面白地名・ゼニバコ
旅行などに行ったときに「ゼニバコから来ました。」と言うと、結構な確率で面白がられる。それが文字通り「銭の箱」であると言うと、さらに食いついてくる。すかさず「どういう由来があるんですか?」と。ゼニバコは会話の取っ掛かりにできる面白地名だと思う。
明治初頭は「銭箱」と漢字が当てられていたが、「銭凾村」となってからこちらの漢字が使われるようになり、平成初期あたりから「銭函」に改められた。幕末の錦絵では「千匣」「前匣」と書いているのも見受けられる。「ゼニバコ」だけでなく「センハコ」と読む例も多かったようだ。
北海道の難読地名・面白地名といえば、ほとんどがアイヌ語由来になっている。だがゼニバコは和名だという。しかも銭の箱という極めてわかりやすい名前だ。そういう意味では多くの人に興味を持ってもらいやすい地名かもしれない。
しかし本当に和名、しかも「銭の箱」なのだろうか。その説明は正しいのだろうか。アイヌ語由来ではないかという人もいる。また、全く別の「崖の下」だという人もいる。いろいろな説が飛び交う中で、正しく由来を説明するためにも、より正確な知識を知っておきたいものだ。
この記事では改めて「銭函(ぜにばこ)」の由来について考えてみたい。
ニシン漁に由来する説
銭函の由来を語る上で、最も有名でよく知られるエピソードは以下のものだ。
この浜では鰊(ニシン)が大量に採れたので、漁師たちはとても儲かった。その儲けを収めたお金(銭)の箱が高く積み上がったので、いつしか銭箱(ゼニバコ)と呼ぶようになった。
おおむねこの理解で間違いないと思われる。誰かに聞かれたら、この説明が一番納得してもらえるだろう。しかし点数としては70点くらいで、もう少しきちんと検討しておきたいところである。
参考までに、書物などに見られる説明も確認しておこう。
鯡漁で莫大な利益があがったので和人が銭函と称したと見える。
『角川日本地名大辞典』
当地は昔から鰊漁場として知られ、豊漁のため生活豊かで、漁業家の銭函だというのでこう名付けた。
『北海道駅名の起源』
ニシンが豊漁で、お金がザックザクに由来する。
『地名を巡る北海道』
付近はニシンの大漁場で、漁師の羽振りがよかったことに由来する。
『JR・第三セクター 全駅ルーツ事典』
メジャーな地名解説では、みなニシン漁説を支持している。意外にも、”箱”に触れている例はあまりない。物理的な箱というよりも「ドル箱」の漁場という意味で捉えられているようだ。
アイヌ語説
銭函はアイヌ語由来だという説もたまに聞く。概ね以下のようなものだ。
アイヌ語で「セニ」はドングリの採れるカシワの木、「ポコ」はホッキ貝のことで、食べ物が多い所を意味している
なるほど、という感じだが、結論から言うとこの説はかなり苦しい。
このアイヌ語説の出処は銭函郷土史研究会発行の『銭函郷土史 第一巻』による。少し長いが引用してみよう。
銭函地名は「アイヌ語」であると言う古老がいた。
幸いにも筆者はアイヌ語を少し勉強していたので、早速アイヌ語での解説を試みることにした。それはセニは木を、ポコは北寄貝を表しているのであった。
セニ(シェニ)で、「木の皮が堅く貝のようにめくれる木」を言い、ポコはポク、パコで北寄貝のことである。石狩から続く樫の原生林(約20km)つまり食料になるドングリと、ホッキ貝の豊富な所の意であり、セニポコがセニハコと永い間言いならされて来たものであろう。
銭の箱に通じ漁があり縁起がよいところから古人はそのままゼニバコと言い慣わしたのかもしれない。
『銭函郷土史 第一巻』
この文献ではセニを「樫」としているが、銭函3丁目~5丁目にかけて広がる防風林の原生林は正確には樫(カシ)ではなく柏(カシワ)である。
カシワの実であるドングリをアイヌ語では〈ニセウ nisew〉という。恐らくこれを語源としているようだが、ニセウとシェニではだいぶ音が違う。あるいは貝を表す〈セイ sey〉から持ってきたのだろうか。
また北寄(ホッキ)貝はアイヌ語で〈ポクセイ poksey〉という。ちなみにホッキ貝という名称はこのポクセイに由来しており、和人がそれを言い慣わしたものだ。
2つをつなげてみると〈ニセウ・ポクセイnisew-poksey「ドングリ・ホッキ貝」〉であり、ここから〈ゼニバコ〉へと変化することは果たしてあるのだろうか。アイヌ語地名では、関連性の薄い名詞2つを並べて地名とすることは殆どなく、このような例は見たことがない。せめて後半を「下」を表す〈ポク pok〉とみて、〈nisew-pok-i ニセウポキ 「ドングリの木の下の処」〉とでも訳したほうが文法的にはましである。
いずれにせよ、このアイヌ語説は根拠に乏しく、正しいとは言い難い。『銭函郷土史』は他にも張碓や和宇尻についても従来と違う異説を唱えているが、どれも信憑性に富むとは言い難いのが実感だ。
崖の下説
最近唱えられるようになったのが「崖の下」説で、セニは「狭いところ」、ハコは「崖」を意味するのだという。出典は『目からウロコの地名由来』というブログによる。
北海道小樽市銭函(ぜにばこ)は、決してニシン漁で儲けた銭を納める箱に由来するのではない。現地は石狩川河口から続いてきた穏やかな砂浜海岸が終わり、海岸は谷地川を越すと海岸段丘崖下の狭い通路になっている。すなわち、ゼニはセニで、狭いところを意味し、ハコは崖だから、銭函は崖下の狭い海岸の集落と言う事だ。
「箱根」「銭函」の地名由来-目からウロコの地名由来
大変興味深い考察だ。電車で札幌方面から銭函駅を過ぎると、線路は丘の下の狭い海岸沿いへと進んでいく。たしかに崖下の狭い海岸の集落とも言えるだろう。
ハコについては説明されていたが、セニが「狭いところ」を意味するとする根拠がいまひとつわからない。全国のセニ地名いくつか調べてみたが、「瀬西」「迫西」「背荷」などはあったものの、狭いところとする例があまり見つからなかった。
銭函は古くは「センハコ」と呼ばれていることも多い。「銭」は「セン」とも「ゼニ」とも読むのに対し、「狭」は「セン」とは読まない。
また「崖の下に入っていく」というのは札幌方面から見た現在の我々の視点であり、当時は札幌に和人集落はなく、和人は小樽の入船方面からやってくることが多かった。忍路からオタモイ・高島・朝里・張碓にかけてずっと海岸に崖がせり出しており、人々はその下の狭いところを生活圏にしていた。ところが銭函に来ると急に土地が開け、広大な石狩平野が広がるようになる。この地を旅した旅人の日記を見ると、銭函に差し掛かると山が遠ざかり土地が開けていくことをよく記録している。狭い崖下から急に広い平野に出る地形であり、そこにあえて「狭いところ」という地名を名付けたとは考えにくい。
よってこの崖下説も十分な根拠があるとは言えない。
本当にニシンの良漁場だったのか
改めて一般的な説に戻ってみよう。銭函は「ニシンが豊漁でお金が沢山儲かった」ということに由来するという。だが本当にニシンはたくさん採れたのだろうか。
銭函でニシンが採れたことは間違いない。例えば松浦武四郎はこう書いている。
銭箱、これ和人名なり。この処、鯡多くしていつも漁事ありてよろしき故、かのごとく名付けしものか。
『西蝦夷日誌』松浦武四郎
しかし記録を追いかけていくと少し奇妙なところがある。それは運上屋の恵比須屋が漁場を設けた順番だ。まず享保2(1717)年にクッタルシ(入船)、オコバチ(堺町)、有幌に。寛政年間までに信香、アツトマリ(若竹)、熊碓、朝里、張碓に漁場を設けた。銭函に設けたのは一番最後の天保9(1838)年である。その開き、およそ120年である。
天明年間や文化年間の記録を見ても、小樽中心部から張碓の礼文塚までは二八小屋が立ち並ぶものの、その先の銭函については飛ばされている。100年近く、漁場としては放置状態だった可能性があるということだ。
ヲタルナイ(小樽)の地名の起源にもそのヒントがある。〈ヲタルナイota-ru-nay「砂浜の道の川」〉と呼ばれたのは、現在の手稲を流れる新川河口付近にあった川のことであり、今で言う銭函三丁目が元々のヲタルナイだったのだ。そこでは主に鮭を穫っていたが、それほど豊漁ではなかった。そこで鰊がたくさん取れるクッタルシ(入船町)に運上屋ごと引っ越し、ヲタルナイという地名も同時に移動した。
これらの記録から考えると、銭函は必ずしもニシンの良漁場とは言えないような気がする。もしそうでないなら銭函に最優先でニシン漁場を立てただろう。実際はその逆で、あまり穫れないので引っ越してしまったというのだ。
無論、ニシンは生き物なので、来るときと来ないときがあることも考えられる。近代のいくつかの記録を見ると、銭函でも鰊が豊漁だった時代もあったようだ。昭和30年の記録的不漁以来、長いことニシンの不漁が続いてニシン漁は絶滅しかけたが、ここ最近は銭函の浜にも群来(くき)るようになってきた。これは嬉しいことだ。
銭の箱が積まれるほど儲かったのか
ニシンが穫れたかどうかはともかく、銭の箱が積まれるほど”お金がザックザク”だったかどうかには更に疑問が残る。
西蝦夷のニシン漁は莫大な富と利益をもたらしてきた。網元が大きな番屋を建て、何十人、ときに百人以上ものヤン衆を寝泊まりさせ、ニシン漁に従事させた。祝津の鰊御殿や出張番屋などを見るとその栄華を垣間見ることができる。
では銭函の番屋はどんな建物だったのだろう。安政4年に箱館奉行に随行して銭函を訪れた玉虫左太夫はこのように回想している。
海岸を行きゼニハコヘ来たり投宿す。当所は番屋なれば茅葺の小屋にて膝を入るるのみにて狭隘を極む。近習の内四人用人一人、鎮台に付き添うのみにて外人数は別家へ投宿す。
『入北記』玉虫左太夫
要するに当時の銭函の番屋は茅葺き屋根の粗末なもので、箱館奉行と付添の近習一人しか泊まることができず、残りは一般の漁小屋に泊めてもらったというのだ。銭の箱がうず高く積まれて栄華を誇ったイメージとは程遠い、なんとも寒村な様子だろう。
銭函の交通の要所としての発展
しかしまもなく銭函は重要局面を迎える。それは東蝦夷の千歳・勇払へと繋がる陸路、「札幌越新道」が拓かれたことに関わり、銭函に「通行屋」が整備されたからである。今で言う「道の駅」に相当し、旅人の宿や食事、そして替えの馬などが用意された。
玉虫左太夫が銭函に泊まった時は松浦武四郎も同行していたが、翌年改めて訪問し、新しく出来たばかりの銭函通行屋に感動して松浦武四郎はこのように述べている。
この処も去年、堀公(箱館奉行・堀利煕)通行の時は、未だ一宇の小屋にて一巻一重の帷幕を張りてそれに一夜を明かしたまひしに、今年は座敷八坪程出来て美々しき通行屋となりたり。実に開地の徳沢及ぶこと感ずるに余りあり。
『丁巳新道日誌』松浦武四郎
此処に旅籠屋も出来て、屏風・襖の立ちたる家に宿し、濱千鳥といえる賤妓も出来て、開闢来未だ和人の女を見ざりしもの、今日軒を並ぶる様になりしぞ、実に賢こけれ。
『西蝦夷日記』松浦武四郎
松浦武四郎が描いた双六のヲタルナイのマスには、銭函に新しくできたばかりの通行屋にあった旅籠屋が描かれている。小樽中心部にはもっとたくさんの旅籠屋があったはずなのに、あえて銭函を代表して描いたのは、それだけ武四郎も感動したのだろう。
明治に入ってからは白濱園太郎の家が通行屋を運営した。この白濱邸は札幌の父「島義勇」により開拓使の仮役所が置かれ、北海道開拓のベース基地となったこともある。本州から送られてきた物資は銭函の船着き場で荷降ろしされ、そこから札幌へと運ばれ、札幌本府建設に用いられた。
銭函に伝わる豪邸といえばこの白濱邸のみで、他に大きな建物があった記録はない。銭函はニシン漁で発展したというよりも、交通の要所として発展してきたという方が正しいかもしれない。白濱邸はその後もしばらく駅逓として活用されたが、明治半ばにこの建物も焼失してしまっている。小樽市では80ほどの歴史的建造物が指定しているが、銭函には現存する歴史的建造物が一軒も無い。
開拓使仮役所が去った後の銭函の様子について、エドワード・モースはこのように回想している。
我々が最初に休んだのは、ねむそうな家が何軒か集まって、ゲニバク[銭函]の寒村をなしている所であった。我々が立ち寄った旅籠屋には、昔の活動と重要さとのしるしが残っていた。誰も人の入っていない部屋が長々と並んでいるのを見ると、蝦夷島を横断した大名の行列が思い出された。今やこの家は滅亡に近く、米は粗悪で、私は私の”科学試験所”(※胃袋)に何物にまれ味ある物を送るのに困難した。
『日本その日その日』エドワード・モース
モースは札幌本府の建設が一段落し、まるでゴーストタウンのようになった銭函の様子を率直に記録している。本府の開拓という一時的な需要に沸いたものの、その後は一気に衰退してしまった。銭函の経済はニシン漁に依存していたというより、交通の要所、すなわち駅逓としての役割のほうが大きかったのである。
その後まもなく手宮から鉄道が引かれると銭函にも駅が置かれ、交通上の重要地点という立場は維持されることになる。
免税の隠れ漁場
ではそこまでニシン漁が顕著ではなかったのに、なぜ「ゼニバコ」と呼ばれたのだろうか。
実は前述した、ヲタルナイ運上屋の引っ越し、そしてゼニバコに漁場が設けられなかったことに関係している。銭函の地名の由来について、玉虫左太夫はこのように書いている。
ゼニハコと申すも村名にあらず。
古よりこの所は運上金外の場所にて、ヲタルナイの銭箱と云うことにて村名同様になるたる由
『入北記』玉虫左太夫
「運上金外」これがキーワードである。運上金とは運上屋に払う税金のようなもので、当時は収穫の二割を運上屋に収めなくてはならなかった。ニシンの漁小屋のことを「二八取り」とか「二八小屋」と呼ぶのはそのためである。
ヲタルナイの運上屋は元々、銭函に置かれていた。ところが運上屋が入船の方に引っ越してからは、およそ120年ほどの間、銭函に漁場が設けられずに放置されていたようである。つまりはここで隠れて漁をしても税金を取られないということであり、穫れば獲っただけ自分の懐に入る。漁師からしてみればまさに「ドル箱」の漁場だったのだろう。
それを示すかもしれない証拠が、伊能忠敬の地図から見ることができる。伊能図は文政4(1821)年には完成しているが、銭函に漁場が置かれたのは天保9(1838)年。にも関わらず、銭函には隣の張碓よりもたくさんの建物が描かれている。運上屋によって正式に漁場が開かれる以前から、たくさんの漁小屋が建っていた様子がわかる。
伊能図では銭函のことを〈ヤウシノツカ ya-us-nupka「網のある丘」〉と称している。まだ銭函という地名が出てきていないが、漁場として活用されていたことが窺える。
しかし天保9年に恵比須屋によって漁場が設けられ、松浦武四郎や玉虫左太夫が訪れた頃にはもう既に「二八小屋」が立ち並んでいた。この特殊な免税状態は終わり、きっちり運上金を取られるようになっていたようだ。その頃にはもはや”銭箱”ではなくなっていたのである。その地名だけが残されて、今に至るというわけである。
銭函の本当の由来
ということで、まとめてみると以下のように説明できる。
銭函には漁をしても税金を取られない時期があり、誰でも稼げるドル箱のような漁場だったことがある。その頃に「銭箱」と呼ばれるようになった。
銭函はまさに自由の浜である。
残念ながらここ最近、小樽の海水浴場は徐々に閉鎖されていく傾向にある。銭函のビーチも行政によって制限が課され、一時期衰退しかけたこともあるが、最近では綺麗なカフェやデザートの店なども並ぶようになり、民の力で盛り上げようとしているところがある。かつて”銭箱”だったことを思い出して、多くの観光客が訪れる浜になってほしい。
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