美しき神恵内の地形
絶景の宝庫・神恵内
神恵内村のイメージと言えば、小さい頃にキャンプをした「青少年旅行村」と、「オスコイ!かもえない」がある所くらいなもので、あとは何もない印象があった。
だが蓋を開いてみると溢れるほどの魅力に満ちている素晴らしいところである。小樽の赤岩・オタモイ海岸の風景が好きな自分にとって、まさに奇岩・断崖絶壁の宝庫と言える神恵内の海岸線は語りきれないほどの魅力に満ちている。
そのすべてを紹介したいが1ページには収まりきらないので、とりあえず最初の入口部分である祈石から竜神岬までの地名を見てみることにした。160年以上前にこの地を訪れた松浦武四郎が残したスケッチとも比べながら現地の風景を見ていこう。
祈石の5つの入江
泊村の茂岩を抜けて神恵内にでると、壮大な海岸線の風景が広がる。祈石大橋である。いくつもの入江が連なるように並んでおり、その上を大胆にも大きな橋をかけて通過する。かつては入江ひとつひとつの奥まで入り込んで、何度もカーブしながら車を進めたものだが、今は快適なものである。その旧道がまだ残されており、その手の旧道マニアにはよく知られている場所かもしれない。
この祈石地区には5つの入江がある。まずそのそれぞれを見てみよう。
地名 | アイヌ語地名 | 地名の意味 |
---|---|---|
神泊 | ポンイヌルウシ | 小さい方の祈石 |
祈石 | イヌルウシ | 海岸伝いに回る処 |
弁財澗 | ラムネトマリ | 深い泊 |
魚谷 | オータニ | 砂浜の処 |
尾根内 | ヲンネナイ | 老大な川 |
なお地理院地図では「祈石」と「ポン祈石」の位置がズレている。大正時代の地理院地図でもすでに間違っていたのでその誤りが正されていないのだろう。橋の名前や橋名板に記された字名、マップル地図の字名などでは正しく祈石の位置が示されている。
祈石
祈りの石
祈石で「いのりいし」と読む。最初これが読めず、近くにキナウシがあることから、キナウシに漢字を当てたものが祈石だと勝手に思い込んでいた。
「祈りの石」とはなんとも神秘的な名前である。人々が祈りを捧げた大岩でもあったのだろうか。そういえばちょうどここに茂岩神恵内道路の開通記念碑が立っていた。神恵内の住民にとっては悲願の道路であっただろう。
大正時代の古い地図では「イヌルイシ」とルビが振ってある。西蝦夷日誌などでは「イヌルウシ」としている。やはりアイヌ語に由来する地名であるようである。ではイヌルウシとはどんな意味なのだろうか。
仮小屋のある処?
まずは永田地名解を見てみよう。
Inun ushi イヌンウシ
漁猟の假小屋ある処
『蝦夷語地名解』永田方正
inun-us-i で〈漁の仮小屋がある処〉という意味らしい。萱野辞典や田村辞典によると inun は〈食べ物を探す〉とか〈魚とりをする〉という動詞になっているが、知里辞典によるとそれに加えて inun-chise〈海の岸に立てて漁季だけ寝泊まりする小屋〉を省略した名詞としても inun は働くらしい。よって inun-us-i は〈魚捕りをしに行く処〉〈仮小屋のある処〉どちらにも解釈できる。
それにしても inu-us-i なら「イヌヌシ」になる。「イヌルウシ」ではない。r の音はどこから来たのだろうか。この点が山田先生も気になったようで、以下のように注解している。
この地名はイヌンウシ、また連声してイヌヌシであったが n → r の転訛で今の名になった。
『北海道の地名』山田秀三
しかしこれはちょっと奇妙である。アイヌ語の転訛にはいくつかのパターンがある。
- r + n → n n
- r + r → n r
という変化が起きることはよく知られている。アイヌ語の r の音は非常に流動的で、まわりにつられてよく変化するのだ。だがその逆に、n の音が r に転訛するというのは聞いたことがない。
イヌルカルウシ
そこで、イヌルウシの他の表音パターンがないか探してみた。いくつかの絵図では「イスルイシ」になっていたがこれは単純な誤字だろう。寛政年間の『西蝦夷地分間』にかなり重要な手がかりを見つけた。
「イヌルカルウシ」とある。この『西蝦夷地分間』は松浦武四郎の旅した時代より50年も前の年代であり、より生のアイヌ語地名が保存されていやすい史料である。このイヌルカルウシが原名であった可能性が高いだろう。カルの音が含まれる解を考えてみよう。
inun-kar-us-i 〈仮小屋をいつも作る処〉。これはかなりいい感じである。あるいは一般的な inkar-us-i〈いつも見張りをする処〉という地名も考えられるが、少し音が離れる。しかしもっといい案を思いついた。
in-rur-kari-usi〈海岸伝いにいつも回る処〉。これはどうだろう。ir+rur で前述の 「r+r→nr」の音韻転訛が起こり in-rur になる。これはぴったりなのではないだろうか。in-rurのこの用法は知里辞典に載っている。
海岸伝いに回る処
現地を観察してみると、祈石の道路開通記念碑のある崎だけは、岬の先端に平磯が広がっており、海岸伝いに歩いて隣の入江に行くことができる。一方、他の崎は切り立っているので山側に迂回しなくてはならない。ここだけは海岸伝いに歩いて行くことができるのだ。
『古老が語る神恵内』という冊子にはこんな経験談がある。
茂岩からの帰り道
時化の時は山を歩き、なぎのときは磯づたいに行ったものでした。(中略)
帰り道、年寄り連中は山を越え、若い連中は海岸添いにということで相談がまとまりました。我々はそのときあまり波がなかったので、岸辺を通らず岩をぴょんぴょん跳ねて、途中まできたときのことでした。急に波が出はじめ、岩を波が洗うようになったので、(後略)
『古老が語る神恵内 -その時私は見た聞いた-』神恵内村
その後、この体験を語った方はぎりぎり助かったけれども、一緒にいたもう一人の少年は海に落ちて帰らぬ人となったという話である。
いずれにせよここは凪の時に磯伝いに歩いたことは確かなようで、〈海岸伝いに回る処〉という地名解はぴったりのような気がする。『弘化蝦夷日誌』によると、祈石の岬を廻ると「大岩石が立ち重なり人間は通行せざる」ゆえに、ここから運上屋のところまで山越道が伸びていたようだ。
江戸時代に記録によると祈石は番屋が建つような入江であった。先史時代の遺跡もあったようで、アイヌたちも仮小屋を一時的に建てるのではなく、定住していたのではないだろうか。
よって祈石は in-rur-kar-us-i で〈海岸伝いにいつも回る処〉であったと考えたい。
他の4つの入江
祈石地区の残り4つの入江の名前についても考えよう。いずれも橋の名前として残っている。
ポン祈石(神泊)
茂岩トンネルを出たすぐの、神泊大橋のかかっている入江。橋名板は「神泊大橋」だが、「ポン祈石」の方も書いてある。字名は今も「ポン祈石」であり。神泊は通称になるだろう。
ポン祈石は「祈石の小さい方」という意味で、回るところがもう一つあったというよりは、祈石の岬の「小さい側の入江」という意味合いと思われる。
なお岬下の岩礁は「ほっけ澗」と字名がついている。西蝦夷各地にある地名で、pok-ke〈崖下の処〉の意か。
ラムネ泊(弁財澗)
弁財澗大橋がかかっている入江。バス停の名前としても残っている。ここで乗降する乗客はいるのだろうか。弁財澗もしくは弁財泊は江戸時代からすでに見える地名である。
「両岸峨々たる高山、千石船は三艘位まで容によろし。」(廻浦日記)とあり、他の入江と比べてもとりわけ高低差が激しい。廃道・遺構好きな人には有名な旧旧道の「弁財橋」が残されており、岩を穿いて道を通し、橋を架けた跡をまだ観察することができる。
rawne-tomari〈深い泊〉の意味で、rawne は深い谷間になっているような地名を指す言葉である。船を停泊させるのに都合が良かったらしく、弁財澗というのも「弁財船の停泊地」という意味合いで呼んだのだろう。
魚谷(大谷)
魚谷大橋がかかっている入江。魚谷で「おーたに」と読む。かつては「大谷」の漢字が当てられていた。
ここだけアイヌ語地名が不明。文字通り「大きい谷」のという和名かもしれないが、『蝦夷山川図』には「ホロユタウシ?」という謎の地名がラウトマリの隣にあり、ここから連想すると ota-un-i〈砂浜の処〉もしくはmo-ota-un-i〈小さな砂浜の処〉あたりが原名だったのかもしれない。現在は小石浜になっているが、かつては祈石砂丘というものがあったらしく、いくらか砂浜にもなっていたのではないだろうか。西蝦夷日誌によると、少なくとも隣のオネナイは砂浜だったようである。
また魚谷は海岸部分が丘によって2つの小湾に分かれており、大きい方がホロオタニ、小さい方がモオタニだったのかもしれない。
『東西蝦夷山川図』は「ライメツヘ」という地名を挙げているが、この地名は現存しておらず、他の史料にも出てこないのでどこを指していたのかはよくわからない。永田地名解によると「神ヘ供物ヲ捧クル處」とあるが、おそらくraymun-us-pe〈ハマニンニクの群生地〉あたりではないだろうか。海岸にはススキのような植物が群生していたが、あれがススキだったかハマニンニクだったかはわからない。なお『データベースアイヌ語地名後志』では rawne-pe〈谷深い所〉の転訛と考え、この魚谷のアイヌ語地名ではないかとしていた。
尾根内
尾根内大橋がかかっている入江。尾根内もバス停の名前や字名として残っている。5つの入江の中では一番幅が広く、橋としても長いと思う。onne-nay〈老大な川〉の意味で、各地に見られる地名。
永田方正はオンネナイを「音川」と解しつつも、それはアイヌの古老が言ったことで「疑はし」としている。ここに限らず永田地名解には古老の怪しい説話が散在しており、後代の批判の的に晒されることになった。疑わしいと思いつつもアイヌの古老が言ったことだから載せないわけにはいかないと、彼なりに苦労したのだろう。
オネナイには袋澗の跡が残っており、戦前までは大規模に鰊漁が行われていたことを示唆している。
神恵内村南部の地名
ついでに神恵内の市街地と祈石の間にある、ホロシマ・トラセ・ヘルカ石・竜神岬という今にも残る4つの地名についても見てみよう。
ホロシマ
ホロシマという字名がまだ残っており、オネナイとトラセの間に位置する。GoogleMapでホロシマと入力すると家一軒だけの狭い範囲が表示されるが、実際にはトラセのバス停や少し先の駐車場のあたりまで含まれる。
ホロシマとは poro-suma〈大岩〉の意味を指していると思うが、これが具体的にどこをさしているのかがよくわかっていない。ぱっと思いつくのは竜神岬の先端だが、少し位置がズレている。
海岸にはこれっといった目立つ岩島はない。というよりこのあたり礁岩だらけでよくわからない。小樽高島のホロカハルシが平磯を指していることからホロシマもそれなのかもしれないが、祈石の方までずっと平磯が続いているのであえてここだけホロシマと呼んだだろうか。
廻浦日記では「イナヲシュマ」になっているのが気になった。西蝦夷日誌ではイナヲシュマとホロシュマイは分けて書かれているが、西蝦夷日誌はその性格上、複数の記録をマージして書かれているので、同じ場所を違う地名で別々に書くことがしばしばある。イナヲシュマ=ホロシュマと見て良さそうだ。
イナウ(木幣)が捧げられた岩と言うと、いよいよ竜神岬が当てはまりそうに思う。が、どうにもアイヌは竜神岬を特別視していなかったような感じがする。単に「トラセ岬」とするだけで、特別な名前がついていない。
アイヌがイナウを掲げる場所といえば、交通上の危険箇所と相場が決まっている。
尾根内橋の左手に岩山が聳え立っており、昭和時代に岩を切り開いて道路を作った跡が見える。この岩山をかわすには谷の奥まで大きく迂回しなければならず、アイヌたちは危険を顧みながらも、イナウを掲げてここを通過していたのかもしれない。
と、ここまで書いたところで、武四郎のスケッチの中にイナヲシユマが描かれていたことに気付いた。やはり間違いないようで、ヲンネナイとヘロカロウシの間にある岩山で、トラセ(竜神岬)とは別物である。この岩山こそがホロシュマでありイナヲシユマであったようだ。スケッチをよく見ると岩の一部がコの字に削れている。もしかしたらそこを恐る恐る通ることなどがあったのだろうか。
トラセ
トラセはバス停の名前として残っている。このトラセという文字を初めて見たときに強い印象に残った記憶がある。ちょっと不思議で響きがいい名前だ。虎瀬という漢字が一瞬頭をよぎったが、公式には特に漢字は当てられていないように見える。さながら竜虎の如し。
トラセというと竜神岬のことを指すこともあるが、意味を考えると岬そのものの地名というよりはこのあたりの道のことを指していたようにも思う。
Torashi トラシ
登る處
此處よりヲンネへ行くにも古宇へ行くにも岩上を登り行くを以って名く
『蝦夷語地名解』永田地名解
ということで「登る処」の意味のようだ。竜神岬まで降りてみたことがあるが、結構な急斜面になっておりスニーカーでは心許ないくらいの場所になっていた。まさに登る処である。さらにトラセからヲンネナイ方向まで行くときは前述のイナヲシュマの危険な岩山まで登っていったのだろう。
ただし turasi〈~に沿って登る〉は動詞であり、最初からこれ単体で地名になっていたとは考えにくい。何かが省略されているのだろう。「人が~する」という地名は、頭に chi を置くか 動詞に us がつくと相場が決まっている。これが無いように見える時は省略されている可能性が高い。
『西蝦夷地降雨場所海岸切絵図』では「トヲウシ」となっており、後ろに us-i が入っていたことを示唆している。よって元々は turasi-us-i〈~に沿って登る処〉だったのだろう。ただし萱野辞典によると turasi は他動詞もしくは後置副詞となっている。文法的には、何に沿って登るかが明示されていなくてはならない。
hur-or-turasi-us-i〈坂に沿って登る処〉ではなかったろうか。そう、古宇の由来はこんな所にあったのだ。
ヘルカ石
ヘルカ石は神恵内村商工会の建物のあるあたりの字名で、ここで神恵内村のシンボルのどらごん太君が出迎えてくれる。ここまで来ると「神恵内へやって来た」と実感する場所である。
地名解は heroki-kar-us-i〈鰊を穫る処〉。古宇もまた鰊漁で栄えたところであり、特に悩むところはない。西蝦夷だけでこの地名は5~6箇所はあるが、古平郡群来村のように和訳されるか、地名としては使われなくなるかで、ヘルカ石のように現在もアイヌ語らしい地名で残っているのは珍しいかもしれない。
ヘルカ石の海岸はいくつかの丘で区切られている。ここに岩を穿った隧道があり、知る人ぞ知る場所となっている。
商工会の裏の沢は「字ジロクサシナイ」と呼ばれる。sir-o-kes-us-nay〈山裾につく川〉あるいはsir-o-kus-us-nay〈山尻を通る川〉あたりだろうか。和名では「字十防ノ沢」である。
この駐車場のところに松浦武四郎の歌碑がある。これまで見てきた入江のスケッチを描いた人物だ。彼は弘化3(1846)年と安政3(1856)年の2度、この古宇の地を訪ねている。武四郎は各場所につき数枚程度のスケッチを書いているが、古宇場所に関してはなんと26枚ものスケッチを残している。ここにはよほど心を打つ景色があったのだろう。
しばらくの 晴間も見えで ふるふの海 里の名しるく 五月雨なり
『西蝦夷日誌』松浦武四郎
古宇と降雨をかけている。幸いにも、自分が訪れた時は綺麗に晴れていて、美しい景色を見ることができた。
竜神岬
竜神岬は神恵内村のシンボルである岬。「どらごん太」と「たつ姫」というご当地ゆるキャラがおり、神恵内市街地には至るところに竜を模した装飾が見られる。シティサインもこのどらごん太である。
岬の先端の丘には竜神社があるが、そこに至る道は非常にわかりにくい。先日行ってみたときも、背丈を超える藪に阻まれてかなり苦労した。
村に伝わる龍神伝説は、当丸沼に棲んでいた竜神がこの竜神岬に降りてきて昇天したというものだ。伝説の出処については詳しくないが、おそらくアイヌではなく和人によって語られた伝説だろう。アイヌには竜という概念がなく、それに近い存在である蛇は忌み嫌われている。よってそれをありがたがるということはあまりしないはずである。
ではなぜ竜がいると言われるようになったのか。その理由らしきものを偶然見つけてしまった。
この岩である。竜神岬の北側にある立岩だ。どうだろう。海に向かって吠えたける小さな竜のようにも見えないだろうか。どこにも書いていなかったのではっきりしたことはわからないが、この岩が竜のように見えるために、いつかし竜神伝説が語られるようになったのではないだろうか。
あれだけ町をあげて竜を推しているのだから、この岩ももう少しアピールしても良さそうだが、ここに至る道は藪に包まれていてなかなか到達しにくい。興味がある人は探してみるのも面白いだろう。
カモエナイはどこにある?
そして肝心の「神恵内」。これはどういう意味なのだろう。おそらくkamuy-nay〈神の川〉の意味だと思うが、村の中心を流れる川は「古宇川」である。この地は昔からフルウと呼ばれてきた。カモエナイは一体どこの場所を指していたのだろうか。
また古宇の地名は「鵜の棲む所」とか、「赤い川」などの意味とも言われる。それは本当だろうか。
少し長くなってきたので、それはまた次の機会に考えることにしよう。
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