寿都町
ことぶきのみやこ
後志に寿都という街がある。「ことぶきのみやこ」とは雅な漢字を当てたものだ。読みは「すっつ」。初見では絶対に読めないし、一度聞いたくらいではなかなか覚えられない、いわゆる難読地名のひとつとなっている。
しかし同じ後志管内に留寿都という村がある。こちらは「るすつ」。ルスツリゾートで有名なところなので、ルスツの「スツ」と考えれば覚えやすい。漢字も同じである。ただし寿都は「スッツ」で、留寿都は「スツ」。この違いは後々微妙な差になるので頭の片隅に覚えておいて欲しい。
また寿都町管内に「歌棄」という地区がある。
忍路 高嶋 およびもないが
せめて歌棄 磯谷まで
江差追分
有名な江差追分の一句に歌われた歌棄が寿都町の東側にあるが、これの読みが「うたすつ」である。これも関係があるのだろうか。
瀬棚の北側に須築(すつき)という小さな港町があるが、これもなんとなく響きが似ている。
また寿都町の真ん中を朱太(しゅぶと)が流れている。後にわかることになるが、これも関係があるのである。
- 寿都(スッツ)
- 留寿都(ルスツ)
- 歌棄(ウタスツ)
- 須築(スツキ)
- 朱太(シュブト)
この5つの地名をめぐりながら、寿都の地名の謎を解き明かしていこう。
寿都近郊の今昔
まず寿都町周辺の行政区分の変化を簡単に見ておこう。
江戸時代は概ね朱太川を境に、「西の寿都」「東の歌棄」に分かれていた。現在はそれが統合されて「北の寿都」「南の黒松内」に分かれている。
海岸沿いに国道229号を走っていると、ずっと寿都だったのに、一瞬だけ黒松内に変わって、また寿都に戻るという面白い体験ができる。小学生の頃、ここを何度もバスで通ったのだが、この短い黒松内区間がとても気になっていた。とはいえ寿都も黒松内も、元は同じ文化圏であったことがわかる。単に浜の町と丘の町で分けたのだろう。
留寿都と歌棄
ルスツリゾートの留寿都と、江差追分の歌棄。この地名の由来は、はっきりしている。
- ru-sut 〈道の根本〉 = 留寿都
- ota-sut 〈砂浜の根本〉= 歌棄
位置名詞の sut は直訳すると〈根本〉の意味だが、「そこから始まっている」といったニュアンスがあり、 ru-sut であれば「道がそこからある」つまり「山道の入り口」、ota-sut であれば「砂浜がそこからある」すなわち「砂浜の端」に相当する場所につけられる地名である。
寿都の東側の海岸線を北から下ってくると、磯谷 (iso-ya〈岩岸〉の意)と呼ばれる岩浜がずっと続くが、ちょうど歌棄の番屋を過ぎたあたりから砂浜に変わる。岩浜から砂浜に変わる処。「そこから砂浜が始まる」。すなわち ota-sut 〈砂浜の端〉なのである。極めて明快で、地形の特徴を的確に表現した地名と言うことができるだろう。
留寿都は「道の根本」、歌棄は「砂浜の根本」。では寿都のほうは「何の根本」なのだろう。
寿都の既存の地名解
アシの原?
寿都の既存の地名解を見てみよう。まずはWikipediaから。
アイヌ語の地名「スッツ」に由来する。永田方正『北海道蝦夷語地名解』によると、語源はシュプキペッ(Syupki-pet)で「矢柄に用いる茅のある川」の意であるという。なお同書では、アイヌ語の「シュフ」に由来し「葦や荻が多い岩崎」の意とする説もあるとしつつ、これを否定している。
『寿都町』Wikipedia日本語版 2023年9月13日 08:51 (UTC)
あれ?なんかぜんぜん違うことが書いてあるぞ。どうにも sut〈根本〉とは関係ないらしい。シュプキペッで「矢柄に用いる茅のある川」の意味なのそうである。
supki とは〈葦/芳/ススキ〉などイネ科の 茅 の仲間全般を表すアイヌ語で、これらの植物はよく平原の水辺で広く見られる。朱太川の河口にも確かに生えている。
朱太川の由来
「朱太(シュブト)」という名称については”スㇷ゚キペップトゥsupki-pet-putu(アシの・川・の河口)”の中略したものを音訳したもので、本来は「朱太川」河口を指すものであったが、後に河川全体を指す名称に拡大したものと推定される。
『データベースアイヌ語地名 後志』榊原正文
なるほど、朱太川が「シュプキッペッ」で、それがなまって「スッツ」になったそうである。
そしてシュブトの”太”とは putu 〈河口〉の意味で、元々は河口部を指した地名だったようだ。太に関しては当別太とか江別太、空知太など各地に見られる地名形態である。
すなわちもともとは朱太川は「寿都川」という名前で、その河口部が「寿都太」であったのだろう。それがいつしか「朱太川」と名前が置き換わってしまったようだ。現に、昔の地図を見ると、朱太川を「スッツ川」と書いている例がたくさんある。朱太川の”太”の正体はこれで間違いなさそうだ。
スッツの移動
もとは寿都鉄道に沿って流れている朱太川がなまったものの名で、シュプキペッといって茅の多い川という意味。
昔、この川筋にアイヌが九百人も住んでいたのを、現在岩崎町といっているシュマ・テㇽケ・ウシというところに漁所を開くときに、労働者として移したので、場所の名をシュプキ場所といったのが寿都にまで変化発展したのであるという。
『アイヌ語地名解』更科源蔵
興味深いことが書いてあった。元々朱太川に住んでいたアイヌを岩崎町、すなわち「道の駅・みなとまーれ寿都」がある寿都港のあたりに移動させ、そのときに地名も移動したというのだ。
既存の地名解のまとめ
ここまでの流れをまとめると
- 朱太川のことをsupki-pet〈葦川〉といった
- 朱太川河口を supki-pet-putu といった
- 朱太川に住んでいたアイヌを岩崎町に移し、シュプキ場所を開いた
- 運上屋のある場所の地名がシュプキになった
- シュプキペップトゥから川そのものが朱太川と呼ばれるようになった
- シュプキが寿都になった ← ?
おおむねこんな感じで、他の地名解説などを見ても概ねこの説を追従している。これといった対案は出てきていないようで、寿都の由来はこれでほぼ定説となっているようだ。
だがあえて問いかける。なぜシュプキがスッツになるのだろう。隣にウタスツが、近くにルスツがあるというのに、スッツだけがシュプキなのである。果たして本当に正しいのか?
それを証明するには、寿都がシュプキ、朱太川がシュプキペツプトと呼ばれていたことを確かめなくてはならない。過去の文献からそれらを検証していこう。
既存の地名解の検証
文献から見る寿都と朱太川
文献 | 寿都 | 朱太川 |
---|---|---|
松浦図 | ― | シユフキ |
間宮図 | シエツツ | シユブト |
伊能図 | シツツ | シユブト |
今井図 | スツヽ | シユフトベツ |
蝦夷海岸山道絵図 | スツヽ | ― |
蝦夷全地 | スツヽ | スツヽ川 |
西蝦夷海岸之図 | スツヽ | スツヽ川 |
西蝦夷地分間 | ― | スツツ川 |
津軽一統志 | すつゝ | ― |
元禄郷帳 | すつゝ | ― |
天保郷帳 | スツヽ | ― |
正保日本図 | スツヽヱソ | ― |
蝦夷嶋図 | すつゝ | ― |
松前西東在郷 | すつ津 | ― |
絵図面方角道規 | スツヽ | ― |
江戸時代における「寿都」と「朱太川」について、主な地図や文献の表記をまとめてみた。これ以外にも色々あるが、比べたところ大きな違いは無かったのでこれらは代表的なものである。
まず「スツツ」と「スツツ川」があることから、朱太川はかつては寿都川であったことがわかる。やはり朱太川は「寿都太」から来ているのだろう。
そしてなんといっても、「シュフキ」と書いたのは松浦武四郎ただ一人である。江戸時代の地図類で、シュフキもしくはシュプキと書いたものは、他に見つけることができなかった。
シュプキではない?
その松浦武四郎も、現地で「シュプキ」と聞いたわけではない。武四郎は弘化3年と安政3年の二度、寿都に立ち寄っているが、それらの記録を見てみよう。
スツヽ、今訛りてシンツと云へり。
『再後蝦夷日誌』松浦武四郎
スツヽ運上屋
当所地名はシュマテレケウシにて、スツヽは川の名也。
『西蝦夷日誌』松浦武四郎
シユフフトベツ 略してシユツフベツと云。
『竹四郎廻浦日記』松浦武四郎
やはり「スツツ」である。「シュプキ」なんてどこでも聞いていない。「シンツ」という他では聞かない音も現地で聞き取ったようだが、いずれにせよ「シュプキ」とはだいぶ離れている。
なおアイヌ語の su は「ス」とも「シュ」とも発音するので、「スツツ」と「シュツツ」は同じである。
他の地名との比較
瀬棚の北端に 須築 という港町がある。かつてはスッキ場所として、場所請負人制度の漁場として置かれた場所の一つであった。
東から ヲタスツ場所 → スッツ場所 → シマコマキ場所 → スッキ場所
この須築の地名解が、やはり supki〈葦〉。寿都の既存の地名解と同じなのである。ということはスッツ場所とスッキ場所という、全く同じ由来を持った場所が2つあったということになる。しかもシマコマキ場所の西隣と東隣。紛らわしくなかったのだろうか。
これを含めてヲタスツ、スッツ、スッキのそれぞれの文献での表記を比べてみよう。
文献 | 歌棄 | 寿都 | 須築 |
---|---|---|---|
松浦図 | ヲタシユツ | ― | シツキ |
間宮図 | ヲタシユツ | シエツツ | シユブキ |
伊能図 | ヲタシユツ | シツツ | スツキ |
今井図 | ヲタシユツ | スツヽ | シユツキ |
蝦夷海岸山道絵図 | ― | スツヽ | スツキ |
蝦夷全地 | ヲタスツ | スツヽ | スツキ |
西蝦夷海岸之図 | ヲタスツ | スツヽ | スツキ |
蝦夷地図(文政4) | ヲタスツ | スツヽ | スツキ |
西蝦夷地分間 | ヲタスツ | ― | スツキ |
津軽一統志 | おたすつ | すつゝ | すつ木 |
元禄郷帳 | をたすつヽ | すつゝ | ― |
天保郷帳 | ヲタスツ | スツヽ | スツキ |
正保日本図 | ― | スツヽヱソ | ― |
蝦夷嶋図 | ― | すつゝ | すつきの崎 |
松前西東在郷 | をたすつ津 | すつ津 | すつき |
絵図面方角道規 | ヲタスツ | スツヽ | スツキ |
須築のほうははっきり「スツキ」と最後の音が「キ」になっており、ブレがない。間宮林蔵一人だけではあるが、「シュブキ」と間の p の音を聞き取った者もいる。ここからすると須築のほうは supki〈葦〉である可能性があるだろう。
歌棄と寿都を比べると、頭の「ヲタ」を取れば2つの表記はよく似ている。ただしスッツのほうが「ツ」の音が一つ余分にあるものが多い。現在においても「ウタスツ」「スッツ」と寿都のほうだけ「ッ」が挿入されているのも、その名残といえるだろう。
寿都が須築よりも歌棄に音が寄っているのは明らかであり、須築と寿都が全く同じ地名の由来であるとは言い難い。
川の地名ではない
また文献調査からもう一つ気がつく点として、「スプキベツ」としているものはひとつもない。
これは寿都や須築を supki-pet〈葦川〉 とする既存の地名解が、勝手に pet〈川〉 を書き加えてしまっている事を明らかにしている。これは地名研究家の悪い癖で、なんでも pet や nay をつけて川を地名の由来にしてしまう。サッポロペッとかイシカラペッとかハチャムペッとか、江戸時代の文献を見れば一度も出てこない表記を、あたかもそれが正しいアイヌ語地名だったかのように書いてしまうので要注意である。
スッツにおいては、今井図の「シュフトベツ」が川名として書かれている。これは朱太川のことなので正しい。また「スツツ川」という表記もあるが、それ以外は基本的に川を指した地名ではないはずだ。
須築についてははっきりわからない。植物の名前をそのまま地名にする例は他にあまりない。もしかすると sotki〈寝床〉かもしれないと考えたが、こちらは一旦保留にしておこう。
シュプキになった理由
ではなぜ松浦武四郎は現地で「スッツ」と聞いていたのに地図では「シユプキ」と書いたのだろう。
そのきっかけを知ることができる文献がある。明治2年、新政府が新たに郡名を決定する際、松浦武四郎が地名を提案した時の文書である。
壽都郡
スツヽ、本名はシュツフにて、シュプウはシュプキの略言にて萩芦の事也。ツ゜ウは山崎の事也。訳に芦崎と字を換てよろしかるべく存候。
『蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付』松浦武四郎
でてきた。シュプキである。 supki-tu〈葦崎〉の意味であるという。今日のsupki-pet〈葦川〉説もここから来ているのだろう。
さて、これと非常によく似た説明を他の場所でも見た記憶があった。アイヌ通詞・上原熊次郎の地名考である。
スッツ
夷語シュプツ゜ゥなり。則、茅の崎と訳す。扨、シュプとは茅芳等の事、ツ゜ゥとは山崎の事にて、此邊、茅芳等の茂りあるゆへ地名になる由。
『蝦夷地名考并里程記』上原熊次郎
2つの説明の類似性から、松浦武四郎は、明らかにこの上原熊次郎の地名考を参考にしている。
すなわち、武四郎が一度も現地では耳にしなかったシュプキを地図に書き入れたのは、この地名考を考慮に入れた末のことだったのだろう。熱心な勉強家である武四郎の人となりがよくわかる過程である。
ただし寿都の原名があった朱太川河口付近は平地となっており、tu〈崎/岬〉を使った地名解が妥当であるとは言い難い。supki〈葦〉 についても ki の音がどこに言ったのかという説明がつかない。
寿都の本当の地名解
その端
これらのことからすると、 寿都の由来が supki-pet〈葦川〉 であるという説には多くの欠陥があり、正しいとは言い難い。新たな地名解を検討する必要がある。そこで考えたのが次の解である。
- sutu〈その端〉
ota-sut〈砂浜の端〉 や ru-sut〈道の端〉 と同じ sut〈端/はじまり〉 を使った解である。
ただし sut は位置名詞なので、通常は名詞のあとに後置して使う。位置名詞とは、いわば英語の前置詞のようなもので、単体では地名としては成り立たない。by だけでは文章は成り立たず、by the river として初めて意味が成り立つようなものである。
しかしながら位置名詞も所属形にすれば名詞から切り離して使うことができるという文法上のルールがある。すなわち sut〈端〉 の所属形 sutu〈その端〉であれば、単体でも地名として成り立つのだ。
ota-sut や ru-sut の最後の「ッ」は、音が「スッ」と消えていく感じで、はっきりとは発音しない。これを閉音節という。それに対して sutu は最後の「ツ」をはっきり発音する。これを開音節という。これを発音すると「スッツ」とも聞こえるはずだ。今日において寿都がスッツなのに、留寿都がルスッツではなくルスツであるのは、こういった概念形と所属形の違いから来ているのかもしれない。
砂浜の端
では寿都が「その端」であるとするなら、一体何の端なのだろうか。それは、スッツの原名があった場所を衛星写真で見ればおおかた想像がつく。
スッツとヲタスツは、寿都湾の底のちょうど端と端にあたるのである。その端よりも外側は岩浜になっていて、内側は砂浜。どちらもスッツであるが、とくに岩浜と砂浜の区別がはっきりしている方をヲタスツと呼んだのだろう。
そして朱太川は左のスッツの方に流れ落ちているので「スッツ川」と呼び、その河口部をsutu-putu〈スッツの河口〉とした。そんなところではないだろうか。
寿都と朱太川の地名の由来
改めて並べてみるとこのような流れになる。
- 砂浜の端をスッツとヲタスツと呼んだ
- スッツ側に流れ落ちる川の河口をスッツブトと呼んだ
- スッツに住んでいたアイヌを岩崎に移住させ、スッツ運上屋を置いた
- スッツの地名が移動し、元のスッツ場所はスッツブトになった
- シュプトゥ(スッツブト)が川そのものの名前になった
- そこから寿都、朱太川と呼ばれるようになった
このように地名が変遷していったのではないだろうか。
そう考えると、寿都と歌棄が似ていること、朱太川とも由来を共有していること、ウタスッツではなくウタスツであることなどの説明をつけることができる。よってこれを寿都の地名解としたい。
朱太川の葦原
ただ、朱太川が「葦の川」であるというのは、全く間違いというわけではない。
たしかに現地を見ると、ススキや葦が群生しており、美しくその穂をつけている。これを見れば、葦の川という表現もあながち見当外れではないかもしれない。
この風景を見た人が、「なるほどこれが葦の川か」と感動する余地は、残しておきたいと思う。
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