桃内の紹介
桃内村

桃内は小樽の塩谷と忍路の間にある小さな集落である。かつては忍路郡桃内村という1つの村を成していて、現在もほぼそのままの区画で住所に残されている。


国道五号で通過すると長い塩谷トンネルと忍路トンネルの間に一瞬見える海辺の集落だが、特にこれといった店などもなく、通過するだけで立ち寄る人はあまりいない。
桃岩

桃内の最大の特徴と言えば、やはり桃岩である。この国道から垣間見える大きな岩は、確かな存在感がある。残念ながら桃岩に至る道は一般に開放されておらず、遠くから見ることしか出来ないが、軟石でできた天然の大岩は白く美しく海に輝いている。
かつてここに軟石採掘場があり、並ぶようにしてもう1つ大岩があったらしい。そちらは今は崩落して残っていない。昔の地図や錦絵などにもしばしばこの桃岩は描かれ、桃内の目印として聳え立って来た。

桃内の由来は?
さてこの桃内とはどういう意味なのだろうか。
桃は関係あるのだろうか。あるいはナイで終わっていることから、アイヌ語のようにも聞こえる。桃岩は関係あるのだろうか。そのあたりを見ていこう。
既存の地名解
果実の沢ヌムオマナイ
num oma nai ヌムオマナイ 果実澤
ヌモマナイと呼ぶは急言なり。当地李樹多き事は先輩の日誌に見えたり。今桃内村と称するはヌモマナイの転訛なり。或いは云、海岸なる桃形の岩石に名くと。
『蝦夷語地名解』永田方正
num-oma-nayで「果実のある沢」という意味のようだ。ヌモマナイは急言だと言っているが、子音と母音はくっつくのが普通なので、この場合ヌムオマナイとは呼ばず、ヌマモナイと聞こえるはずである。
永田方正はこの”実”とはスモモの実のことだと考えたらしい。先輩とは松浦武四郎のことだろう。あるいは桃岩が桃の形に似ていることに由来しているとも考えたようだ。
これは事実上の定説となっており、多くの地名解はこの永田方正の説に基づいている。いくつか取り上げてみよう。
「モヽナイ」と称する小流あり。村の元名「ヌムオマナイ」は草実沢の義なりと云ふ
『北海道植民状況報文 後志国』河野常吉
「ヌムオマナイ」 又は 「ヌモマナイ」とつまりこの沢は古来李の木が多かったということは色々な記録に見受けられ、「果実の沢」という意味。或いは海岸に屹立する大岩が桃に似ているからだとも言う。
『忍路郡郷土誌』
num は一般に「くるみ」をさすというが、ここでは桃の実のことか。一説に「桃岩に因む」ともいわれる。
現在岩が一つしかないが、同じくらいの大きさの岩が並んでもう一つあった。二つ並んだ岩の形から桃岩の名が付いたともいわれている。一方の岩は石材の切り出しによって、昭和20年代に消滅してしまったという。
『小樽博物館紀要第7号 小樽市の地名調査概報1』石神敏
ほか、山田秀三先生を含め、多くの人が永田地名解の説を支持している。桃内川に由来を書いた河川標識はないが、もし立てるとしたらおそらくこの内容で書かれているだろう。
それにしても、ヌムオマナイ、ないしヌモマナイがどうしてモモナイになったのだろうか。似ているようでどうにも似つかない。分からなくもないがストンと落ちないところである。そして由来はスモモの木のことなのだろうか、海岸の桃岩のことなのだろうか。
クルミの沢ヌモナイ
データベースアイヌ語地名の榊原先生は少しアレンジした解を挙げておられた。
ヌモナイ num-o-nay 木の実・群在する・川
この “ヌムnum” については、知里地名辞典には「果実(木の実、とくにクルミ)」と記されており、この桃内川の下流域にはサワグルミ、ミズナラ(ドングリが採れる)等の大木が現在も生えていて、地名命名時の様相をそのまま残していることから、ここでは上記のように解することにしたい。
『データベースアイヌ語地名 後志1』榊原正文
まず num-oma-nay ではなく num-o-nay とし、モモナイと音の数を近づけている。omaもoも同じような意味だが、omaは単に「ある」という意味なのに対し、oは「ごちゃごちゃある。群在する」という意味合いを持つ。いずれにせよ「実が多い沢」だ。
そしてその実とは桃ではなくクルミではないかということである。実際に下流域にサワグルミなどが生えているのだという。なかなか理にかなった解釈であるように思う。
ただ、どうしてヌモナイがモモナイなったのか、という部分については謎が残されたままだ。
その他の説
なお、全く違う説もあるのでそちらも見てみよう。
ヌモマナイの転訛とか、海岸に桃形の岩があるというが、モム・ナイ(つまる川)と思う。
『アイヌ語地名解』更科源蔵
アイヌ語の「つまる川」の意か
『北海道地名誌』NHK
モムでつまるというのがよくわからないが、おそらく近いのは o-mu-nay「川尻が塞がる川」という解釈だろう。オムナイがモモナイになったということに関する具体的な説明は無い。ムのつく地名は道内のあちこちに見られ、オム川の例として雄武町の「雄武川」がある。雄武川の河口を見ればわかるが、このような地名がつくようなところはたいてい広い砂浜で、砂の動きによって時々河口が塞がったり大きく曲がったりする。

ところが桃内には砂浜がなく小石浜で直流である。川尻が塞がりそうな地形にはなっていない。よってこの「つまる川」説を肯定できる材料がない。
一応、もう一つ説がある。
モヽは遅満の義
『蝦夷地名録』白野夏雲
こちらはちょっと意味がわからない。
ヌムは桃岩ではない?
桃内の由来として今のところ有力なのは num-oma-nay か num-o-nay で、いずれにせよ num のある川だということだ。この num とは一体どんな言葉なのだろう。ここをもう少し掘り下げてみよう。
num ヌム【名詞】
粒、 粒状の実、 (おつゆの)実(汁でない部分)、 大勢の人の群の中の一人一人。
apto num アプト ヌム 雨粒。
『田村辞典』
永田方正は num を「果実」と訳していたが、辞書を見る限り、いわゆる「フルーツ」とはかなり印象が違う。派生単語や用例を見ても、amam num「ごはん粒」とか kimi num「トウモロコシの粒」とか穀物の種粒のようなかなり小さなものに使われている。それ以外にもドングリやクルミといった意味合いもあるようだが、いずれにせよアイヌが num でイメージするものは、小さな粒であるということだ。

この事を考えると、「桃岩の形が桃に似ているから」という由来はかなり苦しい。あの大きな桃岩を見て、小さな種粒 num を連想するとはちょっと考えられない。
よって、先にモモナイという地名があり、そこから岩が桃岩と呼ばれるようになり、「そういえば桃に似ているかもしれない」。と考えられるようになった。という順序が妥当なところだろう。桃岩起源説は否定せざるを得ない。
文献調査
ここからはアイヌ語が実際に話されていた江戸時代の文献に遡って調べてみよう。まずは松浦武四郎の文献である。
松浦武四郎の文献

まずは蝦夷の地図として名高い『東西蝦夷山川地理取調図』。「ヌフモナイ」と書いているように見える。いやヌフではなく「ヌマモナイ」か……?いずれにせよ「ヌモマナイ」「ヌマモナイ」ではアナグラム的な違いがある。そして桃内川の支流名を見ると「ホンモヽナイ」「ホロモヽナイ」とある。微妙に統一されていない感じが気になる地図だ。
武四郎の各種日誌類も見てみよう。
スモマナイ(番や、板くら、いなり社有)惣て此邉人家つゞき繁昌の地なり。
『西蝦夷日誌』松浦武四郎
今度はスマモナイ。スマモである。スモモの事でも考えていたのだろうか?原本を見ても線が突き抜けていない「ス」だが、「ヌ」を書き間違ったの誤字の可能性はあるだろう。
モヽナイ 本名モウムナイ。 小石平浜。
『廻浦日記』松浦武四郎
また違う発音が出てきた。本名モウムナイ だそうである。
モウマナイ …(略)…
モヽナイ … 右ウタレ ニヲシロン申口也
『辰手控』松浦武四郎
フィールドノートの『辰手控』ではモウマナイが出てくる。上記のモウムナイはここから来たのだろうか。しかしモウマナイの情報源がわからない。一方モヽナイは現地アイヌの従者ニヲシロンから直接聞き取った情報であり、信頼性がある。辰手控にはスケッチもあるが、2枚のスケッチ内ではいずれもモヽナイである。
モヽナイ 夷人小屋一軒……(略)
従ツコタン モムナイ 十町
『再航蝦夷日誌』松浦武四郎
弘化三年の蝦夷日誌ではモヽナイ…かと思いきや、その中で引用している『蝦夷行程記』ではモムナイになっている。
ということで松浦武四郎の文献だけでも
- モヽナイ
- モムナイ
- モウムナイ
- モウマナイ
- スモマナイ(ヌモマナイ?)
- ヌフモナイ(ヌマモナイ?)
というブレがあるというのである。ここまでバラバラだと、どれが正解なのかを見出すのが難しい。しかし最も信頼できる情報源である現地アイヌの案内人が「モヽナイ」と言っており、松浦武四郎が歩いた当時はモモナイと呼ばれていた可能性が高いようだ。
更に古い史料に遡って調べてみよう。
江戸時代の文献
文献 | 年代 | 表記 |
---|---|---|
西蝦夷行程記 | 1781/天明? | ヌムオマナイ? |
西蝦夷地場所廻浦日記 | 1787/天明6 | モモナイ |
西蝦夷地分間 | 1792/寛政4 | モムナイ |
西蝦夷海岸之図 | 1798/寛政4? | モヽナイ |
西蝦夷地行程 | 1805/文化2 | モヽナイ |
西地海陸里程 | 1805/文化2 | モヽナヒ |
遠山村垣西蝦夷日記 | 1806/文化3 | モモナイ |
東海参譚 | 1806/文化3 | ヲモマナヰ |
未曾有後記 | 1806/文化3 | もむない |
田草川西蝦夷地日記 | 1807/文化4 | モモナイ |
津軽図 | 1810/文化7 | ニモナイ |
村山図 | 1816/文化13 | モモナイ |
伊能図 | 1821/文政4 | モヽナイ |
伊能図甲 | 1821/文政4 | モヽナイ |
今井里数書 | 1831/天保2 | モムナヱ |
今井原図 | 1841/天保4 | ヌモマナイ |
今井図 | 1841/天保4 | ヌモマナイ |
再航蝦夷日誌 | 1847/弘化3 | モヽナイ |
海岸里数書 | 1855/安政2以前 | ヌモマナイ |
廻浦日記 | 1856/安政3 | モヽナイ |
〃 | 〃 | モウムナイ |
按西扈従 | 1856/安政3 | モヽナイ |
辰手控 | 1856/安政3 | モヽナイ |
〃 | 〃 | モウマナイ |
蝦夷行程記 | 1856/安政3 | モムナイ |
観国録 | 1857/安政4 | モヽナイ |
北溟紀行 | 1857/安政4 | 毛牟奈伊 |
罕有日記 | 1857/安政4 | モンナイ |
西蝦夷地御場所絵図面 | 1858/安政5 | モムナヱ |
東西蝦夷山川図 | 1859/安政6 | ヌマモナイ |
西蝦夷日誌 | 1863/文久3 | スモマナイ |
30件の文献のうち、大多数である20件が「モモナイ」もしくは「モムナイ」「モムナエ」であった。やはりこれが地名として定着していたのだろう。一件だけある「モンナイ」もこれらの訛りの一つに含めても良さそうだ。また『津軽図』と『村山図』は同じ地図からの写しなので「ニモナイ」は単純な誤記だろう。
それ以外の表記を取り出してみると、「ヌムオマナイ?」「ヌモマナイ」「ヲモマナイ」などがある。
「ヌムオマナイ」あるじゃないか!と思うかもしれないが、この天明年間の『西蝦夷行程記』だけ原本や写本を見ておらず、『忍路郡郷土誌』からの孫引きになる。どうにも明治時代の永田地名解を逆に参照しているような印象があり、本当に天明年間当時の表記そのままなのかが疑問が残るところがある。それで「?」マークをつけておいた。
それを除くと天保年間になってやっと「ヌモマナイ」とする文献が三件出てくる。これは全て今井八九郎の測量に基づく地名であり、参照関係にある。この今井八九郎の測量結果は松前藩に提出されており、その写しを松浦武四郎も持っていたようだ。武四郎は今井図の地名を何度も引用しており、『西蝦夷日誌』や『東西蝦夷山川地理取調図』の表記はここから来ているように思う。マがフに見えるところまで一致している。
これらからわかるのは、出典の怪しい天明年間の史料を除けば、頭の「ヌ」の音を現地で聞き取ったのは今井八九郎ただ一人ということになる。だからそれだけで間違いだと断定できるものではないが、信憑性のほどはだいぶ薄いということになる。
ただ天明年間の「ヌムオマナイ」が本当に存在したのならば、桃内の初出となるはずなので信憑性は逆転する。この史料の所在について関係図書館に問い合わせているところだが残念ながら今だ回答はない。
今のところはやはり モモナイ もしくは モムナイ をベースに考えるのが良いようだ。
桃内の地名解
これらの調査結果から、新たな地名解を考えてみた。
スモモの沢モモナイ
桃内の由来は moma-o-nay 「李桃のある沢」ではないだろうか。

moma で「スモモ」である。日本語のモモとかなり発音が似ている。
そのまま読むと moma-o-nay だが、アイヌ語は母音の連続を嫌うので連続母音の片方が落ちることがよくある。この音韻脱落を考慮するとmomo-nay と聞こえるようになる。
また母音のオとウはよく混同される。ウショロがオショロ(忍路)、タロマイがタルマイ(樽前)とも呼ばれるのと同様に、モモナイがモムナイと聞こえることもあっただろう。
『東海参譚』に「ヲモマナヰ」とあるのが少し気になるところで、もしかしたら o-moma-o-nay 「川尻に李桃のある沢」かもしれない。オモマナイからノモマナイ→ヌモマナイと変化していった可能性はあるだろうか。
流れる川?
音から導いたもう一つの可能性も一応挙げておく。モムナイというカナ表記が多いので、mom-nay「流れる沢」というのはどうだろうか。
このmom「流れる」という語は、水が流れるという意味では用いられず、ナニモノか(人や物)が流れていく様子を表す。まさに桃がどんぶらこと流れ下るイメージである。ただ何が流れるのかよくわからないし、mom-nay という形なら主語は沢になってしまうので、「(川を)流れる沢」という謎の表現になる。
よってこの説は採用し難い。
胡桃から李桃へ
moma-o-nayは様々な音の変化をカバーできる説だが、やはり「ヌマモナイ」という表記があったことも無視することはできない。幕末にはすでに「モモナイ」になっていたが、それより前の江戸中期くらいまではヌマモナイだったのだろうか?
num-oma-nay「胡桃のある沢」 → moma-o-nay「李桃のある沢」
と、時代を経るにつれて変化していったと考えるのが一番妥当かもしれない。
いずれにせよ桃内の由来は「木の実のある沢」であることは間違いなさそうだ。
桃源郷のごとき……
松浦武四郎の見た桃源郷
永田方正も、あるいは他の地名研究者達も、スモモにこだわるのは理由がある。それは松浦武四郎が弘化三年に忍路に立ち寄った際、咲き乱れるスモモの花を絶賛しているからだ。

其邉り李花多く、満開の時は海面に映じて、棹入漁舟は水晶盤裏を渉るかと思わる。
風景恰も桃花源裏に入る心地せり。
『西蝦夷日誌』松浦武四郎
すももの花が美しく咲き乱れ、桃源郷に入っていくような心地であったようだ。
弘化三年の日誌の方では、さらに詳しくそれぞれの状況について描いている。李花について触れているところだけを抜粋してみよう。
フンコベ(畚部) といへる少しの岬、此処海中へ突出する也。岩石上に樹木十余株有。中に李花も有てよく咲たり。
ラコシマナイ(蘭島)きしは砂岸にも有るや白くみゆる也。上の方李花多く咲たり。
シュマベケレ(しまべり) 此処岩壁の上李花多し。
シレハ岬(ポロマイ岬)上に烽火場有る也。上に李花多く咲たり。
さて船より両岸を眺むに李花爛漫として、如何にも桃花源の心地して其興云尽しがたし。
ヲシヨロ(忍路) 李花は満山に咲満、桜、梅、桃、杏、躑躅、山吹等、また青柳もよく芽を噴出し…(略)
カブト岬(兜岬)其傍に燈籠を立たり。李花の咲乱れたるさま人境とは思われず。
『再航蝦夷日誌』松浦武四郎
といった具合で、どこを見ても李花の咲き乱れる様にいたく感動していたことが伝わってくる。この後もポン忍路、ポントマリ、ツコタンでも李花が咲いていることを残している。まさに丘の上はスモモの花で一杯であったのだろう。
ただ惜しむらくはその先で李花のことは触れていないことである。桃内はツコタンの隣である。流石に少し見飽きてしまったのか、松浦武四郎の関心はスモモから離れて沖のクジラの大群のほうに向かっている。沖合で花火のように潮を吹くクジラの様子に感動し、桃内にスモモがあったかどうかは記録していない。
松浦武四郎は忍路に関して歌をひとつ詠んでいる。
見あぐれば すもゝ からもゝ 桃 さくら
わかぬばかりに 咲みちにけり
『西蝦夷日誌』松浦武四郎
李桃、杏、桃、桜がわかんばかりに咲き満ちる様子をありありと歌っている。松浦武四郎の感動がよく伝わってくる歌である。
スモモの花を探して
幕末にこれだけたくさんのスモモの花が咲いていたのだから、今でも忍路にいくらか残っていてもおかしくはない。だが不思議とそういう話はあまり聞いたことがない。桜はあちこちに咲いているが、はたして李桃はまだどこかにあるのだろうか……?
およそ30年前にそれを探した人がいるようだ。 → 「スモモの古木を訪ねて」
この記録の初出は1991年の仁木町広報で、フゴッペ岬の上にスモモの大木があるらしい。松浦武四郎はフゴッペ岬の上にも李花が咲いていると言っていた。フゴッペ岬越の道は一度登ったことがあるので、再訪して探してみることにした。


なるほど、確かに記述通り古道の南の斜面を上りきった先、笹薮の中に白い花をたくさんつけたバラ科の木を見つけることができた。ただこの木、スモモに似ているが、どうやら梨の仲間であるらしい。
その後、特に桃内川流域を中心に、桃の木が生えていないか注意深く観察してみた。

桃内川の上の方にはクリーンセンターがあるが、その敷地に美しいピンクの桜が咲いていた。スモモの花はもっと白い色をしており、ピンク色では無いはずだ。

クリーンセンターの少し下流、フルーツ街道沿いに見事な白い花を咲かせた木があった。これこそスモモか!と思ったが、どうにもさくらんぼのような気がする。

ほかにも桃内川沿いのあちこちの畑に白い花の木があったが、どうにもさくらんぼのようで、スモモはなかなか見つからない。やはり桃内にスモモは無いのだろうか……?
半ば諦めかけていたところ、最後に寄った場所でついに見つけることが出来た。



あった、これだ!たぶんこれはスモモじゃないだろうか。桃内神社の境内に、ひっそりと生えていた。花はだいぶ散りかけていたが、どうやらスモモの特徴に似ている気がする。
本当にスモモのかどうかは実がなってみないとわからないが、これがスモモであったら、たしかに桃内にも李花があったということになる。
桃内は今も moma-o-nay「李桃のある沢」だったのだ。
コメント
初めまして。趣味で関東地方及びその近県のアイヌ語地名を調査しています。小樽市に桃内というアイヌ語地名があるそうそうですが、福島県南相馬市小高区にも同名の桃内(ももうち)があります。常磐線の駅名にもなっています。小樽の桃内は李に由来するということですが、南相馬市の桃内もヌムと関係するのか。駅の東側を岩越川という小河川が流れています。福島県は明治になって、それまで「ない」と読んでいた内を「うち」に呼び代えたそうなので、桃内も昔は「ももない」と呼ばれていた可能性もあります。
南相馬市にも桃内という地名があるのですね!それは興味深いです。福島はよく知られているアイヌ語地名ラインでは結構ぎりぎりあたりになるかと思いますが、かつてモモナイと呼んでいたのでしたら可能性はあるかもしれませんね。
関東以西にも、(現状では解釈が怪しいものが非常に多いとはいえ)かつて蝦夷語由来だった可能性がある地名もいくつかありますよね。
九州の小字に、ウトロ、アカン、勇内(ユウナイ)、道佛(トウフツ)、野附(ノツケ)、重茂苗(オモナエ)、足寄(アショロ)などがあるのだとか。これらはいかにもアイヌ語・蝦夷語的な響きがします。