この星置は初めて西蝦夷の内陸部に、農業を目的として入植した場所ということになる。まさに札幌の始まりの地、そして石狩平野の農業の始まりの地の一つと言うことができる。
さてホシホキ川岸にも在住の宅三戸落成す。初夏の節は谷地と見受けしにかく開けばかなりの住家なり。ただしハッサブ等に比べれば開墾には少し向けしからん。ただ喜ぶべきは山間風の防ぎよろしくこの辺第一の暖地の由なり。
安政四年九月九日『入北記』玉虫左太夫
この処に去秋移りし永島・中島・中川・葛山等いふ在住人の畑地多く見る。土人の話に、大根・蕎麦・粟・黍等よく出来たり。
『西蝦夷日記』松浦武四郎
四人の役人とは葛山幸三郎・永島玄造・中島彦左衛門・中川金之助である。大根、蕎麦、粟、キビなどを畑に植えて収穫したようだ。しかし米作りに関しては、もう一つの在住地である発寒は成功したが、星置はあまり良い成果が出なかったらしい。数年のうちに葛山は張碓へ、中島・中川は琴似へ、永島は小樽内川河口へ移転してしまい、星置の農業は一旦途絶えることになる。
明治初頭に札幌本府を建設する際この星置から建材を切り出したようだし、炭焼きの小屋もあったようだ。しかし本格的な入植は記念碑にあるように明治17年を待つことになる。星置の東側地区を「稲穂」と言うが、これは稲作が成功したことに由来する。入植者達の苦労と努力の成果が窺える。
役人の在住からおよそ70年後、星置川流域には見事な黄金の水田が広がっていた。
ホシホキ在住地
幕末の安政年間におけるホシオキ在住地の様子を少し見てみよう。
安政年間の様子を描いたと思われる錦絵を、現在の衛星写真に落とし込んでみた。現在のほしみ駅のすぐ山側のあたりに位置し、星置川の両岸に役宅、小休所、稲荷などが見える。この小休所は安政6年くらいに設けられ、後に馬宿としても活用されたようである。
注目できるのは、星置川の西側、すなわち小樽側にも建物があるということである。現在同様に当時は星置川がイシカリ場所とヲタルナイ場所の境界であった。しかしこのホシホキ在住地においては、特に境界線のこだわっている様子は見られず、一つの集落として形成されていたようである。
これは松前藩による場所請負制度の分割支配から、幕領へと転じたことも関係しているかもしれない。四人の役人のうちリーダー格であった葛山幸三郎は張碓に移転し、張碓川沿いで稲作を試みている。イシカリ役所の管轄が銭函を越えて張碓あたりまでを含んでいたことがこのことからわかる。
この時から「星置」は小樽側も含めたこのあたり一帯を指す地名となっていた。
3つの星置
明治に入ると続々と開拓民が入植してくるようになったが、当初、星置は銭函と軽川(手稲)の間の一つの集落として発達していった。しかし行政区によって「山口星置」、「下手稲星置」、「銭函星置」の3つに分割され、やがて別々に文化を形成していくようになる。
明治の字 | 現在の町 |
---|---|
山口星置 | 星置、手稲山口、明日風 |
下手稲星置 | 星置南、金山、稲穂 |
銭函星置 | 星野、谷地(銭函三丁目) |
現在いわゆる「星置」と呼ばれているのはこのうち「山口星置」に相当する区画であり、他の星置は他の地名に変わっていった。とくに銭函星置は、隣の星置と明確に区別するために昭和18年、「星野」に名前を変えている。戦前までは星野も星置だったのだ。
なおこの時点では国道5号線と鉄道線路の間の、いわゆる「谷地川沿団地」地区はまだ星野であった。昭和44年の区画改正によってこの地区は銭函三丁目に編入されたが、地元住民の感覚としてはここは未だに星野であり、町内会も星野町内会に属する。
「星野」の由来についてははっきりとはわからない。しかし同じ年に、和右尻が「春香」に、十万坪が「桂岡」に、山ノ上が「見晴」に代わっているところから、「星」という語幹を残しつつも親しみやすい名前として星野としたのではないかと思われる。
星野町の発展
1960年代まで、星野町には十数軒の農家が並ぶのみだったが、70年代に星野団地が分譲されたのを皮切りに、次々とニュータウンが形成されていった。
- 星野団地
- つつじ団地
- 谷地川沿団地
- 星野ニュータウン
- 翔陽台
- 青葉台
- スターヒルほしみ
- ザ・スプリングスほしの
正確な年代は覚えていないが、概ねこの順番で分譲が行われたと思われる。バス停の「星野」が西側にあるのは最初にできた団地が星野団地だからで、バスの利用者としては星野中央のほうが多い。
この地区の分譲を行った不動産業者は岩倉土地開発だが、平成13年に民事再生の適用を受けて倒産している。そのため「ザ・スプリングスほしの」は区画整理こそ2000年初頭に行われたものの、20年ほど放置されていた。2020年代になってやっと分譲が開始され、小樽市の中でも最も新しい住宅街のひとつになっている。
星野は昔から銭函村の一画にとなっているが、星野町民には、あまり銭函の民という認識はない。学校こそ銭函小学校の校区だが、子どもたちは皆バスで通うため、隣町に通学するという印象がある。ニュータウンができたばかりの頃は、子育て世帯が非常に多く、通学バスはいつも超満員であった。星野にも小学校を、という声もかつてはあったが、実現することはなかった。
ほしみ駅
この星野町の発展と、ほしみ駅の新設は密接に関係している。
この地区の分譲を行った岩倉土地開発は、JRに新しい駅の新設を請願した。これが「ほしみ駅」である。請願駅といえば他に「サッポロビール庭園駅」や「北海道医療大学駅」などがあるが、周辺に大型施設などが無いにも関わらず、ここに請願駅を作ったのはそれだけニュータウン事業に期待していたのだろう。
しかし前述の通り、岩倉土地開発は倒産してしまい、開発計画は大きく頓挫する。未だにほしみ駅の周りは空き地になっているのも、それが関係しているかもしれない。
ほしみ駅の位置は星置川の西側にある。感覚的には星置川が小樽市と札幌市の境界になっているので、ほしみ駅は小樽市側にあるかのようだ。しかし市の境は昔の川の流れに基づいており、ほしみ駅はぎりぎり札幌市側にある。同じくこの狭間に星観緑地があり、狭義の「ほしみ」はこの川と市境に囲まれた小さなエリアと言えるかもしれない。
星野町の住民が「ほしみ」駅ができると聞いた時、大変驚いたものだ。「ほしみ」などという地名は誰も聞いたことがない。本来ならば「星野駅」でも良かったはずだ。だがそうしなかったのはここに関係していると思われる。つまりは駅の敷地があるのはぎりぎり札幌市側であり、小樽市星野町ではない。そのため別の駅名を考える必要があったのかもしれない。
星観橋とほしみ
「ほしみ」の由来は、このすぐ近くにある「星観橋」にあるようだ。
「星観橋」とは星置川の線路北側にかかる橋である。しかし現在の車道にかかる「ほしみ橋」は駅の後から新しく出来たもので、由来となった橋はその一つ南にある。現在は歩行者専用で車が通ることはできない。緑地の中にあり、ほとんど渡る人もいない小さな橋である。
誰も知らない小さな橋である。駅名が「ほしみ」というひらがなになったのは、「星観」という地名に誰も馴染みがなかったからかもしれない。星観緑地が整備された当初は誤って「せいかんりょくち」と読む人もいた。当時は「星観=ほしみ」という認識が広まっていなかったためである。「星見」と書くこともしばしばあった。
「ほしみ」という住所は存在しないが、駅名から次第に広まりつつあり、感覚的には星置通より西側を「ほしみ地区」と呼べるようである。一方で小樽市の星野町側では「ほしみ」という地名はあまり使われていない。星観はあくまでも札幌側の地名と考えたほうが良さそうだ。
星観緑地
星観緑地は小樽市と札幌市の境界にあり、銭函の工場地帯の公害から住宅地を保護するための緩衝緑地として整備されたものである。はじめはただの空き地のようなところだったが、次第に整備され、今では緑地というよりも大きな公園と言える規模である。
エゾヤマザクラや銀杏並木、そして三叉の美しい星流橋など、見どころのある場所となっている。
星野・星観・星置
星野町は星置集落の一画として始まり、星置と密接な関わりを持ち続けてきた。現在も星野に住む多くの人は、仕事や買い物を札幌・手稲圏で行っており、経済的な結びつきは強い。その反対に、小樽市内や銭函に足を運ぶことは少ない。小樽の中で最も札幌に近い町。それが星野なのである。
また星観は駅名として採用されて以来、急速に地名としての認知度を上げてきている。店の名前や養護学校の名前としても取り入れられているし、星観緑地はぜひ訪れたい場所だ。今は星置の一郊外という位置づけだが、大きいに発展の見込まれる地域である。
また星置は明日風地区の拡張もあり、手稲に迫る勢いで発展している。この三地区は比較的新しく、明るく賑やかな街であると言えるだろう。
星野を通るときに、ぜひ立ち寄ってほしいのが「パスコロ」で、ジェラートアイスが非常に好評である。このアイス屋はすぐ隣の製菓会社が自社工場の製品売り場として開店させたものだが、とても人気を博しており真夏の暑い時は行列ができるほどだ。星野の名物となっている。
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