備忘録#01 忍路・聚富・知津狩・余市モイレ

備忘録

忍路場所の謎

忍路漁港

江差追分に「忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷まで」と唄われた忍路おしょろ。江戸時代は「ヲショロ場所」、「タカシマ場所」、「ヲタルナイ場所」の3つの知行地が設定され、忍路はニシンの良港として繁栄していた。

忍路はさぞかしアイヌ時代から栄えていたのだろうと考えがちだが、ここにひとつの疑問がある。

忍路には川が無いのである。

忍路半島

忍路は突き出た半島の形をしており、三方を丘に囲まれている。飲水の湧き出る小さな流れくらいはあっただろうが、魚が生息するようなある程度の流量を持つ川はない。

アイヌの主食はであり、魚といえば鮭。鮭至上主義。古潭を形成する基本条件として鮭が穫れる場所でなくてはならない。ところが忍路には鮭が穫れるような川がない。

西蝦夷といえばにしんだが、ニシンはアイヌにとってそれほど重要な魚ではなかった。和人も食用にニシン獲っていたわけではない。潰して肥料にして本州の農業需要のために魚粕を商品として売っていたのだ。いくらかは食べただろうが、あくまでも肥料にするための魚だったのだ。アイヌ達も、鮭が採れない春季の”つなぎ”の魚の一つとしてニシンを食べたくらいだろう。

忍路はニシンの良港として栄えたが、もしかするとそれは和人が来てからなのかもしれない。忍路湾に数多くの遺跡があるが、縄文から擦文文化までの遺跡はあれど、アイヌに由来する遺跡は見つかっていない。

また寛文の蝦夷蜂起、いわゆるシャクシャインの乱に起因する西蝦夷の一斉蜂起の際、忍路はその名前が上がっていない。この時代は忍路にはまだ各地に名を連ねるような酋長が居なかったと思われる。余市場所の乙名が西蝦夷の酋長達の集合場所としてこの忍路を指定している。あくまでも船着きのいい港として、忍路は余市アイヌの管理下にあったようである。

有事の際、西蝦夷の酋長たちがこの入江に集まり、津軽藩と交渉したらしい

蘭島駅の裏手にある「蘭島遺跡」の調査レポートを読んでみたが、蘭島駅裏の金勢崎からは多くの鮭の骨などが出土したようだ。おそらくアイヌは最初は蘭島川沿いに住んでいたが、和人がニシン漁の労働力として蘭島川筋から忍路の方に移動させたのではないだろうか。

蘭島遺跡。集落跡からはたくさんの鮭の骨が出土している。

蘭島川上流の種吉沢川は、かつて「ツコタン川」と呼ばれていた。tu-kotanトゥコタンとは〈廃村〉の意味である。ここに昔アイヌの集落があったのかもしれない。また忍路の方には「シャモトマリ」という地名が残っている。samo-tomariシャモトマリ で 〈和人の停泊地〉の意味である。

蘭島川にかかるツコタン橋

天明年間、田沼意次の時代はヲショロ場所ではなくモイレ場所と呼ばれていたというのも興味深いところである。ただこのモイレが具体的にどこを指していたのかがどうにもはっきりしない。余市のモイレを思い浮かべるところだが、『蝦夷拾遺』によると「ヒクニ、フルヒラ、カミヨイチ、シモヨイチ、モイレ、シクスシ、ヲタルナイ、イシカリ」と順になっている。全体的に距離があわないうえに、余市の上下が逆になっているのも含め、謎の多い史料である。

蝦夷拾遺/天明年間

厚田の聚富

聚富橋。ここから旧厚田村になる

石狩川河口東側の厚田にある地名。聚富で「しっぷ」と読む。まず読めない難読地名である。「聚」という漢字をそもそも使ったことがないが、これは「しゅう」と読み「集」と概ね同じような意味らしい。富の集まるところ。という願いを込めて漢字を振ったのだろうか。

聚富川

聚富川しっぷがわが流れており、石狩川の河口に注ぎ込んでいる。現在はぎりぎり石狩川の支流となっているが、昔の地図を見ると聚富川は大きくカーブし海に直接流れ落ちていたようだ。

聚富川と知津狩川の現河道と旧河口

隣の知津狩川しらつかりかわも同様に石狩川に並行するようにしてカーブしている。これは砂浜に河口を持つ川の特徴で、河口に砂丘が形成されることで長い時を経て徐々に蛇行していく。銭函のポンナイ川や旧小樽内川(清川)でも全く同様のカーブが見られた。

さて聚富川の由来である。旧記類には「シヨツフ」ないし「シユツフ」とある。既存の地名解は suopスオプ で〈〉の意味。聚富川の上流部が箱崖のようになっているからだという。他の説は見えないものの、道の駅厚田の情報ボードでは、「を意味するスオプを語源とする説があるが解釈が難しい地名」としている。

厚田のアイヌ語地名/道の駅あいろーどの情報ボードより

聚富川は低湿地を流れる川で、水源地は高岡。その名の通り小高い丘を切り裂くように川は流れているが、「箱」とはこの地形のことだろうか。

旧聚富川水源近く。両側が小高い丘になっているが……

バチェラー辞典によるとsupシュプsutスッ と同じ意味を持つという。すなわち寿都のスッツと同じである。sutuスツは〈山の麓〉もしくは〈〉という意味だ。聚富川は昔から石狩領と厚田領の境界とされており、現在も石狩市厚田区の一番端、上流部は当別町との境界を成している。

西蝦夷地廻浦見取絵図/文化年間/「シユツフ アツタ 石カリ 境」と番屋がある

これはアイヌ時代からそうだったようである。文化4年に調査に来た幕吏・田草川伝次郎の日誌でも「シユツプ 川あり イシカリ ヲショロコツ 境なり」とある。厚田(ヲショロコツ)のアイヌたちにとっても文字通りここが縄張りである狩場イウォロの端だったわけで、「端っこシュップ」と呼んだものがいつの間にか川の名前になったのかもしれない。

あるいはここの砂浜はオタノシケすなわち ota-noskeオタノㇱケ〈砂浜の真ん中〉と呼ばれているので、それと対応して ota-sutオタスッ 〈砂浜の端〉であるのかもしれない。 よって、聚富しっぷの由来は supシュプ〈端〉ではないだろか。

『東西蝦夷場所境調書』では、聚富のことを「シリシュツ」と書いている。これが sir-sutシㇼシュッ丘の端〉であればシュップとほぼ同じ意味であり、次項の知津狩との関連性も見出すことができる。

知津狩と堀頭

旧知津狩川/段丘の手前を流れている

聚富川の隣を知津狩川が流れている。 知津狩しらつかりとは sirar-tukariシラットゥカリ岩の手前〉の意味とされる。傾斜量図で見ると旧知津狩川はその名の通り段丘の手前を沿うように流れているのがわかる。現在は河口がショートカットされ、石狩川河口に注いでる。

この知津狩川の中流で、北の方から 堀頭川 という支流が合流している。たまたま通りがかった時に写真を撮っていた。「ほりあたま」でこのあたりに掘でも作ったのかと思ったが、どうやら読みは「ほりかしら」らしい。

堀頭川

ホリカシラ!そこでピンと来るものがあった。道内には幌加内ほろかないを初めとして堀株ほりかっぷ、ホリカモイなど、ホロカ・ホリカのつく地名があちこちにある。horkaホㇿカ とは〈逆さまの〉という意味で、川が逆向きに流れるような場所を指す。堀頭川は、旧知津狩川の流れと比べてみるとまさに180°逆向きに流れる川であり、ホロカの条件を満たしている。

堀頭川はすなわち horka-{sirar-tukari}ホㇿカシラットゥカリ逆向きの知津狩川〉という意味なのだろう。

ホロカシララトゥカリ川/道庁20万切測図

そう思って明治20年ころの道庁切測図と見ると、確かに「ホロカシララト゜カリ川」とあるのが見えた。「ホリカシラツカリ」が短縮されて「ホリカシラ」になったのではないだろうか。これを堀頭とするとは、うまい漢字をあてたものである。

余市モイレの岩

余市川火口の入船町、モイレ山の麓に下ヨイチ運上屋があるところは、少しの湾になっており、現在はマリーナ漁港になっている。江戸時代はここが余市の中心となる場所だった。

余市マリーナ漁港

上の写真の右側、余市マリーナの北西側の出崎のことを「ハルトロ岬」という。同様のハルトリとかアルトルとかいう地名は道内各地にあって、ar-uturアルトゥㇽ〈向こう側〉の意味。入江の端の岬のあたりによくつけられる。

ハルトロの切通

余市のハルトロのところはかつて通行の難しい崖だったが、徐々に岬を削っていき道を通した。削られた岩崎の痕跡はいまも落石防止網に覆われながら残っている。この切通に関しては 余市町でおこったこんな話「その216 切り通し」(余市町公式HP)という記事が詳しい。

さてこのモイレには「太古の岩」という看板がある。約1億年前にできた流紋岩らしいが、そういったものにもきちんと解説を加えているのは素晴らしい。モイレのアイヌ語地名は別名「シュマオイ」といって suma-o-iシュマオイ 〈岩のたくさんある所〉の意味。昔から岩の多い所だったようだ。

太古の岩

実はもう一つ、このモイレに名前がついた岩がある。おそらくほとんど知る人はいないだろう。その名前は「金玉岩」。なぜこんな名前がついたのだろう。とはいえそれが載っているのは道庁の第二部農商課が明治20年にまとめた『鰊・鮭建網場実測図』、れっきとした公文書である。

余市郡鰊・鮭建網場実測図

このあたり今はすっかり堤防に覆われてしまっているが、過去の衛星写真などとも比べながら確かめてみたところ、どうやらこの岩は現存している。堤防のすぐ脇にあるようだ。

ハルトロ岬の岩礁とシリパ山

そのあたりの写真、辛うじて撮っていたのだが、映っているものよりひとつ北の岩かもしれない。次に余市に寄る時に改めて撮ってみたいと思う。

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