アイヌ蜂起の歴史
アイヌの諸豪勇時代
アイヌ史というとどんなイメージがあるだろうか。
ひどく虐げられ、差別されてきた日々…。確かにそれも歴史の1ページではあるが、もちろん初めからそうだったわけではない。江戸時代中期以降、アイヌは和人の場所請負制度によって酷使され、やがて文明の滅亡へと向かっていくことになるが、それは戦いに敗れた結果という見方をすることもできる。
ではそれ以前のアイヌ社会はどのようなものだったのだろうか。知里幸恵氏の言うように、「天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた」のだろうか。そういう時代もあったのだろうが、江戸幕府中期のアイヌ社会は「諸豪勇時代」で、ある種の”戦国時代”であったとも言えるかもしれない。多くの叙事詩で語られることから「ウエペケレ時代」とも呼ばれる。
日本の戦国時代においては、数々の武将や大名たちが現れ、それぞれ自分の土地を支配し、その領土を広げるべく闘争や交渉を繰り返していた。アイヌ社会の諸豪勇時代もそれに近いもので、多くの宝を持つ華々しい大酋長が地域を支配し、アイヌ同士で狩場を巡って争っていた。多くの砦が築かれたのもそのためである。余市に日高の沙流アイヌが攻めてきたという伝承もある。
しかし内地の戦国時代と異なるのは、その終焉は力ある武将の天下統一によってではなく、外部からの侵入によって終わりを告げたという点にある。
例えるなら南蛮貿易のためにやってきたポルトガルやイスパニアに、そのまま乗っ取られてしまった未来。彼らは鉄砲や南蛮文化という多くの力と富と知識をもたらしたが、その圧倒的な科学力によって日本は植民地化されてしまった……。そんな戦国時代ifを考えてみるのも面白いものだが、アイヌ社会における諸豪勇時代はちょうどそれに近い形で終わりを迎えたと言えるだろう。すなわち松前藩という貿易相手に、徐々に侵食され、やがて完全に支配されてしまったのである。
もちろん彼らは何も抵抗せずに支配を受け入れたわけではない。和人とアイヌの最大の戦いがあのシャクシャインの戦い(寛文蝦夷蜂起)で、北海道全土で起きた最大の蜂起であった。この戦いを岐路にアイヌと和人の力バランスが大きく傾くことになる。
和人とアイヌの戦争はそれから120年後のクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で終わりを迎える。この戦いを最後にアイヌの隷属は決定的になり、やがてひとつの文明としての滅びを迎えることになる。
知られざる戦い
クナシリ・メナシの戦いは国後島と根室地方で起きた戦いである。すなわち東蝦夷地の最終戦争になる。では西蝦夷地はどうだったのだろうか?シャクシャインの戦い以降、もう抵抗することはなかったのだろうか。その点について語られることはほとんどない。それで西蝦夷地版の最終戦争とも言えるかもしれない一つの蜂起に注目してみたい。
江戸時代に小樽でおきた 寛保のオタルナイ蜂起 は、一般の教科書どころか歴史研究家たちの間でもあまり知られておらず、話題としてとりあげられることもほとんどない。
この乱についてはあまりにも史料が少なすぎて、その詳細は全くと言っていいほどわからない。しかしよく調べてみると、小樽の、そして西蝦夷の歴史において重要な転換点となっていた可能性があるので、明らかにしていきたい。
三大蜂起
寛保のオタルナイ蜂起は、寛文蝦夷蜂起(シャクシャインの戦い)や寛政蝦夷蜂起(クナシリ・メナシの戦い)とは別物である。名前がよく似ていて紛らわしいので、時系列に整理してみよう。
年代 | 戦い | 蜂起地 |
---|---|---|
1457/長禄1 | コシャマインの戦い | 道南中心 |
1643/寛永20 | ヘナウケの戦い | 島牧・瀬棚 |
1669/寛文9 | シャクシャインの戦い | 東西蝦夷地 |
1742/寛保2? | *寛保オタルナイ蜂起 | 小樽・西蝦夷 |
1789/寛政1 | クナシリ・メナシの戦い | 国後・根室 |
1868/慶応4 | オタルナイ騒動 | 小樽(和人) |
コシャマイン、シャクシャイン、クナシリ・メナシの3つの戦いは、アイヌの三大蜂起とも呼ばれ、よく知られている。なお名前が似ているので参考までに「オタルナイ騒動」も挙げてみたが、これはアイヌではなく和人による蜂起になる。
三大蜂起のうちコシャマインの戦いは室町時代の応仁の乱の頃に起きたものであり、江戸時代中期に起きた他の2つとは少し時代背景が異なる。コシャマインの戦いを中心とした室町時代中期を「前期大闘争時代」、シャクシャインの戦いを中心とした江戸時代中期を「後期大闘争時代」と呼ぶこともある。寛保オタルナイ蜂起はこの後期にあたり、寛文蝦夷蜂起(シャクシャイン)と寛政蝦夷蜂起(クナシリ・メナシ)の間に起きた戦いである。
クナシリ・メナシの戦いを最後に、アイヌの諸豪勇時代は終わりを告げたと言われているが、これは東蝦夷地の蜂起であり、小樽や西蝦夷には直接的には関係がない。西蝦夷の諸豪勇時代が事実上終了したのは寛保年間に小樽で起きたこの戦いが契機かもしれず、北海道の歴史において重要な位置を占めている可能性がある。よってこの寛保オタルナイ蜂起は研究の価値が十分にあると言えるだろう。
シャクシャインの戦い
オタルナイ蜂起について触れる前に、まずその前提となる寛文のシャクシャインの戦いの経緯について簡単に振り返っておこう。
シャクシャインの戦いは、最初からアイヌ対和人の戦いだったわけではなく、アイヌ同士、すなわち静内アイヌ(メナシクル)と沙流アイヌ(シュムクル)による、アイヌ同士の領有権争いから始まったものだった。シュムクルの酋長オニビシがメナシクルの酋長を殺害すると、酋長の座を継いだシャクシャインがその報復としてオニビシを殺害する。そこでシュムクルは松前藩に助力を頼みに行くが、その途中で使者が病死してしまい、これを松前藩に謀殺されたと考えたシャクシャインは敵対していたシュムクルと手を結び、今度は松前藩を倒しに行く。
東蝦夷のアイヌは長万部の国縫で戦闘を続けたが、鉄砲の数で劣るアイヌ軍は徐々に敗色が濃厚になり、静内まで退却、和睦に見せかけた酒宴の席でシャクシャインは松前藩によって謀殺されてしまう。
蜂起の呼びかけはやがて西蝦夷にも伝搬し、寿都から浜益までのアイヌたちが、現地にやって来た和人の商人や漁師に襲いかかり殺害する。石狩のハウカセは石狩川河口に300もの小屋を建てて徹底抗戦の構えを見せるが、結局西蝦夷アイヌは松前藩とは大きな戦火は交えることなく蜂起は終わった。
これ以降、西蝦夷地で蜂起が起きたという記録は伝えられていない。次に挙げる寛保のオタルナイ蜂起を除けばであるが。
寛保オタルナイ蜂起
現代の文献から
寛保オタルナイ蜂起とはどのようなものだったのだろうか。現代の文献において、この蜂起について触れているものはほとんど無い。『小樽市史』その他さまざまな文献をあたってみたが、なかなか発見できていない。
『新北海道史年表』のなかでちらっと触れられているのを見つけた。
寛保年間(1741~1744年)
小樽内のアイヌ蜂起、時に岩内乙名シノミはこの反乱鎮圧の功により領主よりワジマという名を賜ったという
『新北海道史年表』昭和63年発刊
また児童向けの郷土副本である『小樽のおいたち』ではもう少し詳しく書いている。
(シャクシャインの乱の)その後七十年ほどして、また小樽内のアイヌがそむき、岩内アイヌは殿様のいいつけで平らげました。
小樽内のアイヌは、アイヌの一番大切なたからもの、クワガタを場所のもち主の氏家様という、えらいさむらいに、さし上げました。
『小樽のおいたち』昭和42年発刊
寛文蝦夷蜂起より約70年後に小樽内アイヌが蜂起し、岩内アイヌがそれを平定、知行主である氏家の殿様が宝物を取り上げたのだという。いずれも、次に挙げる松浦武四郎の日誌を元にした説明だろう。
岩内の日誌から
江戸時代にこの蜂起について記録しているのは、知る限り松浦武四郎ただひとりである。松浦武四郎が初めて西蝦夷を訪れたのは弘化3(1846)年で、寛保元(1741)年よりおよそ100年後。蜂起の当事者は既に居ないが、ぎりぎり口伝で伝わるくらいの時間経過だろうか。ただし岩内・小樽・白老の三箇所でこの蜂起について聞き取っているので、信憑性はある程度高いと思われる。
寛保の蜂起について直接的に触れているのは、岩内の記録のみ。まずそれをはじめに見てみよう。
私曽祖父シノミ義は、寛保年中ヲタルナイ土人蜂起しける時、是を鎮静せし
『西蝦夷日誌3編』松浦武四郎
岩内の酋長セベンケが語ったことによると、小樽内アイヌが蜂起したときに、セベンケの曽祖父シノミが乱を鎮静したらしい。
蜂起が起きた年代を「寛保年中」(1741-1744)と明示しているのはこの『西蝦夷日誌』が唯一の史料である。西蝦夷日誌は後に編纂された紀行書であり、現地で見聞きしたことをそのまま書いた旅日誌とは少し性格が異なる。ではこの記述のもととなった旅日誌である『志利辺津日誌』の方も見てみよう。
此シユクセエヘンケルと申候は、昔しヲタルナイにて蝦夷乱の時、奥地の者不残蜂起して松前へ出んとせし故、此者一人にて差留候よしにて、頗る強豪にて有しとかや。
『志利辺津日誌』
概ね同じことを言っているが仔細が異なる。
起きた年代
まず「シノミ」ではなく子の「シユクセエヘンケル」だと言っている。また年代を「寛保」ではなく「昔」としている。つまり現地では単に「昔」としか聞かなかったというわけだ。起きたのは本当に”寛保”なのだろうか。”寛文”の書き間違い、すなわちシャクシャインの戦いのことを言っているのではないだろうか?
それを確かめるために、岩内酋長セベンケの家系図が載っていたのでそこから計算してみた。
- ①シノミ→②シユクセエヘンケル→③シアニ→④ヲトルメ→⑤セヘンケ→⑥クヱトヱ
安政4(1857)年当時の酋長セベンケ(当時33歳)から、シユクセエヘンケルは3代前、シノミは4代前ということになる。3代か4代となると大雑把に見積もっておよそ100年前くらいになるのではないだろうか。110余年前の寛保年間は十分に考えられる範囲である。それに対してシャクシャインの戦いの寛文9年は188年前。4代で乗り切るには長すぎる時間であり、ここからすると”寛保” が “寛文”の間違いとは考えられない。
この話は岩内アイヌの酋長セベンケから聞き取ったものであり、彼らが元号の年代まで記憶していたとは考えにくいことから、松浦武四郎が後から調べた結果として寛保という年代が浮かび上がってきたのだろう。昔の出来事を記した松前藩の史料なども読む機会があったのかもしれない。
蜂起の規模
「奥地の者残らず蜂起して松前へ出んとせし」とあるのも興味深いところである。乱の詳細について触れているのはこの一文のみである。この文章からすると、どうにもヲタルナイ場所が単一に蜂起しただけには留まらなかったようにも見える。
先の寛文蝦夷蜂起の際には、東蝦夷の蜂起に呼応する形で歌棄磯谷アイヌが呼びかけたところ、岩内・余市・祝津・浜益あたりまでが蜂起に応じている。石狩や道北アイヌも直接参加はしなかったもののその動向を追っている。
”奥地”というのは神威岬以北の西蝦夷地のことだろうか。寛文蝦夷蜂起の後に神威岬以北を女人禁制にして、定住を禁じたことはよく知られている。岩内から見ると積丹半島や余市・小樽などは奥地である。また石狩川流域も含んでいた可能性も考えられる。
”松前へ出んとせし”とあるのも非常に興味深い。先の寛文蝦夷蜂起の際には、西蝦夷アイヌたちはまず自分たちの場所に来ている和人の商人や漁師や鷹狩などを殺し、乱の終了後には松前まで200名あまりの軍勢を率いて出向いた。が、結局弓を交えることはしなかった。この度も松前に攻め込むべく動いていたようである。しかしそれが実現する前に鎮静されてしまう。
蜂起の鎮静と褒美
”是を鎮静せし”、”此者一人にて差留候よし” とあるように、この蜂起は岩内のシノミの家によって鎮静させられたようである。シノミ家が、もともと岩内アイヌの酋長だったのか、この蜂起のあとに乙名に据えられたのか、ここからでは読み取れない。
シノミ家は蜂起の鎮圧に協力した勲功として松前藩から多くの褒美を貰ったようである。
松前様よりソウヅケを賜ひ、其外太刀・短刀・金の鶏等を貰ひ、名をワジマと被仰付候て、代々持来り
『西蝦夷日誌3編』松浦武四郎
其者の代に此ソウツケは切開しと云伝えたり。
此の者え松前家より其勲功を賞して、ワシマと名を呉られしとかや。其名今に残りて、代々東地の土人はセヘンケの家をさしてワシマと唱せり。家には宝多く有し由なるが、今は皆人間にとられ、珍器と云ものさして無由也。又黄金の鶏等も有しが、是は子ヲトルメの代に、フルウ領のカフトの山に隠し置失へりとかや。
『志利辺津日誌』松浦武四郎
上が後に書かれた紀行文で、下が旅日誌である。
いずれにせよ大きく分けて3つの褒美を貰っている。ひとつは和島の姓で、名字を名乗れることは和人の間でもとても名誉なことだった。シノミ家が賜ったワジマの名は東蝦夷地にまで届いていたという。
倶知安については記述が食い違っているようにも見える。前者では松前様から貰ったことになっているが、後者では自分たちで切り開いたようである。この点に関してはもう一つの史料も見てみよう。
岩内惣乙名セヘンケなるものの先祖ワシマといへるは東西に名を得し志れ者なるが、(中略)、其よりイソヤ、アフタの土人に談じ、上、下小舟の通行する処を宝物を差し出して買い求め、子孫今に持伝えへるとかや。
『東西蝦夷場所境調書』松浦武四郎
倶知安の漁場に関して、磯谷アイヌや虻田アイヌと交渉し、宝物を差し出して買い求めることによって土地の権利を得たらしい。おそらく松前藩から貰った宝物を使ったのだろう。この記述から、当時のアイヌが自分達で漁場の所属を決めていたこと、交渉手段として宝物を用いたことがわかる。
松前から貰った宝物の中には、太刀や短刀がある、堀株川河口のアイヌの墓からは太刀が数本出土しており、この記述を裏付けるものとなっている。
また「金の鶏」もあったようである。ただ後の記述では鶏ではなく「金の兜」とも伝えている。
また兜ともいふ。此形兜に似たる故號く。昔し又金の兜を岩内の乙名隠し置、其在所を子孫に傳えず死せし故號くとも云り。
『西蝦夷日誌3編』松浦武四郎
泊村の兜岬の由来についてである。この宝を兜岬に隠したようだ。泊村のカントリーサインはこの兜を模したものになっている。
実際の宝は鶏だったのだろうか、それとも兜だったのだろうか。実際に出てきたわけではないので真相は知る由もないが、当時のアイヌの価値観を考えると、おそらく”兜のような物”だったのではないかと推察できる。それはすなわち、アイヌの至高の宝・鍬形である。
至高の宝
小樽内の日誌から
松浦武四郎が小樽に初めて訪れた弘化三年の日誌に、乱のことがちらっと触れられている。
むかしは此処氏家只右衛門と申人之給所に有しより也。今は本領に相成候事。
其頃此処の夷人争乱之事有て此処へしづめに来りし時、其詫として夷人共より取帰りし由と云鍬先と云もの今氏家に在り。
則其鍬先の事初編に志るし置ばこヽに略しぬ。
『再航蝦夷日誌』松浦武四郎
まず小樽内場所が氏家只右衛門の給与地であった時に争乱が起きたと述べている。『氏家履歴書』によると、四代目氏家只右衛門直之は寛延3(1750)年に死去しており、これは乱が起きたという寛保年間(1741-1744)と時期が重なる。よって乱が起きたのは寛保というのはやはり間違いないだろう。
そして争乱を鎮め、その詫びとして小樽内アイヌから鍬先を取り上げたそうである。
この鍬先とは農耕道具の鍬のことかと思った。だがどうやら違うらしい。初編すなわち初航蝦夷日誌を参照してみることにした。
白老の日誌から
昔より金の鍬先と申ものを祭るより言り。其鍬先とかものは長弐尺斗にて銅にて如此と図を描いて送られたり。昔時は蝦夷地に所々有しと聞が今は纔六、七ヶ所のみになりし。
中にも此所は至而名高き故、勤番通行の人も是を見ん事と夷人に乞れけるが、夷人は甚迷惑がり候。
『初航蝦夷日誌』松浦武四郎
「金の鍬先」というのは、長さ2尺(60cm)ほどの、祭りに使う道具でたいへん名高いものだが、今は蝦夷中でも6~7箇所にしかないらしい。鍬先とはもともとは、和人の持っていた「兜の装飾部分」だったようである。様々な研究によると、アイヌの宝の中でも特に重宝されたもので、力ある酋長だけが持つことのできた権力の象徴でもあったようだ。
ただ和人がその宝を見たがるのでアイヌは迷惑がっているらしい。なお松浦武四郎は松前城に住む氏家六郎右衛門の家で現物を見たようだ。
氏家氏の持てる処の品は西部ヲタルナイより取来りし由聞り。
右ヲタルナイは氏家家の領所なりしと。公料より以前は其領分の蝦夷共より私共は殿様の領分に相違は御座りませぬと云証拠に、其宝物を何なりとも奉りしものなり。
『初航蝦夷日誌』松浦武四郎
乱を平定された後、「小樽内は氏家様の領地に間違いありません」という証として、この鍬先という至高の宝物を差し出したらしい。さぞかし無念だったろう。
見つかった鍬形
さて、このアイヌの至宝・鍬形であるが、なんと小樽で実際に発掘されている。小樽博物館の運河館にいまも展示されているというので見に行ってきた。
小樽市内のどこかで道路工事の際に発見されたものらしいが、残念ながらその具体的な場所はわからないようである。しかし間違いなくこれは鍬形だろう。
氏家氏から無事返してもらったのだろうか?はっきりしたことはわからないが、松浦武四郎のスケッチと多少デザインが異なるので、別の個体かもしれない。しかしいずれにせよ小樽に鍬形を有するほどの有力な酋長が居たことは明らかである。
隠された宝
この鍬形、なぜか土の中に埋まっていることが多いらしい。霊力が強すぎるゆえに普段は埋めておいたのではないかと言われている。ただ松浦武四郎は、なぜ埋めていたのかを古宇の項で記していた。
昔し又金の兜を岩内の乙名隠し置、その在所を子孫に伝えず死せし故號くとも云り。
何れか是也。土人は惣て宝物を山に隠し、我子にも教えず置、死期に子に教ゆる習はしなるが、若し頓死するや、是を教えず空しくなせし事往々有るなり。其と云もの、宝の在るを和人ども知るや盗み、また防人ども役威をもて貪取ことあるが故、其宝を秘し置習はしとなりし也。(中略)
土人の物を隠すは、彼地于役の者、又運上屋等が悪き故、国家の宝を土に埋め、動作ば子孫にも知らし得ずして空く土中に朽ちさす事有、是土人の愚なると心得れど、左にあらず、和人ども土人の宝を貪んと欲するより、何時となく此弊出て、国家の宝を空しく土中に廃棄する事出来初し也。
『西蝦夷日誌3編』松浦武四郎
和人はアイヌの宝を欲しがって、それを盗んだり奪い取ったりするので、そうされないように国家の宝物を土の中に埋めておく風習ができたのだそうだ。我が子にもその場所を伝えず、そのまま朽ち果ててしまうこともあったらしい。
小樽内の鍬形を氏家氏が奪い取ったこと、そして土の中に埋まっていたことはいずれもこの記述と一致する。
博物館に保管されているこの鍬形は、想像以上に大切なものだったようだ。
惣大将と規模
乱の詳細
話を寛保のオタルナイ蜂起に戻そう。この戦いの詳細について記した史料はいまのところ見つかっていない。それで何か情報が残されていないか調べていたところ、興味深い史料を見つけた。
『蝦夷商賈聞書』は蝦夷各地の知行主や産物などを記した書で、シャクシャインの戦いから70余年とある。ちょうど寛保元年がシャクシャインの戦いから72年であるから、寛保年間に書かれたものである可能性が高い。
この書の後半に、シャクシャインの戦いの経緯について述べている部分がある。だがよくよく読んでみると、少々奇妙なところがあることに気がついた。もしかするとこれは寛保のオタルナイ蜂起に触れたものではないかと考えたのだが、その前にまず比較のため、シャクシャインの戦いの詳細について見ていこう。
津軽一統志から
寛文のシャクシャインの戦いについては『津軽一統志』という史料が詳しい。津軽藩の密偵が蝦夷地の戦況について密かに調査したもので、隠蔽体質だった松前藩の治世を外側から暴くものとなっている。
この史料から、特に西蝦夷地での被害状況と、アイヌの大将の名前を取り出してみよう。
上の国にて殺され候人数覚
おたすつにて弐人、いそやにて弐拾人、しりふりにて三拾人、余市にて四拾三人、へるひりにて拾八人、しくしつにて七人、ましけにて弐拾三人
都合百四拾三人相果る
『津軽一統志』
この記述によると、歌棄・磯谷・尻深(岩内)・余市・古平・祝津・増毛(浜益)で合計143人の和人が殺されたそうだ。加えて、石狩では1人も死者を出していないことに注目したい。
石狩狄大将ハフカセ申候は、去年も我々は”しやも”一人も殺不申候得共、松前殿我々をかたきに被成候間、通し殺申候義無用の由にて返申候由
『津軽一統志』
石狩アイヌの大将ハウカセは、「我々は1人も和人を殺していない」と断言している。
西蝦夷のアイヌ酋長たちは忍路や積丹に集まってたびたび話し合い、津軽藩とも交渉をしている。様子が『津軽一統志』に詳しく記録されている。
蝦夷商賈聞書
『蝦夷商賈聞書』の末尾に記されている和人の被害は次のようなものである。
浜マシケト申所人間拾四人乗皆死ス。扨又大将ヱシヤウコルアイノト扨并の所アツタ拾二人乗皆死ス。大将ノ名カムイシンネと申。扨石川拾六艘ノ舩数ニテ二百人之余死ス。尾樽内ベツテトロト申蝦夷大将也。シクツイシ大将イクマイン拾四人乗不残死ス。ツコタン大将チセトモアイノト申拾二人乗皆死ス。与市上下両所也。上与市大将ヲウウシト申、下与市大将ヌンバウシ舩ニテ三拾人死ス。古平大将コハシタイン此所ニテ拾四人松前者ト庄内加茂塩越ノ者共乗合死ス。飛国大将シヤウヤクルト申拾二人乗皆死ス。シヤコタン大将セミタケ是モ八人乗死ス。フルウト申所ヱムコルアイノ十三人乗死ス。岩内大将アキタト申近年迄存命拾年ハカリ跡ニ死、上乗共ニ十四人皆死ス。尾田スツツ大将ツマカウシト申、此所拾七人乗内壱人松前ノ者兵左衛門ト申者山隠居テ助帰ル。スツツ此所ノ舩迯帰ル、嶋子巻・セタナイ・フトロ・臼ベチ、是蝦夷ニ一味不致。
『蝦夷商賈聞書』
山に隠れて助かった歌棄の兵左衛門を除き、実に436人の和人が西蝦夷で殺されている。これは一般に言われるシャクシャインの戦いの死者(273人)や、クナシリ・メナシの戦いの死者(71人)よりもずっと多い。
蝦夷商賈聞書と津軽一統志の比較
『津軽一統志』と『蝦夷商買聞書』に記されている、寛文のシャクシャインの戦いにおける西蝦夷の被害状況と大将の名前を比べてみよう。
場所 | 津軽一統志 | 蝦夷商賈聞書 |
---|---|---|
歌棄 | イコチマイン | ツマムカウシ |
磯谷 | (?) | (?) |
岩内 | カンネクルマ | アキタ |
古宇 | (カンネクルマ) | エムコルアイノ |
積丹 | ウテメシケ | セミタケ |
美国 | シヤチンヤケイ | シヤウヤクル |
古平 | (?) | コハシタイン |
上余市 | ハチロウエモン他 | ヌンバウシ |
下余市 | キイヤタ | ヲウウシ |
忍路 | (?) | チセトモアイノ |
祝津 | トマヒル | イクマイン |
小樽内 | (ヨロタイン) | ベツテトロ |
石狩 | ハフカセ | (?) |
厚田 | ― | カムイシンネ |
浜益 | (?) | エシヤウコルアイノ |
増毛 | ― | カシマイン |
場所 | 津軽一統志 | 蝦夷商賈聞書 | (償い) |
---|---|---|---|
歌棄 | 2 | 16 | 0 |
磯谷 | 20 | 0 | 10 |
岩内 | 30 | 14 | 325 |
古宇 | 0 | 13 | 25 |
積丹 | 0 | 8 | 35 |
美国 | 0 | 12 | 10 |
古平 | 18 | 14 | 122 |
上余市 | 43 | 0 | 49 |
下余市 | – | 30 | 354 |
忍路 | 0 | 12 | 0 |
祝津 | 7 | 40 | 76 |
小樽内 | 0 | 0 | 0 |
石狩 | 0 | 200余 | 200 |
厚田 | – | 20 | 0 |
浜益 | 23 | 40 | 100 |
増毛 | – | 17 | 30 |
計 | 143人 | 436人 | 1336色 |
2つの表を見てどうだろう。津軽一統志と蝦夷商賈聞書ではあまりにも違いすぎるのではないだろうか。(参考までに支払った償いの量も記した)
被害者数は前後することがあったとしても、大将の名前が全く一致していない。”カンニシコル”が”カンネクルマ”と呼ばれたり、カナ表記の多少のブレはよくあることだが、この名前の違いは、表記ブレの域を越えており、まったくの別人のようにも見える。
また場所の名前に注目すると、「マシケ」が一つだったのが、「マシケ(増毛)」と「浜マシケ(浜益)」に分かれている。「アツタ」も新たに出てきている。厚田場所が置かれたのは宝永3(1703)年とも言われている。また「尻深」だったものが、「岩内」に変わっている。
そして何よりも「我々は1人も和人を殺していない」と豪語していた石狩で、なんと200人以上も死んでいるではないか。
加えて、この史料では西蝦夷の被害については詳しく書いているものの、東蝦夷の和人の被害についてはほとんど触れていない。
これはもうまったく別の戦いについて述べているような気がする。しかもほぼ全員大将が入れ替わっているとすれば、それなりの年代が経過している可能性がある。
小樽の惣大将
尾樽内ベツテトロト申蝦夷大将也
『蝦夷商賈聞書』
注目できるのは、オタルナイのベツテトロだけが「蝦夷大将」と書かれていることである。彼がこの乱の惣大将だった可能性がある。アシリパの遠いご先祖様にあたるかもしれない。
『津軽一統志』においてオタルナイは「ヨロタイン持分」、すなわちハッサムを本拠地とし、石狩下流域を勢力としていた発寒アイヌのヨロタインの一領域に過ぎなかった。それが西蝦夷の惣大将に躍り出ているのである。石狩の大将の名が挙がっておらず、オタルナイの死者数も記載がないことから、このときは石狩下流域のアイヌはオタルナイを本拠地としていたのかもしれない。あるいは石狩下流域には8人の乙名がいたから省略したのだろうか。
この戦いにおけるアイヌ側の惣大将はオタルナイの大将ベツテトロが務めた可能性があり、ゆえに史料に記載されている数字や大将に関しては、実は寛保オタルナイ蜂起について記したものだったのではないかと疑っている。
ただこの史料の前後の文脈を読む限りはシャクシャインの戦いについて述べているという事は改めて念を押しておきたい。『蝦夷商賈聞書』は寛保年間に書かれたものなので、数字や乱の詳細はシャクシャインの戦いのものでも、酋長名に関しては寛保年間のものを記載している可能性はある。いずれにせよ、これらの数字や酋長の名前は研究の価値があるものになるだろう。
小樽アイヌの本拠地
大将とチャシ
惣大将ともなるような有力なアイヌ酋長ならば、それなりの拠点を持っていたと考えられる。
例えば岩内の大王カンネクルマは、現在の泊村茶津に砦を持っていた。再航蝦夷日誌に「むかし此処に蝦夷大王の城有しと云伝ふ」とある。
また石狩の大将ハウカセは空知の浦臼あたりを本拠地としていた。その名残として茶志内という駅がまだ残っている。
余市の大将も天王山チャシを持っており、そこで沙流アイヌの侵攻を凌いだという。
ウエペケレの伝説にチャシはつきものである。
小樽の酋長
では小樽のアイヌはどこを本拠地としていたのだろうか?
『蝦夷商買覚書』によると小樽内は石狩川から「十八里」とあるので、寛保年間はすでに銭函から運上屋を移していた可能性がある。
小樽の酋長に関して、こんな話が伝わっている。
(朝里アイヌの美女が熊に殺されてしまったので、熊を捕らえ殺し八つ裂きにしようとしていた)
この情報を耳にしたのは、当時クマウスに本居を据ゑてゐたオタルナイ一帯の酋長であった。それは山のオヤヂに対してあまりに非禮な事である。我々同族は昔から熊に対して熊祭まで催して、その禮を盡してゐるではないか(中略)
餘憤容易に治まらざるアサリアイヌは、仲々肯じようとしないので酋長は、然らば我家に傳來の寶刀五十本あり、これを汝等に分與すべければ、その熊の屍を我に譲れよと再三説得、漸く彼等の承諾を得、寶刀五十本を我家より取り寄せて彼等に與へ、酋長はその熊の屍を我家に運んだ。
『北海道の口碑伝説』
オタルナイ一帯の酋長はクマウスを本拠としていたそうである。そして熊一頭の亡骸と引き換えに、「宝刀50本」を差し出したとあるから、たくさんの宝を持つ有力者だったのだろう。口伝の伝承故にある程度の誇張はあると思うが、興味深い記述である。
熊碓とは現在の東小樽、桜町と船浜町のあたりだ。ここに船浜遺跡がある。船浜遺跡からはアイヌ期の内耳鉄鍋、陶磁器や刀子などが出土しており、この熊碓に威信ある人物が埋葬されているという考古学的裏付けもある。
小樽の城跡
さてこの熊碓にはもう一つ伝説がある。
ヲタルナイのクマイシと言処を過。此処源義経の城趾と言伝たり。堀跡ともいふへき所など見ゆる。
『蝦夷島巡航記』寛政10
熊碓に「源義経の城跡」と言い伝えられている場所があったというのである。一行は船の上からこれを見ている。これが書かれた寛政10年(1798)は寛保オタルナイ蜂起(1742)から56年ほど後にあたる。
平山裕人先生によると、源義経伝説はシャクシャインの戦いの後に急速に広まったのだそうだ。もともとアイヌの英雄だった者を源義経に置き換えることで、和人支配の正当性を引き出そうとしたようである。もしそうであれば、この”源義経の城跡”が小樽アイヌの本拠地であった可能性が高い。
ではそれはどこにあるのだろうか?現在の小樽市にはチャシ跡が少なくとも9つある。そのうち東小樽エリアにあるのは桜チャシ一つである。朝里川西岸の望洋台東公園にそれはある。トライアル朝里店の対岸あたりである。
ただこの桜チャシ、海岸より1.5kmほど奥まったところにあり、海から見ることはできない。船の上から堀の跡まで見えたそうだからもっと浜に近い位置にあったのだろう。チャシとは一般に高くて見通しの良い場所に造られる。となると候補は必然的に絞られてくる。
小樽アイヌの拠点とした砦は、平磯岬の上にあったのではないだろうか?平磯岬はアイヌ語でクマウシリパ。平磯岬の上には銀鱗荘という立派な旅館が建っており、まるで城のような形をしている。もっとも銀鱗荘の建物自体はもともと余市の山碓のほうにあったものだが、その前を通る山越道はアイヌ時代から既に存在していた。平磯トンネル横にある長昌寺の坂は、昔はオタルナイアイヌの砦に繋がる坂道だったのかもしれない。
宝物を埋めた場所
前述したアイヌの至宝・鍬形。小樽博物館に展示されているものはどこから出土したものか不明であるとのことだった。
わかっていることは「小樽近郊で」「昭和2年頃」「道路工事の際に」たまたま出てきたものなのだそうである。それだけでは情報が少なすぎるが、小樽内アイヌの本拠地が熊碓周辺だったとすると、少し場所を絞ることができるかもしれない。
ちょうど昭和2年8月、旧朝里村では熊碓村と朝里村を繋ぐ海岸道路が竣工している。平磯岬から朝里川河口まで、それまであった熊碓百間柵を取り除いて崖を削り、道路としたそうである。この区間、当時はまだ朝里村大字熊碓村で、小樽市の領域には入っていなかった。朝里川上流の水源地から水を引く対価として、小樽市にこの道路を引いてもらったという経緯がある。現在は廃道になっているが、一度歩いたことがある。
「小樽近郊で」「昭和2年頃」「道路工事の際に」という3つの条件を見事に満たしていることから、ひょっとするとこの船浜町の崖地から出土したものではないかと考えている。
なお余市アイヌの異星北斗は宝物とがけ崩れの言い伝えを残している。
昔、この村の人々が、蔵から宝物を出して虫干しをしているときに、村の愚かな若者が「やーい、レブンカムイ、こんなにたくさんの宝物、お前はもってないだろー!うらやましいだろ!」と自慢してしまい、レブンカムイの怒りを買って、ザンザラケップの背後の崖がゴロゴロと崩れて、村は全滅してしまった。
『ザンザラケップとは/違星北斗研究会』
このザンザラケップとは小樽の銭函近郊なのだという。
時代背景
松前の享保の改革
なぜオタルナイで蜂起が起こったのだろうか。その理由は記されていないが、時代背景を見ていくことでその原因を考察していこう。
江戸では徳川将軍の直系の血が途絶え、紀州の”暴れん坊将軍”こと徳川吉宗が将軍の座についた。彼の行った享保の改革は教科書にもよく出てくる。
全くの偶然だが松前藩でも直系の血が途絶えてしまい、急きょ傍流から養子を迎え当主に据える。6代目藩主・松前邦広である。邦広は精力的に藩政改革を進め、米収入のないゼロ石藩であった松前藩の財政を大幅に改善した。藩の財政を「貿易」から「税収」へと移行させ、この時代に松前藩の立ち位置は大きく転換点を迎えている。これが松前の享保の改革(1716-1743)、それが始まったのは寛保オタルナイ蜂起(1742)よりおよそ25年前である。
この改革のお陰で、松前邦広が家督を継いだ時点ではわずか1500両しかなかった藩の金庫が、邦広が没する頃には16500両にまで増えていた。ここだけを見ると驚くべき名君であったと言えるだろう。
商場知行制から場所請負制
邦広が積極的に推し進めたわけではないが、ちょうどこの頃、各場所では「商場知行制」から「場所請負制」へと移行している。
商場知行制とは松前藩の家臣が知行地としてその場所の貿易の権利を得たものだが、家臣たちは現地の蝦夷地にはほとんど行かず松前で暮らしていた。やがて家臣たちは蝦夷地の漁場の運営を商人たちに任せ、その運上金だけを受取るようになる。これが場所請負制度である。
商場知行制から場所請負制の移行とは、侍から商人へと実権が移ったことになる。侍よりも商人のほうが緩そうなイメージがあるが、実際はその逆であった。この頃からアイヌを下僕すなわち労働力として使うようになる。漁業の労役に留まらず、通訳や道案内に始まり、和人の身の回りの世話や番屋の建設、休所の維持管理、川の清掃、橋の建造、道路の開削など労働内容は多岐にわたる。しかしその報酬はわずかでしかなかった。
言い換えると、それまでのアイヌは松前藩にとって対等な貿易相手すなわち「お客様」であったのだが、この時期を境に「従業員」へと変わった。その待遇が大幅に変わるのは想像に難くない。
さらにアイヌの無断での移動やよそとの交易を厳しく禁止し、その場所に固定化させる。また山奥に住んでいたアイヌを浜に強制的に移動させて労役に就かせた。山奥のコタンに残されたのは老人と赤子だけで、生計を絶たれて多くの餓死者を出している。
小樽内では松前の家臣・氏家一族から、近江商人・恵比須屋の岡田家へと場所請負がなされている。岡田家の文書によるとオタルナイ場所の請負の許可を得たのは享保年間(1716-1735)であったという。
奪われた女性
西蝦夷ではさらに非道な風習が見られた。それは積丹半島の神威岬以北が女人禁制にされたことが一つの原因である。よく勘違いされるところではあるが、女人禁制であったは神威岬の先端ではなく、岬より北側、すなわち余市・小樽・石狩・留萌などの広大な範囲である。女人禁制は和人の定住を禁じるのが目的だった。
この禁制によってどのような影響が生じただろうか?神威岬以北にいる和人は男ばかりになった。するとどうなるだろう。和人の番人達はアイヌ女性を妾にしはじめる。若いアイヌ男性を遠く国後島などに労役のため送り込み、残った妻や若い女性を自分たちの食い物にする。子供ができると堕ろさせられて子供ができない身体になったり、また梅毒もひどく蔓延したという。
神威岬の女人禁制令は元禄4(1691)年から始まっている。これはシャクシャインの戦い(1669)の後に布告されたもので、寛保オタルナイ蜂起(1742)の約50年前にあたる。
奇しくも、西蝦夷各地には源義経と恋に落ち、やがて捨てられて身投げをするアイヌ女性の伝承が広く伝わっている。
シタカペ酋長の娘フミキが石狩に去った和人の若者(義経)との悲恋で赤岩の岩頭から投身しました。
フミキ恋しと同族の若者が崖を登ったところ、そこには雪を被った彼女の小さな草履が取り残されているばかりでした。草履に頬すりよせ、胸かきむしり、十六夜の空を仰ぐ若者は、ただ泣きに泣くばかり。
あくる年の春、山桜の蕾がふくらむころ、フミキが身を投げた崖下に、今まで一度も見かけなかった花一輪、フミキ草が赤く美しく、ひっそり咲いていました。
あしたくるか やなさってくるか
傍に 傍に
若者の悲歌は、いつまでも遠く静かに流れました。
『祝津町史』
このような義経伝説は岩内・積丹・浜益など各地のアイヌが口伝している。単なる悲恋物語として語られがちだか、史実と比べてみると興味深いものがある。
小樽アイヌの移動
この頃、オタルナイ(銭函)に住むアイヌがクッタルウシ(入船)に移動させられている。
松前藩オタナイの支流マサラカオマプに住居するアイヌを今の小樽郡入船町の内字クッタルシの地に移して小樽場所を置きたるを初とす
『北海道蝦夷語地名解』
氏家氏が知行を受けた当初は、オタルナイ(銭函)とカツナイ(南樽)に運上屋を置きそれぞれのアイヌと交易したようである。それが一つに統合されて、今の堺町のメルヘン交差点のあたりに移動した。その際に銭函に住むアイヌたちも一緒に引っ越させたようである。
移動させられる方もたまったものではないが、もともとそこに住んでいたアイヌにとっても面白くないはずである。アイヌたちは漁場の境界を自分たちで決めていて、勝手に破ることを許さなかった。ときにイウォロを巡って武力で争うこともあったくらいである。よそからやって来た人々が自分達のイウォロを侵して漁を始めたとしたら気分が良くないものである。それが同族であったとしても。
いつ頃オタルナイが移動したのかは定かではないが、元禄郷帳(1700)の段階ではまだ銭函にあったようなのでこれも享保年間(1716-1735)かもしれない。
寛保の大津波
さらに試練は続く。寛保元(1741)年8月29日、渡島大島で噴火が起き、日本海沿岸に大津波が押し寄せる。この寛保の大津波によって、和人だけでも2083人が死亡し、家屋の倒壊は791棟、破船1521艘と甚大な被害を被った。
被害は道南に集中し、小樽の方までは津波が来たという記録はないが、松前藩はその救済と復興に多大な出費と労力を強いられたはずである。
年代 | 噴火 | 年代 | 蜂起 |
---|---|---|---|
1640年 | 駒ケ岳噴火 | 1643年 | ヘナウケの戦い |
1667年 | 樽前山噴火 | 1669年 | シャクシャインの戦い |
1741年 | 渡島大島噴火 | 1742年? | 寛保オタルナイ蜂起 |
実は他の2つのアイヌ蜂起も、噴火と密接に関係している。瀬棚・島牧方面のヘナウケの戦いの直前には駒ケ岳が噴火しており、シャクシャインの戦いの前には有珠山と樽前山が噴火している。17世紀は小氷期とも言われ、気候の変動によって生態系に悪影響を及ぼしていた。そこに加えて今まであまり噴火しなかった道内の火山が次々に噴火を始める。
こうした噴火は直接的な被害に留まらず、民の心にも暗い影を落としていたのかもしれない。
ウエペケレの終わり
そして蜂起へ…
このような過酷な環境に立たされたアイヌが蜂起するのは時間の問題だったのだろう。
そしてついにオタルナイのアイヌが立ち上がり、周辺のアイヌたちも同調して次々と蜂起を始める。その勢力は膨れ上がり、松前藩に攻め込まんと勢いづく。寛保2(1742)年頃のことである。
しかしそれを止めたのは、意外なことに、かつて寛文の西蝦夷蜂起の中心的存在でもあった岩内のアイヌであった。
そもそも勝ち目のない戦いであったのだ。仮に松前藩を倒したとしても、後詰めに南部藩・津軽藩がおり、さらにその後ろには江戸幕府がある。また自ら米を生産できないアイヌにとって、いわば胃袋を握られている状態であり、もはや自立して生計を営むのは難しくなっていた。岩内アイヌが裏切りとも言える鎮撫を行ったのも、ある意味で現実的な選択だったと言えるかもしれない。
蜂起した彼等がどうなったのか、記録は詳細には語っていない。ただ和人による支配を認めさせられ、服従の証として彼等の権力の象徴である至高の宝・鍬形を献上させられたとあるのみである。
この寛保のオタルナイ蜂起を最後に、西蝦夷における和人支配は確定的なものとなり、以後アイヌは二度と抵抗することがなくなった。
それから47年後、東蝦夷地でも最後の抵抗が行われる。クナシリ・メナシの戦いである。蜂起により71人の和人が殺され、蜂起に参加した37人のアイヌがノツカマップで処刑された。
この戦いを最後に、蝦夷地全土での抵抗は終わる。アイヌの「諸豪勇時代」は終わり、アイヌ文明の最終期すなわち「役蝦夷時代」へと移行する。ひとつの文明の歴史が終わりを告げるのである。
まとめ
- 寛保2(1742)年頃、小樽を中心としたアイヌ蜂起があった
- 惣大将の名はベツテトロで、東小樽の熊碓が本拠?
- 西蝦夷の広範囲のアイヌが蜂起に加わった
- 松前まで攻め上ろうとした
- しかし岩内アイヌのシノミ家が蜂起を鎮静した
- シノミ家はたくさんの褒美を賜った
- 小樽アイヌの持つ至宝・鍬形が償いとして奪われた
- 西蝦夷アイヌ最後の蜂起だったかもしれない
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