厩町の由来 ~アシリパのコタン~

地名の由来

手宮の厩

小樽市にある「うまや」という地名を聞いたことがあるだろうか。既に住所からは町名が消えてしまい、今は「手宮三丁目」となっている。かつては高島郡大字厩、のちの厩町であった。釣りが好きなら「厩町岸壁」と聞くとピンと来るかもしれない。毎日多くの釣り人が糸を垂らす、小樽港の釣りスポットである。

ウマヤの位置と手宮のアイヌ語地名

多くの人に親しみがあるのは「湯の花 手宮殿」ではないだろうか。小樽にある3つのスーパー銭湯のうちの一つで、おたる水族館に行く途中の道路にある。きっと入ったことがある人も多いだろう。あの湯の花手宮殿があるところが「厩」である。

湯の花 手宮殿

アシリパのコタン所在地

実は厩町は漫画ゴールデンカムイにとって重要な聖地であったりする。そう、あのアシリパのコタンはこの厩にあったと思われるだからだ。

アシリパ。ゴールデンカムイ公式サイトより

漫画上ではっきりとそう明示されているわけではないが、あの時代に小樽港付近でアイヌが集団で住んでいた場所はウマヤしかない。史実に基づくならここが最も可能性が近いだろう。小樽アイヌについて、少しだけ歴史を振り返ってみよう。

アシリパ生誕の地

小樽内オタルナイアイヌのルーツとなる古潭コタンは昔から小樽にあるわけではなかった。ここより18kmほど東方、小樽市と札幌市の境界附近の銭函に住んでいたのである。その正確な位置はわかっていないが、ゴルフ場チサンCCあたりではないかと考えている。西蝦夷の漁業が鮭からニシンにシフトするにしたがい、江戸時代後期、彼らは運上屋の恵比寿屋岡田家と共に南小樽駅近くに引っ越す。それからしばらくは南樽地区の丘に点在していたのだが、明治6年頃に一度住初すみぞめ町(オルゴール堂の裏)に集められ、さらに明治13年にこの厩町に移転させられる。衛生と火災の危険のためとされているが、南樽地区は当時の一等地であったから、事実上の厄介払いというかたちになるだろうか。その後の彼らの足取りは定かではないが、明治36年頃にもまだ住んでおり、ハンクロやアイキー、傅平のババなどと呼ばれたアイヌが厩町に当時いたことを古老が話している。

『ゴールデンカムイ2巻』野田サトル

ゴールデンカムイの舞台となったのは明治40年、アシリパは12歳前後とされるので、生まれたのは明治28年頃。時系列で考えると、アシリパは生まれも育ちもこの厩町であっただろう。

またFate/Grand Orderにシトナイという少女が出てくるが、彼女の名前はこのオタルナイアイヌの最後の酋長から取られており、実在のシトナイもまたここに住んでいた。

厩の見どころ

現在の厩町にアイヌ関連のはっきりとした遺構のようなものは残っていないが、湯の花手宮殿の背後の「うまやの坂」を登り、途中で左に折れると「厩稲荷神社」がある。

厩稲荷神社

その敷地の中の小道から門をくぐって行くと、「手宮公園」に登っていくことができる。小樽市重要眺望地点にも指定されているとても景色がいいところで、春には芝桜が、秋には見事な紅葉を見せる。とても静かで美しいところなので、アシリパ達の生まれ育った場所に思いを馳せるのもいいだろう。

秋の手宮公園

聖地巡礼としてはちょっと足が疲れるルートではあるが、もし体力に余裕があるならおすすめである。歴史好きなら背後のグラウンドに高射砲台座跡の遺構もあるので、ついでに見ていっても悪くはない。

厩の由来は?

さて、そうなってくると厩町の地名の由来が気になってくる。アイヌ居住地ともなると、何らかの邪推をしてしまうこともあるだろうか。正確な由来を探していこう。

江戸時代の文献に見られる厩の表記

アイヌ語地名の由来を知るには、当時の発音を知ることが不可欠である。江戸時代の史料に出てくる厩の地名がどのように聞き取られたか調べていこう。

東西蝦夷山川地理取調図の誤り

アイヌ語地名の地図と言えば何と言っても『東西蝦夷山川地理取調図』。松浦武四郎が6度の蝦夷地探検と現地アイヌへの聞き取り、そして綿密な文献調査によって作り上げた素晴らしい地図である。だが当時得られる情報は限られており、また全て手書きのため、ミスが含まれることもあった。

東西蝦夷山川地理取調図。小樽手宮附近を拡大

この地図を見ると、テミヤの隣に「ヲムマヤシ」とある。どうやらこれがウマヤのことらしい。だが結論から言うと、この表記は誤りである。多くの地名解がこのヲムマヤシを元に地名を解釈しようとしたので、かなりの混沌を極めてしまっている。そもそもが誤りなのである。その根拠を見ていこう。

文献調査

江戸時代における23ほどの文献から厩についてどのように表音されているか取り出してみた。(*は松浦武四郎の著作)

文献年代表記
西蝦夷地分間1792/寛政4ウマヤ
西蝦夷海岸之図1798/寛政?ウンマヤ
西蝦夷地行程1805/文化2ウンマヤ
西地海陸里程1805/文化2ウンマヤ
遠山村垣日記1806/文化3
東海参譚1806/文化3ムマヤ
高島間内見渡之図1808/文化5ムンヤ
津軽図1810/文化7ンマヤ
村山図1816/文化13ンマ
今井里数書1831/天保2ムマヤ
天保郷帳1834/天保5ムマ
今井図1841/天保12ヲムマヤ
再航蝦夷日誌*1847/弘化3ウンマヤ
正徳蝦夷図1848/嘉永年間ムマヤ
海岸里数書1855/安政2以前ヲンマヤ
廻浦日記*1856/安政3ヲムマヤ
蝦夷行程記1856/安政3ムマヤ
観国録1857/安政4マヤン
罕有日記1857/安政4ヌマヤ
御場所絵図面1858/安政5ムマヤ
東西蝦夷山川図*1859/安政6ヲムマヤ
蝦夷海岸山道絵図1860/安政以降ムマヤ
西蝦夷日誌*1863/文久3ヲムマヤン
江戸時代の文献より

とりあえずぱっと見でわかるところは、どれもバラバラであることだ。全く音が安定しておらず、聞き取りに苦労したことが窺える。これは和名由来ではなく、アイヌ語地名の特徴である。

そして語尾に注目してほしい。ほぼ一貫して「ヤ」で終わっているが、「ナ」や「キ」も見られる。これは「ヤ」とカタカナの形が似ているため単純な誤植だろう。そして『東西蝦夷山川図』の「ヲムマヤ」。これが誤植であるのは見るからに明らかだ。「シ」で終わっているものは他に一つもないし、松浦武四郎自身も他の著作ではシをつけていない。武四郎は天保12年の『今井図』を各所で引用しており、この「ヲムマヤン」に引っ張られたようだ。「シ」は「ン」の誤植だったのである。それにしても「ヲムマヤン」も他の文献と比べれば、だいぶ特異な表記である。

ここからわかるのは、原音に近いのはあくまでも「ウマヤ」であり、「ヲムマヤシ」をベースに解釈した地名解はあてにならないということだ。

既存の地名解

厩(和名)説

ウマヤの地名の由来で、やはり多く見かけるのは和名説である。「昔、ここで馬を飼っていた」だとか「馬小屋があった」とか「馬車がよく通った」など。厩という漢字から想像したのだろうか。

だがあながち見当違いの説というわけではない。すぐ隣のポントマリは戦前に「馬車泊」と呼ばれていたことがあるからだ。このあたりには荷馬車の運送業者が多くあったことに由来する。現在も高島でトラック運送業を営む須貝運輸は、この頃からの荷馬車運送業者らしい。

しかしそれはあくまでも大正時代以降の話で、厩岸壁の埋め立てが行われるまでは、ここはほとんど隔絶した入江であり、交通の便は極めて悪いところだった。ウマヤの地名はもっと昔からあった。

『永田地名解』でも和名説を厩町の由来としている。

omumayasshi オムマヤシ 厩

「ウマヤ」の訛りなり。うまやありしによりなづ

『蝦夷語地名解』永田方正

山田秀三先生もこれに基づき、メモの中でこう記している。

厩があったのでオムマヤシと云う由。

だぶん Omumaya-ush-iオムマヤウシ「御厩(和語)ある処」と呼ばれ、連続母音の後の u が落ちてオムマヤシになったのであろう。

『山田ノート 小樽Ⅱ』山田秀三

しかしもし本当に和名なら、もっと音のブレが少ないはずである。和名由来の地名の例としては「タカシマ」「ゼニバコ」「アカイワ」などがあるが、こうした地名は殆ど表記ブレがない。しかし前述の通りウマヤはそれぞれの文献でてんでバラバラな表記がされている。これはアイヌ語地名の特徴である。

明治元年生まれで厩町に住んでいた古老の小林廣三郎氏は

この厩と云う地名も馬の厩舎があったわけではなく、アイヌ語から転化したものらしいのです。

『古老の語る小樽郡の史實』小林廣

と語っている。

雑草説

『永田地名解』はもう一つ候補を挙げている。

Mun ushi ムンウシ 草場

「ムン」は草の惣名、此處野茅のかや多くありたればなづくと云ふ

『蝦夷語地名解』永田方正

野茅のかや、すなわちススキが多くあるためだとしている。ただススキなら〈ki-us-iキウシ〉のほうが一般的で、これは現在の長橋十字街のあたりのアイヌ語地名でもある。〈munムン〉は取るに足らない雑草を表す言葉である。ただ〈mun-us-iムンウシ〉なら実際の発音は「ムヌシ」になり、「ムマヤ」とは似ても似つかない。

『データベースアイヌ語地名』ではこれを継承しつつももう少しアレンジしており、

オムンオマヤウシ o-mun-oma-ya-us-i そこに・草・ある・(海)岸・付いている・もの(岬)

その小さな入江の岸に寝床の敷き藁等として用いたスゲ・カヤ等の草木が群生していたことを表すものと推定され、

『データベースアイヌ語地名 後志1』榊原正文

とある。ただし前述の通り生活に関係のある草は〈kinaキナ〉というので〈munムン〉はゴミと同義の役に立たない雑草のことだ。

いずれにせよ語尾が「シ」の時点で『山川図』の誤りに引っ張られており、このままでは原音との差がありすぎる。この説で行くなら後ろのウシを取り除いて〈o-mun-oma-yaオムンオマヤ端に雑草のある岸」〉あたりが落としどころになるだろうか。この場合の発音は「オムノマヤ」になり、だいぶ「ムマヤ」に近づいた気がする。とりあえずのところ意味の上でも間違ってはいなさそうだ。

こぶある海藻説

『データベースアイヌ語地名』ではもうひとつ別案を挙げている。

すぐ近くに「テムムンヤ」と呼ばれた地点があることを踏まえれば、同様に海藻がある地点を

ホムムンオマヤウシ hom-mun-oma-ya-us-i (こぶ(ある)・海藻・ある・海・ついている・もの(海岸)) と表現したと考えることも可能なように思えることから、ここに試案として記しておくことととしたい。

『データベースアイヌ語地名 後志1』榊原正文

ホムムンオマヤウシとはなかなか凄い解釈だと思うが、隣の手宮こと〈tem-mun-yaテムヤ「海藻の岸」〉との対比としたようである。なお〈homホム「こぶ」〉とは木の瘤とかデコボコのことで、昆布こぶのことではない。ホムムンという海藻があるとも聞いたことがない。

これもウシを取り除くと〈ホムノマヤhom-mun-oma-ya「こぶある海藻のつく岸」〉となるが、「ウマヤ」からは少し遠ざかった感が否めない。

岩の岬説

小樽市役所発行の『小樽市史 第一巻』ではこう書いている。

ムマヤ

シュマヤンよりの転化、岩の岬の義

『小樽市史 第一巻』

すぐ近くの手宮と色内の中間、石山町のことをアイヌ語で「シュマサン」といった。〈suma-sanシュマサン「石が下る」〉の意味で、海中に岩が突き出した岬のことを言った。だが〈sanサン「下る」〉と〈yanヤン「上る」〉では意味が反対である。〈suma-yanシュマヤン〉なら「石が上る」となり、岬の呼び方としてはちょっと聞いたことがない。

過去の文献の表音を見ても、シュマヤンに近い表記はない。

塞がる川説

奥野實氏の『小樽の地名・川名』ではこのように考察している。

オムマヤシ】うまや=厩

「オ(川尻)・ム(塞がる)・マ(多くある)・ヤシ(魚をすくう)」。細切れになりちょっと無理のあるところに思います。しかし、現地を何度も歩いてみて、(やはり、こうなるのかなあ)と半信半疑です。

『小樽の地名・川名』奥野實

この「川尻が塞がる」という表現はアイヌ語地名としては結構見かける語彙で、鵡川むかわ雄武おうむ重内おもない音別おとべつなど全道各地に見られる。海が時化たときに河口が砂で塞がるような川につく地名である。ただこのあたりは切り立つ岩場であり、砂浜でもなかったので、厩の川が塞がったかは定かではない。

穴岩が埋まる説

『おたる風土記』ではこのように解説している。

ウマヤ 穴岩

「ウマヤ」は「オンマヤシ」の短形であると言われています。「穴」のことを「suy or puy」とかいわれていますが、樺太アイヌ語で puy ounnumus(穴が埋まった)という語ができます。アイヌ人の「オウンヌマス」(埋める)というのを聞いて「ウマヤ」になったのかもしれない。

『おたる風土記』堀耕

この穴岩とはかつてウマヤ岬(地蔵崎)にあった「烏帽子岩」のことで、中に穴が空いていたらしい。高架桟橋建設の際に崩してしまい、現存していない。

謎の地名

『高島町史』では近文ちかぷにアイヌ(旭川)の砂澤一太郎氏にアイヌ語の解釈を尋ねてみたようだ。

ヲムマヤシ

?オマンヤシ ヲマ=魚の粕

『高島町史』砂澤一太郎談

よくわからなかったようだ。それも無理はない。そもそも「ヲムマヤシ」が間違っているのだから、その意味を聞こうとしてもわからないのも当然である。

ここまで見てきた感じ、地名解も大いに混乱を極めている。この中で最も可能性がありそうなのは〈o-mun-oma-yaオムノマヤ端に雑草のある岸」〉だが、「ウマヤ」とは近いとも遠いとも言い難い。

実に謎の地名である。

厩の地名解・新説

新たな解釈の必要性

これほど地名解が乱立しているのだから、安易にそこに新たに自説を加えるというのもあまり好ましくない。だが多くの地名解が「ヲムマヤシ」をベースに考えているので、ここは再考の余地がありそうだ。

文献を改めて一覧してみると「マヤ」の音はほぼ不動であり、一部の誤記を除けばブレがない。一方で「ヤ」の後ろの「シ」ないし「ン」は取り除いても問題ないようだ。

「ウマヤ」をベースとし、「ムマヤ」「ンマヤ」「ウンマヤ」「ヲムマヤ」あたりの音を満たせそうなうな言葉があればいい。そこから、一つの解を導き出してみた。

オマヤ

厩の由来:oman-yaオマヤ「奥の岸辺」〉

omanオマン〉は直接的には「行く」という意味の動詞である。同じくよく使われる〈omaオマ〉との違いは、omaは2項動詞(他動詞)なのに対し、omanは1項動詞(自動詞)であるということだ。そのため〈oma-ya〉というのは文法的に成り立たない。しかし「nは、yの前に来れば、それに同化してyになる」という音韻転化のルールがあるので、〈oman-yaオマンヤ〉は実際には「オマヤ」と発音される。

アイヌ語では「オ」と「ウ」の音が頻繁に聞き違えられる。〈usorウシヨロ〉が「ショロ」になったり、〈ota-sutオタスツ〉が「タスツ」になったり、その例は挙げればキリがないほどにある。よって「オマヤ」が「ウマヤ」と聞き取られた可能性は十分に考えられる。日本語の音よりも口を閉じた形で発音するので「マヤ」と聞こえることもあっただろう。ほか「ヲンマヤ」など、この語頭のブレが特に大きいのは、そのためだと思われれる。

奥の岸辺

水源が山奥へ入っていく川という意味で、〈oman-nayオマンナイ〉といった地名は時々散見される。ではこれを〈ya「陸岸」〉に当てはめて〈oman-yaオマヤ〉とした場合、どのような意味になるのだろうか。『知里辞典』に興味深い項目が載っていた。

oman-pes, -i オまンペシ

①浜通りの山;沿岸の山

②崖をなして長く沖へさし出ているみさき。

『地名アイヌ語小辞典』知里真志保

pesペシ「崖」〉のような単語にもこのような意味を持たせられる。それならば〈oman-yaオマヤ〉は直接的には「奥へ行く・陸岸」という意味だが、「浜通りの奥にある岸辺」といったニュアンスも持たせることはできるのではないだろうか。

当時の風景から

ここで1枚の写真を見てほしい。明治時代に撮影されたものだ。

『手宮停車場と鉄道桟橋の景2』北方資料データベース

この写真は手宮停車場、すなわち現在の小樽市総合博物館のところを写したものだ。中央、奥の方の海上に、尖った立岩がひとつあるのが見えるだろうか。これが「烏帽子岩」で、既存の地名解でも出てきた「穴岩」とはこれのことである。ついでに言うと、左の禿げた崖には手宮洞窟がちらりと映っている。

赤の矢印で加筆した烏帽子岩のついている岬、その岬の向こう側に「」はあった。今のように埋立で道路があるわけでなく、いかに辺境の地であったかがわかるだろう。この写真は明治15年だから、あの岬の向こう側にはアイヌ達が既に移っていたことになる。海が穏やかな時は海岸伝いになんとか歩いて渡ることもできただろうか、基本的には手宮公園の山を越えて小樽に降りてくることが多かったはずだ。

次の一枚は、ゴールデンカムイのワンカットから。

『ゴールデンカムイ4巻』 野田サトル

この小樽港の遠望シーンは実際に当時撮影された『小樽市街遠望』という写真を元に描かれているので、街並みは極めて正確である。左端に堤防のようなものが浜に長く突き出しているのが見えるだろうか。あれが高架桟橋より前にあった『色内桟橋』で、厩町はその奥の岬のさらに奥。ポコっと飛び出した立岩(タンネシラリ)の手前にあった。先程の烏帽子岩とは別の岩で、厩町は烏帽子岩とタンネシラリの立岩の間にある小さな入江だったのだ。

小樽内アイヌ達が明治初頭に住んでいたのは漫画のページの右側あたりの繁華街となっている地区で、いかに辺境の地に追いやられたかがこのワンカットからも理解できる。

最後の一枚は『写真集小樽』より。

『写真集小樽』より

この写真は明治39年のもの。厩町の岸を埋め立てている様子がわかる。左の大きな建物がちょうど「湯の花手宮殿」のあたりなので、なんとなく位置関係が想像できるかもしれない。奥にある岩はタンネシラリの立岩だ。烏帽子岩はこの写真には映っていない。

この写真からわかることは、現在平らな部分はほぼ全て埋立地であり、元々は海だったということである。厩は小樽港からも隔絶された、地形的に独立した区画だった。

ウマヤはまさに〈oman-yaオマヤ奥の岸辺」〉であったと言えるのではないだろうか。

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