やりきれない川
北海道には様々な面白地名・謎地名があるが、最近では「ヤリキレナイ川」が有名である。そのなんとも言えない、哀愁漂う感じが現代人の心に響くのだろう。
雨が降るたびに川が何度も氾濫するから、住民はもうヤリキレナイ……。そんな逸話も面白いが、これもれっきとしたアイヌ語地名である。しかしここまで有名になったにも関わらず、その意味はどうにもはっきりしていない。この謎地名を、曖昧なままにせずきちんと訳してみよう。
既存の地名解
ヤリキレナイ川
アイヌ語河川名:ヤンケ・ナイ又はイヤル・キナイ
意味:魚の住まない川又は片割れの川
ヤリキレナイ川/河川標識
由来1 アイヌ語の「ヤンケ・ナイ」(魚の住まない川)
「ヤンケナイ川」は、明治時代までは古山地区を源流としており、その付近に塩冷泉があり、これが「ヤンケナイ川」に流れていたため魚が住めなかったと言われている。
しかし、明治・大正時代にはサケやマスの遡上あったと言われているほか、現在でもウグイ・川エビなど水生生物も豊富でサケの稚魚放流も行われていた。由来2 アイヌ語の「イヤル・キナイ」(片割れの川)
「イヤルキナイ川」は、イ(それの)・アルケ(片割れの部分)・ナイ(川)の意で、近くに流れる由仁川と双生児の片割れという意味である。 昔のヤリキレナイ川は、現在の北栄地区で由仁川と合流し夕張川に注いでいたので、アイヌの人々は双子の川と考えていたようである。
ヤリキレナイ伝説/由仁町公式ホームページ
定説1:魚の住まない川
1つ目の説は「ヤンケ・ナイ」〈魚の住まない川〉ということだが、これは全く意味がわからない。
yanke-nay は〈~を揚げる川〉であるが、yanke は二項動詞なので名詞が足りていない。もしyan-nay〈陸揚げの川〉であれば一項動詞なので文法的に問題ない。あるいは yake-ri-nay〈岸辺が高い川〉あたりなら意味も通じる。 しかしヤンナイにしろヤケリナイにしろ、そのような川名は旧記類では見つからないし、それがどうして「魚の住まない」になるのかがわからない。
定説2:片割れの川
2つ目の説である「イヤルキナイ」〈片割れの川〉は、上の説よりは少しマシである。
i-arke-nay〈その片側・川〉で、i-arke に わたり音の y が入ると iyarke になる。松浦山川図に「イヤルキナイ」とあり、音としてはだいぶ近い。
欲を言えば i-arke-ne-nay〈その片側である川〉だとか nay-arke〈川の片側〉のほうが文法的に自然な気がするが、i-arke-nay が絶対にないとは断言できない。ただし「イヤル・キナイ」とそこに中黒を入れるのは間違いである。
本当の地名解
松浦山川図の「イヤルキナイ」は重大なヒントである。また明治の実測切図には「ヤリケナイ」とある。これらからヤリキレナイ川の本当の地名解を考えてみよう。
阿歴内
まずは類例から考えてみる。標茶町の塘路湖の先に「阿歴内」という地名があり、「アレキナイ川」が流れている。どうにもヤリキレナイ川の由来の親戚のようだ。まずは先程の arke のパターンで考えてみよう。
- arke-nay〈片側の川〉:阿歴内
- i-arke-ne-nay〈その片側である川〉:ヤリキレナイ
- i-arkere-nay〈それを半分にする川〉:ヤリキレナイ
このように考えることができるが、問題は arke が後置の位置名詞なのである。つまり nay-arke〈川の片側〉なら文法的に自然だが、この順番をひっくり返すためには所属系 arkehe〈その片側〉を使わなくてはならない。
阿歴内 の arke-nay が不自然である以上、このままでは歩けない。ヤリキレナイの方も再考の余地がありそうである。
やつらがたくさんやって来る
arke〈片側の〉 ではなく arki〈来る〉を使って考えてみよう。
- arki-nay〈来る川〉:阿歴内
- i-arkire-nay〈それらを来させる川〉:ヤリキレナイ
という2つのパターンだ。これなら文法的に自然である。
arki というのは 〈来る〉の複数形で、複数のものがやって来ることをあらわす動詞である。これに re をつけると使役形の2項動詞に変化し、arkire〈~を来させる〉という意味になる。2項動詞なので名詞が2つ必要になり、頭に i〈それら〉がついている。
なお arki の発音についてはこんな注記がある。
arki《(二人以上が)来る》は、(カタカナ表記ではアㇻキだが)ときにはアルキに近く、ときにはアリキに近く聞こえる音である。アラキに近く発音されることは普通はない。節をつけて歌うなどのために長くのばすときに、アーラーキーのようになるだけである。カタカナ表記の小さいㇻ、ㇼ、ㇽ、ㇾ、ㇿの文字は、発音を表しているわけではないから、十分に注意する必要がある。
田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』
これらを考えると i-arkire-nay は「イヤルキレナイ」ないし「イヤリキレナイ」。そして「イヤ」が詰まれば「ヤ」と聞こえるので、こうして「ヤリキレナイ川」が無事現れてくるのである。
ヤリキレナイの意味は i-arkire-nay〈それらがやって来る川〉であるようだ。
熊の大群
ヤリキレナイ川が「”それら”がやって来る」の意味だとすると、”それら”とは一体何が来るのだと言うのだろうか。アイヌ語地名では、畏れ多いもの、口に出すことが憚られるものを、あえて i〈それら〉を使って表すことがある。 ”それら”とは人間か、熊か、蛇か、あるいは洪水か。わかっているのは複数でやって来るということだけである。
ひとつだけヒントとなるものがある。間宮河川図ではここが「イルベツ」となっている。i-ru といえば、小樽の色内は i-ru-un-nay〈”それ”の跡がある沢〉であり、”それ”とは「熊の足跡」であるとされている。そこからするとやはり”それら”の第一に挙げられるのは熊たちであろう。しかも単なる足跡ではなく直接来てしまい、しかもそれが複数形なのである。
イヨマンテの反対
アイヌ文化に触れたことがある人なら「イヨマンテ」(あるいはイオマンテ)という言葉は聞いたことがあるだろう。「熊送り」とも訳される言葉で、i-omante〈”それ”を送る〉の意味。この”それ”とは「熊」のことを指しているのである。
arkire〈やって来る〉 はちょうどこの omante〈送る〉の対義語(複数形)であり、ここからするとやはりアリキレされてくるのは熊のように思う。熊送りの反対で、川が熊を連れてくる。そんな感じのニュアンスである。
ヤリキレナイ川の意味と由来
ヤリキレナイ川の由来は i-arkire-nay で〈熊達がやって来る川〉の意味。
由仁町のマオイ丘陵では、今もしばしば熊の痕跡や目撃情報があるらしい。昔はもっとたくさん居たのだろう。何度も熊に遭遇し、襲われることもあったのかもしれない。まるで川が熊を連れてくるかのように、よく出現していたのだ。たしかにそれはコタンの住民としては、ヤリキレナイ気持ちになるだろうなぁ…
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