後志の港町・岩内
岩内は北海道後志のほぼ中心部に位置する街である。
後志管内では小樽・余市・倶知安に続き第四の都市となっている。小樽に次ぐ大きな港を持っており、かつてはフェリーが就航していたこともあった。今も港町のイメージが強い街である。
西蝦夷の海岸の例に漏れずかつてはニシン漁で栄えた漁港であったが、ニシンが取れなくなってからはいち早くスケトウダラに切り替え、その漁獲量から「スケトウダラ王国岩内」とまで言われたことがある。岩内のマスコット「タラ丸」は岩内のシンボルとなっている。「日本のアスパラガス発祥の地」でもあり、彼の手にはアスパラが握られている。
岩内町の範囲
後志といえば海岸は岩と崖ばかりという印象であるが、岩内平野は後志最大の平野となっており、農業も盛んに行われている。
上は岩内平野を写した航空写真。三方を山に囲まれながらも、広い平野が拡がっているのがわかる。
ここで一つ問題である。「岩内はどこだろう?」
実は岩内平野のかなりのエリアは隣の 共和町 に属しており、岩内町の領域の半分以上を占めているのは雷電山地の切り立った山々である。なので、岩内に入ったと思ったら実は共和町だった、ということがよくあるかもしれない。
しかも南北にまっすぐに市境が引かれており、なんだか不思議な感じがする。ただし岩内町と共和町は同じ「岩内郡」であり、共通の文化と歴史を持つ。岩内町と共和町は、いわば共に育った兄弟とも言えるだろう。
岩内という地名が最も広い範囲に適用されたのは明治32年に「岩内支庁」が設置されたときで、現在の岩内町・共和町のほか、泊村・神恵内村・倶知安町・京極村までをも含んでいた。特に虻田郡である倶知安を含んでいるのはなかなか興味深いところである。これらの地域とはある程度歴史や文化を共有していると言えるだろう。
これらの村々が合併を繰返し、今の岩内町や共和町がある。岩内と共和は喧嘩別れしたわけではなく合併の過程で生まれた2つの町と言えるだろう。将来的には一つの岩内になる可能性も十分考えられる。
この岩内の歴史と地名の由来を見ていこう。なお雷電海岸については別の記事で紹介しているので、こちらも合わせて読んでいただけると嬉しい。→ 雷電海岸の由来と地名
岩内の由来
岩内の地名に慣れているとあまり意識することはないが「いわない」というのは「言わない」に通じる発音であり、聞き慣れない人にとっては少し面白い地名かもしれない。この岩内の由来はどのようなものなのだろう。
岩内の既存の地名解
岩内の地名の由来を調べると、4つの説が出てくる。
- iwaw-nay〈硫黄川〉
- iwa-nay〈岩山川〉
- ye-o-nay〈軽石多き川〉
- iyau-nay?〈熊肉を乾かす川〉
岩内郡
「イヤウナイ」(Iyau nai)熊肉を乾す澤、山中にて熊を殺し其肉を樹皮に掛け乾すを「イヤウ」と云ふ
一説に「イェオナイ」(Ye-o-nai) 軽石多き川、海濱より岩内川を遡ること凡二里許の處に軽石多く川中に満つ故に名くと
舊地名解に「イワウナイ」(Iwau nai)なり硫黄川の義、此山處々に硫黄多きを以て名くと、孰れが是なるを知らず
『北海道蝦夷語地名解』永田方正
『永田地名解』ですでに3つの解が挙げられている。「古い地名解では硫黄川と言われているけれど、どの川がそれなのかを知らない」と述べているのは興味深いところである。
イヤウで「熊肉を乾かす」という言葉があるとは聞いたことがない。辞書にも載っていない。
イェで「軽石」というのも辞書にはない。Yeは〈膿〉の意味であって、火山の膿、すなわち溶岩。溶岩が固まった石なので軽石。と考えたのだろうか。
これに加えて、「イワナイ」で「岩山の川」説も散見される。これはおそらくバチェラー博士が最初に提唱し、知里真志保氏も追従している。
硫黄川説
岩内の由来の4つの説の中で一番有力とされているのは「硫黄川」説である。
「硫黄の川」と聞いてどんなところを思い浮かべるだろうか?登別の「地獄谷」、弟子屈の「アトサヌプリ」。もう近寄っただけで硫黄の匂いがもうもうと立ち込め、街全体が温泉街になっているような、そんなイメージではないだろうか。硫黄が採れる所には温泉がつきものである。
しかしどうだろう。岩内は、いまひとつ硫黄につつまれているようなイメージが浮かばなかった。岩内にもたしかに温泉街はある。かつて栄えた雷電温泉や、スキー場麓の岩内円山温泉。そのあたりが関係しているのだろうか?
硫黄山はどこにあるのか
硫黄山とイワナイ
古地図を見ていると、結構な確率で岩内の背後に「硫黄山」が描かれているのが見える。
イワナイという地名は、この硫黄山と強い関連性がある可能性が高い。ではこの硫黄山とはどの山のことなのだろうか?
岩内の山といえばもちろん「岩内岳(1085m)」である。岩内市街からよく見える、スキー場のある山で、山の中腹には岩内円山温泉郷がある。
ところがいわない温泉の泉質を見てみると、「ナトリウム-塩化物泉(高張性中性高温泉)(旧泉質名:食塩泉)」となっており、硫化水素の含有量は 0mg 。岩内円山温泉は硫黄泉ではないのである。
噴煙を上げる硫黄山
岩内岳が硫黄山ではない可能性を示唆する文献がある。
イワナイ、硫黄山有て常に煙立。信陽の淺間山よりも甚だし。明礬も爰より出る。運轉の馬に、近来此處へ馬十四匹、船にて養い来る。此山にのぼれば、東方アブタの海を見る也。
『東海参譚』東寧元槙/文化3(1806)
いわない山に煙たつ。此絶頂より東部、おしやまむべ、うす、あぶたの海水、しりべつ山に傍て見ゆるといふ。是山硫黄多く産す。年々浪花へ運送す。
『未曾有後記』遠山金四郎/文化3(1806)
イワナイ
巳午の方に当り道法凡四里程に硫黄山有之、前々より製法所相立、当所に馬にて附替候。
『遠山村垣西蝦夷日誌』/文化3(1806)
いずれも文化年間の記録だが、岩内山(硫黄山)に煙がたち、さらに硫黄や明礬が多く産出されていて製法所もあり、馬で運んで岩内港から浪花(大阪)へと運送しているらしい。
岩内岳(1085m)は休火山で、有史以来噴煙が確認されたという記録はない。また港からおよそ4里(15.7km)とあるが、岩内岳は直線距離で約1里しか離れていない。
ではこの硫黄山とはどの山のことなのだろうか?
硫黄山=イワオヌプリ
硫黄山の位置を示した見取り図を発見した。
江戸時代の岩内を海から描いた図である。それぞれの山の形がはっきりと示されているのがわかる。中央に一番大きく描かれている山は「岩内岳(1085m)」だろう。しかしそこに付された山名は「ノツカ山」だ。今も岩内市街の西端を「野束川」が流れているが、その水源の山という意味だろう。
これとは別に、左の奥の方に「イワウ山」が描かれているのが見える。これは位置からしてニセコ山系。ニセコアンヌプリ、イワオヌプリ、チセヌプリ、ワイスホルンなどのいずれかだろう。名前からしていかにもイワオヌプリらしいが、そう結論づけてしまってもいいのだろうか。
こちらの図では「岩内岳」と「イオウ山」が別々に描かれている。岩内岳とは現在の岩内岳もしくは目国内岳で、イオウ山はイワオヌプリかチセヌプリ、アンヌプリあたりだろう。
こちらの図でも左手の奥に硫黄山があり、右手の手前に大きな山が「ホロナイ山」として描かれている。やはりこれもホロナイ山が現在の岩内岳もしくは目国内岳にあたるのだろう。
上は明治2年に今の泊原発の丘あたりから描かれた挿絵。中央左に「岩内硫黄山」が描かれており、はっきりと噴煙を上げる様子も見える。参考のため同じ角度から見た3Dモデルも作ってみた。
間違いない。岩内硫黄山とはイワオヌプリ(1116m)を中心としたニセコ連山のことだ。イワオヌプリとは iwaw-nupri〈硫黄山〉の意味で、本当にそのままの名前になっている。このイワオヌプリはニセコ山系で唯一火山活動が確認されている活火山である。文献によると岩内港から硫黄山の距離がおよそ4里(15.7km)とあったが、イワオヌプリは岩内港からの直線距離で約15km。これも一致する。
イワオヌプリは岩内港からは見えにくい位置にあるが、江戸時代当時は煙を挙げており、否応なしに意識させられる山だったのだろう。
岩登山の硫黄鉱山
ニセコの硫黄山は過去に大きく分けて3度採掘されている。文化年間(1800~)と安政年間(1850~)と明治から昭和戦前にかけて(1870~1937)。
こちらは明治16年に硫黄坑の採掘願いを出した際の書類に添付されていた図である。「岩登山」とあるが、よく見るとイワオヌプリ本峰とは形が違う。
上の絵とほぼ同じ角度の場所を見つけることができた。図にある「岩登山」とはどうやら「イワオヌプリ(1116m)」の隣りにある「小イワオヌプリ(1039m)」のことらしく、斜面に中腹に「硫黄坑」がある。絵では山頂から噴煙も上がっている。
この硫黄は、明治9年に旧仙台藩の亘理伊達家家老・田村顕充が虻田郡から岩内に山越えするときに見つけたものかもしれない。
小イワオヌプリに少し登ってみたが、途中まで道らしきものがあるにも関わらず、山頂には繋がっていない。ちょうど坑道跡のあたりで道が途切れており、これが登山道ではなく採掘用の道であったことがわかった。
イワオヌプリ本峰は白い地肌が拡がっていても、黄色い硫黄はあまり見えなかったので、小イワオヌプリのほうが噴火が新しいのかもしれない。
ただし記録によるとここだけに限らず、この周辺のあちこちで採掘が行われていたようで、明治の地図では五色温泉のあたりに鉱山のマークがついている。
イワオヌプリの北、硫黄川の水源近くにかつて硫黄製錬場があって、今でもわずかに遺構が残っている。
硫黄山道
掘り出した硫黄を岩内港まで運び出すために開かれたのが硫黄山道で、文久元(1861)年に佐藤仁左衛門が開いたものだという。またそれより60年ほど前の文化年間(1800)には既に5里の道が引かれていたと言うので、それをベースに整備したものかもしれない。
現在の道道66号、通称ニセコパノラマラインが硫黄山道の名残といえる。白樺山麓の九十九折は車道ができてからの道で、元々の硫黄山道はもっと直線的に登っていた。神仙沼近くの大谷地を通る遊歩道が硫黄山道のルートで、そこからイワオヌプリにかけては今もトレッキングコースとして残っている。
文化年間の東海参譚によると、硫黄山からは明礬も掘り出したという。イワオヌプリ山麓の五色温泉では硫黄成分のほか、ミョウバン成分の硫酸イオン・アルミニウムイオン・カリウムイオンなどを多く含んでいる。
「岩内」と「硫黄山」の関係性は明白であり、岩内の由来は、硫黄山にあると考えて間違いないだろう。
しかし岩内は iwaw-nay すなわち〈硫黄川〉である。この川がどこにあるのか見つけなくてはならない。
硫黄川はどこにあるのか
岩内市街の現在の川
現在、岩内町に「岩内川」と呼ばれる川筋はない。岩内市街地を流れるのは「野束川」とその支流だけである。しかしその野束川支流に「ポンイワナイ川」があり、岩内運動公園の前を流れている。また「運上屋川」が白樺山から流れ落ちて来ている。
開拓時代の地図を参照してみると、かつては合計4つの河口が岩内港に注いでいたことがわかった。「堀江川(シバタ川とも)」と「御鉾内川」そして「岩内川」。この御鉾内川と岩内川の位置関係はどうにもはっきりせず、文献によっては逆に書いているものもある。現に「御鉾内川橋」は東の岩内川と思われる方にかかっている。このあたり、認識が曖昧らしい。
御鉾内(もしくは”おもない”)とは o-mu-nay〈川尻が塞がる川〉の意味で、河口に砂が溜まるなどして時々塞がることがあったのだろう。東の岩内川がぐるりと蛇行していることからして、道の駅や岩内バスターミナルのあたりはちょっとした砂丘になっていたことが想像できる。
往古は「野束川水系」と「岩内川水系」があって、岩内川水系に「運上屋川」や「ポンイワナイ川」が注いでいたのだろう。
松浦武四郎の山川図には、この野束川水系と岩内川水系が描かれている。支流名を見ても「~ノツカ」とか「~イワナイ」とある。また岩内川の水源に「ユワヲノホリ」が描かれているのは興味深いところである。これはイワオヌプリと見て間違いないだろう。
この前提を踏まえて、硫黄川の比定についてそれぞれの地名解を見てみよう。
硫黄川=運上屋川?
アイヌ語のイワウナイで硫黄の沢の意味といわれる。この地の硫黄は古くから知られ、明治以前に道をつけて出したとあるが、硫黄とは関係なくイヤウナイで熊肉を乾す沢という意味だとも、アエオナイで軽石の多い川の意味だともいわれている。またイワ・ナイで山あいの川の意味にも解されるといい、非常に問題が多い地名である。
現在はこの川を運上屋川と呼んでいる。
『アイヌ語地名解』更科源蔵
地名のもとになったイワナイという川の名は、松浦図にはあるが、早い時代に地図から消えている。現在運上屋川と呼ばれている川は、松浦図のイワナイと同様、東にポンイワナイと呼ばれる支流がついているので、それが昔の岩内川なのであろうか(運上屋川の下流は、今野束川に入っているが、古い図では直接海に注いでいた)。
『北海道の地名』山田秀三
この「イワウナイ」については、経験的に、その支流に「ポンイワナイ川」の記載がある「運上屋川」水系(この水系は河川改修を受け河道が変更されて「野束川」の河口付近に合流されているが、本来は「岩内港」で直接海に入っていた、独立した河川であった)を指すものと考えられる。
『データベースアイヌ語地名 後志1』榊原正文
現代の地名解の大御所と言える更科・山田・榊原の三氏ともに、イワナイを「運上屋川」と比定している。
江戸幕府後期に和人が入ってきて以来、この運上屋川が ”イワナイ”と呼ばれていたのは間違いないようだ。
ただこの「運上屋川説」、どうしても見逃すことができない点がある。
どうみても長さが足りていない。その水源はイワオヌプリには到底届いていない。それどころか、イワオヌプリは分水嶺の向こう側にあって、岩内平野のどの川も水源としていないのだ。これはどういうことだろうか?
硫黄川=運上屋川説を成り立たせる案が一つあるとしたら、前述した「硫黄山道」を考慮に入れることである。なるほど確かに運上屋川はニセコパノラマライン(旧硫黄山道)沿いを流れている。硫黄を掘りにイワオヌプリに行くためには、この運上屋川沿いを遡っていたのだ。イワオヌプリに行くための川、すなわちイワオナイ。そう考えると納得できるような気もする。ただし硫黄を掘り出したのは和人であり、それよりずっと前からイワナイの地名はあることには留意しなくてはならない。
自分は一度この説で納得し、岩内の由来について決着をつけたつもりでいた。ところが話はこれでは終わらない。岩内の本当の位置についてさらに深掘りしてみよう。
岩内アイヌの移動
移動地名
岩内の由来について、永田地名解に興味深いことが書いてあった。
Om nai オㇺナイ 濁川
今御鉾内村と云ふ。曾て岩内運上屋の在りし處なれば、此處を岩内場所と称したり。
「オムナイ」運上屋と称せずして岩内運上屋と称せし所以は、此場所のアイヌは「イワオナイ」の出身なればなり。
『北海道蝦夷語地名解』永田方正
運上屋は前述の「御鉾内」(現・岩内町万代)にあるが、御鉾内場所ではなく岩内場所と呼ぶのはかつて「イワオナイ」に住んでいたアイヌがそこにいるから、ということらしい。
この手の話は非常によく聞く。例えば小樽内のアイヌはかつては新川河口近くの小樽内川に住んでいたが南小樽に移住させられ「小樽内場所」が築かれた。このとき小樽の地名も移動している。寿都のアイヌはかつては朱太川河口に住んでいたが岩崎に移住させられ「寿都場所」が開かれた。釧路のアイヌはかつては弟子屈の屈斜路湖近くのクスリに住んでいたが釧路川河口にに移動させられ「釧路場所」が開かれた。
このように和人の都合でアイヌが移動させられ、地名も同時に移動する例は道内各地に見られる。これは当時の蝦夷地独特の支配体制に関係している。
運上屋というのは、あくまでもアイヌとの交易の場所である。土地の管理ではなく、そこに住むアイヌとの交易を主体としていたため、交易相手が移動すればそのまま地名も移動するのだ。それが和人による半ば強制的な移住だったとしても。
「岩内」もまた、そうなのだというのだろう。それならば納得がいく。”硫黄川”と言われているのにも関わらず岩内にいまひとつ硫黄感がないのも、岩内川水源が硫黄山から距離が離れていることも、移動地名だというのなら説明がつくのである。
岩内港の集落の位置
実は松浦武四郎も似たようなことを言っている。
イワナイは此処より南の川の名なるを、当場所の惣名と今はする也。
『竹四郎廻浦日記』松浦武四郎
イワナイの名義はイワヲナイにて、硫黄澤也。其地南五丁なる川也。此地は本名ヲムナイ也。此所土人昔よりイワナイに住る故、惣名となる也。
『西蝦夷日誌』松浦武四郎
ここのアイヌは昔イワヲナイに住んでいたので、イワナイと名付けたそうだ。ここで注目できるのは「此処より南の川」「南五丁なる川」と述べていることである。
西蝦夷日誌に云う「此地本名はオムナイ也、此所土人昔よりイワナイに住る故惣名となる也」とあるは、往時岩内はエナヲ岬、アシュナヲシ、ヲホムイ、ニチナイ、ヲムナイ等の土人部落があり、ヲムナイが或る時代には有力部落として名を知られていたが、追々にイワナイがその惣名として呼ばれるようになったと解すべきだと思う。
『岩内町史』
『岩内町史』ではこのように解していた。エナヲ岬、アシュナヲシ、ヲホムイ、ニチナイ、ヲムナイ等に密集してそれぞれアイヌ部落があったのではないかという。
だが少々疑問に思えることがある。岩内アイヌは本当にこの場所に密集していたのだろうか。
たしかに古代から擦文時代における岩内港付近の集落は、現在の東山墓地のあたりにあった。東山遺跡からは縄文時代の円筒土器などが出土している。だが擦文人とアイヌとの生活様式の違いとして、アイヌは必ず鮭の採れる川沿いに住む。という古潭の大原則がある。
『廻浦日記』は現地での聞き取りによる日誌、『西蝦夷日誌』はそれに基づいて数年後に再構成した案内書のようなものである。もしかすると岩内アイヌからは単に「南」としか聞いておらず、それを武四郎が5丁先の川だと考えて、補足情報として距離を付け加えたのだろうか。御鉾内川と岩内川は東西の位置関係にあり、それを南というのもちょっとおかしい。
そして当時の和人にはあまり知られていなかったことだが、夏と冬では住む場所を変える。そのためもう少し広い範囲に目を広げて考える必要があるだろう。
ということでここでは、イワヲナイという川が元々は別の場所にあった、という可能性を探っていきたい。
イワヲナイの候補
松浦山川図で岩内のあたりを見てみると、イワナイによく似た名前が堀株川水系と尻別川水系にある。尻別川上流には「ハナワイワヲナイ」「ヘンケイワナイ」、堀株川の上流には「イワヲヘツ」「イクシュンケイワヲヘツ」などである。これらが岩内の原名となった可能性はないだろうか。
このうち、まず尻別川水系のイワナイについて考えてみよう。
倶知安の硫黄川
イワオヌプリの硫黄川
倶知安に「硫黄川」という川がある。
硫黄川はイワオヌプリを水源とし、アイヌ語名は「イワオナイ」、もしくは「ペンケイワオナイ」。penke-iwaw-nay〈上流の硫黄川〉。ニセコアンベツ川が panke-iwaw-nay〈下流の硫黄川〉で、イワオヌプリを水源とする川はこの二つしかない。
岩内の由来がイワオヌプリだとすると、この2つの川は候補から外すことはできない。
倶知安と岩内の関係
しかしいくらなんでも倶知安は遠すぎるのではないだろうか?そう思うかもしれない。しかし実は岩内アイヌと倶知安は密接に関連がある。一言で言うなら、倶知安に岩内アイヌの砦と屋敷があったのである。
その証拠を見るために、松浦武四郎の記録を見てみよう。
松浦武四郎は日本書紀にある後方羊蹄の場所を確かめたいと思っていた。伝説によると、それは尻別川の源、シリベツ山(羊蹄山)の麓にあるのだという。そこにはソウツケ(倶知安)という良漁場があるとも聞いていた。その場をひと目見たいと願ったが、そのあたりは磯谷アイヌ達ですら行ったことがないという。尻別川の目名(蘭越)に激流がいくつもあって、それより上流には舟で行くことができないのだ。それでも武四郎は一度は磯谷アイヌを引き連れて目名まで行くが、激流のためあえなく引き返すことになる。
しかし諦めない武四郎は、岩内へ行き、今度は岩内アイヌに頼み込む。岩内アイヌは渋るが、その熱意に負けて秘密の道を案内する。そこには岩内アイヌの秘密の漁場があって、たくさんの鮭が取れるという。しかしそこに行くとこは岩内の支配人からは禁じられており、内緒にしてほしいというのだ。
武四郎は岩内アイヌの酋長セベンケの案内により、堀株川を遡り、倶知安峠を越え、ついにソウツケ(倶知安)に辿り着く。そこには朽ち果てた屋敷と砦の跡があり、番人がいなくなって小屋には腐敗した鮭の樽があった。
松浦武四郎のこの倶知安探訪は、志利辺津日誌、曽宇津計日誌、後方羊蹄日記の3編にわたって記されている。
ワジマ家の栄華
なぜ倶知安に岩内アイヌの屋敷があったのだろうか。それは武四郎の時代からおよそ100年ほど遡る。岩内アイヌ酋長セベンケの祖先、シノミとシユクセエヘンクル親子の話になる。
- (岩内アイヌ酋長・和島家系)シノミ ― シユクセエヘンクル ― シアニ ― ヲトルメ ― セベンケ ― クエトエ
その昔ヲタルナイで反乱あり、そのあたりのアイヌは残らず松前に攻め上ろうとした。ところがシユクセエヘンクルはただ1人でそれを諌めた。その功を賞して、松前藩の殿様からシノミの家は 和島の姓と、黄金の鶏などの宝物を授かったという。
当時のアイヌは決して平等だったわけではなく、貧富の差があった。旦那と下僕という上下関係があり、富めるニシパは宝物をたくさん持っていた。イコロとは、交易によって手に入る装飾品などのことで、通貨のないアイヌ社会では富の象徴であり、ときには償いとして相手に差し出すこともあった。ワジマ家はこのイコロを非常にたくさん持っていたようである。
また姓を名乗れるというのは当時としては和人社会でも高い地位にあることを示す。ワジマ家の名は遠い東蝦夷地にまで届いていたという。
その宝を使って、シユクセエヘンクルは岩内から倶知安への山越道を切り開き、虻田アイヌと交渉して宝物と引き換えに倶知安の漁業権を得た。そしてそこに砦と屋敷を建て、拠点とした。
屋敷と砦があった場所は現在の倶知安駅の裏手、旭ヶ丘公園と大仏寺のあたりだと思われる。『西蝦夷日誌』によるとここに 延胡策 が多く咲いていたそうである。旭ヶ丘公園では、今でも春になるとエゾエンゴサクがたくさん花を咲かせるらしい。
地図を見るとわかるが、そこはちょうど硫黄川の畔にあたる。すなわち岩内アイヌは倶知安の”イワオナイ”に住んでいたのである。
しかし和人による岩内支配が強まるにつれて、岩内アイヌが秋になると勝手に倶知安の山奥に行ってしまうのを支配人が嫌がるようになった。アイヌを労働力として使役するため、浜に住まわせ、移動することを禁じた。先祖が頂いた宝物もすっかり取り上げてしまった。ただ黄金の鶏だけは、孫のヲトルメの代に古宇の兜岬に隠し、その場所はわからなくなっているという。
シユクセエヘンクルの曾孫にあたるのが安政当時の岩内アイヌの乙名・和島瀬辯計である。
セベンケは岩内港のほとりに住みながらも、ひそかに倶知安への道を整備させていた。屋敷は朽ち果ててしまったが、秋になるとそこで取れる大量の鮭を塩漬けにしておいて、小屋に番人を1人置いて管理させていたという。しかしその番人も死んでしまい、既に荒れ放題になっている。
ここからわかることは、セベンケの和島家は、岩内平野全体を持っており、北は少なくとも泊村の兜岬まで、南は倶知安にまで及んでいた。和人によって移動が制限された後も、岩内アイヌの酋長として自分なりに独自に動いていたことがわかる。良漁場である倶知安のイワオナイの畔のことも決して諦めてはいなかった。
それで岩内アイヌが「かつてイワオナイに住んでいた。」と証言したとしても不思議ではない。元々イワオナイは倶知安の硫黄川を指す地名で、強制移住に伴い地名が移動したのではないだろうか?
素晴らしい論だと思ったのだが、残念ながらこの倶知安起源説を成り立たせる上で障害となる要素が一つある。
セベンケの祖先シユクセエヘンケルが勲功を讃えられたのは寛保年間(1740年代)の乱だという。ところが岩内の地名が初めて出てくるのは元禄年間(1700年)。ワジマ家が倶知安に屋敷を立てるより前に岩内の地名が記録されており、倶知安のイワオナイから地名が移動してきたとするとこのあたりの時系列があわない。
共和町の堀株川
倶知安説からは一旦離れ、岩内の地名が初出する元禄年間より更に前の記録を見てみよう。
堀株とシリブカ川
元禄郷帳に岩内の名が初めて見える前、この岩内の地は「尻深」と呼ばれていた。正保国絵図(正保1/1644)に「シリフカヱソ」と出てくる他、皇圀道度図 や ゑぞの絵図(寛文8/1668)、松前蝦夷地之図などでも「シリブカ」は見えても岩内はまだ出てこない。「岩内」という地名は18世紀になって和人支配が強まり始めた以降に出てきたようである。
シリブカとは、現在共和町を流れる 堀株川 を指す地名でもある。明治時代より前、堀株川はほぼ一貫して「シリブカ」川と呼ばれていた。ところが明治時代に入ると、シリブカという地名は徹底的に除かれる。梨野舞納、渋井、発足、幌似などのアイヌ語由来の地名は沢山残っているのに、大地名である尻深だけは、短期間のうちに何故か地図に一つも残らないほど排除されてしまったのである。なぜ「シリブカ」は消されてしまったのか?
……その理由は、恐らく詳しく説明しなくても大体の想像がつくのではないだろうか。北海道にシリのつく地名は数あれど、尻深はとりわけ呼びにくい部類かもしれない。
堀株というのは horka-p〈後戻りする所〉の意味で、堀株川が河口付近で大きく蛇行していた部分を指す地名である。
またシリブカは sir-pukka〈丘が盛り上がる〉の意味で、やはり堀株川下流の蛇行部分で発足砂丘が盛り上がっているところを指す地名だろう。
どちらも河口付近の地形をあらわす地名である。(なおシリブカはシルンカでsir-un-ka〈崖のある岸?〉のように解されていることがあるが、シルンカとしているのは伊能図の転記ミスで、原図である間宮河川図を含め、他の文献ではほぼ一貫してシリブカである。またkaは位置名詞なのでunの後ろに置くことも出来ない。)
シリブカ川、もとい堀株川は、岩内平野のほぼ全体を流れる、岩内平野を形作っている大きな川である。この堀株川を遡り、ペンケシマツケナイ(島付内)で左に曲がると、余市へと繋がる稲穂峠への道がある。この稲穂峠は昔からの余市と岩内を結ぶ重要ルートであった。
イワナイの認識違い
さて松浦武四郎が岩内港のイワナイについて、現地の岩内アイヌに尋ねた時の反応を見てみよう。
運上屋前に川有。イワナイ川と云。此川源シリベツ山より落るよしにて遠し。
『再航蝦夷日誌』松浦武四郎
イワナイ川は「シリベツ山」より落ちるらしい。シリベツ山とは羊蹄山のことである。これが運上屋川ではあまりにも遠すぎる。これが堀株川であれば、水源の倶知安峠を越えると、目の前に羊蹄山が見える。前述のように岩内アイヌは秋になると倶知安峠を越えて倶知安の漁場で越冬していたから、感覚的には堀株川はシリベツ山のほうから落ちてくるように見えたかもしれない。
堀株川の河口付近は、羊蹄山が美しく見えるポイントとしてよく知られている。
イワナイヘツ
前に志るす川也。又此川、二日路も丸木舟にて上り、山を一日越て、川まヽヨイチへ出る道も有る由也。是を夷人ども又越るよし也。人間は中々越がたしと聞り。
先此川を越て陸通りはムイレトマリ(泊村)迄は陸道、二八小屋も有て道よろしと。
『再航蝦夷日誌』松浦武四郎
イワナイ川を丸太舟で二日さかのぼると余市に出る道があるらしい。
この余市山道は安政年間に整備され、現在も稲穂峠として国道が通っているが、古くは文化年間にも一度開かれたことがあるようである。
どうやらここでも堀株川のことを言っているように思う。もし運上屋川だとしたら、遡っても余市の方には行かない。丸太船で遡るほどの太さもないし、水源まで2日もかからないはずだ。
松浦武四郎は岩内港のイワナイについて、伊能大図や今井測量原図などで位置を確認していた。それでアイヌに「イワナイ」について尋ねたのだが、返ってきたのは「堀株川」の情報だったのである。ここから分かることは、「和人にとってのイワナイ」と、「現地アイヌにとってのイワナイ」の認識が違っていた可能性がある。
どうにもこの堀株川が岩内川だったのではないだろうか?
堀株川=岩内川
実際に堀株川が岩内川と呼ばれていた例は見つかるのだろうか?
例えば明治初頭にこの地に訪れたホーレス・ケプロンは、余市から稲穂峠を下ってくる途中で「イワナイ川」について記録している。
(稲穂峠の)このひどい道を行くとすぐ、きれいに澄んだ、小川に差し掛かる。これはイワナイ川の源流で、山間の谷間を曲がりくねって流れている。三時間、川に沿って下ると、たびたび支流が加わり、かなり大きな渓流になる。曲がりくねった所を通ったり、幾度も川を横切って安全に進むのは、時々、とても不可能だと思うことがある。
後ろの方何マイルも、このイワナイ川の谷はだんだん広くなり、遂に凡そ幅八マイル(約12.8km)の広さになって、明らかに、非常に価値のある農業地帯になっている。
明らかに堀株川について「イワナイ川」と言っている。おそらく案内人からそう教わったのだろう。「幅8マイル」というのは岩内平野の最大幅で、共和町がすぐれた農業地帯であることをケプロンはするどく観察していた。この後ケプロンは泊村の茅沼鉱山を視察している。
しかしケプロンは外国人だからよく知らなかったのだろうか。他にも証拠はある。
こちらは嘉永年間に描かれた『西蝦夷地道中見取図』の写しで、道路や家々までも一軒一軒詳細に描いている。「岩内川」がホリカップのところにあるのが見えるだろうか。いわゆるところの”岩内川”は運上屋の近くを流れているが、この図でも「岩内川」が堀株川のことを指しているようだ。
嘘をつくイワヲナイ
外国人や和人の地図描きだけではなく、イワナイアイヌ自身が堀株川をイワナイと呼んでいた証拠もある。
イクシユンケイワヲヘツ
と云よし。其故は此辺の川々皆イワヲ岳より落来るが、其中にイワヲナイの本河と云もの有れども、何れが本川か不分明なるが故に、幾度も嘘のイワヲナイと云義理のよし也。
『志利辺津日誌』松浦武四郎
このあたりの支流はみなイワヲ岳の方より流れ落ちてくるが、どれが「イワヲナイの本流」かわからない、と現地アイヌの案内人は言うのである。これは明らかに堀株川の上流部をイワヲナイと呼んでいた証拠である。
共和町の小沢駅の南方向を地形図で見ると、「ビラ川」「上ビラ川」「中ビラ川」「下ビラ川」などがほとんど平行に流れ落ちていて、たしかにどれが主要な支流なのかわかりにくい。「これがイワヲナイの本流か」と思ったらそうではないということで「嘘をつくイワヲナイ」ということなのだろう。
- i-kosunke-iwaw-nay〈(私に対して)嘘をつく岩内川〉
ちなみに松浦武四郎はこの時、運上屋もアイヌも、みんな何か隠し事をしているようだとぼやいている。武四郎本人はともかく、幕府の役人という肩書は何かと警戒されるものもあったのだろう。
コタンの跡
堀株川の中流、共和町幌似のあたりに古潭があったことも示唆されている。
フシココタン
此所昔人家有し由なり、今はなし。
『志利辺津日誌』松浦武四郎
正確には共和町役場や幌似駅の近くで、ここには和人の「御手作場」も造られた。幌似とは poro-ichan〈大きな鮭の産卵場〉の転訛で、ここで沢山の鮭が採れたことを意味する。
また島付内(国富交差点あたり)には笹小屋があり、春に山から降りてくるときにここで一泊したという。
岩内アイヌは堀株川の畔に
泊原発のすぐ手前、堀株港のあたりに堀株神社遺跡がある。そこにアイヌ時代の集落跡の遺跡があり、番屋跡、墳墓、貝塚、鮭漁の銛、漆器、寛永通宝などが見つかっている。おそらくここにワジマ家の交易の拠点があったのではないだろうか。
そう、かつて岩内アイヌの酋長は堀株川の河口に住んでいたのである。しかし和人の支配人によって現在の岩内港のあたりに移住させられ、地名も一緒に移動した。
ということでイワナイの由来は「硫黄山方面から流れてくる堀株川は元々イワヲナイと呼ばれており、かつて岩内アイヌはその畔に住んでいた」という説を唱えてみたい。
ニセコ連山の名前
ただ堀株川とイワオヌプリの位置関係を見ると、一点考慮しなくてはならないことがある。
堀株川上流部のビラ川支流群、すなわちイワヲナイは、水源がイワオヌプリまで微妙に届いていないのである。これはどういうことだろうか?
ニセコ連山には「イワオヌプリ」の他に「ニセコアンヌプリ」「ニトヌプリ」「チセヌプリ」「ワイスホルン」などがある。実のところ、このなかで江戸時代にその名前が出てくる山名は「チセヌプリ」だけである。加えて今まで見てきた通り「イワヲ岳」もしくは「硫黄山」という名前でイワオヌプリも出てくる。
ニセコアンヌプリはいかにもアイヌ語的な名前だが、江戸時代にその名前は見えない。ニトヌプリは北大スキー部員が二兎にちなんで名付けたらしい。
岩内港からはイワオヌプリは直接見ることができず、また倶知安側から見ると絶対に見過ごすはずがないアンヌプリについて特別な名前で呼んでいる様子も見えない。どうにもニセコ連山全体を「イワナイ岳」と呼んでいた傾向が見える。
よって、直接的にはワイスホルンがイワオナイの水源になるが、ニセコ連山全体をイワナイ岳ととらえていたとすると、イワナイ岳からくるイワナイ川という捉え方ができる。三角点名称で言うと、ワイスホルンが「岩尾登」となっている。
尻深から岩内に移動した理由
近藤重蔵の地図には、2つの「イワナイ」が描かれている。上にあるイワナイは現在の堀株川になるだろう。
しかし、なぜ堀株川の畔から現在の岩内市街に移動したのだろうか。
これは穫れる魚に重要なポイントがある。アイヌは主食が鮭であり、鮭の多く穫れる川の畔に住んでいた。このあたりで一番鮭が採れるのは堀株川であり、共和町役場のあたりの幌似はとても良い漁場だった。江戸時代前半には、シリブカ(共和町)には2000人ものアイヌが住んでいたともいう。
しかし和人は鮭よりも鰊に注目し、運上金も鮭から鰊へとシフトしていく。鰊は砂浜よりも岩浜に群来る傾向があり、また多くの舟を停泊させることができるオムナイ(岩内港)のほうが和人にとって都合が良かったのだろう。
そこでシリブカではなくオムナイに拠点を移動することにする、そのとき鰊漁のための労働力としてシリブカにいたアイヌたちを連れてきて、ここにイワナイ運上屋を建てた。シリブカ運上屋ではなくイワナイ運上屋としたのは、もしかしたら現代と同じように”尻深”という名前を忌避したのかもしれない。後代の松前藩の史料にはあまりシリブカの名前は出てこない。
その後、過酷な労働と天然痘の流行により、アイヌたちの人口は激減し、千人以上が住んでいたシリブカのほうはすっかり廃村となり、2~3軒の家しか残らないほどになっている。これもまた岩内の歴史の1ページである。
岩内アイヌの歴史
大酋長カンネクルマ
さて、岩内アイヌの歴史を語る上で、どうしても外せない人物がもう一人いる。それは大酋長カンネクルマ(カンニシコルとも)である。
カンネクルマが活躍したのは江戸時代の寛文年間(1660年~)。ワジマ家が現れるより100年ほど前で、松浦武四郎の時代より200年も前であり、武四郎の記録には出てこない。
大酋長カンネクルマは岩内のみならず積丹方面のアイヌも従えており、雷電岬から古平までを支配する非常に力あるアイヌだった。勢力範囲ではワジマ家よりもずっと大きく、石狩アイヌのハウカセと並んで西蝦夷地の最有力者の一人であった。
そのカンネクルマが拠点としていたのが、現在の泊村の泊原発敷地内、茶津と呼ばれる場所である。茶津とは chasi〈砦〉の意味で、ここに彼の砦があったようである。
おそらく彼も堀株川での鮭漁を生活の基盤にしていたのだろう。
寛文蝦夷蜂起
カンネクルマの生きた時代は、蝦夷地の支配バランスがアイヌから和人へと傾いていく、ちょうどその分岐点にあった。
寛文9年に静内で起きた シャクシャインの戦い は、東蝦夷のみならず、やがて西蝦夷をも巻き込むこととなる。シャクシャインの親族チメンバの呼びかけに応じ、まず歌棄磯谷(寿都)のアイヌが和人に対して蜂起し、それに呼応する形で尻深(岩内)・余市・祝津・石狩・増毛などもそれに加わった。これを寛文蝦夷蜂起という。この蜂起に加わらなかった利尻アイヌを、その報復として西蝦夷のアイヌが襲い30両のツグナイを払わせたというのだからなかなかの激しさである。
場所 | 酋長 | 死者 | 備考 |
---|---|---|---|
歌棄 | イロチマイン | 2 | シャクシャインの親縁 |
磯谷 | ウエカラ | 20 | 最初に蜂起 |
尻深 | カンネクルマ | 30 | 岩内の大酋長 |
古平 | ― | 18 | 岩内の勢力下 |
余市 | ケフラケ | 43 | 最大の償い |
祝津 | ミキノスケ | 7 | 後の高島場所 |
増毛 | マケシヤイン | 23 | 浜益の酋長 |
忍路 | ― | 0 | 会談の地 |
石狩 | ハウカセ | 0 | 警戒しつつ静観 |
利尻 | ― | 0 | 不参加のため報復 |
島牧 | テマリケ | 0 | 昔に鎮圧済 |
瀬棚 | 彦次郎 | 0 | 鎮圧済。松前に味方 |
この蜂起により、カンネクルマの尻深では和人が30人殺されている。その後、松前藩から和平交渉のために通詞(通訳)がやってきたが、カンネクルマは「通詞を殺害しろ」と言い、石狩のハウカセに止められている。
カンネクルマが蜂起した理由は詳しく語られている。
- 鮭5束(100匹)と米2斗(30kg)の交換だったのが、米7~8枡(11kg)に減らされた
- この件を松前に訴えると、毒酒で殺されてしまうらしい(シャクシャインの件か)
- 我々の川(堀株川)に和人が大きな網を下ろし、アイヌの獲る鮭が無くなってこのままでは餓死してしまう。抗議するとここは「松前の知行地」だと言った
松前藩主の統治時代は適正な交換レートだったが、家臣の知行地になってから酷くなったらしい。この抗議が関係しているかはわからないが、後に海岸沿いは家老の知行地に、しかし堀株川の鮭の収穫は松前藩主に儲けを上げることになっている。
尻深で30人もの和人が殺されたにもかからわず、カンネクルマはツグナイを出しただけで、処刑されるようなことはなかった。石狩のハウカセも松前の要求を跳ね付けていたが、後に和睦している。
しかしこの蜂起をきっかけにして徐々に和人支配が強まっていき、やがて西蝦夷のアイヌはその権力を完全に和人に握られることになる。
ワジマはどこから来たのか
大酋長カンネクルマの時代からおよそ100年後、ワジマのシユクセエヘンクルが尻深(岩内)の酋長となる。彼は宝物を使って倶知安への漁場を広げるが、次第に岩内の支配人による抑圧が強くなり、拠点を尻深から岩内に移したのかもしれない。その後の流れは前述したとおりである。
このワジマ家はどこから来たのだろうか。小樽の乱を鎮圧したということで、元々は小樽の出身だった可能性もある。なぜそれが岩内にやってきたのだろうか?
はっきりしたことはわからないが、もしかすると寛保年間に渡島大島の噴火による大津波の影響で、尻深も深刻な被害を受けたのかもしれない。この寛保津波では和人だけで2000人以上の死者を出しており、舟の破船も1500艘以上だったらしい。遺跡調査で、このあたりの海岸線が進退していること、背後の崖が何度か崩れたことが明らかになっている。
あるいはかつて蜂起に加わったカンネクルマ一族より、蜂起を抑えたワジマ家のほうが扱いやすいと思ったのかもしれない。松前藩は元禄年間から神威岬以北の入植を禁ずる布告を出したが、岩内はぎりぎりその内側にあることも、その影響力がわかる。いずれにせよこのあたりの和人とアイヌの関係を見ていくと、徐々に和人支配が強まっていったその過程を垣間見ることができる。
堀株の遺跡から
堀株にはいくつもの遺跡が見つかっている。
とりわけ注目できるのは泊原発北側の入り口にある茶津チャシ跡で、これはアイヌによって「義経様の城跡」だとも伝えられている。おそらく大酋長カンネクルマの時代のものだったろう。
また堀株港周辺の堀株遺跡(1,2)や堀株神社遺跡からは、アイヌ期の墓や埋葬品、また近代の古銭なども出土している。
このような太刀を埋葬品として供えるということは、かなり格式のある戦士だったことだろう。大酋長カンネクルマの墓だった可能性もある。
岩内港のほうにある岩内町東山円筒文化遺跡は縄文時代の遺跡だが、堀株の遺跡はアイヌ期のものも多く含んでおり、アイヌ文化時代はこちらのほうが大きな拠点だったことが遺跡からも明らかである。
よって、この地のアイヌはもともとは堀株のシリブカを拠点として鮭漁をしていたが、和人の進出により鰊漁に都合の良い現在の岩内港のほうへと移動させられたと見て良さそうだ。
岩内の由来
イワナイの移動
ここまで語ってきた岩内の由来をまとめてみよう
- iwaw-nay で〈硫黄川〉の意味である
- 硫黄山を主としたニセコ連山に由来する
- ニセコ連山を水源とする堀株川がかつてイワナイであった
- 堀株川の畔に住むアイヌ酋長を岩内港に移して、地名が移動した
- 現在の運上家川が岩内川と呼ばれるようになった
ということで、岩内は「イワオヌプリの川」という結論を得ることができた。
本当にシリブカから現在の岩内に移動したのだろうか。残念ながらそれを決定的に裏付ける史料は未だ見つかっていない。しかし状況証拠を並べて見る感じ、そう考えるのが妥当のように思う。
美術館の屋上から
岩内には様々な見どころがあるが、ひとつだけ紹介しておきたい。それは道の駅のすぐそばにある木田金次郎美術館である。
木田金次郎は岩内出身画家で、岩内の多くの風景を描いてきた。その中でもとりわけ力強いと感じたのが、ホリカップの断崖の絵である。これはかつて大酋長カンネクルマの砦があったところでもあり、今は原発になっていて入ることができない。その当所の迫力ある風景を、彼は荒々しく描いているので、思わず絵葉書で買ってしまった。
他にも多くの岩内の風景を描いているので、もし岩内に行くことがあれば、一度寄ってみるのもおすすめである。
美術館の屋上からは、岩内の港町を一望することができる。そこからは、かつて岩内の由来となったニセコの連なる山々をぐるりと眺めることができる。
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