二つのヨイチ
二つの余市を繋げる大川橋
余市のシンボルのひとつに大川橋がある。余市川の河口にある白い橋で、かつて余市の渡船場があったところにかかっている。
新市街と旧市街
余市という町を訪れると、市街地が二つに分かれていることに気がつくかもしれない。
JR余市駅や道の駅よいち、またニッカウヰスキー蒸留所のある「大川・黒川地区」(新市街)はショッピングセンターなども立ち並びよく発展している。
それに対してモイレの岬の向こう側にある「富沢・港」地区(旧市街)はあまり訪れたことがないか、あるいは積丹・古平方面の通り道として通過したことがあるくらいかもしれない。
しかしこちらが旧市街と称したように、明治時代に先に発展したのは豊沢・港地区であった。
明治25年頃の地図を見ると、港のある富沢地区の方が先に碁盤の道路が整備され、発展している様子がわかる。
この二つの地区は、単に先に発展した旧市街か新市街か、というだけには留まらない。下ヨイチと上ヨイチとして、古くから分かたれていた場所なのである。
上ヨイチと下ヨイチ
余市の重要史跡に「旧下ヨイチ運上屋」という建物がある。かつての下ヨイチ場所の中心となっていた施設である。
「下ヨイチがあるなら、上ヨイチもあるのでは?」そういう考えが浮かぶのも当然である。自分が初めて余市の調査をした時、一番はじめに浮かんだ疑問がそれだった。では下ヨイチと上ヨイチとはそれぞれどこにあるのだろう。
「上ヨイチ場所」は余市川東岸で、「下ヨイチ場所」は余市川西岸。これが基本的な理解だ。ただこの境界が定まったのは近代になってからで、市役所や図書館のある入船・山田地区はかつては上ヨイチに含まれていた可能性がある。しかし地図を見ただけでも、余市川を持つ上ヨイチのほうが圧倒的に有利であることはよくわかる。
なおいくつかの地図では上下ヨイチを逆に書いており学者達を混乱させている。これは当時の役人の誤った認識によるものであるということが余市町史で明らかにされていた。
ただしこの上ヨイチ・下ヨイチという区分は和人によるものであり、余市郡には4つのアイヌ氏族が住んでいたようだ。アイヌ達の正確な領域はわかっていないが、3つの氏族が上ヨイチに、1つが下ヨイチに領域を持っていたようである。余市アイヌの惣大将として知られるハチロウエモンも上ヨイチのアイヌである。
上下ヨイチの格差
アイヌは鮭を主食としており、あらゆる産物の中でも鮭を最も重視した。鮭の豊富に採れる余市川は上ヨイチに属しており、下ヨイチは余市川での漁獲権を持っておらず、おそらくヌッチ川で鮭を採っていたのだろう。
記録でも、1739年頃の運上金は余市町史の計算によると上ヨイチ場所が約140両なのに対し、下ヨイチ場所は20両足らず。上ヨイチは鮭の割合が非常に高く、上ヨイチの優勢が目立つ。ここから、ヌッチ川の鮭は、余市川の鮭に比べるとかなり少なかったということを覚えておきたい。
しかし江戸後期になり、和人によるニシン漁が始まると状況は一変する。鰊は岩場の浜でよく採れるので、鰊は下ヨイチに多くの財をもたらした。現在なお下ヨイチ運上屋のほうが重視されているのは、鮭漁から鰊漁への転換が深く関係しているようである。明治になり上下ヨイチが統一されると、本陣が置かれたのもやはり下ヨイチのモイレ山の麓だった。
モイレ場所と忍路
元禄郷帳を見ると、余市の2つの場所は「下ヨイチ・上ヨイチ」ではなく、「モイレ・ヨイチ」となっている。下ヨイチはモイレ場所と呼ばれていたことがあったようだ。下ヨイチ運上金はモイレ山の麓にあるし、下ヨイチに余市川は含まれていなかったので、そのほうが自然な呼び方かもしれない。モイレ場所はヌッチ川流域、ヨイチ場所は余市川流域というわけである。
ところが隣の忍路場所も、モイレ場所と呼ばれていたことがある。
またシャクシャインの戦いの際、ヨイチの大将は道北の酋長との会議や、津軽藩の使者との会談場所として忍路湾を選んでいる。忍路はヨイチアイヌの勢力下にあったようだ。
ここからすると、かつては忍路がモイレと呼ばれていたが、下ヨイチと統合されて下ヨイチの方にモイレという地名が移った可能性はある。moyre とは波の静かな場所を指すが、この地名はモイレ山の麓よりも、三方を山に囲まれた忍路湾のほうがぴったり当てはまるような気がする。アイヌはモイレ山の麓をモイレやヨイチではなくシュマオイ(岩の多い所の意味)という別の地名で呼んでいたことも記録されている。
上ヨイチは余市川流域を主体とした鮭の漁場で、下ヨイチは海岸線一体を占める鰊や海産物の漁場だったのだろう。
ヌッチ川
いよいよ謎地名ヌッチの由来を考えてみよう。しかしその前に、ヌッチ川の基本的なところをおさえておきたい。
ヌッチ川の流路変更
現在、旧市街の富沢・港地区には「ヌッチ川」「富沢川」「梅川」の3つの川が流れ落ちている。しかしもともとはこれらはすべて同じ河口に注いでいた。
現在、富沢川と呼ばれている河口がもともとのヌッチ川の河口で、梅川もそちらに流れ込んできていた。しかし人工的な流路変更によりそれぞれ別の場所にショートカットされるようになっている。これらはすべてヌッチ川水系と言うことができるだろう。江戸時代の記録では、ここには一つの川しかでてこない。
ヌッチの表記
ヌッチの表記は非常にブレが大きい。代表的なものをまずリストアップしてみよう。
表記 | 史料 |
---|---|
ヌッチ | 地理院地図 土地連絡図 行政区画 梨本氏蔵書 |
ヌウチ | 林家文書 天保郷帳 天保里数書 恵曽谷日記 |
ヌッチー | 伊能大図 |
ニブチー | 高橋蝦夷図 |
ノツ ヌツハヲマナイ | 松浦日記 松浦山川図 |
スツツ | 西蝦夷地分間 |
スッテ | 蝦夷全地 |
スツチ | 蝦夷道中細見記 |
ノツカ(野束) | 道庁切測図 土地連絡図 |
ヌッチカフ | 秦蝦夷島図 |
ヌッフコチー | 今井測量原図 |
ヌッチコペパニ ヌッチカガタイ | 土地連絡図 |
ヌッチカペタイ | 行政区画 |
あまりにもブレが多すぎる。主要な地図では何一つ統一されていないのが苦しい。ただし「ス」から始まるものは「ヌ」の誤字だと思われる。総合してみると、やはり「ヌッチ」ないし「ヌウチ」あたりが多い。
また「ヌッチカフ」など後ろに音があるパターンも見逃せない。とりわけ字名として出てくる「ヌッチカペタイ」と「ヌッチコペパニ」はかなり重要なヒントを与えてくれている。
ここからヌッチの地名解を考えていく。まずは既存の地名解から見ていこう。
1. 豊漁説
アイヌ語でヌオチ(Nu-ochi)。ヌーは「豊漁」、ヌーウシ或いはヌオッチは「漁獲の多い所」。ヌオチが転訛してヌッチとなった。
ヌッチ川河川標識
- nu-us-i〈豊漁のあるところ〉
- nu-ot-i〈豊漁のあるところ〉
定説によると、「ヌーウシ」もしくは「ヌオッチ」のいずれかで、「漁獲の多い所」であるという。永田地名解に基づく解釈である。
たしかにヌッチ川では多くの魚が穫れたという。日勝峠のあたりにペンケヌーシ/パンケヌーシという川があるので、地名の類例もあるようだ。
ただあれだけ表記にブレがあるにも関わらず「ヌウシ」や「ヌオチ」と書かれている文献が見えないのが気になるところである。そしてなによりも、隣のヨイチ川を差し置いて、こちらのヌッチ川を”漁獲の多いところ”と称することがあるだろうか。前述した通り、鮭の漁獲においてはヌッチ川の下ヨイチは、余市川の上ヨイチに圧倒的な漁獲量の差をつけられているのである。
他の説も見てみよう。
2. 岬説
ノツ(ヌウチ川と云、橋有)、訳て沙の岬の事なりと
『西蝦夷日誌』松浦武四郎
- not〈岬〉
松浦武四郎はノッで「岬」の意味だとしている。根室の野付半島や蘭越の能津登岬、あるいは石川県の能登半島など not を使った地名は各地に見られる。しかしそれらほど岬の形象ははっきりとは現れていない。ヌッチ川河口の東岸は現地で見ると少し突き出た丘にはなっているが、岬とは呼べないものだろう。
あるいは積丹の野塚:nup-ka〈野の上〉などを考えると似た音である nup〈野原〉が語幹ではないかと考えてもみたが、確たる保証はない。これも保留にしておこう。
3. 瀞説
知里博士地名アイヌ語小辞典には「nut,-i。川が一様の深さでゆるやかに流れている所:とろ」という語がある。「そのヌッ」という時はヌチ(nuchi)となる。この川は大川ではないが、ゆったりとした川なので、もしかしたらと思って参考のために書き添えた。
『北海道の地名』山田秀三
- nuti〈瀞〉
山田秀三氏は参考案として瀞説を挙げていた。瀞とは辞書によると「川の水が深くて流れが非常に静かな所」だそうである。nut 〈瀞〉の長形(所属形)が nuti になる。1単語で地名になるときはこのように長形にすることも多い。
山田先生はあまり自信がなさそうにしているが、この説を強烈に裏付ける類例が見つかった。それは山二つこえた向こうの尻別川にある。
両岸に柳が多い、ノタヘツ(和名は大曲という)。左は、小川、ヌッチ(和名は長瀞という)
『恵曽谷日記』山田民弥/明治2
明治初年の恵曽谷日記によると、ヌッチの和名は長瀞だというのだ。明治の地図にはナガドロがみえるし、尻別川には現在も長瀞橋という古い橋がかかっている。音も完璧に一致しているし、このような類例があると、ヌッチで瀞説は俄然、真実味が増してくる。(ちなみにノタヘツは nutap-pet で〈川の湾曲〉であり、「大曲」は適訳である。この地にアイヌ語によく通じた地名の命名者がいたのだろう)
すなわちヌッチの由来は nuti で〈瀞:川の水が緩やかな所〉ではないだろうか。
ヌッチ川の瀞
実際にヌッチ川を観察してみよう。瀞になっているのはどのあたりなのだろうか。
ヌッチ川の河口から600mあたりにかけてはほとんど水の流れが見られなかった。海からの風で逆に上流へ向かってわずかに波立つくらいであった。なるほどこれが ”瀞” すなわち ”ヌッチ” なのだろう。
近くに「滝沢橋」というのがあるが、これは滝のような沢ではなく、「滝沢さん」という人の名前で、滝沢さんの家はしばしば川が増水すると床上浸水したらしい。地図で見ても小学校裏の沢は標高-0.4mになっていた。このあたりの川底は海水面よりも低いということである。「川の水が深くて流れが非常に静かな所」という意味がぴったりくる地形である。
ヌッチの派生地名
さて、ヌッチの派生地名についても考えてみよう。
- ノツカ(野束)
- ヌッチカフ/ヌッフコチー
- ヌッパヲマナイ
- ヌッチカペタイ/ヌッチカガタイ
- ヌッチコペパニ
これらの派生地名を考えると、まず nut-ka〈瀞の上〉という形が見えてくる。「ヌッカ」が「ノツカ」になったとすればしっくりくる。ヌッカはヌッチと呼ばれたところのやや上方、すなわち沢町から豊丘のあたりを指した地名なのだろう。nut-ka-(o)-pet で〈瀞の上にある川〉を「野束川」と訳しても良さそうだ。
nut-pa〈瀞の上手〉も意味としてはほぼ同じである。nut-pa-oma-nay〈瀞の上手にある沢〉。ヌッチカペタイは nut-ka-pet-tay〈野束川の林〉、ヌッチカガタイは nut-ka-ka-tay〈野束の上の林〉、ヌッフコチはnut-kot〈野束谷〉、ヌッチコペパニは nut-kot-pet-pani〈野束谷の川下〉あたりだろうか。このあたりはもう少し検討の余地がありそうだが、だいたいこんな感じに解釈できるだろう。
ヌッチ川支流のアイヌ語地名
武四郎の記録から
◯ノツ川小名
『辰手控』松浦武四郎
ウーセ 右
イクービ 右
クツカルシナイ 右
川すじしばし上りて ウーセ、右の方小沢、並びて イクービ、同じく右の方またしばし行て クツカルシナイ、右の方 此辺山に成るよし。両岸沢目ひろし。桃花魚多し。
『竹四郎廻浦日記』松浦武四郎
松浦武四郎の記録には、ウーセ、イクービ、クッカルシナイという三つの支流がでてくる。川筋取調図にはシノマンノツとホリカノツという川筋も出てくるが、これは後から付け加えた可能性が高いので除外していいだろう。山川図に出てくるシノマン~地名のほとんどは後付けである。
ウーセ
位置や名前的にも、なんとなく梅川のような感じがするが、豊丘町の郷土史によると、これは百姓沢を指しているらしい。余市アイヌは遠いところからやってきた民の酋長をこの地に住まわせたようだ。平民のことを use-kur〈普通の人〉というが、そのウーセ(平民)から来たとのことだ。なるほど、”百姓沢”という地名もそこから来たのだろう。
それにしてもあまり見ない地名解である。〈山の麓〉のことを ousi ないし ouske というので、地形的特徴からするとその可能性もあるかもしれないと一応付け加えておく。
イクービ
豊丘町の郷土史によると、百姓沢の北面にある大崎山のことを指しているらしい。同書では「そこに石がある」と解しているが、e-u-ka-o-pi〈互いに重ねた石〉ぐらいの意味だろう。
この大崎山では長さ11mにも及ぶ人工的な積石構造の遺跡が発見されている。イクービとはおそらくこれのことだろう。
クツカルシナイ
豊丘町の郷土史によるとクッカルシヌプリは湯内岳ではないかとしている。
ただし上原熊次郎は文化年間の山道の行程として、下ヨイチからパンケグカルシナイまで4里、ルベシナイ(累標)まで2里半、ルーチシ(稲穂峠)まで1里と言っている。また高橋蝦夷図では、大江のマクヌナイ川のあたりでパンケクーカルシナイ/ペンケクーカルシナイという川名を上げており、ここからすると然別円山から続く尾根筋の沢を指しているのではないだろうか。武四郎も「此辺山に成るよし」と言っている。あるいはたまたま同じ地名がヌッチ川と余市川にそれぞれあるのかもしれないが。
なおクーカルシナイなら ku-kar-us-nay〈弓を作る沢〉の意味になる。
梅川
梅川のアイヌ語地名?
梅川はもともとはヌッチ川支流だったが、現在は河川改修によって海に直接注ぎ込む川になっている。古平方面へ行く途中の出足平峠の上にあるトンネルが「梅川トンネル」で、なんとなく目にすることのある地名かもしれない。ただし峠の通っている沢に流れているのは梅川支流・峠下川で、梅川本流は果樹園の奥にあり、源は湯内岳にある。
梅川はヌッチ川水系の最大の支流と言えるが、松浦図などには出てきておらず、アイヌ語ではなんと言われていたのか、そして”梅川”の由来もよくわかっていない。
豊丘町の郷土史では una-nay で 〈灰の川〉と解している。しかし梅川を示すアイヌ語地名は江戸時代の文献には全く見られない。
梅川の既存の地名解
梅川というといかにも和名な響きがするが、不思議なことにこのあたりで梅を植えたという話は残っていない。橋のところにある河川標識にはこんなことが書いてある。
アイヌ語でメムは沢水が湧き出ている所、ナイは「川」の意味。メム・ナイかメム・ウス・ナイであったものが、語源の一部が省略されメム川となり、それが転訛して梅川となった。
川の名の由来「梅川」
なるほど、「メム」が「ウメ」になったというのである。この mem〈湧き泉〉 という地名は道内各地にあり、余市川流域にもメム(仁木)、タイメム(大江)、ホロメム(銀山)、ラルマニウシメム(長沢)などたくさん見られる。
しかし梅川について「メム」であると記した史料は見つかっていない。
ウメさん?
梅川の由来について、こんな話があるのを発見した。
今の梅川町を流るる梅川なども其頃は盛んに鮭が登り、これを土人のウメという酋長が漁獲支配して居たので、のちにこの付近を梅川町と呼称した。
『北海道各村草創回顧集』
明治6年に余市にやってきて、後に余市町長になった中村源次郎の談である。当時を知る人の話であるから、信憑性はかなり高いと言えるだろう。
しかしウメなるアイヌ酋長は本当にいたのだろうか?アイヌの人別帳などを注意深く調べてみたが、残念ながら主要な名簿にウメという名前の人は見つからなかった。しかし林家文書に「ウムリ」なる老人がいたことが記録されており、名前が近いのはこのウムリになるだろうか。あるいは和名に改名したときにウメと名乗ったアイヌがいたのかもしれない。
その他の地名
山碓(ヤマウス)
山碓は現在の港町に相当する地名で、ヌッチ川河口からシリパ岬の先端までを指している。かつては山碓村(山臼村とも)と呼ばれており、余市の中心であった。江戸時代の絵図にもヤマシ、ヤマウシ、ヤマウシリなどとある。
簡単そうに見えて意外とわからない地名である。一番可能性がありそうなのが yam-us-i〈栗の群生地〉ないし yam-us-sir〈栗の群生する山〉で、シリパ山を栗山と見たか。余市は栗の自生する北限とも言われ、今も栗を栽培しているところはある。ただし北見枝幸にもヤマウシがあり、そちらには栗がなさそうなのは気になるところである。
ベンケイナツボ
弁慶ナツボは尻場山の麓の大岩のあるあたりの岸の地名で、ここに岩裂けがある。「字弁慶ナツボ」は当時の正式な字名でもあった。ベンケイは perke-i 〈裂けた所〉でナツボは「魚坪」ではないかとされているが定かではない。
オヒチャクナイ
オヒチャクナイは福原漁場のある小さな沢で、蝦夷全図や林家文書にたびたび出てくる。o-put-sak-nay〈河口の乾く川〉の意味だろう。
ハルトロ
ハルトロはモイレ山の麓の西側の崎。かつては岬が海に突き出ていて通行しにくかったが、今は岩が削られて道路になっている。ゆえに「字切通」とも。ハルトロは ar-utur〈向こう側〉の意味で、岬の向こう側を示す、全道各地にある地名である。
シリパ
尻場山は余市のシンボルともいえる山で、崖が切り立つ大きな山はとても目立つ。そして軽登山のできる山として多くのハイカーが登っている。sir-pa〈大地の頭〉の意味で、この地名は全道各地にある。
尻場山の山頂から見る景色は”シリパブルー”とも呼ばれ、天気が良ければ非常に美しいので、ぜひ一度その目で確かめて欲しい。余市神社から約1時間程度で山頂まで行くことができる。
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