小樽市に現在ある56の町名の由来について調べてみた。アイヌ語地名解については独自の解釈も加えつつ考察している。
旧忍路郡塩谷村
蘭島(らんしま)
蘭島の由来はアイヌ語で〈ラオシマナイra’osma-nay「澄んでいる川」〉。ラオシマとは樺太方言で見える表現であり、余市・蘭島地区は樺太アイヌとの繋がりが昔からあったことが窺える。蘭島遺跡からは北方交易で得たと思われる大陸産のアクセサリーなどが見つかっている。
なお蘭島澤は旧字名として「桂ノ澤」と呼ばれていたことから、〈ランコシマナイranko-usi-oma-nay「桂の群生地にある川」〉という説も考えられる。
一般には「下り入る処」又は「坂道の後ろの川」と言われることもある。
詳しくは当サイトの記事「蘭島の地名の由来」にて
忍路(おしょろ)
忍路の由来はアイヌ語で〈ウショロus-or「湾の中」〉の意味。忍路半島は兜岬とポロマイ岬の間に囲まれた天然の港のようになっており、昔はとても栄えていた。
なお松浦武四郎は〈ウㇷ゚ショロupsoro「懐」〉、知里真志保は〈オショロosor「尻」〉ではないかと書いた。道内各地に見られる地名である〈オショロコツosor-kot「尻の窪み」〉と同一されることがあるが、ここの忍路がオショロコツと呼ばれた記録は見えない。
桃内(ももない)
桃内の由来はアイヌ語の〈ヌムオマナイnum-oma-nay「実のある川」〉と言われることが多い。ヌムとはクルミの実などを指す。
ヌムオマナイが短くなってヌモマナイ、そして〈モモナイmoma-o-nay「李桃の川」〉といつしか読み替えられるようになったのかもしれない。江戸時代後半の史料では既に「モモナイ」としているものが多い。松浦武四郎はこのあたりの李桃の花がとても美しく、まるで桃源郷に入ったかのようだと絶賛していた。
塩谷(しおや)
塩谷の由来はアイヌ語の〈ショーヤso-ya「磯岩の岸」〉。宗谷などと同じ由来である。塩谷港の北のポンマイ岬の傍にある「立岩(塩谷石)」が so(磯岩)で、その ya(岸辺)にあたることから。
なお昔からアイヌ語の〈シューヤsu-ya「鍋岩」〉の説が伝えられており、江戸時代の日誌にも見える。酋長サパネクルが鍋を岩に掛けたことに由来するらしい。この鍋岩はツルカケ岩ではないかと言われている。
オタモイ(おたもい)
アイヌ語の〈オタモイota-moy「砂の湾」〉である。遊園地があったところの海岸が少しの砂浜になっていたらしいが、今は小石浜になっている。和名で「笊(ざるいし)」と呼ばれていた時代もあったが、結局オタモイで定着したようだ。漢字で「於多萌(オタモイ)」と書くこともある。
旧高島郡高島村
赤岩(あかいわ)
赤岩の由来はアイヌ語の〈フレチシhure-chis「赤い立岩」〉から。この赤岩とは、祝津パノラマ展望台から西の方角に見える、斜面にある立岩のことである。また、かつては下赤岩山のほうを赤岩山と呼んでいた。
詳しくは当サイトの記事「赤岩海岸の地名~ワタリシ地名考~」にて。
祝津(しゅくつ)
祝津の由来はアイヌ語の〈シクツシsik-kut-us-i「多くの岩崖がある所」〉。この クッkut とは直訳すると「帯」の意味で、帯状に現れた地層などを意味する。祝津の日和山灯台の下にはそういう地形が顕著に現れている。
昔から言われているのは〈シクトゥルシsikutur-usi「浅葱あるところ」〉説。伊能忠敬の地図では高島岬をシクトル岬と書いてある。
高島(たかしま)
高島は和名で「鷹の島」、あるいは〈タカシュマ taka-suma「鷹岩」〉。高島漁港にある弁天島のことである。昔の史料には鷹匠澗(たかしょうま)という地名も出てくる。
アイヌ語で〈トカリシュマtokkari-suma「アザラシの岩」〉を由来とする説もあるが、これは弁天島の左側にある岩の名前である。
旧高島郡手宮村
手宮(てみや)
手宮の由来はアイヌ語で〈テムィヤtemmun-ya「海草の岸」〉の意味。手宮のあたりは北風が吹き込まず波が穏やかで、アマモが繁茂していたのかもしれない。鉄道を当時の中心街である南樽で止めるのではなく、わざわざトンネル2本貫いて手宮まで引っ張ってきたのは、ここが船着場として都合が良かったからのようだ。
末広(すえひろ)
末広の由来は手宮川の谷が末広がりになっているから。当所の案では手宮公園の丘から「豊岡(とよおか)」にする予定だったが、「富岡(とみおか)」と紛らわしいので「末広」になった。かつては「本田沢」といった。
アイヌ語地名は〈キンクシコタンkim-un-kus-kotan「山越道の村」〉。
梅ヶ枝(うめがえ)
かつての北郭。南郭が「松ヶ枝(まつがえ)」だったのでそれにあやかった。松と梅。当所の案では「花見町」だったが、遊郭の名前として露骨すぎるということで奥ゆかしい梅ヶ枝にした。
清水(しみず)
豊川(手宮仲川)の流れが、源→清水→豊川→錦となることから。中野植物園のあたりはかつて「源町」だった。
豊川(とよかわ)
源→清水→豊川→錦。なお能島水天宮のところに豊富な湧き水があり、手宮の住民はここの水を飲んでいた。そのためかつては「泉町」といった。
錦(にしき)
錦の由来は豊川の流れが錦のごとく美しいから。神田錦町にあやかった。原案では「大町」だった。なお幕末の安政年間から遊女屋のあったところでもあり、小樽では一番古いかもしれない。
石山(いしやま)
石山の由来はアイヌ語の〈シュマサンsuma-san「石が出る」〉から。原案では「石崎町」だったが、言いやすく「石山町」にした。
荒巻山と手宮富士に採石場があったからという説もある。
旧高島郡色内村
幸(さいわい)
幸の由来は新興住宅地を作る際に引用した、カール・ブッセの詩「山のあなたの空遠く、幸ひ住むと人の言ふ」から。
長橋(ながはし)
長橋の由来は長橋十字街の少し上の一つ目川にかかる長い橋があったことから。長和会館の正面あたり。橋といっても橋桁があるような立派なものではなく、丸太を切って谷地に並べただけのもので、長さは50歩~70歩くらいあったらしい。なお読みは「ながばし」ではなく「ながはし」である。
アイヌ語地名は〈キウシki-usi「ススキノ原」〉。
旭(あさひ)
瑞祥地名。国有林が払い下げられて市有林となった際に、当時の小樽市長安達与五郎が「旭町」と名付けた。家は一軒もなく、ほとんど廃墟のような旭町公園があるのみである。
アイヌ語地名は〈チプタウシナイcip-ta-us-nay「舟(の材料となる丸太)を採る沢」〉。
色内(いろない)
アイヌ語の〈イルオナイi-ru-o-nay「熊の足跡の川」〉と言われている。なお伊能図など多数の文献で「イルンナイ」となっていることからすると、色内の由来は正確には〈イルンナイi-ru-un-nay「熊の足跡のある川」〉ではないだろうか。これならば音韻脱落によりイロナイともイルンナイとも読める。意味はイルオナイとあまり変わりない。
石山の崎がかつては海に突き出ていたから〈エンルムナイenrum-nay「岬の川」〉ではないかという説もあるが、この岬自体をエンルムと呼んでいないので微妙なところである。
稲穂(いなほ)
稲穂の由来は龍宮神社の丘からアイヌの〈イナウinaw「木幣」〉が見つかったことからとされる。
江戸時代、於古発・手宮から塩谷・忍路ツコタンまでの山越道があり、〈エナウルーチシinaw-ru-chis「稲穂峠」〉と呼んでいた。中間の山をエナウ山、そのルート沿いの双方の沢を「稲穂沢」と呼んでおり、塩谷側では今もその名前が残されている。『龍宮神社明細帳』によるとかつてこのあたりを稲穂沢と呼んでいたとあり、稲穂沢とは現在の長橋地区周辺のことを指していたようである。元々は長橋も稲穂町であったが、後に分離している。
富岡(とみおか)
当初の原案では「片岡町」。富豪が多く住む高級住宅地となったため富岡と名付けたのかもしれない。道路には「出雲町」「駿河町」「伊勢町」など命名されたが、今では忘れられた地名である。
緑(みどり)
瑞祥地名。商大の南側の丘を「緑ヶ丘」と呼んでおり、そこから「緑」を取ったとも言われる。ここはスキー競技ができるような丘陵で、第一回全日本スキー選手権大会はこの緑ヶ丘で行われた。
あるいは町名制定の2年前に「千登勢温泉」ができており、泉と庭園の美しいところだったことも関係しているのかもしれない。
旧小樽郡小樽区
港(みなと)
港があるため。4つの埠頭を抱えており、全てが人工埋立地である。元々の港町は、現在の堺町の東半分の部分であった。
堺(さかい)
堺の由来はかつてオタルナイ場所とタカシマ場所の境界にあったため。
旧名「於古発(オコバチ)」。アイヌ語の〈オコㇺパチㇱokom-pa-chis「イルカ頭の立岩」〉から。小樽高島境の目印である立岩がここにあった。
堺某という人名に由来する説もあるが定かではない。
東雲(しののめ)
瑞祥地名。明治29年の大火後、富豪や実業家がこの高台に移り住み豪邸を建てた。水天宮山から東の空がよく見えたのだろう。大正4年新設。港地区の町名としては一番新しい部類である。
相生(あいおい)
相生町の由来は明治11年頃までアイヌが住んでいたことから。三本木坂のほうにもアイヌ集落があり、そちらとあわせて「入船裏通」と呼ばれていた。しかし明治12年には高島郡字「厩」にアイヌが衛生を理由に移住させられる。そして明治14年、三本木のほうは原案「夷(えびす)町」改め「住初(すみぞめ)町」に、水天宮のほうが「相生(あいおい)町」になった。残念ながら共存はできなかったようである。
山田(やまだ)
山田町の由来は二代目小樽区長であり大地主の山田吉兵衛から。海岸を避け水天宮山の裏を抜ける山越道を開削したことから。通称「職人坂」。
ちなみに一本上の道路は「山本町」である。
花園(はなぞの)
花園の由来は明治14年に公園用地とされたため。町名設置は明治15年と17年の説がある。
京都・花園の妙心寺が浮世通りに説教所を設けたためという説もある。
明治39年に高等女学校花園学校が設立され、その背後の丘は一面花畑が整備されていた。文字通り花園だったようである。
入船(いりふね)
入船の由来は旧運上屋・恵比寿屋岡田家支店の正面であり、ここに船入澗があったため。明治20年頃には立派な防波堤まで作られたが、今はすっかり埋立地である。ちょうどメルヘン交差点のルタオの塔があるあたり。現在の入船地区はその名に反してかなり山手方面になっている。
旧名はアイヌ語で〈クッタルウシkuttar-usi「虎杖の群生地」〉。入船川は「空達(くうたつ)川」とも漢字をあてた。
有幌(ありほろ)
わからない地名だが、〈アリヲロar-iwor「向こうの谷」〉ではないかと考えている。
よく言われるのはアイヌ語の〈ハルポロharu-poro「食料多き処」〉(山田氏説)だが、ハルポロを直訳すると「食料が増える」になる。こういう地名の類例はあまりなく、どうだろう。データベースアイヌ語辞典では〈アラオロナイar-oro-nay「片割れの処の川」〉ではないかとしている。
信香(のぶか)
信香の由来はアイヌ語の〈ヌプカnup-ka「野原の上」〉から。古くは延嘉(のぶか)とも書いた。勝納川のことをノブカ川と呼ぶこともあったようだ。
小樽中心部では最も古くから栄えているところである。明治初年、開拓使の出張所がここに置かれ、小樽役所となった。
若松(わかまつ)
若松の由来は会津若松から来ているのではないかと思う。明治2年、戊辰戦争に敗れた会津藩士数百人が小樽の浜に到来した。一年半ほど滞在した後に、開拓使の計らいで余市の黒川に入植し林檎農園を営んだが、一部の藩士は小樽に残り、小樽の学校教育に著しく貢献している。明治8年、会津藩士・東善八が若松町に私塾を開いている。会津藩士達は小樽教育所(後の量徳小学校)や朝里・熊碓・銭函などの学校の開設にも注力し、彼らが初代校長となっている。それら会津藩士達の故郷・若松城にちなんで町名としたのではないだろうか。
同様に瀬棚の若松町もその地に入植した会津藩士に由来するそうである。
住吉(すみよし)
住吉の由来は旧開陽亭のあたりにかつて住吉神社があったことから。しかし時系列で見てみると、神社が現在地の住ノ江に移転したのが明治14年。墨江神社から住吉神社に名を改めたのが明治25年。住吉町が新設されたのは昭和42年。地名が附されたずっと前に神社は移転しており、ちょっと奇妙である。
住吉神社まで伸びる道路があるが、これはかつて「量徳町」と呼ばれていた。また坂道は「山ノ上町」、崖の下が「有幌町」、アイヌ集落があったところが「住初町」、ほか「永井町」「曙町」「開運町」などが全部ひとつに合併して「住吉町」になった。いっそ「南樽町」のほうがわかりやすかったような気もする。
住ノ江(すみのえ)
住之江の由来は墨江神社が置かれたことから。明治16年町名新設。明治25年、墨江神社は住吉神社と改称。
かつて遊郭があったところでもあり、住宅街にも関わらず道路の幅が異様に広いのもその名残である。
松ヶ枝(まつがえ)
瑞祥地名。天狗山の麓であり、カラマツが植えられたことからだろうか。
松ヶ枝一丁目はかつての南郭があったところである。明治33年、柳町・羽衣町・仲ノ町・弁天町・羽衣町が置かれた。松ヶ枝の新設は大正4年で、その区画は南郭よりも山側の、現在の松ヶ枝二丁目あたりだったらしい。昭和42年に南郭の町を吸収して松ヶ枝だけが残った。幅の広い道路はかつての遊郭の面影を偲ばせる。
ちなみに伊達市の松ヶ枝は佐藤脩亮の和歌「年さむき 霜の後にも色かへす みとりも深く 栄ふ松ヶ枝」に由来するようだ。小樽の松ヶ枝中学校の校歌は「うしろに聳つ 天狗の高嶺 春秋見あかず 冬は白雪 おお松ヶ枝 その常磐 嵐にたえつつ 気高く強く 心根つちかひ 磨かん栄誉」とあり、いずれも冬にも枯れない常緑の松の力強さについて歌っている。
最上(もがみ)
最も上にある町という意味だろう。実際、標高150m以上に住宅地があるのは最上2丁目、松ヶ枝2丁目、望洋台3丁目だけである。ただし人の住まない区画を含めると、天狗山と朝里川温泉という強者がいる。
アイヌ語地名は〈ベネタpene-ta「川上」〉。
天狗山(てんぐやま)
小樽天狗山から。天狗山一丁目は小樽天狗山から於古発山方面、天狗山二丁目は勝納川上流である。人口0人の区画のため、町名としてはほとんど認知されていない。
天狗山という名は、頂上に岩場がある山によくつけられるようである。アイヌ語地名はおそらく〈シュマサンsuma-san「岩棚」〉。第三展望台から見ると岩が露出している。
山に松明が灯っていたので天狗の仕業だと思ったら修行僧だった、という口伝エピソードもある。
旧小樽郡奥沢村
勝納(かつない)
由来は諸説あるがそのうち1つが〈カッチナイkachi-nay「水源の川」〉である。地名が出てくる最古の資料(元禄郷帳)では「かっち内」とある。ただしカッチはアイヌ語ではなく、東北マタギ語で「沢の奥地・どん詰まり」を表す言葉である。ナイカッチで「川の奥地」ならまだ意味はわかるが、カッチナイで「奥地の川?」というのはいまひとつわからない。
個人的には〈カンチゥナイkanciw-nay「鉄砲水のある川」〉ではないかと考えている。文化年間の津軽家文書に「カッチウチ川」と見えるし、元禄郷帳などは「かっち内」とも読める。時々川が氾濫したことが関係あるのかもしれない。近年にも勝納川は酷く氾濫し、その写真が残されている。カンチウシkanciw-us-i から派生して「カッチナイ」「カツナイ」になったのかもしれない。
よく言われるのは〈アッナイat-nay「豊かな沢」〉だが、atに「豊かな」という意味は無いし、〈ヘロキアッheroki-at「ニシンの群来」〉を短くしたものだとしても、それを裏付ける当時の史料が見えない。ニシンは川を遡上しないので、川にその名をつけるだろうか。なお勝納川で鮭は獲れたようである。
詳しくは当サイトの記事「勝内の由来~カツナイ地名考~」にて
奥沢(おくさわ)
勝納川を「カッチナイ」と呼んだことから、「沢の奥地」すなわち「奥沢」となったのではないだろうか。あるいはただの偶然かもしれない。
アイヌ語地名は〈チェトイナイci=e-toy-nay「食土の沢」〉。しかしこのあたりのアイヌは土を食べなかったそうである。
天神(てんじん)
天神の由来は小樽天満宮があることから。
アイヌ語地名は〈ラウネナイrawne-nay「深沢」〉。
新富(しんとみ)
明治6年新設。この明治5年から6年にかけて新富町の戸数が約5倍に増加しており、その名の通り「新しく栄えた町」という意味だろう。
アイヌ語地名が〈シレトウンナイsir-eto-un-nay「山崎に入る川」〉で、少し音が似ているような気もする。
真栄(まさかえ)
新富町と同じ年に新設されていることから、同様に「新しく栄えた町」という意味かもしれない。
アイヌ語の〈マサルカmasar-ka「草原の上」〉に音が近いような気もする。
潮見台(しおみだい)
名が表す通り、海がよく見える台地という意味だろう。平磯公園からの眺めは今でも小樽市重要眺望地点とされている。
若竹(わかたけ)
若竹の由来はアイヌ語の〈ワッカケwakka-ke「水の処」〉から来ていると思われる。
なお山田先生説では〈ワッカタウシナイwakka-ta-us-nay「水を汲む処の沢」〉。伊能図では〈ウェンナイwen-nay「悪い川」〉〈ムルクタウシmur-kuta-usi「糠捨て場」〉などと呼ばれており、どうにも水を汲みたくなる気持ちが伝わってこない。
築港(ちっこう)
築港の由来は小樽築港駅から。この駅名を名付けたは築港事務所の二代目所長、伊藤長右衛門。南防波堤の築造をした人物である。
旧小樽郡朝里村
船浜(ふなはま)
漁船の多い浜。とても良い漁場だったようである。伝統的には「熊碓(くまうす)」と呼ばれていたが、桜町と分割される時に、海側が船浜町になった。わずか数年の短い期間だが、船浜町になる直前の大字東小樽の頃は「海岸町」と名前がつけられていた。
旧字名は「熊碓」。アイヌ語地名は〈クマウシkuma-usi「魚干棚のあるところ」〉。
桜(さくら)
東小樽土地整理組合が公募の末に桜町を選考した。元々は本町・望洋台・梅林・桜新町・神楽丘・千代の丸・慈光台などの町名が設置されたが、小樽市との合併の折にわずか数年で統合され、桜と望洋台以外の地名は消えてしまった。なお「千代の丸」は桜ロータリーの雅な地名である。
旧字名は「寺ノ澤」。麓の長昌寺に由来する。
望洋台(ぼうようだい)
東小樽土地整理組合によって選ばれた町名のひとつ。望洋台は当初は元海上技術学校の丘のあたりの区画だったが、新たなニュータウン事業に伴い、神楽丘の上あたりの地名として移動した。
旧字名は「大揚」。川の対岸の新光5丁目あたりが「小揚」であり、このあたりで川舟を岸に上げたのかもしれない。
朝里(あさり)
諸説ある。朝里川が〈アッウシナイat-us-nay「楡の多い川」〉と呼ばれていたことを考えると、〈アサリat-sari「楡の茂み」〉かもしれない。アイヌはオヒョウ楡の樹皮を剥いで一週間ほど温泉に漬け、その繊維から〈アットゥシattus「厚司」〉という着物を作った。ただし一般的な sar のイメージとは地形がだいぶ違う。
他に、〈イチャニicani「鮭の産卵場」〉から「漁(いざ)り」となり「漁(あさ)り」と読み替えたという説や、〈マサラmasar「草原」〉から来ているという説、〈ハッサラhat-sar「葡萄原」〉という説もなどあるが、はっきりしたところはわからない。
バチェラー辞典にある〈アサリasari「空に開かれた地」〉は案外正解かもしれない。新光地区は開拓以前から木の少ない開かれた草原の台地だった。朝里岳頂上も平らな台地になっている。あるいは〈アサリㇷ゚as-arip「立っている屋根」〉、〈アサㇺリasam-ri「底が高くなっている」〉など色々考えられる。
詳しくは当サイトの記事「朝里の地名の由来~アサリ地名解~」にて
新光(しんこう)
瑞祥地名。住民の方によると、新しい光が差し込むように希望を込めた町名らしい。
ちょうど朝里とよく似た発音の〈アシリasir〉が「新しい」という意味なので、これを由来ということにしてみるのも面白そうだ。
旧字名は「朝里山ノ上」。
朝里川温泉(あさりがわおんせん)
温泉街となったことから。「鹿踊場(しかのおどりば)」という面白い地名もあった。これは鹿が温泉に入っていたからという話もある。アイヌがこのあたりでオヒョウ楡を取っていたとすると、厚司の製作工程に温泉を使ったはずなので、彼らも温泉の存在は知っていただろう。和人が温泉を見つけたのは明治29年頃のようである。
旧字名は「豊倉」。元は「石倉」だったが、豊かさをイメージさせるために豊倉とした。古くは「文治沢(ぶんじさわ)」「ガッカリ沢」とも呼ばれた。
旧小樽郡銭函村
張碓(はりうす)
張碓の由来はアイヌ語の〈ハルウシharu-us-i「食糧多き処」〉。なお張碓川は鉱泉成分が染み出しているため魚は棲んでおらず、この場合の食糧とは行者ニンニクやオオウバユリなどの山菜を指したらしい。
春香(はるか)
背後に聳える「春香山」に由来する。もしかしたら〈ハルカルシharu-kar-us-i「食糧を取る処」〉から来ているのかもしれない。
旧字名は和宇尻(わうじり)。アイヌ語の〈ワオウシリwao-us-sir「アオバトのいる岬」〉。
桂岡(かつらおか)
桂岡の由来は銭函川支流「桂ノ沢(かずらのさわ)」から。桂ノ沢は現在の「銭函峠川」に相当し、浄水場から更に1km以上も上流に遡ったところに沢口がある。想像以上に奥地である。
旧字名は「十万坪」。開拓使が10年以内に開墾することを条件に最大十万坪まで貸し付けたことに由来する。しかし実際にここで十万坪借りた人は居なかったようだ。
アイヌ語地名は〈ルベシベru-pes-pe「峠道」〉。かつて銭函峠から倶知安や発寒・豊平のほうまで山越えしたことから。
見晴(みはらし)
瑞祥地名。見晴らしのよい高台という意味であろう。
旧字名は「銭函山ノ上」。アイヌ語地名は〈シケルペタイsikerpe-tay「シコロ林」〉。
銭函(ぜにばこ)
銭函の由来は一時的に運上金のかからない免税漁場だったことがあることから。
詳しくは当サイトの記事「銭函の地名の由来~本当にニシンの良漁場だったか~」にて
旧字名およびアイヌ語地名は歌棄〈オタスツota-sut「砂浜の端」〉
星野(ほしの)
旧字名は「星置」だったが、札幌市手稲区の星置と区別するために「星野」とした。星置はアイヌ語の〈ソウシホキso-us-poki「滝の下」〉に由来する。旧字名に「滝の沢」もある。
詳しくは当サイトの記事「星野・星観・星置~なぜ星のつく地名が多いのか~」にて
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