積丹半島東側の秘境
積丹半島の海岸は、様々な奇岩や崖が点在し、非常に美しく魅力的な場所だと思う。シャコタンブルーと呼ばれる青い海がそれを一層引き立ててくれる。この美しい海岸は「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」に指定されており、北海道で唯一の海岸公園となっている。ただ観光客からは神威岬くらいしか注目されておらず、非常に勿体ない気がする。
札幌方面から神威岬に行く途中にある、余市から積丹岬までの自然風景に注目し、有名なところからマイナーなところまで紹介していきたい。人工建造物ではなく、自然が織りなす奇岩・絶壁などを紹介する。なおここで紹介する場所の一部は気軽に立ち入ることができず、封鎖されているところもあるのでご注意を。
余市
余市のモイレ
余市のモイレ山は古くから余市の中心であった場所で、この山の麓に下ヨイチ運上屋が置かれていた。今もその建物は残されている。山の上には余市水産博物館があり、少し西には福原漁場もある。余市の歴史を感じたいなら外せないスポットである。
moyre とは〈遅い/静かな〉を意味する自動詞である。札幌のモエレ沼も同じ単語を使っている。ただし自動詞であり、これ単体で地名となっているのは少し不思議な感じがする。moyre-tomari〈静かな泊〉 など、後ろに何かが省略されていたのだろうか?いずれにせよ、モイレは元々は山ではなく、シリパ山とモイレ山に囲まれた浜中町あたりの湾を指す地名だったようだ。
『元禄郷帳』などでは「モイレ」「ヨイチ」が分けて書かれており、下ヨイチ場所はかつてモイレ場所とも呼ばれたことがあったようだ。
モイレ山の本名は「シュマオイ」で suma-o-i 〈岩ある処〉の意味。昔は湾内に立岩もあったようだ。現在も「太古の岩」と呼ばれる流紋岩の柱状節理が残されている。マリーナの堤防は釣り人のために開放されており、ここから見る景色はなかなかいいのでなかなかのおすすめスポットである。
山碓の弁慶ナツボ
尻場山の麓の海岸はかつて「山碓村」と呼ばれており、多くの漁小屋が建ち並ぶところだった。今は祠がひとつある他は、建物も何もない。かつての山碓村はゲートで封鎖されており、一般に立ち入ることもできない。シリパの大崖が海岸に迫っており、なかなか荘厳な場所である。山碓はアイヌ語で yam-us-i〈山栗の群生地〉の意味か。武四郎は尻場山そのものをしばしばヤマシと呼んでいる。尻場山に栗の木が生えていたのかもしれない。
地理院地図に「大岩」と書かれた海上の岩があるが、『伊能図』ではホンイショになっている。pon-iso〈小岩〉の意味か。現在と昔で大小が逆になっているのが面白い。なお『今井原図』ではこの岩を「ヒナイワ」としている。
このホンイショの岸のあたりに岩の裂け目があり、これを「弁慶ナツボ」と言う。ベンケイは perke-i〈裂けた処〉の意味か。ナツボは和名の魚坪で鰊の一時的な貯蔵施設を意味する。西蝦夷に伝わる義経伝説とからめて、弁慶の漁場と呼んだのだろうか。なおこの「字弁慶ナツボ」は大正時代の土地連絡図に記載された正式な地名である。
ヨイチには地獄穴の伝説が伝わっており、死後の世界が穴の奥にあると言われていた。ベンケイナツボの岩穴ががそれかと思ったが、どうやら違うようで、シリパ岬の先端にある舟でしか行くことができない海上の海蝕洞のことを指しているらしい。弁慶ナツボの穴はすぐに行き止まりになるが、この延長線上のクワチャライシにも小さな洞窟がある。繋がっているわけではないが、同じ地質構造からできたものだろう。ただこちらは近くから見たわけではないので奥行きがあるのかはわからない。
地獄穴は伊能図にある「トシャネブ」がおそらくそれだろう。tusso-ne-p 〈絶壁の洞窟のような処〉もしくは tosir-ne-p 〈岸の穴のような処〉の意味か。なお知里真辞典によると「気絶して意識を失う」ことを「 tosir に突き落とされたよう」とする比喩表現があるようだ。あるいは tusir-ne-p で〈墓のような処〉を指すが考えすぎだろうか。
歌越の神姿岩
尻場山の向こう側、国道229が大きく山側に迂回している海岸部に、かつて歌越と呼ばれる集落があった。
かつて「沖六ヶ所」と呼ばれた余市郡沖村の集落のひとつで、その六ヶ所とは
- クワチャライシ
- ヲタンコシ(歌越)
- デタリヒラ(白岩)
- シュマトマリ(潮見)
- ユウナイ(豊浜)
- チャラツナイ
である。このうち、白岩・潮見・豊浜の三村は現在も住居があるが、他の三村は建物どころか、そこにたどり着く道すらない。かろうじて歌越は草の繁茂する廃道が通じているが、崖下に降りるのは危険なようである。
歌越集落を安全に見る方法は、尻場山に登ることである。美しいシリパブルーに迫るいくつもの岩崖が見えるが、手前の目立つ立岩である「神姿岩」の向こう側の湾が歌越である。
神姿岩 はアイヌ語で kamuy-noka〈神の姿〉といい、その名の通り神が化身したという伝説が伝えられている。
出足平の神有白岩
余市市街から梅川トンネルを抜け、海岸のワッカケトンネルに入る手前に「白岩」の看板があり、そこを車で下りていくと白岩集落にでる。
白岩 の名が示す通り、雪のように真っ白な崖が聳える美しいところである。ここはかつては出足平と呼ばれた集落で、アイヌ語の retar-pira〈白い崖〉に由来する。アイヌの従者サントルイ曰く「神有白岩」だそうである。
戎岩・大黒岩
白岩の浜には戎岩・大黒岩と呼ばれる二柱の立岩がある。根本からポキっと折れてしまいそうな、なんとも不思議な岩である。
武四郎の記録を見ると「エビストマリ、人の形の岩也」とあり、当時からエビスと呼ばれていたようだ。ここにさらに「ノジュシュマ」と呼ばれる岩があったようである。「訳して星岩と云。往古星落て此岩に成しと云傳ふ」とあり、nociw-suma〈星岩〉の意味か。これは大黒岩の方かもしれないが、あるいはそれとは別に以前「タコ岩」と呼ばれる岩があったらしい。残念ながらこちらは現存していない。
2つの岩の背後には烏帽子岬が見える。文字通り帽子を被ったように尖った岩山で、アイヌ語では iwa-ne-sirpa 〈(神聖な)岩山である岬〉。この3つを構図に入れた写真はとても美しい。
ビュースポットまで車で入っていくことができるが、特に駐車場などはないので、漁港や集落の方の迷惑にならないように停めたい。
大蝋燭岩
余市町のシティサインにも描かれている、余市のシンボル・蝋燭岩。『出川哲朗の充電させてもらえませんか』の札幌・小樽・余市回ではこのローソク岩が最終目的地となっていた。
このあたりを描いた江戸時代の地図・絵図類でも必ずと言っていいほど描かれており、まさにシンボルとしてよく知られていたようである。アイヌ語名は不明で、昔から「ロウソク」と呼ばれている。以前はもっと太くずんぐりしていたそうだが、昭和10年頃に崩れて細くなりむしろロウソク感は強まった。
ワッカケトンネルを抜けた先の島泊地区(潮見町)にローソク岩の展望駐車場があり、遠くから眺めることができる。隣の湯内地区(豊浜町)から見ると手前にずっと小さい立岩があるが、ポンロウソクと呼ばれているのはこちらだろうか。今井図ではホロチハトエとある。
再航蝦夷日誌によると「蝋燭石」は高さ2丈5~6尺とある。およそ8mである。しかし現在のローソク岩は44mほどあり、これは湯内漁港にあるホンローソクのことを言っているのだろうか?さらにアイヌの話によると「むかしより四尺計も低くなりたり」と言っている。武四郎は「大蝋燭」という呼び方もしているので、「大蝋燭」が蝋燭岩、「蝋燭石」がホンローソク(チハトイ)なのかもしれない。このあたり、ちょっとはっきりしないところである。
古平
哀しきセタカムイ
長い豊浜トンネルを越えて、古平町に入ってすぐのところにある海岸の大きな立岩。セタカム岩とも。セタカムイの setaとは〈犬〉のことで、いつまでも主人を待ち続ける哀しい犬の伝説が残されている。
しかしこの場所にはもっと悲しい記憶がある。平成8年に起きた「豊浜トンネル岩盤崩落事故」は20名の死者を出す痛ましい事故となり、この崩落事故がきっかけで、西蝦夷海岸のほとんどのトンネルを作り直すという道路の大きな転換期ともなった。安全と引き換えにドライブ中に美しい景色を眺める機会も減ってしまったが、致し方ないことだろう。
現在は「セタカムイ道路安全祈念広場」が整備されており、慰霊碑と共に、ドライバー達の休憩場所となっている。
seta-kamuyは〈犬神〉の意味だが、旧記類を見ると「カムイエト」とか「ウオセ」と呼ばれていることが多いようだ。kamuy-etu〈神岬〉のほうは各地に見られるが、ウオセはなかなか珍しい地名である。どうやらwose〈(犬や狼が)ウオーと遠吠えする〉という擬音語から来ているらしい。なるほど、ここからしても犬の伝説は昔からあったようだ。
近くから見るとあまり犬のようには見えず、むしろ佇む人の様だが、少し遠くから見ると確かに犬が天高く吠えているように見えなくもない。惜しむらくは、この角度からの風景は現在の道路からは見ることができないことである。
余談だが、祈念広場のある集落はかつてラルマキと呼ばれており、ラルマキ橋として名が残されている。永田地名解によるとラルマニの訛りで rarmani〈オンコの木〉らしいが地名としてはどうだろう。とりあえず ran-ru-mak〈下る道の奥〉あたりを私案として投げておく。昔から余市の方へ抜ける山越えの峠道があったところである。
ツルノップ立岩
セタカムイの反対側にずんぐりむっくりした立岩が海上に立っている。これは旧道の方にあるので、現道からは見ることができない。沖歌トンネルの区間で、セタカムイの広場から海岸伝いに歩いて行くことができる。
現在の地理院地図では単に「立岩」と書いてあるが、昔はツルノップとかチロノフなどと呼ばれており、永田地名解によるとその意味はchir-o-nok〈鳥の卵〉であるらしい。しかし音からするとchi-ronnup〈狐〉のような気もする。武四郎は「狐が此処にて死せしと云事なるよし」と言っている。
古平モッコ岩
古平の市街地にはいる手前、古平トンネルの岬の先端に、不思議な形をした岩がある。遠目にはテトラポットのようにも見えるが、手の加わっていない天然の岩である。これをモッコ岩という。
モッコは和名で、漁具の畚によるものだろう。一説によると津軽弁でカエルを意味する「もっけ」から来ているという話もあるが定かではない。
古くは岬の西側(沢江町)をmenas-tomari〈東南風の泊〉、東側(歌棄町)をota-sut〈砂浜の端〉といい、この間の岬と岩には色々な名前が付されている。
明治期の地図には「法華澗」とあり、現在の地理院地図にもまだ残っている。ホッケはpok-ke〈下の処〉の意味だろうか。また今井図では岬を「フルヒラヘ」、松浦武四郎も「フルビラエ(岩崖)」とし、どうやらこの古平トンネルのある岬が古平の原名に関わる地形だったようだ。
松浦武四郎はモッコ岩のことを「チャシュマ(大岩)」と書いている。chasi-suma〈砦岩〉?また伊能図では「チバトイ」。チパは知里博士によるとイナウの祭壇の古語らしい。忍路や塩谷、赤岩の山中海岸にもチバトイがある。
永田地名解によると siratki-kamuyで〈神石橋〉とされている。昔は岩が繋がっており、自然の橋のようになっていて、神の作りし橋とされていたようだ。今は崩れて分かれている。ちなみに「シラッキカムイ」とは儀式的に用いられる狐の頭蓋骨を表すこともある。
この古平歌棄海岸には「古平いこいの広場」という駐車場があり、夏に海遊びをする家族連れの姿も多い。
群来町のポンチシ
古平丸山の西、旧道沿いにひっそりと立つ立岩。旧道の入り口は車でも行くことができるので、気軽に立ち寄ることができる。古平丸山が一番美しく見えるスポットでもある。
pon-chis〈小さな立岩〉の意味であるが、その音といいフォルムといい、ローソク岩にも勝るとも劣らないインパクトがある。
その先にある厚苫岬も結構綺麗なところである。
積丹
美国の黄金岬と宝島
積丹町に入って市街地を抜けると、国道は大きく丘の上へと上がっていき、しばしの間海岸を離れる。現在積丹町役場があるこの地区は、戦前まで「美国郡美国町」であり、積丹町の隣町にあたる集落であった。かつて江戸時代はここにビクニ場所が置かれ、シャコタン・ビクニ・フルビラ・下ヨイチの四場所が積丹半島東岸に並んでいた。このうち積丹と美国が昭和32年に合併し積丹の中心街は美国に移ったが、気持ち的には野塚のほうが積丹で、こちらが美国という感覚が残っている気がする。
この美国にある黄金岬は神威岬にも勝るとも劣らない、とても美しいところである。神威岬に行くときはぜひ寄って欲しいおすすめビュースポットだ。
黄金岬の展望台へは「チャシナの小道」と呼ばれる遊歩道が整備されており、2022年秋に整備工事が終わったばかり。木製の展望台からは晴れた日にはシャコタンブルーの美しい海岸を見ることができる。黄金岬から見える大きな島は宝島で、空から見るとハート型をしているそうである。手前には鴎島という変わった形をした岩もある。
松浦武四郎は宝島を大黒島と呼んでいる。大黒天といえば宝船に乗って打ち出の小槌で宝物を出す七福神のひとりだが、そこから宝島へと連想されていったのだろうか。また黄金岬はかつて弁天岬と呼ばれていた。このあたりの和人地名における大黒天・恵比寿天・弁財天の人気は顕著なものがあるが、七福神の残り四人がさっぱり出てこないのも面白い。
今井図や伊能図を見ると、島は黄金岬の先というより、ビヤノ岬に付属して描かれているように見える。海上の北方向から宝島を見ると確かにそう見えるかもしれない。伊能図では「ヒーヤ」、按西扈従では「ヒシヤ(大岩)」「イネセウシ(大岩)」、今井図では「ヒーヤ」「イネセウシ」。ビヤノ岬の周辺には目立った岩や島は見られず、このあたりの関係がどうにもよくわからない。
茶津の崎の付け根に剣のように切り立った立岩がひとつあり、これの名前がわからない。ひょっとするとこれがチャシナの伝説の剣なのだろうか。武四郎によるとこの奥の湾に高さ三丈(9m)幅三尺(0.9m)の滝があり、「滝の下」とも呼ばれていたそうだが、夏に見た時は滝の姿は確認できなかった。
茶津の由来はchasi〈砦〉のようで、伊能図では黄金岬を「チャシコツ」としている。chasi-kot〈砦の跡〉で、各地に見られる地名である。ここもかつてチャシがあったのだろうか。確かに岬の上からの眺めがよく、見張り台としてはうってつけの場所のようである。
幌武意のマッカ岬
幌武意は積丹岬の東の方にある小さな漁村である。意味は poro-moy〈大きな湾〉
この集落に下る道は一本しかない。かつて西蝦夷にはこういう岬と岬に囲まれて背後の崖から下る道しかない集落が無数にあった。しかし知る限り、現在も左右が道路で繋がれていない、孤立した崖下の海岸集落は、西海岸にはもうここにしか残されていない。かつての西海岸の原風景を思い起こさせる、静かな集落である。
幌武意の湾の南側にあるのがマッカ岬で、三角形の大岩が特徴的だ。マッカ岬というのは積丹半島の西側にもあって、そちらもやや似たような形の岩がある。このマッカはアイヌ語ではなく東北弁らしい。ただ「ホロマカシュマ」とアイヌ語らしく書いている地図もあるのでわからない。今井図では「アヌシャントマリ」とある。
幌武意からの角度ではよく見えないが、実は二本の岩が立ち並んでおり、「股岩」と言われるのはそのためである。小樽の蘭島から見ると、海上の立岩が離れているのが遠くにかすかに見える。
ピリカ岬の女郎子岩
断崖絶壁の海岸にひっそりと立つ人の形をした大岩。西蝦夷の奇岩の中でもひときわ印象に残る立岩がこのピリカ岬の女郎子岩である。
島武意海岸の駐車場から東に2kmほど歩くと女郎子岩の前の展望台に出る。しかしちょっと遠いので、女郎子岩が目的なら、第二展望デッキのあたりに出る遊歩道の駐車場を使ったほうがいいかもしれない。2022年はどちらも熊出没のため閉鎖されていた。
この岩にはシララ姫の伝説が伝わっている。この地にやってきた義経は、アイヌ酋長の娘シララに看病され恋仲になる。だが義経はシララを見捨てて去ってしまう。絶望したシララは大波に飲まれ、いつしか岩と化したという。
源義経もさることながら、sirar というのがそもそもアイヌ語で〈岩〉の意味なので、近代に作られた物語であることは疑いの余地もない。いずれにせよ西蝦夷海岸にはこの手の義経伝説が非常に多く伝わっており、全てあわせると10人以上の娘たちを身投げさせたり岩にしたりしている。
積丹観光協会の看板によると「だれ言うともなく女郎子岩と呼ばれるようになり、今も義経を恋慕うかのように立っている」とある。しかしなぜ「女郎」なのだろう。一般には「遊女」を指した言葉である。
元々は「ジョロッコ岩」ではなく「オショロ岩」だったような気がする。女郎子岩のアイヌ語名は「シケヲショラウシ」もしくは「シケヲショロシュマ」(西蝦夷日誌)。sike-us-or-suma〈荷を背負う入江の岩〉の意味だろうか。そう言われてみると、カバンを背負った人の姿にも見えなくもない。それがいつしか女郎子に呼び替えられていったのだろう。
明治6年の古平郡の地図では「字シケヲシラウシ」に赤い注釈が振られ「シラヲショロウシ」と解されている。シララというのも案外ここから取られたものかもしれない。
島武意海岸
島武意海岸は「日本の渚100選」に選ばれており、その中でも日本最北の海岸である。シャコタンブルーの美しい青い浜は多くの観光客を魅了している。島武意海岸東側の出岬は積丹半島の最北端にあたる部分でもあり、大きく見れば実質的にここが積丹岬ということもできるだろう。
かつてニシン漁師達が掘った細い人道トンネルをくぐっていくと、眼下に雄大な青い浜が広がる。足腰に自身があるなら、整備された遊歩道をつづら折りに下っていくと浜に降りることもできる。屏風岩と言われる手のひらを立てたかのような大岩が二枚並んでおり、ここが suma-moy〈岩の入江〉と呼ばれていた理由がよくわかる。按西扈従によるとこの岩壁はsuma-chise〈岩の家〉と呼ばれていたようだ。
ニマンポーの硫黄山
島武意海岸の西の湾を「ニマンポー」という。松浦武四郎によると硫黄山で、麓に温泉が湧いていたようだ。上から回り込んで行くことができるが、浜まで降りるのは難しい。一応ロープはあるがおすすめはしない。
ニマンポーとは永田地名解によると「海栗多き処」だと言っている。nona-o-p〈ウニがたくさんいる処〉?音としてはni-oma-p〈木のある処〉としたいところだが、「大なる硫黄山有り。艸木一株として無し」とわざわざ武四郎が言っているくらいなのでちょっとむずかしい。
とりあえず島武意海岸の「お食事処 鱗晃」でウニ丼が食べられるので、ウニが好きなら食べていくのもいいだろう。
積丹半島西海岸
積丹半島東海岸には様々な見どころがあるが、西海岸は神威岬のほか、神恵内方面はさらに面白いところがある。それはまた次の機会に紹介したい。
コメント