余市の由来 ~本当にイヨチコタン(蛇の村)だったか~

地名の由来

歴史の街・余市

旧下ヨイチ運上家

余市の歴史は古い。”ヨイチ” の地名はヲタルナイよりもずっと前の時代から見える。

小樽も歴史の街と言われるが、主に明治から戦前にかけての歴史を重視しているのに対し、余市は先史時代から江戸時代にかけての歴史を前面に押し出している印象がある。畚部フゴッペ洞窟、旧下ヨイチ運上家、旧余市福原漁場ふくはらぎょば、モイレ山の博物館、尻場シリパ山、神姿岩カムイノカ白岩レタリビラ、そして蝋燭ローソク岩。もちろん果樹園やウイスキー、そして宇宙の街としても有名だが、やはり昔の空気をありありと伝えてくれる近世以前の史跡たちにはとても魅力がある。

イヨチコタン

コタン ― 違星北斗遺稿

海の幸、山の幸に恵まれて何の不安もなく、楽しい生活を営んで居た原始時代は、本当に仕合せなものでありました。

イヨチコタンは其の頃、北海道でも有名なポロコタンでした。

『コタン ― 違星北斗遺稿』

余市アイヌの末裔・違星北斗いぼしほくと(明治34-昭和4)は、その書の中で自らの古潭を「イヨチコタン」と呼んだ。余市の本名は、本当はヨイチではなくイヨチだったのだろうか。

余市の由来は?

ヨイチという地名/余市水産博物館

余市の由来は、一説によると「蛇のいる処」の意味だという。あるいは「温泉のある処」とも聞く。

「本当は余市の由来はだけれども、それでは観光地として縁起が悪いので温泉ということにした」とまで言う人もいる。蛇の多い処などと言われてもあまり嬉しくないものだ。

実際のところヨイチにはどんな意味があるのだろうか。蛇なのだろうか、温泉なのだろうか。余市の地名の歴史を調べて、それを考えていこう。

温泉のある処

余市川温泉 宇宙の湯

最初の余市の地名解

余市を温泉処と最初に紹介したのは江戸時代の文政7(1828)年、『蝦夷地名考并里程記』である。年代としては、寛政の改革を行った11代将軍・徳川家斉の時代になる。

夷語イヨチなり。ユウヲチの略語にて、則、温泉の有る所と訳す。さて、ユウとは温泉の事、ヲチとは有る所と申意にて、此川上に温泉ある故、地名になす由。

『蝦夷地名考并里程記』上原熊次郎

yu-ot-iユーオチ で〈温泉のある処〉ということである。この頃からすでに温泉説は唱えられていたのだ。

なおアイヌ語の yu は和語の「」にも通ずる言葉だ。和語から輸入されたわけではなく、古くからの道内各地のアイヌ語地名にも多く見られる。夕張ユーパロのユーもこの yu だという。〈温泉〉を表すが、沸かして飲む「お湯」の意味合いは含まない。おそらく語源となった古語が和語とアイヌ語にそれぞれ派生したのだろう。

松浦武四郎の地名解

松浦武四郎が安政3(1856)年に余市に訪れた際には、「ヨイチ川の沢から吹き出すをヨイチと云」と残している。だが後にこれを修正し、武四郎もまた温泉説を唱えている。

名義はイウヲチなり。イウとは温泉の事、ヲチはある、此水源に温泉有なづけるる也。

其地所は川の事也。此處は本名シュマヲイと云る處也。名義、岩有處とぞ。運上屋の傍にある岩に依ってなづく。

『西蝦夷日誌』松浦武四郎

yu-ot-iユーオチ〈温泉ある処〉という部分は上記の上原熊次郎の解と酷似していることから、恐らくそれを引用したのだろう。

興味深いのは、運上屋のところ、すなわちモイレ山の北側の地名も挙げていることである。suma-o-iシュマオイ〈岩のある処〉で運上屋の傍の岩のことを指しているようだ。たしかに今も「太古の岩」と呼ばれる流紋岩の塊が残っている。あるいは現存はしていないが、昔の錦絵に見える海上の立岩のことかもしれない。

餘市/北海道歴検図/安政~明治初頭/目賀田帯刀
モイレ。中央やや右の茶色い建物が旧下ヨイチ運上家
シリパとモイレのシュマオイ(岩ある処)

いずれにせよ、ヨイチの地名の位置が、モイレ山のところを指していないというのは重要な情報だ。ヨイチの地名の由来は河口ではなく、余市川の水源にあるらしい。

キロロの温泉

余市川の水源といえば、キロロリゾートのあるところである。

そういえば余市岳の登山帰りに、キロロの温泉に寄った記憶がある。「キロロ温泉 森林の湯」というのがあって、露天風呂はたしか源泉100%だった。残念ながら2023年5月現在は休業中なのだが、近々再開するという噂もある。

キロロリゾート/森林の湯

上原熊次郎や松浦武四郎の言う通り、本当に余市川の水源に温泉があったのだ。江戸時代、武四郎を含め、和人が余市川の水源まで遡ったという記録は残されていない。にもかかわらず温泉があるという具体的な情報をアイヌが持っていたということは、この温泉起源説はかなりの説得力があると言えるだろう。

蛇のいる処?

余市川河川標識/仁木大橋

定説

さて、もう一つ、蛇のいる処説にも取り掛かってみよう。ブリタニカ国際大百科事典では余市についてこのように紹介されている。

余市[町]

北海道西部,石狩湾にのぞむ町。 1900年町制。地名はアイヌ語ユーチ (ヘビのいるところの意) に由来。

『ブリタニカ国際大百科事典』

アイヌ語ユーチで「蛇のいる処」の意味だそうだ。こちらが事実上の定説とも言っていいだろう。地名の由来を検索しても、だいたいこれが頭に出てきて、次に温泉説が併記されるくらいになっている。

余市駅の『駅名の起源』でも同様である。

余市駅

アイヌ語「イヨチ」(蛇の多い処)から転訛したものである。イヨチの語源は「イ・オッ・イ」(それが・群在する・所)で昔は余市川筋には蛇が多く棲息していたためそういわれたのである。

『北海道駅名の起源』

この蛇説の出処はどこなのだろうか。

永田地名解

蛇説を最初に唱えたのは明治20(1891)年の永田方正。いわゆる『永田地名解』による。

「イオチ」(Io chi)なり。蛇多く居る處の義。

往時、余市川筋、蛇多し故に名付く。十勝国中川郡「トシュペッ」(蛇川の義)支流に「イオナイ」(Io nai)アリ。蛇川の義、北見国紋別郡に「イオチコタン」(Iochikotan)あり。和人「ユーチ」(Yuchi)と訛る、蛇村の義なり以って證とすべし。

余市村のアイヌ忌みて實を語らずといえども、他部落のアイヌは蛇處と言うを知るなり。舊地名解「イウオチ」にして温泉ある義と説きたるは非なり。

『蝦夷語地名解』永田方正

ヨイチは本当は「イオチ」で「蛇の多く居る処」の意味だけれども、忌むべき名前だから余市アイヌはそれを語らない。でも他のコタンのアイヌは本当の事を知ってるよ。

……という話である。なるほど、なかなか興味深いところだ。そこはかとない悪意のようなものがちらついている気がする。

忌むべき蛇

我々も「蛇」というとあまり良い印象を持たないものだが、アイヌ達にとってはそれをさらに上回る感情が伴う。強い畏敬と嫌悪の対象だった。口に出すのも忌むべき存在であったらしい。

アイヌの龍蛇は概して、湖沼に棲み悪臭を放つものと考えられており(中略)、サクソモアイェプ(sak-somo-ayep “夏には言わせぬ者”・”夏季にその名を口にしてはならない者”; サㇰ”夏”+ソモアイェ”人が言わない+ㇷ゚”者”)などと呼称される。(中略)
サクソモアイェプはひどい悪臭を放ち、この体臭に触れた草木は枯れ果て、人間がホヤウカムイの居場所の風下にいると体毛が抜け落ちたり、皮膚が腫れ上がり、近づきすぎると皮膚が焼け爛れて死ぬことすらあるともいう。

ウィキペディアの執筆者,2023,「ホヤウカムイ」『ウィキペディア日本語版』,(2023年5月27日取得)

かなり強い負の感情を感じる。アイヌたちは恐るべき存在を惣じてkamuyカムイ〈神〉と呼んだが、いわゆるところの「神」とは違い、崇拝する対象というより、近寄りがたい、刺激すべきではない災厄のような存在として見ていた。

「イオチ」とはすなわち i-ot-iイオチ〈”それ“のいる処〉で、そこに「蛇」という語は含まれていない。名前を出すのもはばかられるので「それ」で済ませているらしい。

この i〈それ〉が表すものは蛇だけに限った話ではなく、例えば小樽の色内イロナイi〈それ〉はキムンカムイすなわち「熊」を指すのだという。じゃあなぜ余市の「イ」は熊ではないのだろうか。本当に余市に蛇はたくさんいたのだろうか。

また自分たちのコタンに、あえてこのような名前をつけるだろうか。少し疑問の残るところである。

“オチ” の用法

2つの地名解を文法的に比べてみよう。

  • yu-ot-iユーオチ〈温泉ある所〉
  • i-ot-iイヨチ〈蛇のたくさんいる所〉

先頭が yuユー〈温泉〉 か、 i 〈それ〉かの違いだけで、後半はどちらも ot-iオチ を使っている。この ot のニュアンスが少し気になるところである。

知里辞典では otオッusウㇱ〈群在する〉とほぼ同じような単語として扱っているが、他の辞典や地名の例を見ると、どうにも何でもかんでも ot を使えるわけではないらしい。ot は「液体が溜まっている」あるいは「魚が集まっている」といった場合に使われ、単純に「たくさんいる」とは少しニュアンスが違うようだ。

もしこの ot を蛇に適用するなら、何匹、いや何十匹もの蛇が絡みながらうようよといるような情景が想像されてしまう。あまりにも気持ちが悪い。一方で「温泉が溜まっている所」であればとても自然な ot の使い方だ。湧き出してきた温泉が窪地などに溜まっていたのだろう。

他コタンの悪口

ではなぜが出てきたのだろうか。永田地名解では、「余市コタンのアイヌはあえて真実それを言わないけど、他コタンのアイヌは本当へびのことを知ってるよ。」という論調だった。この記述を見て、少しピンとくるものがあった。以前にフゴッペの由来を調べていたときに出てきた話である。

 往古「鍋を持たない土人がいて生物なまものばかり食べていた」というので、その土地を、フーイベと余市のアイヌは名を附けていた。然るに同じ土地を忍路おしょろのアイヌは、蛇が沢山いるところだったのでフウコンベツと呼んでいた。 地名及び領域を調査した開拓当時、はしなくもこの土地が問題になった。余市アイヌは、蘭島とフゴッペの中間の山を境界に余市領だと主張したのに反し、忍路のアイヌは、否、ポントコンポをもって境界とすると争うたという。結局余市の主張したことによって決定して以来フウクンペとなまりて畚部の文字を宛てたという。

『コタン ― 違星北斗遺稿』

フゴッペの住人を忍路のアイヌが「蛇の沢山いる処」だと呼んだというのである。フゴッペの地名解は hunki-o-petフンコペッ砂丘の川〉で、もちろん蛇など関係ない。要するに他コタンからの悪口である。

なんだか見えてきた感じがする。永田方正はこのフゴッペの話と混同したのだろうか。あるいは「余市は蛇のいるところだ」と永田方正に吹き込んだのは、もしかすると石狩アイヌの古老エカシ・琴似又一かもしれない。このあたりの地域の地名説話はだいたい彼の話に基づいている。

つまりは「本当はヨイチはイヨチで蛇のいるところだけど、余市アイヌは真実を隠している」のではなく、「ヨイチは蛇のいるところだと他所のアイヌが悪口を言ったのを、真に受けてしまった」というのが真相に近いように感じる。

余市はイヨチなのか

原名:イヨチ/和名:ヨイチ?

アイヌ語は母音の i と o が連続すると間に y の音を入れる傾向にあるので、「イ・オチ」は「イチ」となる。それにしても「イヨチ」である。「ヨイチ」ではない。

「ヨイチ」か「イヨチ」か…このアナグラム的な入れ替えはいつ起きたのだろうか。どちらが正しいのだろうか。

『山川図』/イヨチとヨイチ

松浦武四郎の『東西蝦夷山川地理取調図』を見ると、たしかに余市川河口を「イヨチ」とし、「下ヨイチト云」「上ヨイチト云」というのを併記している。この「~ト云」という書き方は、アイヌ語ではなく和人がそう呼んでいる地名の表記方法だ。

ここからするとイヨチが本来のアイヌ語で、ヨイチは和語であるようにも見える。それで、アイヌがイヨチと呼んでいた所を、和人がヨイチと変えてしまったのだと批判の対象にされることもある。

だが本当にそうなのだろうか。

江戸時代に見えるヨイチの地名

ヨイチという地名が初めて出てくるのは江戸時代初期の寛永20(1646)年。松前藩による『新羅之記録』に「與依地よいち」とあるのが知る限りの初出である。

江戸時代の地図・文献に見えるヨイチの地名を追いかけてみよう。

江戸時代の文献年代年号地名地名
新羅之記録1643寛永20與依地
松前蝦夷図1667寛文7ヨイチヱソ
松前島郷帳1700元禄13もいれよゐち
元禄国絵図1700元禄13もいれよいち
越後屋蝦夷全図1725文政1?ヨイチ
松前蝦夷地理之図1728享保13ヨイチ
津軽一統志1731享保16與市
松前蝦夷地一円之図 1779安永8ヨイチ
林子平蝦夷国全図1785天明5モレイヨナイ
長久保赤水蝦夷松前図1786天明6?カミヨイチシモヨイチ
最上徳内蝦夷諸島精図 1790寛政2ヨイチ
西蝦夷地分間1792寛政4モイリヨイチ
加藤寿松前地図1792寛政4?ヨイチ
文化蝦夷図1805文化2?ヨイチ
蝦夷カラフト図1808文化5ヨイチ
村山写松前蝦夷地嶋図1816文化13モイレサキヨイチ
間宮河川図1817文化14上下ヨイチイヨチ
文化改正拾遺日本北地全図1818文化15?ヨイチ
伊能大図1821文政4下ヨイチ上ヨイチ
松前蝦夷地絵図1825文政8?よいち
高橋景保図1826文政9下ヨイチ上ヨイチ
蝦夷地名考并里程記1828文政11イウヨチ夷語イヨチ
天保国絵図1838天保1ヨイチ
今井測量原図1841天保4モヱレヨイチ
蝦夷闔境輿地全図1853嘉永6上ヨイチ下ヨイチ
蝦夷地全図1854嘉永7上ヨイチ下ヨイチ
改正蝦夷全図1854安政1ヨイチ
北接古図1854安政1モレイキヨイチ
東西蝦夷山川地理取調図1859安政6上下ヨイチイヨチ
官板実測日本地図1865慶応1下ヨイチ上ヨイチ
江戸時代の地図に見えるヨイチの地名

調べてみると意外なことが見えてきた。松前藩が置かれてから200年あまり、その間に「イヨチ」という地名を記録している史料は一つもない。では一体誰が「イヨチ」と言い出したのだろうか。

前述の上原熊次郎の『蝦夷地名考并里程記』と松浦武四郎の『東西蝦夷山川地理取調図』の他には、「イヨチ」と書いているのは『間宮河川図』ただ一つなのである。

間宮河川図

そして松浦武四郎は、この『間宮河川図』を大幅に参考にして蝦夷山川図を描いたことがわかっており、彼の手控フィールドノートには間宮河川図の地名がびっしりと転記された跡も見える。

また上原熊次郎は元々、東蝦夷地で通詞をしていた人物で、その後松前で勤務するようになったが、そのときに松前藩に提出された『間宮河川図』を見て地名解を書いた可能性がある。

加えて間宮林蔵の測量を元にして描かれた『伊能大図』は、『間宮河川図』と多くの地名の共通点が見られるが、余市に関しては「イヨチ」から「ヨイチ」に修正されている。

上記の表に挙げたリストは代表的なもので、それ以外にも様々な地図や日誌、地理書などに目を通してみたが、イヨチとしているものは他に見つからなかった。

間宮林蔵は一体誰からイヨチという地名を聞いたのだろう。もしかしたら昔はイヨチと呼ばれていたのではなく、イヨチというのは単に、間宮林蔵の誤字なのでは……?そんな疑惑が見えてきた。

武四郎はイヨチを聞いていない

松浦武四郎は手控や日誌はもちろん、地図の下書きの『川筋取調図』でも「ヨイチ」と書いていたが、最後の最後の『東西蝦夷山川地理取調図』で「イヨチ」と直してしまったために、後代にまでその余波を残してしまった。恐らく間宮河川図と上原熊次郎解を見て慌てて直したのかもしれない。

松浦武四郎はこの『東西蝦夷山川地理取調図』を描く前に、余市を3度訪問している。

訪問の際は現地アイヌを案内人につけたが、その現地調査の記録に、「イヨチ」の表記は一切出てこない。現地では一度もその名前を聞いておらず、当時の余市アイヌも自らの古潭をイヨチとは言わなかったようである。

では他所のアイヌはどうだったろうか?松浦武四郎の第六航、彼は虻田と札幌のアイヌを連れて中山峠を越え、定山渓の温泉に浸かったことがある。その時、定山渓の西にある豊平川支流・白井川について虻田アイヌ・トネンハクから聞き取り、その地名の意味を記録している。

ヨイチヲマフナイ

此川源はヨイチ岳の方より来るが故になづく

『東部作発呂留宇知さっぽろるうち之誌』松浦武四郎

これと同じ地名が、明治20年の地名解ではこのように説明されている。

イヨチ オマ サッポロ

余市の方より来る札幌川。余市の原語は「イヨチ」なり。魚獣及び蛇蝎等多きを云う

『蝦夷語地名解』永田方正

蛇蝎だかつの如く、とはよく言ったものだが、これはあんまりではないか。

別の河川図から

白井川について、別の人物が地図に起こしたものもある。この地図の作者は定かではないが、地図の複製が津軽藩や石狩の村山家などに伝わっており、広く用いられていた地図のひとつのようである。間宮河川図よりも年代が古く、間宮林蔵の”息”がかかっていない河川図としては大変貴重なものである。

文化七年蝦夷地図抄写本/作者不明

この地図では「ヨウチヲマサッホロ」となっており、イヨチではない。余市の方はヨイチとしているので、そちらに合わせたわけでもないようだ。サッポロ方面の現地アイヌからの聞き取りでやはり「ヨウチ」と呼ぶのを聞いていたのだろう。この発音は yu-ot-iユウオチ〈温泉ある処〉にかなり近い。

イヨチ……避けるべき蔑称

でもアイヌ達は文書を残さないから、余市アイヌはひそかに自らをイヨチと呼んでいたのではないのか?それを完全に否定することはできないが、少なくともその裏付けとなる史料は見つからなかった。例えば余市アイヌの惣乙名代イコンリキが秋味シャケ漁に対して御用所に奉願書を出しているが(『乍恐以書附奉願上候』/林家文書)、その中でも勿論「ヨイチ」表記である。

だいたい、自らの古潭を「蛇の村イヨチコタン」などとあえて呼ぶだろうか。ヘビを “蛇蝎の如く” 嫌っている彼らが本当にそう自称したとは思えない。

「元々アイヌはイヨチと呼んでいた土地を、和人がヨイチと呼び替えた」という論はやや怪しくて、「元々ヨイチだったけれど、間宮林蔵がイヨチと誤って書いてしまった」というのがどうにも真相に近い気がする。

現代では、アイヌ達に配慮してあえてヨイチをイヨチと言い換えているケースが見られるが、江戸時代のアイヌが自ら「イヨチ」と呼んだ記録はなく、ましてや「ヘビが多い」などという説明は明治中盤になってから和人によって付け加えられた後付の説明である。むしろ悪意を持ってつけられた蔑称であり、本当にアイヌ達のことを思っているならイヨチの積極的な使用は避けるのが賢明かもしれない。

余市の地名解

他の地名解

温泉と蛇説について考えてきたが、余市の他の地名解についても少し触れておこう。

  • 「寅卯の風」をヨイチという
  • イヨチで「目が眩む」
  • イヨティーンで「蛇のように曲がりくねった大きな川のある所」
  • 英雄ヨイチ彦の太刀が無数のヘビと化した

いずれも、アイヌ語地名の意味としてはあまり例のないもので、ここでは深くは取り上げない。少なくとも「イヨチ」「蛇」をベースにしている説は除外しても良いだろう。それにしてもイヨティーンはなかなか楽しい響きである。

アイヌ語 yu の再検討

従来 yuユー〈温泉〉 と解釈されてきた地名解が、永田方正や知里真志保によって i〈それ〉 とされたものの、再び yu に立ち返りつつある……。実はこれは余市だけの話ではない。

アイヌ語地名研究会20周年記念号には『アイヌ語yuの継受と変容』(明石一紀)という論文が載っており、そこで yu の意味が〈温泉〉に限らずもう少し幅のある意味を持つことが明らかにされ、夕張・勇払・由仁などの地名解が i から yu に戻されていることが紹介されていた。

この記事を書き上げて最後の見直しをしているときにたまたまその論文を見かけたのだが、状況はこの余市の問題とよく似ているなと感じた。

温泉ある所

では余市の由来は「温泉のある所」なのだろうか。それを否定する明確な根拠はない。強いて気にかけるとすれば、「ユウオチ」と「ヨイチ」は若干の音のズレがあること、そしてこの説を最初に唱えた上原熊次郎は間宮林蔵のイヨチ表記を参考にしていた可能性があることである。

アイヌ語は「ウ」音と「オ」音の区別が曖昧で、頻繁に混同される。「ユウオチ」は「ヨーチ」と読まれることはあっただろう。そこからヨイチとなったとしてもそれほど不思議ではない。また上原熊次郎は東蝦夷地で通詞をしていた人物である。その後松前で勤務するようになっても、西蝦夷の余市のことはそこまで詳しくなかったかもしれない。にも関わらず「余市川の水源に温泉がある」という事実を残しているので、この説には一定の信憑性があると言っていいだろう。

よって他に有力な説が現れない限り、余市の由来は

  • yu-ot-iユーオチ温泉ある処

である。という説を支持したい。

後方羊蹄

阿倍比羅夫の蝦夷征伐

飛鳥時代、越の国の将・阿倍比羅夫あべのひらふは斉明天皇の命で東北・蝦夷地に遠征し、蝦夷えみし粛慎みしはせを討った。その際に、「後方羊蹄」まで攻め上り、そこに政庁を置いたと『日本書紀』にある。

可以後方羊蹄爲政所焉。肉入籠此云之々梨姑、問菟此云塗毗宇、菟穗名此云宇保那、後方羊蹄此云斯梨蔽之。政所、蓋蝦夷郡乎。

『日本書紀 巻第二十六 斉明天皇紀』

「後方羊蹄」と書いて「しりべし」と読むそうである。

武四郎と後方羊蹄山

余市岳から見た羊蹄山

この後方羊蹄しりべしが蘭越からニセコ・倶知安にかけての尻別しりべつ川流域だと考えたのは新井白石で、スキー場のある比羅夫ひらふはこのエピソードにあやかり現代につけられた地名である。

自身を阿倍比羅夫の末裔と考えていた松浦武四郎は、なんとかこの後方羊蹄に行ってみたいと思っていた。当時アイヌにマッカリヌプリあるいはマチネシリと呼ばれていた山が後方羊蹄ではないかと考えて後方羊蹄山しりべしやまと呼び、そこを目指すことにした。

『東西蝦夷山川地理取調図』に見える後方羊蹄山

ところがソウツケ(倶知安)までの道はなく、尻別川の激流に阻まれて一度は断念する。諦めない武四郎はぐるっと遠回りし、岩内アイヌに案内を頼み込んだ。苦労の末なんとか山越えでソウツケに達し、遂にこの山を間近で見ることができた。この時の旅日記は『曾宇津計そうつけ日誌』としてまとめられている。

できることなら本当は登りたかったらしく、創作エピソードも含まれた『後方羊蹄しりべし日誌』では実際にこの山に登ったことになっている。武四郎の願望が強く現れた形になる。

武四郎の書いた羊蹄山と尻別岳/『後方羊蹄日誌』

武四郎は「倶知安」を阿倍比羅夫が政庁を置いたところだと考えたわけだが、図らずとも自ら倶知安ではないことを証明している。すなわち尻別川は激流で船で遡ることが困難であり、岩内廻りで行くにしても困難な山越えをしなくてはならない。1000年以上前に阿倍比羅夫が大軍を引き連れてそこまで達したと考えるのはなかなか無理がある話である。

では後方羊蹄とは一体どこにあったのだろうか。

羊蹄と余市

余市岳

「ようてい」と「よいち」。そういえば響きが随分と似ている。アイヌ語地名で「ヨ」から始まる地名は他の音と比べて極めて少なく、「ヨイチ」のほかは「ヨベツ」と「ヨコウシベ」くらい思いしかない。

もし羊蹄を「ようてい」と読むのだとしたら、後方羊蹄山はもしかすると「余市岳」のことではないだろうか。政庁を置いたのは、その麓の余市川河口だったのではないか。

そのような考えが出ることも不思議ではなく、後方羊蹄の候補地 として余市もまた手を挙げている。尻場山の麓には地元の郷土史研究家達が建てた「阿倍引田臣比羅夫之像」がひっそりと木陰に隠れるようにして立っている。

果たして後方羊蹄とはどこのことだったのだろうか。

阿倍引田臣比羅夫之像/余市町港町

参考文献

  • 『アイヌ語地名資料集成』草風館
  • 『地名アイヌ語小辞典』知里真志保
  • 『北海道蝦夷語地名解』知里真志保
  • 『データベースアイヌ語地名 後志1』榊原正文
  • 『余市町史 通史 第2巻』『第3巻』『資料編1』
  • 『北海道の地名』山田秀三
  • 『北海道地名誌』NHK北海道本部編
  • 『アイヌ地域史資料集』平山裕人
  • 『アイヌ語古語辞典』平山裕人
  • 『ブリタニカ国際大百科事典』
  • 『コタン ― 違星北斗遺稿』
  • 『アイヌ語1 yu の継受と変容』アイヌ語地名研究会
  • 『余市町でおこったこんな話 204』『157』『158』余市町
  • 『北海道のアイヌ語地名 (45) 「余市・古平・美国・婦美」』Bojan International

※文中で挙げた江戸時代の地図・文献については省略

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