増毛の雄冬岬
小樽に伝わる増毛の伝承
古くからの小樽人が語る民間伝承に「増毛が霞むなら明日は晴れ、増毛がはっきり見えるなら明日は雨」というものがある。
天気予報としての精度はそこまで正確なものではないかもしれないが、40年ほど小樽で暮らしていて、海を見るたびにその伝承を思い出している。そして体感では結構当たるのだ。沖のはるか向こうに見える、雪を冠った増毛連山と暑寒別岳は、小樽市民にとって馴染みのある風景の一つだ。近年では「毛無山」の展望台から「増毛」を望む、おじさんに人気の願掛けなどもスポットが当てられたりする。
陸の孤島・雄冬岬
小樽の銭函を底にして抱く広大な石狩湾の、一番北の端にあるのが「雄冬岬」である。かつては北海道の三大岬に数えられたこともある。石狩国と天塩国(留萌支庁)の堺を成しているところでもあり、1981年にトンネルが開通するまで、雄冬の集落は「陸の孤島」とも呼ばれていた。2016年に一本化された浜益トンネルは4216mあり、北海道の一般国道トンネルとしては3番目の長さを誇る。
なお小樽民は対岸を”増毛”と呼んでいるが、正確には石狩湾に接しているのは増毛町ではなく浜益町である。ただし浜益は浜マシケで、もともとはこちらがマシケだったのだから間違いとも言い切れない。
このあたりの西海岸は大変風の強い所で、しばしば通行止めになる。ここに来る途中、海が泡立つ波の花を見た。特に強風の日に見られる自然現象だという。
雄冬岬と白銀の滝
石狩方面から長い浜益トンネルをぬけると、突如として美しい滝が車道沿いに現れる。白銀の滝である。
雄冬岬のシンボルとなっており、江戸時代のいくつかの日誌でもスケッチが描かれている。「雄冬岬」の石碑もここにあり、少しの駐車帯がある。
なおここには3條の滝があり、一番北を銀河の滝、真ん中を白銀の滝という。トンネルの奥にもう一つ滝があるが、特別な名前はつけられていないらしい(あっちの滝)。
雄冬岬の位置
ここまで来ると増毛に入ったようだが、実はまだギリギリここも石狩市で、増毛町との堺はもう少しだけ先にある。雄冬岬とはどこにあるのだろうか。
具体的にどの岬が「雄冬岬」なのかというのがいまひとつはっきりしていない。
地理院地図やGoogleMapのピンでは、タンパケの岩のあるあたりが「雄冬岬」となっている。だがここは岬というほど尖っていないし、伝統的に見て昔からここが雄冬岬とされていたわけではなかった。地図によっては岩の南にある岬を「タンパケ岬」としているものもある。
「タマキ」岬に並びて「オフイ」岬を得る
観国録/石川和助/安政4
『観国録』よると「タマキ(タンパケ)岬」と「オフイ岬」は並び合っているようである。そうするとタンパケ岬のひとつ北にある大岬が雄冬岬であった可能性が高い。
『今井測量原図』でも浜益トンネルを入ってすぐの入江を「ヲフイサキの澗」としていた。入江の南側の岬はこのあたりでも一番尖った岬となっている。近くには「三角点:燈台」もあり、かつて灯台もあった。灯台ができる以前からも、ここは烽火を掲げていたところではないかと思う。この岬を仮に「雄冬岬」としておこう。
なお松浦武四郎の天之穂日誌を見ると、かつては雄冬港の近くにあるエナヲ岬の方が雄冬岬だったようである。ここはいまでも石狩市浜益区と増毛郡増毛町の境界になっており、行政的な根拠がある。ただしここが雄冬岬と言われてもいまいちピンとこないところがあるだろう。
ヲフイ
大焼山の下也。ヲフイは焼ると云事。焼山岬によって号り。
扨当時は惣じて此辺の名をヲフイと云て是より十八丁北なるエナヲサキをヲフイ岬と心得て居ること也。然れどもヲフイと云うは此処、境目とする地は則エナヲサキの事なり。後世恐らくは此境目論所とならん。
天之穂日誌/松浦武四郎
ヲフイ岬が表す場所は人によって異なっており、「後世、恐らくはこの境目の事で論争になるだろう」と松浦武四郎は述べている。
なお「ヲフイ」は「焼る」の意味だそうである。この地名解をもう少し見てみよう。
雄冬の由来
雄冬の既存の地名解
海岸の絶壁には赤い岩層が大きく、目立つように露呈している。それでuhuyという名で呼ばれたのではなかろうか。
『北海道の地名』山田秀三
- uhuy〈燃える〉
ということで、ウフイで「燃える」の意味だそうだ。
雄冬岬のところをドローンで空撮した素晴らしい動画が公開されていたのでご紹介したい。
崖の壁面が見事に赤くなっている。確かに ”燃える” としたのも不思議ではない。
ウフイプ/燃える所
ただ、uhuy〈燃える〉は自動詞であり、このように動詞が単品で地名になることはめったにない。
「雄冬」は ufuy(ウフイ)に由来するとのことですが、意味は「燃えている」なのだとか。おそらく本来は「燃えている×××」だったのだと思いますが、下略されてしまって今では知る由も無し、ということのように思えます。
北海道のアイヌ語地名 (24) 「雄冬・床丹・浜益」/Bojan International
ということで一般的な地名の法則に従うなら、本来は「燃えているナントカ」というかたちで後ろに名詞が来るはずである。そこで永田地名解はこのようなかたちにしている。
Uhuip ウフイプ 焼ケタル處
『北海道蝦夷語地名解』永田方正
uhuy-p〈燃える所〉と、後ろに形式名詞のpを補うことで、地名の法則に従うかたちにしている。
明治20年ころの地図ではこの永田地名解を反映してか、雄冬の集落のところに「ウフイプ」、雄冬山に「ウフイヌプリ」とある。
語源はアイヌ語のウフイ (‘uhúy) で、日本語に訳すと「燃える」となる。あるいは「ウフイ」を “‘uhúy-p” と考えることもでき、その場合の日本語訳は「燃えるところ」となる。
“雄冬岬” Wikipedia, (accessed November 26, 2023).
ということで、Wikipediaにもあるように、雄冬岬は「ウフイプ」で、「燃える所」の意味。その燃える所というのは雄冬岬の崖のあたりだろうというのが雄冬岬の由来の定説になっている。
燃える山
雄冬の語源はウフイㇷ゚で燃えているものの意味、噴火して煙の上っている所に名付けられた地名で、現在の雄冬山か、雄冬の近くに噴煙を上げていた所に名付けられたものと思われる。
アイヌ語地名解/更科源蔵
uhuy-nupri〈燃える山〉とはすなわち火山のことで、例えば苫小牧市の樽前山などがウフイヌプリと呼ばれている。
しかし増毛山地やその周辺に活火山は一つもなく、近年火山活動が確認されたものはない。増毛山地で火山活動があったのはおよそ720万年前〜180万年前と言われ、更科源蔵氏の言うような「噴火して煙の上がっている所」という説は、記録を見る限りでは存在したとは言い難い。あえて言うなら岩尾温泉の煙だろうか。
確かに雄冬岬の崖は燃えるように赤いが、こういった地形はもっと直接的に hure-pira〈赤い崖〉と呼ばれるのが一般的である。
また江戸時代の旧記類に見られるカナ表記は一貫して「オフイ」ないし「ヲフイ」で、「ウフイ」ましてや「ウフイプ」としているものは一つもない。地名の「ウ」と「オ」は頻繁に取り違えられる傾向にあるのは確かだが、少し気になるところである。この地名解、改めて考え直してみよう。
オフイの位置の再考
ヲフイヲマフ
「ヲフイ」だけでは文法的に成り立たないので、「ヲフイの後ろに何かが省略されているのでは?」という話だった。そこで松浦図をよく見ると、「ヲフイ」より北に「ヲフイヲマフ」という地名が記載されている。ひょっとするとこのヲフイヲマフがヲフイの原型なのでは?
測量的に正しい、『今井測量原図』『伊能大図』『間宮河川図』の3図いずれにもこの「ヲフイヲマフ」が出てきている。位置はカムイアバのある浜益トンネルのほうではなく、もう少し北側、ケマフレやトレフシの近くにあるようだ。これは現在の雄冬集落と岩尾集落の中間あたりに当たる。雄冬の地名の原型となったヲフイヲマフは、どうやら雄冬岬の石碑よりさらに北に2.5kmほど行った所にあるらしい。
そして興味深いことに、『今井測量原図』では「ヲフイサキ」と「ヲフイヲマフ」の両方が記載されているのに対し、それよりも古い地図である『伊能大図』や『間宮河川図』ではヲフイサキに相当する岬には何も書かれていない。このことから時系列で追っていくと、先に集落の地名があり、そこから岬の名前に転じた可能性がある。
雄冬の集落
江戸時代の絵図には、「ヲフイマフ」の所に休所や漁小屋が描かれている。現在の雄冬港の集落だろうか。
オフイ岬より七~八町許にて僅に人居を置り。番屋一棟及ひ板倉納屋等あり。此処を「オフイ」と云。岬名是より得る也。
観国録/石川和助/安政4
『観国録』によると、雄冬に番屋や倉などの集落があり、ここをオフイと呼び、岬の名前はそこからつけたそうだ。
ヲフイとは元来、雄冬岬を指す名称であった
『雄冬』『ウィキペディア日本語版』,(2023年12月17日取得)
そうすると先に岬の名前があり、それが集落名に転じたというこのWikipediaの説明は逆であった可能性がある。
ケマフレの赤岩岬
『今井測量原図』や『伊能大図』は測量的に正しい地図で、このヲフイヲマフの位置は正確である。では一体ここに何があるのだろうか?
ここに近づくにつれ、強烈に存在感を放つものがあったので、思わずカメラを向けた。
国道を跨ぐようにして巨大な赤い岩が横たわっている。ごつごつとした岩肌の岬は少し遠くからも目立っていた。
ここを貫くトンネルの名前はずばり「雄冬トンネル」。ケマフレの赤岩岬である。ケマフレとは kema-hure〈脚が赤い〉の意味。あまり聞かない表現だが、アイヌ語地名ではよく人体の顎(ノツ)、鼻(エト)、頭(パ)などが岬の名称として使われるので、脚(ケマ)も有り得るのかもしれない。
またフレシマという地名もここにある。hure-suma〈赤岩〉の意で、これは全道各地で非常によく見られる地名だ。
この赤岩岬北側の覆道が連続する地帯は、特に赤い岩肌が目立つところであり、これこそがウフイ、すなわち ”燃える所” だったのではないだろうか?
しかし今井測量原図などがはっきりと示しているように、ヲフイヲマフの位置は赤岩岬よりも南側、旧岩尾合同火葬場のあったあたりを指している。燃える所が火葬場とはなんという偶然だろう。
また、「〇〇ヲマプ」というのは -oma-p すなわち〈~がある所〉の意味である。「〇〇」のところにはものを表す名詞が入り、「燃える」という動詞は入らない。よって uhuy-oma-p〈燃える・がある所〉というのはこのままでは文法的にちょっとおかしい。
武好トンネル
この赤岩覆道地帯に「武好トンネル」というのがあることに気がついた。
武好。読めるだろうか。初見ではなぜか「ウーハオ」と呼んでしまったが、正解は「ぶよし」である。
蝦夷立金花のある所
ブヨシ。この響きからピンとくるものがあった。
puy といえば〈岩穴〉もしくは〈蝦夷立金花の根〉を表す言葉である。蝦夷立金花とはキンポウゲ科の谷地蕗とも言われる花で、春先に沢や湿地で黄色い花を咲かせる。花が咲く前に茎葉を食べたり、花が終わった後に根を掘り出して食べたりするらしい。
ブイウシやブイダウスといった地名は全道各地にある。いずれもエゾノリュウキンカの根を掘って食糧にするところである。
puy-us-i〈蝦夷立金花の根がある所〉。ここから派生して考えると、
- o-puy-oma-p〈川尻に立金花のある所〉
- o-puy-us-i〈川尻に立金花が群生する所〉
蝦夷立金花のある所。これが雄冬の由来ではないだろうか。
増毛山道と武好駅逓
武好という地名は、元々はトンネルのある海岸沿いではなく、もっと山の方を指す地名であったようである。
かつて雄冬岬に道路が無かった頃、陸路は増毛山道を行く他なかった。3つの山を越え、最高標高は1000mを越える。これを一日で越えるのは大変なので、途中に小屋が建てられた。後の武好駅逓である。
この駅逓があるあたりを「フイウシ」すなわち puy-us-i〈蝦夷立金花の多い所〉と言っていた。
ホロフイウシナイ源(小石流)、此處流泉草多き故號く
西蝦夷日誌/松浦武四郎
松浦武四郎もこの増毛山道を歩いて越えたが、途中でフイという草が生えているのを見ている。このフイとは本当にエゾノリュウキンカだったのだろうか?
ヤマップのレポートによると、大別苅の水源あたりで確かに蝦夷立金花が咲いていたそうである → 天狗岳(北海道増毛町)-2019-05-06 本測量地の三角点~いにしえの道・残雪の増毛山道を歩く/YAMAP このレポートでは増毛山道や武好駅逓の跡地も巡っている。
雄冬の由来
川尻に蝦夷立金花のある所
昔のアイヌも、エゾノリュウキンカを採りに来るために、しばしばこの増毛山道の峠を上っていったのだろう。そしてもっと手軽に採れる場所として、オ・フイウシ、すなわち「川尻にエゾノリュウキンカが生えている所」という地名をつけたのかもしれない。
ということで、雄冬の由来は o-puy-oma-p もしくは o-puy-us-i で〈川尻に蝦夷立金花のある所〉ではなかったのだろうかと考えたい。
それが雄冬港の集落名となり、当初は岬のエナヲ岬をオフイ岬と呼んだが、やがてもう少し目立つ顕著な岬のほうへと移動していったのだろう。未だに雄冬岬の位置がはっきりしないのも、このあたりが関係していると思われる。
燃える所
ではウフイ、つまり「燃える所」が間違いかと言うと、そうとも言い切れない。少なくとも200年の間は「燃える所」説が受け入れられていたわけで、確かに燃えるような崖や岬がこのあたりでは顕著に見られる。
元々はオプイだったかもしれないが、いつしかウフイと読み替えられるようになり、それが地名の意味として定着していったのだろう。
地名の意味は複数の意味で取られることもある。どちらかを間違いと断じるのではなく、両方を楽しむのもいいのではないだろうか。
岩尾温泉
一説によると、ウフイは「燃えるような夕陽」とも言われている。
この近くにある岩尾温泉では、その日の日没の時間を入口で案内してくれている。きっとここから見る夕陽はとても綺麗なのだろう。次に寄った時は日没の時間まで待ってみようかと思う。
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